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本編・第二部
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お手洗いで軽く身だしなみを整えて、私たちが座っていたブースに足を向けると、大迫係長の声が聞こえてくる。
「っつうか、片桐。お前なんであんなに一瀬さんにがっついてんの?」
唐突に私の名前が出てきて、思わず身体が強ばった。
大迫係長…だいぶ酔ってる。私が近くまで帰ってきてることに気がついていないのだろう。このままブースに戻るなんて、出来るわけもない。そっと立ち止まって、耳だけをブースに向ける。
大迫係長のその声に、片桐さんが真剣な声で返答した。
「彼女に一目惚れだったんです。今の時代は、ストレートに言わないと1ミリも恋愛が進展しない、だらだらと肉体関係を持っても友達だと平然と言い張れる時代なので。だから俺は……強気にアプローチしてたんですけど、あの溺愛彼氏には勝てなさそうなので、諦めることにしました。彼女が幸せであればそれでいいかなって」
そのセリフを聞いて、私は安堵のため息を小さく漏らした。私を諦めた、と言ったのは片桐さんの本音なんだろう。だって、私の警戒心を欺くための偽りの言葉なら……大迫係長にまで、しかも私が席を外したタイミングで。こんなことを言う必要はないだろうから。
その結論が導き出されると同時に、不確かな安堵感が大きな安心感となって私の中に落ちてきた。
(……それならもう……片桐さんは、大丈夫)
ほぅ、と息を着いて、さも今戻ってきましたという顔でブースを覗くと、徳永さんがいなくなっていた。大迫係長に訊ねると、私がお手洗いに行く間に徳永さんも帰ってしまったらしい。
口の中で「そっか、残念……」と呟くと、小林くんが席を立っていく。
「……俺も、お手洗い行ってきます」
ゆっくりとブースから足を踏み出す小林くんに行ってらっしゃいと声をかけて、私は席に座った。
「知香ちゃんって、梅酒以外飲まないの?」
「……えっ」
席に着いた瞬間に、片桐さんに声をかけられる。一次会でも、二次会でも、今まで全く声をかけられなかったから。少し驚きながらヘーゼル色の瞳を見つめた。
「梅酒……以外、あまり好きじゃなくて」
そう零すと、片桐さんがふわりと笑った。掴みどころのない、いつもの飄々とした笑顔ではなく……まるで、少年のような笑顔。
(……この人の本当はこっちなんだろうな、きっと)
「そっかー。じゃ、試してみようよ。俺のオススメ教えてあげるから」
そう言って、片桐さんがバーテンダーに向かって手を挙げた。この前頼んだやつ、と片桐さんが口にして、バーテンダーがカウンターに引っ込んでいく。
「そういえばさ? 知香ちゃん。真梨ちゃんの好きな物って知ってる?」
「三木ちゃんの? ですか?」
思わぬ言葉に目をぱちくりとさせた。私の仕草に、片桐さんが困ったように笑う。
「葬儀の時、お花料を思ったよりも多く包んでくれたんだ。参列してくださった人たちには昇天記念式が終わった後にお礼をするつもりなんだけど、真梨ちゃんだけ品物を変えようと思ってね」
不意に、三木ちゃんが、家族の死に意味を求めるのは当然のことだと思う、と口にした光景を思い出した。三木ちゃんは、この前おばぁ様を亡くしているから。だからこそ、……気持ち、多く包んだのかも。
(……三木ちゃん、ほんといい子だな…)
三木ちゃんの整った顔を思い浮かべながら片桐さんに視線を合わせた。ヘーゼル色の瞳が、優しく、でも痛みを孕んでいた。
(……お母様のこと思い出されてるのかしら…)
そう思うと、旅立たれたお母様のためにも、しっかりお返事をした方がいい気がして、私は身体ごと片桐さんに向いた。
「えっと……甘いものは何でも食べる子なので、その線でどうでしょう」
「甘いものね……ありがとう、参考にするね?」
にこっと、屈託のない笑顔を向けられる。……いつも、蛇のような、獲物を見据えたような視線ばかり向けられていたから。
(なーんか、調子狂う……)
そう考えながら、氷が溶けた梅酒を口に含んだ。
しばらく、大迫係長と片桐さんと3人で仕事の話だったり、時事ネタなどの話しをしていくと、バーテンダーさんがカクテルを持ってきてくれる。カクテルグラスには琥珀色の液体が並々と注がれていた。
「当店オリジナルのカクテルでございます。ブランデーで梅酒を仕込み、ガラナの果実を加えたものです」
「へぇ~……」
ブランデーで作る梅酒。聞いたことはあったけれど、飲むのは初めて。口に含むと、しっかりした梅の香りと、トロッとしたまろやかな口あたりが心をホッと落ち着かせてくれる。そして、甘いのに、少しだけ苦味も感じられた。そのバランスが絶妙に計算されたカクテルなのだと認識する。
(……これ、なにか隠し味があるのかな)
さっき言われたガラナの果実、なのだろうか。ガラナの果実がどんな味なのかは分からないけれど、なんとなく隠し味がある、と、そう思った。
……智さんなら、わかるだろうか。智さんは、外食先で食べた食事を自宅で再現出来るくらい鼻と舌が敏感だから、このお酒の隠し味にも気がついてくれそう。
ふと、またスマホを手に取って画面を明るくする。通知のポップアップすらなくて、軽くため息が出る。
「悪ぃ、彼女が迎えに来る時間だ。俺、帰る」
大迫係長が完全に酔っ払ったような真っ赤な顔で私達に向き直った。お疲れ様でした、と声をかけると……テーブルを挟んで真正面に座る片桐さんが、はぁっと肩を落とした。
「大迫係長、やっと帰ってくれた……」
「え?」
やっと、帰ってくれた。その言葉の意味に、なんとなく嫌な予感がした。
……諦めた、と言いながら。私とふたりきりになれる状況を狙っていた、ということなのだろうか。思わず身構えて、片桐さんの顔を見つめる。
すると、片桐さんが思いっきり困ったように笑みを浮かべていく。
「いや、だってね? あの人が一番いつも通りにしてくれるから。俺もいつも通りにするしかないじゃな~い?」
紡がれた言葉に、私は大きな勘違いをしていたのだと気がつかされる。硬くした身体がゆっくりと弛緩していく。
(意識してるのは私だけ……ってことよね)
そして、いつも通り、という言葉に、暗に私の態度が腫れ物に触るような態度だと指摘された気がして。ふっと、視線を手元の梅の香りが立ち上るお酒に落とす。
「……いつも通り、に接していたつもりだったのですが、すみません…」
「いや、いいよ。わかってるよ、みんな俺に気を遣ってくれてることは」
片桐さんがふっと儚く笑った。そうして、無言の時間が続いて、お互いにチビチビとお酒を飲み進めていく。
「知香ちゃんは? 帰らないの?」
不意に、片桐さんに問いかけられる。
智さんから連絡が無いから、どうにも身動きが取れない。私の居場所はGPSでわかっているだろうけれど、帰国するのは夜の時間帯だから…一緒に出張に行った人と食事に行ったのかもしれないし、それであれば私がここから動いてしまえばすれ違いになってしまう可能性だってある。特に私はこの辺は土地勘がないから、下手に動くよりも連絡があるまでここにいた方がいい。ひとりで飲みに出て迷子になっては元も子もないし、知らない店に入って知らない人にナンパされたりするのも嫌だ。
「ん~と、連絡待ち、なんです」
私の言葉に「そっか」と、片桐さんが呟いた。
「……知香ちゃん。聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな…」
そうして彼は、手元のワイングラスに視線を落としたまま小さく切り出した。
(……大迫係長がいつも通りだったから、それに合わせて片桐さんもいつものように会話していたんだ)
だからこそ、今、反動で押し込めていた暗い気持ちがせり上がっているのかも。吐き出したいことがあるのなら、吐き出してくれた方がいいだろう。その方が片桐さんの立ち直りだって速くなるはず。
腫れ物に触るような態度を取っていたせめてものお詫びとして、私は「はい」と頷いた。
「母は……闘病の末に逝ったんだ。癌だったんだよ。母が亡くなって、正直、最初は…安堵した。もう、母が痛みに苦しまなくていいんだ、って。でも、同時に、俺にとっても永遠に続くような闘病生活に幕が降ろされた、とも感じた。その感情に気がついた時……自分が嫌いになった」
思わず絶句した。だって、私の母も…私が学生の頃、何度だって生死を彷徨った。母が病院でたくさんの管に繋がれていたあの光景が脳裏に蘇る。苦しそうな発作を起こす度に、母の背中をさすっていた、あの日々……。
胸がぎゅっと締め付けられるような痛みがする。苦しい。その痛みに耐えかねて、私は視線を自分の手元に向ける。
もし、あの時、私も母を亡くしていたら。きっと……今の片桐さんと同じ気持ちになっていただろう。苦しんでほしくない、でも、生きていて欲しい。だけど、その命を終えることで、苦しみから解放されたとしたら…きっと、私も心のどこかで安堵しただろうから。
「それからずっと……自己嫌悪と後悔と、それらに苛まれて……いるんだ。どうやって乗り越えていいか、わからないんだ……」
母の苦しみが楽になったことは、喜ばしいことだろう。だけど、母の死を、安堵した、という醜い自分に気が付いた、その自己嫌悪の感情は……計り知れないほどの闇を、心にもたらすだろう。そう思うと。目の前に座っている片桐さんの姿が、とても……とても、脆く見えた。時を経るごとに、さらり、と、崩れていく砂の彫像のような……そんな、気がした。
「乗り越える、というより、消えることのない悲しみと共にどう生きていくか、どう向き合っていくかを、遺された側は、少しずつ学んでいくのではないでしょうか…」
数日前に智さんからもらった返信を、心の中で反芻して口にして。
「消えることのない、悲しみ…?」
片桐さんが、はっとしたように顔をあげた。
「はい。私は……人間が生きること、人生で起きること全てに意味があると思っているんです。だから、こうして…片桐さんが、この難題にぶつかることも意味がある。それは、起きた事象にどう向き合うか、を、神様から問われているのではないでしょうか」
片桐さんはクリスチャンだと言っていた。だから、私なりにキリスト教の教えを噛み砕いた言葉を呟いてみる。それが、正解かどうかは…全く、わからないけれど。
「……気づいてたと思うけど俺、自分のこと全く他人に喋れない人間なんだよね。なんだか…弱みを見せるみたいで、嫌だったんだ。けど、知香ちゃんになら、抵抗なく話せた。だから聞いてくれて……ありがとう」
片桐さんが、やわらかく微笑んだ。さっき見せたような…儚い、笑顔ではなくて、少しだけ生気が戻ったような……そんな顔。
少しでも、片桐さんの心の闇を取り払える力になれたのなら、良かった。ほう、と、軽くため息をついて、再び手元の梅酒に口をつける。
「……知香ちゃんを諦めるって、言ったその日にこんなこと言っても、信じて貰えないだろうけれど……今の言葉で救われたから、俺も少しだけ」
片桐さんが、私の目を見つめながら、衝撃的な言葉を紡いだ。
「っつうか、片桐。お前なんであんなに一瀬さんにがっついてんの?」
唐突に私の名前が出てきて、思わず身体が強ばった。
大迫係長…だいぶ酔ってる。私が近くまで帰ってきてることに気がついていないのだろう。このままブースに戻るなんて、出来るわけもない。そっと立ち止まって、耳だけをブースに向ける。
大迫係長のその声に、片桐さんが真剣な声で返答した。
「彼女に一目惚れだったんです。今の時代は、ストレートに言わないと1ミリも恋愛が進展しない、だらだらと肉体関係を持っても友達だと平然と言い張れる時代なので。だから俺は……強気にアプローチしてたんですけど、あの溺愛彼氏には勝てなさそうなので、諦めることにしました。彼女が幸せであればそれでいいかなって」
そのセリフを聞いて、私は安堵のため息を小さく漏らした。私を諦めた、と言ったのは片桐さんの本音なんだろう。だって、私の警戒心を欺くための偽りの言葉なら……大迫係長にまで、しかも私が席を外したタイミングで。こんなことを言う必要はないだろうから。
その結論が導き出されると同時に、不確かな安堵感が大きな安心感となって私の中に落ちてきた。
(……それならもう……片桐さんは、大丈夫)
ほぅ、と息を着いて、さも今戻ってきましたという顔でブースを覗くと、徳永さんがいなくなっていた。大迫係長に訊ねると、私がお手洗いに行く間に徳永さんも帰ってしまったらしい。
口の中で「そっか、残念……」と呟くと、小林くんが席を立っていく。
「……俺も、お手洗い行ってきます」
ゆっくりとブースから足を踏み出す小林くんに行ってらっしゃいと声をかけて、私は席に座った。
「知香ちゃんって、梅酒以外飲まないの?」
「……えっ」
席に着いた瞬間に、片桐さんに声をかけられる。一次会でも、二次会でも、今まで全く声をかけられなかったから。少し驚きながらヘーゼル色の瞳を見つめた。
「梅酒……以外、あまり好きじゃなくて」
そう零すと、片桐さんがふわりと笑った。掴みどころのない、いつもの飄々とした笑顔ではなく……まるで、少年のような笑顔。
(……この人の本当はこっちなんだろうな、きっと)
「そっかー。じゃ、試してみようよ。俺のオススメ教えてあげるから」
そう言って、片桐さんがバーテンダーに向かって手を挙げた。この前頼んだやつ、と片桐さんが口にして、バーテンダーがカウンターに引っ込んでいく。
「そういえばさ? 知香ちゃん。真梨ちゃんの好きな物って知ってる?」
「三木ちゃんの? ですか?」
思わぬ言葉に目をぱちくりとさせた。私の仕草に、片桐さんが困ったように笑う。
「葬儀の時、お花料を思ったよりも多く包んでくれたんだ。参列してくださった人たちには昇天記念式が終わった後にお礼をするつもりなんだけど、真梨ちゃんだけ品物を変えようと思ってね」
不意に、三木ちゃんが、家族の死に意味を求めるのは当然のことだと思う、と口にした光景を思い出した。三木ちゃんは、この前おばぁ様を亡くしているから。だからこそ、……気持ち、多く包んだのかも。
(……三木ちゃん、ほんといい子だな…)
三木ちゃんの整った顔を思い浮かべながら片桐さんに視線を合わせた。ヘーゼル色の瞳が、優しく、でも痛みを孕んでいた。
(……お母様のこと思い出されてるのかしら…)
そう思うと、旅立たれたお母様のためにも、しっかりお返事をした方がいい気がして、私は身体ごと片桐さんに向いた。
「えっと……甘いものは何でも食べる子なので、その線でどうでしょう」
「甘いものね……ありがとう、参考にするね?」
にこっと、屈託のない笑顔を向けられる。……いつも、蛇のような、獲物を見据えたような視線ばかり向けられていたから。
(なーんか、調子狂う……)
そう考えながら、氷が溶けた梅酒を口に含んだ。
しばらく、大迫係長と片桐さんと3人で仕事の話だったり、時事ネタなどの話しをしていくと、バーテンダーさんがカクテルを持ってきてくれる。カクテルグラスには琥珀色の液体が並々と注がれていた。
「当店オリジナルのカクテルでございます。ブランデーで梅酒を仕込み、ガラナの果実を加えたものです」
「へぇ~……」
ブランデーで作る梅酒。聞いたことはあったけれど、飲むのは初めて。口に含むと、しっかりした梅の香りと、トロッとしたまろやかな口あたりが心をホッと落ち着かせてくれる。そして、甘いのに、少しだけ苦味も感じられた。そのバランスが絶妙に計算されたカクテルなのだと認識する。
(……これ、なにか隠し味があるのかな)
さっき言われたガラナの果実、なのだろうか。ガラナの果実がどんな味なのかは分からないけれど、なんとなく隠し味がある、と、そう思った。
……智さんなら、わかるだろうか。智さんは、外食先で食べた食事を自宅で再現出来るくらい鼻と舌が敏感だから、このお酒の隠し味にも気がついてくれそう。
ふと、またスマホを手に取って画面を明るくする。通知のポップアップすらなくて、軽くため息が出る。
「悪ぃ、彼女が迎えに来る時間だ。俺、帰る」
大迫係長が完全に酔っ払ったような真っ赤な顔で私達に向き直った。お疲れ様でした、と声をかけると……テーブルを挟んで真正面に座る片桐さんが、はぁっと肩を落とした。
「大迫係長、やっと帰ってくれた……」
「え?」
やっと、帰ってくれた。その言葉の意味に、なんとなく嫌な予感がした。
……諦めた、と言いながら。私とふたりきりになれる状況を狙っていた、ということなのだろうか。思わず身構えて、片桐さんの顔を見つめる。
すると、片桐さんが思いっきり困ったように笑みを浮かべていく。
「いや、だってね? あの人が一番いつも通りにしてくれるから。俺もいつも通りにするしかないじゃな~い?」
紡がれた言葉に、私は大きな勘違いをしていたのだと気がつかされる。硬くした身体がゆっくりと弛緩していく。
(意識してるのは私だけ……ってことよね)
そして、いつも通り、という言葉に、暗に私の態度が腫れ物に触るような態度だと指摘された気がして。ふっと、視線を手元の梅の香りが立ち上るお酒に落とす。
「……いつも通り、に接していたつもりだったのですが、すみません…」
「いや、いいよ。わかってるよ、みんな俺に気を遣ってくれてることは」
片桐さんがふっと儚く笑った。そうして、無言の時間が続いて、お互いにチビチビとお酒を飲み進めていく。
「知香ちゃんは? 帰らないの?」
不意に、片桐さんに問いかけられる。
智さんから連絡が無いから、どうにも身動きが取れない。私の居場所はGPSでわかっているだろうけれど、帰国するのは夜の時間帯だから…一緒に出張に行った人と食事に行ったのかもしれないし、それであれば私がここから動いてしまえばすれ違いになってしまう可能性だってある。特に私はこの辺は土地勘がないから、下手に動くよりも連絡があるまでここにいた方がいい。ひとりで飲みに出て迷子になっては元も子もないし、知らない店に入って知らない人にナンパされたりするのも嫌だ。
「ん~と、連絡待ち、なんです」
私の言葉に「そっか」と、片桐さんが呟いた。
「……知香ちゃん。聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな…」
そうして彼は、手元のワイングラスに視線を落としたまま小さく切り出した。
(……大迫係長がいつも通りだったから、それに合わせて片桐さんもいつものように会話していたんだ)
だからこそ、今、反動で押し込めていた暗い気持ちがせり上がっているのかも。吐き出したいことがあるのなら、吐き出してくれた方がいいだろう。その方が片桐さんの立ち直りだって速くなるはず。
腫れ物に触るような態度を取っていたせめてものお詫びとして、私は「はい」と頷いた。
「母は……闘病の末に逝ったんだ。癌だったんだよ。母が亡くなって、正直、最初は…安堵した。もう、母が痛みに苦しまなくていいんだ、って。でも、同時に、俺にとっても永遠に続くような闘病生活に幕が降ろされた、とも感じた。その感情に気がついた時……自分が嫌いになった」
思わず絶句した。だって、私の母も…私が学生の頃、何度だって生死を彷徨った。母が病院でたくさんの管に繋がれていたあの光景が脳裏に蘇る。苦しそうな発作を起こす度に、母の背中をさすっていた、あの日々……。
胸がぎゅっと締め付けられるような痛みがする。苦しい。その痛みに耐えかねて、私は視線を自分の手元に向ける。
もし、あの時、私も母を亡くしていたら。きっと……今の片桐さんと同じ気持ちになっていただろう。苦しんでほしくない、でも、生きていて欲しい。だけど、その命を終えることで、苦しみから解放されたとしたら…きっと、私も心のどこかで安堵しただろうから。
「それからずっと……自己嫌悪と後悔と、それらに苛まれて……いるんだ。どうやって乗り越えていいか、わからないんだ……」
母の苦しみが楽になったことは、喜ばしいことだろう。だけど、母の死を、安堵した、という醜い自分に気が付いた、その自己嫌悪の感情は……計り知れないほどの闇を、心にもたらすだろう。そう思うと。目の前に座っている片桐さんの姿が、とても……とても、脆く見えた。時を経るごとに、さらり、と、崩れていく砂の彫像のような……そんな、気がした。
「乗り越える、というより、消えることのない悲しみと共にどう生きていくか、どう向き合っていくかを、遺された側は、少しずつ学んでいくのではないでしょうか…」
数日前に智さんからもらった返信を、心の中で反芻して口にして。
「消えることのない、悲しみ…?」
片桐さんが、はっとしたように顔をあげた。
「はい。私は……人間が生きること、人生で起きること全てに意味があると思っているんです。だから、こうして…片桐さんが、この難題にぶつかることも意味がある。それは、起きた事象にどう向き合うか、を、神様から問われているのではないでしょうか」
片桐さんはクリスチャンだと言っていた。だから、私なりにキリスト教の教えを噛み砕いた言葉を呟いてみる。それが、正解かどうかは…全く、わからないけれど。
「……気づいてたと思うけど俺、自分のこと全く他人に喋れない人間なんだよね。なんだか…弱みを見せるみたいで、嫌だったんだ。けど、知香ちゃんになら、抵抗なく話せた。だから聞いてくれて……ありがとう」
片桐さんが、やわらかく微笑んだ。さっき見せたような…儚い、笑顔ではなくて、少しだけ生気が戻ったような……そんな顔。
少しでも、片桐さんの心の闇を取り払える力になれたのなら、良かった。ほう、と、軽くため息をついて、再び手元の梅酒に口をつける。
「……知香ちゃんを諦めるって、言ったその日にこんなこと言っても、信じて貰えないだろうけれど……今の言葉で救われたから、俺も少しだけ」
片桐さんが、私の目を見つめながら、衝撃的な言葉を紡いだ。
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