俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第二部

109 彼女の背中を、思い浮かべていた。(上)

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「すみません。『香川邸』までお願いします」

 駅のロータリーに待機しているタクシーを捕まえて、運転手に声をかける。この辺に待機しているタクシーには『香川邸』といえばすぐに伝わる。……俺の、実家。

 後部座席に乗り込んで、後ろに飛んでいく景色をぼうっと眺めた。





『小林くん。きみの、退職願いは―――』

 山崎部長の、声が。脳裏に響いた。













 朝礼を終えて社内サイトにアクセスし、別ウィンドウで社外メールをチェックしていると。ポン、と軽い音がして、田邉部長から、社内メールが届いた。

『お疲れさん。今日は税関の講習から戻り次第、人事部の山崎部長と面談だ。私も同席する。場所は第2研修ルーム。そのつもりで』

 メールに目を通し、田邉部長の席に視線を向ける。俺の視線に気がついているはずなのに、知らぬ存ぜぬという雰囲気を醸し出している。

 口頭で告げられず、こうしてわざわざ社内メールで届く、ということは。叔父から圧力をかけられた週明けに提出した、退職願いについて……だろう。

 極東商社では、採用や退職などの人事関連のものは、全て社長決裁の稟議にかけられ、役員会で承認され次第……人事部で、受理される。おおかた…退職願いが受理された、それ故に、退職日などの調整や、有給消化の意思や最終出勤日など、今後のスケジュールの確認が山崎部長同席のもと行われる、ということ。

 ふ、と。俺の右斜め前の席の、三木さんに視線を向ける。三木さんは一瀬さんよりも背が低い。当然、座高も低くなる。俺の視線よりも低い位置に、三木さんの整った顔がある。

「はい、極東商社通関部三木です」

 いつもの溌剌とした声が響く。三木さんに、辞めさせない、と言われたけれど。そうも、言っていられない。







 ―――御曹司なんだって。
 ―――へ~。あいつプライベートの付き合いが悪かったのって、下々の人間と慣れあうつもりがなかったってことか?
 ―――株式をもっている会社に腰かけってことか。羨ましいわ。
 ―――あっという間に昇進して将来は九十銀行の頭取っつう華々しい未来が確約されているんだろ?
 ―――必死こいて頑張らねぇと出世できねぇ俺たちとは違う世界に生きてるってこったな。







 叔父と俺の関係がわかって以来。トイレや休憩室でこそこそと話されているこんな噂話が、俺の耳に入らないわけもない。こんな噂話を受け流せるような強靭な精神を持っていれば。初めから…次期頭取、という重圧に押し潰されることも、なかった。

 つぃ、と。顔を動かさず、左隣の一瀬さんを視界の端に捉える。

 ……一瀬さんは…俺の噂のことを知ったのだろうか。知っていたとしても、彼女の態度は変わることはないだろう。だって。彼女は―――そういう人、だから。

「水野課長代理、三井商社池野さまからお電話です」

 三木さんの、電話を取り次ぐ声が響いた。

 その声に合わせて、斜め前の水野課長代理に目を向ける。長いまつ毛に、つり目。受話器を手に取る動作に合わせて、銀縁の眼鏡が、オフィス特有の蛍光灯の白い光をキラリと反射した。

 俺の目の前の席は、片桐が座っている。PC越しに見える…ヘーゼル色の瞳。こいつは…俺の噂を聞いて、腹の底でいろいろと企んでいるに違いない。そういう、男だから。

 忌々しい顔を視界から追い出すように、ディスプレイに表示された社内サイトに視線を向ける。

『承知いたしました』

 田邉部長のメールに返信をいれ、PCの電源を落としながら、税関へ向かう準備をする。税関から届いた資料を引っ張り出し、鞄に詰め込んで。席を立った。

 ゆっくりと。2課メンバーの顔を見回した。

「税関の講習会に行ってきます」

 そう声をかけると、行ってらっしゃい、と、メンバーが口々に声をあげた。



 あと、何回。―――この光景を、見られるのだろう。



 ほう、とため息をつきながら……俺は行動予定表のマグネットを外出に動かして、エレベーターホールに足を向けた。





 





 講習会を終えてオフィスビルに戻ると、私服に着替えた一瀬さんと遭遇した。アイボリーのスプリングコートからのぞく、くすんだラベンダーカラーのトップスに、ダイヤモンドのイヤリングがキラリと煌めいた。恐らく、退勤しているところなのだろう。

「長い時間お疲れさま。書類、ある程度纏めてあるよ。カット日が近い順番に並べ替えて置いてあるからね」

 その言葉に心底ほっとした。

 これから俺の退職に伴う面談も入っている。面談を終えて、積み重なった書類をさばいて……俺が今受け持っている業務の引継ぎのスケジュールを組んで、と、なさねばならないことが山積みなのだ。今日は何時に帰れるだろう、と思っていたから、ある程度書類が纏められているというだけでも、随分と作業が捗りそうだ。

 ありがとうございます、とお礼を告げると、はにかんだような笑顔を向けられた。くるり、と、一瀬さんの身体が反転して、短い黒髪が揺れる。

 通関部のフロアに足を踏み入れると、田邉部長は席にいなかった。もう、研修ルームにいる、ということだろう。行動予定表のマグネットを『在席』に動かす。俺の真上の三木さんは、既に帰社に動かされている。

(……よかった)

 研修ルームで面談、ということを…辞めさせない、と言われた三木さんには知られたくはなかった。荷物をデスクに置き、研修ルームに向かう。




 第2研修ルームには既に【使用中】に切り替わってる。ドアの前で大きく息を吐く。心臓が…跳ねている。

 いざ。倖せだった日々に、終止符が打たれる…その日を宣告される、と考えると。まるで、刑の執行日を待つ…囚人のような、そんな気がして。

 ぐっと手のひらを握りしめる。

(……受理される覚悟は、とうの昔に、していたんだ)

 ふっと自らを冷笑し、握りしめた拳でノックをして声を上げた。

「通関部の小林です」
「入りなさい」

 山崎部長の、やわらかい声が響く。

「失礼します」

 はねる心臓を抑えながらドアを開け、2人の前に座った。ぐっと。膝に置いた手を握りしめる。

「そう緊張しなさんな」

 山崎部長が笑いながら声をかけてくれる、が。緊張するなと言われて緊張しない方がおかしい。この状況で。

「………すみません」

 そう言葉を紡ぎながら顔をあげて、山崎部長の……含みのある瞳を見つめた。

「小林くん。きみの、退職願いは」

 山崎部長の声に、すっと、目を細めた。




 あぁ。楽しかったな。この一年間。
 苦しかったけれど。本当に…楽しかった。




























 意味が、わからなかった。




「……は?」


 思わず呆けたような声が、自分の喉から上がった。

「九十銀行に入行したくなかったから就職活動をしていた…というのは入社前の面談で聞いただろう。その意思を汲んで、私は香川頭取に君のことを伏せたまま、君を我が社に入社させた。九十銀行の関係者として驕ることなく、一社員としての君の努力が実って……通関部は営業成績を上げ続けている」

 山崎部長が、やわらかく微笑みながら言葉を続ける。

「そんな優秀な君を……香川頭取から圧力をかけられたから手放す、なんてことは私たちの選択肢には無いんだよ」
「で、ですが」

 大口株主である九十銀行の意向を無視することは、できないのではないか。株式会社である以上、役員の采配だって、役員報酬だって…すべて、株主総会で株主の承認を得るものだ。

 俺の言いたいことを読んだかのように、田邉部長が山崎部長から言葉を引き継いだ。

「九十銀行がいくらこの会社の大口株主だとしても。会社は株主の言いなりになる義理はない。出資者だろうが、一番大事なのは社員だ。社員があって、事業があり、事業による儲けがあり、それらの儲けを株式配当という形で株主に還元する。そもそも、株主がその会社のやり方が気に入らないのなら、持っている株式を売ればいいだけ。……万が一、九十銀行から圧力をかけられるのならば、こちらから、もうそちらの銀行からの借り入れはしません、と言えばいい話だ」
「……な、」

 なんという話だ。圧力をかけられたら、圧力をかけ返せばよい、と。

 極東商社は創立以来、事業を拡大する度に九十銀行から金を借り入れている。その関係もあって、九十銀行は少しずつ株式を集め、大口株主になった。持ちつ持たれつの関係、それを利用して―――圧力を、かけ返す、と。

 ただの一社員に対して。どうして、ここまで。

「……君は通関部の長年の宿願だった丸永忠商社を落としてきてくれた。通関業に携わって数十年の田邉さんや水野くんを持ってしても落とせなかった、あの会社を落としてきた功績は大きいよ、小林くん。そんな優秀な君を、手放したくない、というのが、役員の意見だ。まぁ、一部、反対意見もあったけれどね」
「……」

 山崎部長の言葉にゆっくりと瞬きをした。

 反対意見。それは、株主の意向を無視することはできない、退職願いを受理するべき、と主張する役員もいた、ということだろう。

「それでも、半数以上の役員が却下に手を挙げた。その意味をしっかりと受け止めて欲しいと、私は思っているよ」
「九十銀行にイニシアティブを握られたままでは叶わんと吐き捨てる役員もいたそうだよ」

 田邉部長が苦笑しながら俺を見遣って、俺に問いかけた。

「それでも小林は。退職したい、と考えるか? 私は、来週の期末慰労会を小林の送別会にしたくはないのだが」

 膝の上の両手に視線を落とす。

「…」

 ……出来るなら、俺は。このまま……通関の仕事に、携わっていきたい。





 大学時代。自分には、九十銀行の次期頭取、ということ以外、と思っていた。

 でも。極東商社に入社し、通関の仕事に携わるようになって。俺が普段何気なく食べているものは、原材料があり、加工され、時に輸入され、輸出され。長い時間をかけて、ようやく、末端消費者が手にすることが出来る。たくさんの人間が関わっている。人間の欲の一つである『食』に携われている、こんな俺でも、社会の歯車のひとつとして、小さくとも…役に立てている。そう、素直に感じた。



 ……けれど。



 暗くなっていく気持ちを押さえようと、一度強く唇を噛み締めて。ゆっくりと、顔をあげた。

「……通関の仕事は好きです。けれど……、在籍するような……僕は、そんなことができる人間では、ありません」

 その言葉を紡いで、再び視線を膝の上の拳に向けた。手のひらに…血が、滲む。



 何度…俺は、この手のひらに血を滲ませただろう。
 何度、己の弱さを、己の無力さを、己の―――怠惰を、突き付けられるのだろう。



 ふっと、田邉部長が息を漏らした声が聞こえた。

「一瀬が。今日の昼休みに、片桐に啖呵を切った話は聞いたか?」
「は?」

 再び、自分の喉から。この場に似つかわしくない、間抜けな声が上がった。思わず顔をあげ、田邉部長に視線を合わせる。


 一瀬さんが? 片桐に…啖呵?


 私も、詳しい話は知らないのだけれど、と、田邉部長が切り出す。

「香川頭取の甥、ということをがあることに対して。彼に謝れ、と、啖呵を切ったそうだ」

 あの子は本当に潔いね、と。田邉部長が微笑んだ。

「い…ちのせ、さんが…」

 驚きのあまり、声が掠れた。呆然と前を見ていた俺に、田邉部長が苦笑いを浮かべる。

「そう。私も小林のよくない噂のことを聞いて、一瀬ならやりかねないだろうな、とは思っていたけれどね。まさか社員食堂で堂々と啖呵を切るとは思わなかったよ」
「……」

 一瀬さんが、俺に関することで、片桐に啖呵を切った。


 しかも……大勢の社員が集まる、社員食堂で。


 呼吸が浅くなっていることを自覚した。ゆっくりと息を吸って、吐いて。脳に酸素を送り込みながら、その事実を、必死に噛み砕いていく。

 山崎部長が穏やかな微笑みを湛えたまま口を開いた。

「一瀬さんはね? 出自でその人を評価するは捨てろ、と言ったそうだよ。違う階にある人事部の…私たちの耳にも入るくらいの、話だ」
「…あ……」
「そして、あの瞬間から……明らかに、噂の風向きが変わった、と、私は思っているよ」

 山崎部長の声が、まるでエコーがかかったかのように。俺の脳内に、響く。






 脳裏に。一瀬さんの―――凛とした、背中が思い浮かんだ。


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