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本編・第三部
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カタカタと軽快にキーボードを叩いて、ゴールデンウィークのスケジュール表を完成させる。社内サイトの通関部の掲示板にスケジュール表をアップロードし、ぐっと伸びをした。
「終わった~~」
今日は決算当日。3月31日……金曜日。経理部に急かされつつ色々な書類を作成していたら、ゴールデンウィークのスケジュール表を作成するのを失念していたことに気がついて、慌てて残業申請を延長した。
作成していたのは、極東商社の各販売部に向けてのスケジュール。長期休暇中は税関が閉まってしまうから、長期休暇前に通関がかなり集中する。ただ、税関の開庁時間外に輸出入申告等の手続を行いたい場合には、あらかじめ開庁時間内にその旨の届け出をすれば可能。その届け出を行うのも、通関部の業務のひとつ。
その届け出期日のスケジュールを早めに掲示しておかないと、各販売部の商談や業務を滞らせてしまう。だから、今日無理矢理にでもこのスケジュール表を作ってしまわなければならなかった。
「……」
つぅ、と。右隣のガランとしたデスクに視線を向ける。
私が一年間、教育をしてきた小林くん。彼は通関部から異動願いを提出し、4月1日付で畜産販売部に異動が決まった。小林くんが落としてきてくれた丸永忠商社は、畜産品の輸入出がメインだ。そこを逃さないように、極東商社の畜産販売部からも囲い込みを行いたい、というのが理由だったそう。
だけど、それが本当の理由でないことは……明白だった。
あの日。小林くんは、やっと前に進むことが出来る、と、口にした。私への気持ちに区切りがついて前に進むことが出来たのか、それとも彼の中で他にも区切りたいことがあったのかはわからなかったけれど……なんとなく、そう思えてしまう。
そして、私の右斜め前の席もガランとしてしまった。片桐さんは、あんなことがあって。契約社員からの正社員登用は辞退する、イギリスに帰る、と……役員会に申し出た。
けれど、イギリスに帰ることは唯一の身内である槻山取締役が猛反対したそうだ。それもそうだろう。だって、身内は槻山取締役しかいない、そんな最中でイギリスに帰してしまったら、良からぬ思考に取り憑かれてしまうかもしれない。……お父様やお母様、マーガレットさんの元に逝こう、という思考になってしまうのでは、と……槻山取締役は危惧されているのだろう。
故に、槻山取締役が、3月中に強引に正社員登用の手続きを押し進めてしまったそうだ。
あの日以降、片桐さんはお母様の遺骨をイギリスに眠るお父様のお墓の横に埋葬したい、と言って、長期休暇を取得していた。日本では土葬が認められていないから、クリスチャンですら火葬されてしまうことを今回知って、驚いた。その長期休暇期間中に槻山取締役が諸々の手続きを済ませたらしく、その事実に、片桐さん本人が『所属が通関部以外なら』と、渋々……本当に、渋々、首を縦に振ったそうだ。
そうして、片桐さんは農産販売部の係長として4月1日付で正社員登用されることになった。
私も異動願いを出していたのだけれど、片桐さんと小林くんの異動を知り、私の異動願いは取り下げた。私まで通関部からいなくなってしまえば、通関部2課は立ち行かなくなってしまう。
正直なところ、智の気持ちのために片桐さんや小林くんと離れて仕事ができれば良かったから、ふたりが通関部から異動となれば私は異動願いを出す理由が無くなる。好きだった通関の仕事から離れることに未練が無いわけではなかったから、ふたりの異動が決まったことは願ったり叶ったりだった。
けれど。片桐さんも小林くんも、2課の大きな歯車として仕事をこなしてきたからこそ、正直なところふたりが同時に異動するというのは痛手だった。
2課は、来週から水野課長代理改め水野課長、私、三木ちゃんの3名となってしまう。そのため、人事異動として商品開発部から西浦係長が異動してくることになった。新入社員も2名配属になるそうだ。
(西浦係長に新入社員……どんな人たちなんだろう)
来週以降も良い雰囲気で仕事ができれば、それが一番いいのだけれど。
ほう、とため息をついて。パソコンの電源を落とし、私と同じく残業をしていた1課の大迫係長にお疲れ様でしたと声をかけて、通関部のフロアを退出した。
更衣室でスマホをチェックしていると、智からメッセージが入っていた。
『お疲れ。残業になるから、先に帰って夕飯食べててくれな』
メッセージが送られた時刻を確認すると、三井商社の終業時刻である17時半だった。今は20時だから、もうそろそろ智の残業も終わるのではないか。そう考えて、私も今終わったけどまだ残業中かな、と送信する。
ぼうっとしながら制服から私服に着替える。
あの日。私が、片桐さんに暗示をかけられて、智が救い出してくれた日以降。智は毎朝、私に確認をする。
「………嫌な夢、見てないか?」
……と。ダークブラウンの瞳を、不安気に小さく揺らしながら、毎朝、私に問いかけてくる。無意識下に叩き込まれた暗示の影響で嫌な夢をみていないか、と、気にかけてくれている。
智の本棚に置いてあった催眠療法の本を読んだけれど、催眠暗示というのは人間の無意識にアプローチするもので、一度かけられた暗示は時間と共に抜けていく。それを解けない様にする後催眠暗示というものがPTSDなどの治療に用いられる。
智は後催眠暗示を殊更気にしている。
そもそもの暗示が私には効かなかったのだから、そんなに気にしなくてもいいような気がするのだけれど。
でも……私の迂闊な行動のせいでこうなってしまった訳だから、智の気持ちが落ち着くまで、智のしたいようにしてもらった方がいいのかな、とも、思っている。
ほう、とため息を零して、ロッカーの内鏡を確認する。ブラウスを脱ぐ際にずれたイヤリングの位置を調整していると、スマホが震えて智からのメッセージが表示された。
『俺も今終わったところ。自宅の最寄駅で待ち合わせて帰るか』
そのメッセージに、OKとスタンプを送信する。
黒川さんを警戒しているのか、別れようと嘘をつかれて以降、会社の近くで待ち合わせて帰ることが無くなって、その代わりに自宅の最寄駅で待ち合わせて一緒に帰ることになった。
朝も、時間をずらして出社するようになった。もとはと言えば片桐さんが私を狙っていたことが発端で朝も同じ時間に出て、帰りも待ち合わせて帰っていたのだから、片桐さんが私から手を引くと宣言したあの日以降、もう大丈夫と別々に出社することを私から申し出た。智は、ちょっと不服そうだったけれど。
三井商社は極東商社よりも始業時間が30分早くて、朝は智の方が私よりも少し早めに家を出る。不意に、智に玄関でいってらっしゃいと声をかけた今朝の様子が脳裏に蘇った。
「あれからずっと我慢してんだ。今夜、覚悟しろよ?」
耳元でそっと囁かれて、細く切れ長の瞳がニヤリと意地悪に歪んでわらった智の顔が目の前にあるようで。恥ずかしさで耳まで真っ赤になった自分の顔をロッカーの内鏡で確認して、更に体温が上がったような気がした。
そう。智がイタリアから帰国した直後から、生理が来ていて。2週間近く、そういうことをしていない、のだ。お風呂に入るたびに、あんなにたくさんあった所有痕が消えていくのを確認して、淋しい気持ちになってしまっている。
……口に出すのも恥ずかしいし、性欲おばけの智に毒されてる気がするから、思っているだけだけれど!!
込み上げてきた言葉にできない恥ずかしさの感情を振り払うようにぶんぶんと頭を振って、ゆっくりとロッカーを閉めて。鞄を手に持って、社員証を取り出し、受付のタイムカードの機械に社員証を翳してくるくるとネックストラップを巻きつけて、それと同時に到着したエレベーターにゆっくりと乗り込んだ。
「終わった~~」
今日は決算当日。3月31日……金曜日。経理部に急かされつつ色々な書類を作成していたら、ゴールデンウィークのスケジュール表を作成するのを失念していたことに気がついて、慌てて残業申請を延長した。
作成していたのは、極東商社の各販売部に向けてのスケジュール。長期休暇中は税関が閉まってしまうから、長期休暇前に通関がかなり集中する。ただ、税関の開庁時間外に輸出入申告等の手続を行いたい場合には、あらかじめ開庁時間内にその旨の届け出をすれば可能。その届け出を行うのも、通関部の業務のひとつ。
その届け出期日のスケジュールを早めに掲示しておかないと、各販売部の商談や業務を滞らせてしまう。だから、今日無理矢理にでもこのスケジュール表を作ってしまわなければならなかった。
「……」
つぅ、と。右隣のガランとしたデスクに視線を向ける。
私が一年間、教育をしてきた小林くん。彼は通関部から異動願いを提出し、4月1日付で畜産販売部に異動が決まった。小林くんが落としてきてくれた丸永忠商社は、畜産品の輸入出がメインだ。そこを逃さないように、極東商社の畜産販売部からも囲い込みを行いたい、というのが理由だったそう。
だけど、それが本当の理由でないことは……明白だった。
あの日。小林くんは、やっと前に進むことが出来る、と、口にした。私への気持ちに区切りがついて前に進むことが出来たのか、それとも彼の中で他にも区切りたいことがあったのかはわからなかったけれど……なんとなく、そう思えてしまう。
そして、私の右斜め前の席もガランとしてしまった。片桐さんは、あんなことがあって。契約社員からの正社員登用は辞退する、イギリスに帰る、と……役員会に申し出た。
けれど、イギリスに帰ることは唯一の身内である槻山取締役が猛反対したそうだ。それもそうだろう。だって、身内は槻山取締役しかいない、そんな最中でイギリスに帰してしまったら、良からぬ思考に取り憑かれてしまうかもしれない。……お父様やお母様、マーガレットさんの元に逝こう、という思考になってしまうのでは、と……槻山取締役は危惧されているのだろう。
故に、槻山取締役が、3月中に強引に正社員登用の手続きを押し進めてしまったそうだ。
あの日以降、片桐さんはお母様の遺骨をイギリスに眠るお父様のお墓の横に埋葬したい、と言って、長期休暇を取得していた。日本では土葬が認められていないから、クリスチャンですら火葬されてしまうことを今回知って、驚いた。その長期休暇期間中に槻山取締役が諸々の手続きを済ませたらしく、その事実に、片桐さん本人が『所属が通関部以外なら』と、渋々……本当に、渋々、首を縦に振ったそうだ。
そうして、片桐さんは農産販売部の係長として4月1日付で正社員登用されることになった。
私も異動願いを出していたのだけれど、片桐さんと小林くんの異動を知り、私の異動願いは取り下げた。私まで通関部からいなくなってしまえば、通関部2課は立ち行かなくなってしまう。
正直なところ、智の気持ちのために片桐さんや小林くんと離れて仕事ができれば良かったから、ふたりが通関部から異動となれば私は異動願いを出す理由が無くなる。好きだった通関の仕事から離れることに未練が無いわけではなかったから、ふたりの異動が決まったことは願ったり叶ったりだった。
けれど。片桐さんも小林くんも、2課の大きな歯車として仕事をこなしてきたからこそ、正直なところふたりが同時に異動するというのは痛手だった。
2課は、来週から水野課長代理改め水野課長、私、三木ちゃんの3名となってしまう。そのため、人事異動として商品開発部から西浦係長が異動してくることになった。新入社員も2名配属になるそうだ。
(西浦係長に新入社員……どんな人たちなんだろう)
来週以降も良い雰囲気で仕事ができれば、それが一番いいのだけれど。
ほう、とため息をついて。パソコンの電源を落とし、私と同じく残業をしていた1課の大迫係長にお疲れ様でしたと声をかけて、通関部のフロアを退出した。
更衣室でスマホをチェックしていると、智からメッセージが入っていた。
『お疲れ。残業になるから、先に帰って夕飯食べててくれな』
メッセージが送られた時刻を確認すると、三井商社の終業時刻である17時半だった。今は20時だから、もうそろそろ智の残業も終わるのではないか。そう考えて、私も今終わったけどまだ残業中かな、と送信する。
ぼうっとしながら制服から私服に着替える。
あの日。私が、片桐さんに暗示をかけられて、智が救い出してくれた日以降。智は毎朝、私に確認をする。
「………嫌な夢、見てないか?」
……と。ダークブラウンの瞳を、不安気に小さく揺らしながら、毎朝、私に問いかけてくる。無意識下に叩き込まれた暗示の影響で嫌な夢をみていないか、と、気にかけてくれている。
智の本棚に置いてあった催眠療法の本を読んだけれど、催眠暗示というのは人間の無意識にアプローチするもので、一度かけられた暗示は時間と共に抜けていく。それを解けない様にする後催眠暗示というものがPTSDなどの治療に用いられる。
智は後催眠暗示を殊更気にしている。
そもそもの暗示が私には効かなかったのだから、そんなに気にしなくてもいいような気がするのだけれど。
でも……私の迂闊な行動のせいでこうなってしまった訳だから、智の気持ちが落ち着くまで、智のしたいようにしてもらった方がいいのかな、とも、思っている。
ほう、とため息を零して、ロッカーの内鏡を確認する。ブラウスを脱ぐ際にずれたイヤリングの位置を調整していると、スマホが震えて智からのメッセージが表示された。
『俺も今終わったところ。自宅の最寄駅で待ち合わせて帰るか』
そのメッセージに、OKとスタンプを送信する。
黒川さんを警戒しているのか、別れようと嘘をつかれて以降、会社の近くで待ち合わせて帰ることが無くなって、その代わりに自宅の最寄駅で待ち合わせて一緒に帰ることになった。
朝も、時間をずらして出社するようになった。もとはと言えば片桐さんが私を狙っていたことが発端で朝も同じ時間に出て、帰りも待ち合わせて帰っていたのだから、片桐さんが私から手を引くと宣言したあの日以降、もう大丈夫と別々に出社することを私から申し出た。智は、ちょっと不服そうだったけれど。
三井商社は極東商社よりも始業時間が30分早くて、朝は智の方が私よりも少し早めに家を出る。不意に、智に玄関でいってらっしゃいと声をかけた今朝の様子が脳裏に蘇った。
「あれからずっと我慢してんだ。今夜、覚悟しろよ?」
耳元でそっと囁かれて、細く切れ長の瞳がニヤリと意地悪に歪んでわらった智の顔が目の前にあるようで。恥ずかしさで耳まで真っ赤になった自分の顔をロッカーの内鏡で確認して、更に体温が上がったような気がした。
そう。智がイタリアから帰国した直後から、生理が来ていて。2週間近く、そういうことをしていない、のだ。お風呂に入るたびに、あんなにたくさんあった所有痕が消えていくのを確認して、淋しい気持ちになってしまっている。
……口に出すのも恥ずかしいし、性欲おばけの智に毒されてる気がするから、思っているだけだけれど!!
込み上げてきた言葉にできない恥ずかしさの感情を振り払うようにぶんぶんと頭を振って、ゆっくりとロッカーを閉めて。鞄を手に持って、社員証を取り出し、受付のタイムカードの機械に社員証を翳してくるくるとネックストラップを巻きつけて、それと同時に到着したエレベーターにゆっくりと乗り込んだ。
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