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本編・第二部

113 名前を、呼んだ。

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 聞き慣れない目覚ましの音がする。ぼんやりと、貝殻の形をした照明の硝子が特徴的な天井を見上げた。

 ベッドサイドに置いた腕時計を手に取ると、朝食が始まる時間の少し前だった。上半身を起こすと、激しい頭痛がする。

「……頭、ガンガンすんな…二日酔いか……」

 クラクラする。その感覚に思わず眉根を寄せて額に手を当てた。

 昨晩は交渉先の会社と親睦を深めるための夕食会だった。イタリアはビールよりもワインが主流。ワインは飲みやすいからこそ、酔いが回りやすい。セーブしながら呑んだつもりだったが。

「あ~……」

 ボフッと音を立てながらベッドにふたたび沈みこんだ。しばらくそうしたまま、知香の顔を思い浮かべる。

「…………会いてぇなぁ……」

 イタリアに来て何度目の言葉だろう。もう、とっくの昔に数えるのを止めた。

 のろのろと身体を起こし、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。一気飲みし、痛む頭を堪えながらPCを立ち上げた。

 今……日本は、月曜日の午後3時頃だろう。知香はきっと、会社で仕事に励んでいるはずだ。日記アプリにログインして、知香の書き込みを確認する。

『日本は月曜日の朝を迎えました。智さんはもう夢の中かな? 今朝はコーヒーの本を読みながら、初めてペーパードリップで淹れてみたよ。手淹れって難しい……!』

 文章の最後に泣き笑いのような顔文字がついている。ドリッパーとコーヒーサーバーの写真が添付されていた。

 ひとりでは2LDKのあの家はとても広く感じるだろう。ずっとふたりで過ごしてきたからこそ、寂しくないように、俺を連想させるものに挑戦しているのかもしれない。きっと、知香にしてみれば無意識…だろうけれども。

(……そういうところも、好きなんだよな…)

 知香は、強い。きっと、俺と同じように……寂しい、会いたい、と感じているはずなのに。この日記には、今日までそれらの言葉を一度も書いていない。

 そういう言葉を意識的に書かなくていいように、俺を連想させるものに挑戦して、それを日記に書く、という行動しているのだと感じた。

「だから、俺も。会いたいとか寂しいとか……気軽に書けねぇなぁ……」

 苦笑いがこぼれた。誰に聞かせるでもない言葉が、静かなシングルルームに消えていく。

 知香の心の強さを改めて突きつけられた。いつだって、知香には敵わない。そう実感する。

『今起きた。コーヒー淹れたのか。ドリップ、案外難しいだろ? 帰ったらコツ教えてやるから。今日も取引先と交渉だ。通訳は付けてるけど、俺自身が営業だから通訳通してじゃない会話したいって思った。帰ったらちょっと勉強するわ』

 そう返信を入れて、朝食会場に向かった。







 1社目の交渉は難航していた。浅田が苛立ったように煙草に火をつける。それにつられて俺も煙草に火をつけた。

 イタリアは日本と違って煙草に寛容だ。道のどこにでも灰皿が置いてある。飲食店でも普通に吸える。おかげで、日本にいる時よりも煙草の本数が増えた。

「くっそ~、舐めやがって」

 時折紫煙を吐き出しながら、浅田の口から延々と先方の担当者の愚痴が流れていく。俺は苦笑しながらそれを聞き流した。

 まぁ、俺個人としては初めから上手くいくとは思っていなかった。今回、先方から原料を仕入れるにあたって、三井商社と関係を持つ先方のメリットを強調してはいるが、日本に輸入する際の規制等もある。それ故に、先方の工場の衛生基準を少し上げてもらわなければならない。そして、衛生基準を上げてもらう代わりに、はじめに提示したこちらの希望仕入金額に上乗せを要求されている。

 要するに、その上乗せ額が、のだ。折り合いがなかなかに難しい。

 こういう時に、英語が話せたら。いつもの俺のペースで商談を持っていけるのに。歯痒い気持ちを消し去るように、紫煙を深く吸い込んだ。

「お前ずっとアメリカンスピリットそれだよな。他の吸いたくならねぇ?」

 浅田が顎だけで俺が持つ煙草を指した。浅田が吸う煙草はブラックストーン。チェリーの香りが強烈な煙草だ。一度、接待の時に吸わされたが甘くて吸えたものじゃなかった。あの時の味を思い出し、顔を歪める。

「ならねぇな。これが一番旨いって思ってっから」
「ふーん……俺はコロコロ変えるな。煙草は気分転換に吸うもんだろ。ずっと同じだと味に飽きて気分転換にすらならない」

 そう呟いて、浅田がまた紫煙を吐き出す。浅田の問いに過ぎ行く人たちをぼんやりと眺めながら返答した。

「俺は落ち着きたいから吸ってるだけだしな……銘柄で冒険はしたくねぇ」

 お互いに無言の時間が続く。浅田がぐりっと煙草を消した。俺もそれに倣って吸いかけの煙草を消し、声を上げる。

「……行くか。早いところ落としどころ見つけねぇと池野課長に怒られる」
「そうだなぁ」

 浅田が、パンッと自分の両手で頬を叩いた。その仕草で、浅田のスイッチが入ったことを確認する。

 俺は脳内に知香の顔を思い浮かべて。

(知香と幸せになるために、踏ん張りどころだ)

 そう、自分に言い聞かせた。








 1社目の交渉を何とか纏め上げ、ホテルに戻った頃には1日目のように星空が広がっている時間だった。

 精神的に疲弊した。シャワーを浴びながらそう考える。ざっと身体を洗い、濡れた髪もそのままに部屋に戻った。

 PCを起動して日記アプリにログインし、知香が書き込んだ文章を目で追って、思考が固まった。


『あのね。片桐さんの、お母さんが亡くなって。今日はお葬式に参列してきたよ。マスターも参列なさっていて、智さんのこと心配されていたよ』


 片桐の、母親が、亡くなった。その言葉で、俺の母親が死んだ時のあの日の光景が目に浮かんだ。



 大量の管に繋がれたままの、母の最期の姿。
 火葬場の点火スイッチが押せないと慟哭した父の背中。
 ……親父の代わりに、点火スイッチを押したあの瞬間。



 ふるり、と、頭を振ってその光景を頭から追い出す。

 ……大変不謹慎だが、一瞬ほっとした。身内が亡くなったのなら忌引きになるだろうから、仕事帰りの知香を追い回すことはないだろう。……大変、不謹慎な考えだとは自覚しているが。

 つらつらと考えながら、知香の書き込みを読み進める。


『今……自分の気持ちが上手く表現出来ない。自分の感情がどこにあるのか、どうしたいのか、何が悲しいのか、悲しくないのか、それすら自分でもわからない状態なの。こうして言葉にするのが合ってるのかもわからないけど、少し聞いてほしいから。お仕事で忙しいのに、ごめんね。参列して、智さんも、お母様を亡くされていたなって思い出したの。智さんは普段お母様の話をしないでしょ?だから、私が無意識に智さんの傷に触れていたら、申し訳ないなって思った。思うことがあったら直ぐに言ってくれていいからね』

 最後は、こう締めくくってあった。

『関係ない人の死に引きずられすぎだね。ごめん。でも、なんか、モヤモヤするの』




 知香は、強い。

 自分の感情をコントロールしつつ、相手の気分を害さず言葉を紡ぐ心の広さと、相手を自分に重ねる感受性の高さ。それでいて、凛と自分の意思を貫ける強さ。

 ―――それは、諸刃の剣だ。一歩間違えれば、自分をも大きく傷つける。

 その、諸刃の剣で傷つく瞬間が。とうとう、訪れてしまったのかもしれない。ぐっと唇を噛んで、長い時間のPCの前で考え込んだ。

「……」

 どう書けば、知香に伝わるだろう。知香の傷を、癒してやれるだろう。




『俺は死別の悲しみは「乗り越える」ものとは思ってない。乗り越える、というより、消えることのない悲しみと共にどう生きていくか、どう向き合っていくかを、少しずつ学んでいくのではないか、と思ってる』


 そこまで書き込んで、俺の母親の話を書き込むかどうか迷った。

(……今まで話したことなかったもんな…)

 二年詣りの直前に実家に行った時に仏壇に手を合わせてくれたが、なぜ亡くなったのか、という話はしたことが無かった。


『俺の母親は、闘病の末に逝った。癌だった。最初は、安堵した。もう、母親が痛みに苦しまなくていいんだ、と思ったと同時に、終わりが見えなかった生活に幕が降ろされた、とも感じた。その感情に気がついた時、激しく自己嫌悪した』


 点火スイッチを入れたあの瞬間。哀しさと、安堵と、後悔が押し寄せたことを思い出す。あの前後の記憶は、曖昧だ。見かねた義姉さんみゆきさんがカウンセリングに連れて行ってくれたから持ち直したものの。

 目の奥が熱くなるのを無視して、感情のまま書き込んだ。


『感謝していると言おうと思っていたのに、言えなかったとか、喧嘩した時にあんな傷つけるようなことを言わなければよかったとか。自己嫌悪と後悔と、それらに苛まれた。正直、あの頃は絢子と別れた時くらい苦しかった。だから俺は知香には思ったことを伝えたい。いつか伝えられなくなる日が来るから。だから躊躇いなく好きだと伝えたい。そう思ってる』



 知香は、優しく、強い。強いからこそ……脆い。

 3ヶ月前に、後輩の身内の通夜に参列した時にも感じたが、知香は他人に共感する力が強い。だからこそ、感情が引っ張られやすくなる。

 そこを片桐に見抜かれて、仔犬のことを突きつけられ、ひどく揺さぶられた。

 それ故に……あの日は強引に、抱いた。喪服は性欲を増進する、などと最もらしい理由をつけて。引っ張られた感情を元の位置に戻すために。

 過去の出来事を反芻させながら、はぁ、と、大きなため息が漏れた。

(……知香…)

 知香が悲しいと、俺も悲しい。知香が嬉しいと、俺も嬉しい。だから、今は。知香の引っ張られた感情を元に戻すための言葉を探すしかないんだ。

(……母親のことを書いたら、余計に引っ張らせる事になる、だろうか)

 知香の感情のことを考えるなら、これは今書かない方がいい。帰国して顔を見て、落ち着かせて話そう。そう考えて、マウスを動かして該当部分を選択し、一気にデリートキーを押した。

 当時のカウンセリングで医師に言われたことを、疲弊した頭を叩き起こして書き込んでいく。



『死の悲しみに触れると、疲れきったように感じると思う。物事を決められなくなったりする。心が沈むことで、自然とペースをゆっくり落とすようになる。だから、体と心の声をきちんと聴いてやろう。自分自身を労わってしっかり休もう。バランスの取れたご飯を食べて、ゆっくり風呂に浸かれ。俺が母親を見送った後に気をつけたのはそれだから。他者の死に触れて、悲しむことは欺瞞でも偽善でもない。人間の心の大事な反応だ。でも、今を生きていくことも必要なんだ。たくさん悲しんで、知香自身の心の痛みを受け入れよう』

 そう。他人の死に触れて悲しいと感じることは欺瞞でも偽善でもなんでもない。人間には理性があり、感情があるから。当たり前の出来事なのだ。

『俺が母親を亡くした時に読み漁ったカウンセリングの本がいくつか本棚にある。興味があれば、読んでみてくれ』

 そう書き込んで、PCの電源を落とした。






 あのヘーゼル色の瞳が脳裏に浮かぶ。風呂上がりということもあるのか、ぞわり、と、背筋が冷える。

(………今回の件を利用して知香の同情を引く、ということは……さすがに…)

 同族嫌悪。俺と同じように用意周到に網を張り巡らせ、囲い込みを得意とするタイプ。





 ―――片桐は。知香が、他者の感情に共感しやすいと知っている。





 だとしても……実の母親の死を利用するなど、そこまでのことは、やらない、だろう。





 そう考えていても……胸の騒めきが、一向におさまらない。

「ちっ……」

 大きく舌打ちをして、机に置いていた煙草の箱を手に取り、1本咥えてライターの横車を擦った。ジッと音がして、煙草葉が焼ける臭いが、シングルルームに充満する。吸い込んだ煙を吐き出しながら、貝殻の形をした硝子の照明を見上げた。



 杞憂であるはずなんだ。けれど。……けれど、何かが、起こりそうな気も、する。



「……」


 この胸の騒めきは、勘違いだと。片桐と初めて出会ったあの日に……俺の思いすごしだと、そう思い込んだ結果が、片桐が知香と共に働く、ということだった。

 だから。この胸の騒めきを、無視することは……なにか、決定的な過ちに繋がりそうで。






 俺は―――一体、何を見落としているのだろう。






 己を落ち着けるように、視線を落として、指先からゆらゆらと立ちのぼっていく紫煙を眺める。


 不意に。浅田が昼間に吸っていたブラックストーンの甘い香りが―――鼻腔を、くすぐった気がした。


 ……こういう時に。いつもとは違う煙草を吸っていれば、気分転換にもなっただろうか。





「……知香…」





 ざわざわと波立つ心を押し込めて。
 愛しいひとの名前を、呼んだ。
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