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本編・第二部

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 お昼休憩から戻ると、月曜日振りに見る明るい髪色が目に飛び込んできた。ヘーゼル色の瞳と視線が交差し、軽く頭を下げる。

「先日からいろいろとありがとうございました。本日から復帰します。改めてよろしくお願いいたします」

 片桐さんの淡々とした声が響く。いつもの飄々とした雰囲気は消え失せて、頬が少しこけている。深い紺色のネクタイがその哀しみの深さを物語っている気がした。

 片桐さんはそれだけを口にして、そのままデスクに着き、黙々と書類を片付けだした。私も自分の席につき、来週に迫った決算に必要な書類をピックアップしていく。電話が鳴る度に、右斜め前の明るい髪色がふわりと揺らめいた。

(……仕事してるほうが、やっぱり気が紛れるんだろうな…)

 昨日…片桐さんの机の書類、全て片付けてしまわなくてよかった、と、心の内で軽く息をついて、経理部から回覧されてきた決算スケジュール表のコピーを取るために、複合機がある1課側のフロアへ足を向けた。複合機でコピーをしていると、そっと後ろから徳永さんに声をかけられる。

「……片桐さん。今夜参加するんですって」

 徳永さんから発せられた言葉に思わず声を飲んだ。午後から出社したとしても、さすがに……飲みの席には欠席だろうと思っていたから。言葉を失くした私に、複合機の真横の席の大迫係長が小さく呟いた。

「……自宅にひとりきりでいるより気が紛れるんだろう」

 家族を亡くして、その哀しみを分かち合うひともいない。それなら、ひとりでいるよりは無理にでも外出したほうが、心の整理がつきやすくなるのかも。

「そう、ですね……」

 つぃ、と、手元のスケジュール表に目を向ける。大迫係長が声を潜めて続けた。

「事情が事情だ。そっとしておくに越したことはないが、腫れ物扱いではなく、普通にしてやれ。特に2課のメンツは腫れ物に触るようにしてやるなよ、くれぐれもいつも通りに」

 大迫係長の言葉に、徳永さんと私は小さく頷く。

 哀しみを乗り越えるのは、あくまでも片桐さん自身。私たち周りが腫れ物に触るような態度では、立ち直りの速度が落ちてしまうだろう。腫れ物に触るような態度になってしまっている現状を恥じ、慰労会ではなるだけ普通通りにしようと心に決めて、デスクに戻った。







 終業の時間を迎えて、ぽつぽつと更衣室に足を運ぶメンバーが出てきた。私も三木ちゃんと一緒に更衣室に入り、雑談を交わしながら私服に着替える。

 横並びに歩きながらシックな色の壁紙の廊下を歩いていると、お手洗いの角にある喫煙ルームから片桐さんが出てきた。鉢合わせした形になり、お互い足を止める。ふわり、と、煙草独特の苦い香りが漂って、思わず顔を顰めた。ヘーゼル色の瞳が私と三木ちゃんを交互に見遣って。

「……やぁ。ふたりとも、いろいろとありがとうね。真梨ちゃんが俺の仕事を肩代わりしてくれてたんでしょ?」

 いつもの飄々とした雰囲気ではなく、なにか……物哀しそうな、そんな笑い方で、三木ちゃんに声をかけた。

「私だけではないですが」

 片桐さんの問いに、三木ちゃんが身体を硬くしながら片桐さんを睨み上げて返答する。その三木ちゃんの横顔に既視感を覚えた。

 ……このふたり。今思い出せば、ホワイトデーの時も、こんな雰囲気だった。何かあったんだろうか。

 そんな三木ちゃんの様子に、「えらく嫌われちゃったなぁ」と苦笑しながら片桐さんが続けた言葉に、私は思わず言葉を失くした。



「俺、諦めることにした。知香ちゃんのこと」



 時が止まったように感じた。今にも、世界から消えてしまいそうな片桐さんの立ち姿を茫然と眺める。

「ま、知香ちゃんのことは、正直、今でも好きなんだけどさ。最近お肌の艶がめっちゃ良くなってるって、自分でも気付いてる? 悔しいけど、智くんのおかげだよねぇ」
「え…」

 智さんのおかげ。その言葉に、出張前に智さんから指摘された『私が変わったこと』を思い出して。不意に顔が赤くなる。

 「愛ってすごいね」と、片桐さんが儚く笑った。

「まぁ、母が死んだのは。多分、神様から怒られたから。俺が、強欲だったんだって。そう思った。だってね、本当ならまだ余命2年もあったんだよ。でも……天の身元に帰ってしまった。その意味を考えてたら、俺の身勝手な振る舞いのせいだって思ったんだ」

 ぽつぽつと語るヘーゼル色の瞳が、痛みで大きく揺れる。

「だから……今まで無理に迫って、申し訳なかった…」

 そう口にして、片桐さんが頭を下げて。ゆっくりと、男性更衣室の方向に消えていった。私と三木ちゃんは、しばらくその場に固まったまま。

「……どう思う? あれ、本音?」

 隣の三木ちゃんにぎこちなく視線を合わせながら、ようやく喉から絞り出せたのはそんな言葉だった。私の問いに、三木ちゃんが綺麗に整えられた眉根を寄せる。

「本音かどうかは、わからないですけど……」

 戸惑ったように口を開き、……ゆっくりと視線を下げた。

「…………家族の死に、意味を求めるのは…遺族として当然のことだと思います……」

 3ヶ月前に三木ちゃんはおばぁ様を亡くされている。だからこそ、その言葉には説得力があって。

「…そっか……」

 私もつられて俯いて、ふたりで小さく息を吐いた。

「先輩、今日は二次会行くんですか?」

 三木ちゃんが唐突に明るい声で私を振り返った。私も、沈んだ心を浮上させるようにその声に合わせて視線を上げる。三木ちゃんの勝気な瞳が目の前にあって。その瞳を見つめながら、私はあと5時間もすればこの目に映せるダークブラウンの瞳を脳裏に浮かべた。

「うん、彼が出張中で、今夜帰ってくるの。待ち合わせて帰ろって。だから、二次会までは出るつもりだよ。社内交際費がかなり残ってるんでしょ?」

 先日、田邉部長に告げられた社内交際費の予算残額に驚いた。今期は2課はほぼ使っておらず、しかも1課の予算額も半分ほど残っていた。決算直前、税金対策のため予算額の半分を独身のメンバーで落としてきてほしい、ということだった。

「はい、社内交際費も残っちゃってるんですよね……先輩が二次会まで出るって久しぶりですねぇ」

 そう声を上げた三木ちゃんが、心から嬉しそうに「楽しみです!」と、笑ったのに釣られて、私も、そうだね、と、笑い返した。







 片桐さんが、私を諦めた、と言ったのは本当だったらしい。一次会では一切絡みに来なかった。しかも、二次会の後半になっても……私に、視線すら向けない。

「……」

 ……いろいろと信用ならない人だと思っていのだけれど。反省して口にしたことは反故にしない人なのかもしれない。

 そう考えながら、私の斜め前に座る1課の大迫係長と笑いあっている片桐さんに視線を向ける。その笑顔は、少しだけ翳りがあるように見えた。

(……ふうって息を吹きかけたら、消えちゃいそうな顔…)

 二次会の場所は、半個室の煌びやかなバーだった。立った時に私の頭の位置くらいまでの目隠しに囲まれたブースがいくつかあり、ブースがそのまま長椅子になっている。店内のオレンジ色の間接照明が、雰囲気のよい空間を彩っている。

 ここは、バーテンダーに、甘いの、とか、辛いの、とかの声をかければその味を作ってくれるという評判の良いバーだそう。……なのだけれど。私はお酒は普段からあまり呑まないから、結局、いつものお酒梅酒を頼んで、グラスに口をつける。そもそも、梅酒以外のお酒は苦手だ。

 不意に、スマホを手に取る。電源ボタンを押して画面を明るくするも、智さんからの連絡は入っていない。

(……もうそろそろ空港に着く頃だろうけど、どうしたんだろう。飛行機、遅延してるのかなぁ)

 智さんからの連絡があったら、二次会を抜け出そうと思っていたのに。ほぅ、と息をついて、スマホをスカートのポケットに仕舞った。

「そういえば、この慰労会の準備してる時に三木さんから少し聞いたんですけど、一瀬さんの恋バナ、私も詳しく聞きたいです!」

 私の目の前の徳永さんが、興味津々という顔をしてグラスをぎゅっと握った。ついさっきまで智さんのことを考えていたから、顔に熱がのぼる。

「え? え……? 三木ちゃん、なにを徳永さんに吹き込んだの……?」

 徳永さんの言葉に困惑しながら、私の右隣に座る三木ちゃんに視線を向ける。

「え~、だって、先輩の彼氏さん、先輩のこと溺愛してるし、胸きゅんエピソードいっぱいじゃないですかぁ~!」

 「キャー!!」と、頬に右手を添えて、自分の事のように舞い上がる三木ちゃん。その仕草の裏側で、トントン、と、左手で私の太ももをつついて。あの時の合コンのように、スマホを机の下に隠しながら、メール画面に打ち込んで私に見せてくる。

『そうやって先輩の愛されエピソードを披露して片桐さんにトドメを刺すんです!』

 その言葉には、深く納得した。

 なるほど、そんな目的があったのか。いや、でもそんなこと言ったって、ここには小林くんも大迫係長もいるのに。

 そんな恥ずかしさにつっかえながらも、付き合う前のエピソードを少しだけ話していく。初めは好きになっちゃいけないと思ったこと、クリスマスが誕生日だから忘れなくていいねと言われたこと、……勝負、を持ち出されたこと。

「もおっ、なんですか一瀬さん! 彼氏さん、一瀬さんにデレッデレじゃないですか! 浮気とか絶対にしなさそう」

 徳永さんが目をキラキラとさせながら私を見つめる。

 ……智さんが、私にデレデレ。

 智さんはいつも私を翻弄する。だから、どちらかというと私の方がのめり込んでいる側だと思っていた。徳永さんのその言葉に、更に顔が赤くなっていくのを自覚する。

「ちょっと、徳永さん、そんな風にからかわないでよ~」

 顔が熱い。梅酒のせいか、身体の奥までとても熱く感じる。手でパタパタと風を送っていると。

「……先輩、私、実家に行く電車がなくなっちゃうので、もう帰りますね?」

 隣で座っていた三木ちゃんが名残惜しそうに声を上げた。

「え? そうなの?」

 私たちが座るブースは、中央にテーブルがあって、その周りを囲むように目隠しと長椅子が設置してある。私の目の前に徳永さん、大迫係長、その隣に片桐さん。私の隣に三木ちゃん、その隣に小林くん。私の左側が通路になっているから、三木ちゃんが外に出るなら私も席を立たなければ。鞄を席の下に押し込んで席を立った。

「せっかく愛しの先輩との楽しい時間だったのにぃ~」

 三木ちゃんが口を尖らせながら席を立って、ずりずりと通路に出てくる。そして、私の耳元に口を寄せてくる。

『小林を、お願いします』

 私の耳元でそう小さく囁いた。その言葉の意味が分からなくて、訝しげに三木ちゃんに視線を送る。三木ちゃんは私に視線を合わせず、そのままお疲れ様でしたと声を上げて私に背中を向けた。

「……?」

 どういう意味、だろう。

(小林くん? お願い? なんのお願いだろう……)

 ふい、と、小林くんに視線を向けるけれど、いつもの飲み会と同じように淡々とお酒を口にしている。……その表情も、飲んでいるペースも。特段、変わりはないようだけれど。頭上にハテナを浮かべながら、三木ちゃんの背中を見送った。そうして、席を立ったついでにお手洗いに足を向けた。


 智さんが、もうすぐ帰ってくる。そう考えると、心が踊る。久しぶりに会うから……なるべく小綺麗な姿で迎えてあげたい。そう思うと、なんだかお手洗いに行く回数が増えてしまう。いつ、智さんからの連絡が来てもいいようにしておかなきゃ。

(早く会いたいなぁ……)

 早く、会いたい。智さんの大きな手で、頭を撫でて欲しい。視線を上げると、洗面台の鏡に私のにやけ顔が映って、その顔に恥ずかしさが込み上げた。
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