俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

129

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「か、たぎり…さん……」

 あの夜、お母様の死を受けて頬がこけていた精悍な顔立ちは、今は少しだけ精気を取り戻したようにふっくらとしていた。
 黒いチノパンを身に纏って、一見優雅に組まれていた長い脚が、ゆっくりと解かれていく。

「……奇遇だね~ぇ?」

 へにゃり、と。片桐さんが笑った。

 まさか、こんな遠方で彼と遭遇するとは思ってもみなくて。思わず、身体が固まった。

 固まった私たちをよそに、片桐さんが屈託なく笑った。

「やだなぁ、別に待ち伏せしてたわけじゃな~いよ?今回ばかりは、本当に偶然」

 そう口にして、片桐さんが広げた右の手のひらで、ぽんぽんとベンチ横の大きな黒いスーツケースを軽く叩いた。茶色のジャケットの前身頃が、ふたたび吹いた風にぱたぱたと揺らめいていく。

「さっき、イギリスから帰国したところでね?」

 へにゃり、と。片桐さんが、再度、人懐っこそうな笑みを浮かべた。

 言われてみれば、ここは国際空港の近く。お母様の遺骨をお父様のお墓の隣に埋葬したいとイギリスに発たれていたから。先ほど帰国した、というのは……きっと、事実なのだと思う。

 そうして。ヘーゼル色の瞳が、なにかを思い出すように儚く細められて、私たちを見据えた。

「……死んだMaisieメイジーが、桜が好きだったんだ。フランスのブランドの…チェリーブロッサムっていう香水をよくつけてたから」

「マーガレットさんが…?」

 片桐さんの言葉に驚いて声をあげた瞬間、真横の智が、絡めていた手を離し、私を庇うように右手を伸ばして私の一歩前に出た。

「知香。こいつの言葉を信じるな。こいつは母親の死すらなんとも思ってなかったんだから」

 低く、唸るように、智の声が響いて。黒のパーカーから伸ばされた智の手のひらが、怒りで震えている。その声色に、告げられた言葉に、身体が強張っていく。
 片桐さんが苦笑し、その整えられた眉が困ったように八の字に歪んだ。

「ん~、ちょ~っと語弊があるなぁ。母の死をなんとも思ってない訳じゃな~いよ?」

 そう口にして、ほう、と。片桐さんが小さく息をついて…言葉を続けた。

「ただ…俺の人生の中で、さほど衝撃的な出来事ではなかった、っていう……ただ、それだけだよ」

 小さく、誰に伝えるでもないような…そんな声色で片桐さんが呟いて。ふい、と、頭上の桜を見上げた。


「Maisieが桜を好きだったことも本当。あの日…彼女に桜を見せると約束したのに、日本に連れてくることも出来なかったなぁって思って」

「……」

 その言葉に、遠くを見つめるような片桐さんの表情に、後悔を滲ませたその声色に。この人もいっぱいいっぱい生きてきたひとなのだと再認識した。

 それでも……あんなことをされて、今更、片桐さんを赦す気にはなれないけれど。

 私はなにも言葉にすることができず、ただただ、智が片桐さんを睨みつけている様子を、斜め後ろからじっと見守るしかなかった。

 片桐さんが視線を頭上の桜から私たちへ向けて、ふたたびへにゃりと笑って。唐突に、「知香ちゃんから聞いてるよね?」と切り出した。

「イギリスに帰るつもりだったんだけどね~ぇ?あれよあれよと極東商社の正社員になっちゃった。でも、所属は通関部じゃないし、それに俺、知香ちゃんから手を引くって宣言したし。あの言葉を違えるつもりもないから安心してよ」

 いつもの片桐さんような、飄々とした笑顔が目の前にあって。先ほどのような切なげな声ではなく、ハキハキとした声色で、片桐さんが智を真っ直ぐに見つめている。

 その表情に、智が、私を庇うように伸ばした手を下ろして、ぎりっと拳を握った。

「……てめぇの言葉なんざ今更信じられるか。あの夜、真夜中に魘されている知香の様子に血の気が引いて飛び起きたんだぞ」

 智が、片桐さんに…まるで言葉を投げつけるように、低く、鋭く声を発した。

「…え?」

 智が紡いだ言葉の意味が噛み砕けなかった。一瞬、思考回路が停止した気がした。

「揺り起こしても、夢から目覚めねぇ。どう考えたってお前の暗示の影響だろう。このまま眠りから醒めなかったら。そう思うと生きた心地がしなかったんだ。……朝日が昇っていつもの時間に知香が目覚めてケロっとしてた様子にどれだけ安堵したことか」

 智の低く響く声に息を飲む。

 知らなかった。あの夜、そんなことが私の身体に起こっていたなんて。

(だから……毎朝、確認していたんだ…)

 毎朝、不安気に。智が、嫌な夢を見ていないかと、問いかけてくる意味。それは、あの日の夜の私の魘されていた姿が、強烈なトラウマとして智の中に留まってしまっているのだろう。

 智の不安な気持ちを、分かっているつもりでしかなかった自分の情けなさに、ぎゅっと、自分の手のひらを握りしめた。

「あの夜以降は、魘されている様子もないが……てめぇだけは、絶対赦さねぇ。たとえ、俺が死んでも」

 いつも余裕を宿している智の瞳が、不敵に笑うその表情が。今は憤怒の感情で歪んでいる。

 智のその姿に、片桐さんがほぅ、と息を吐いて。

「……あの件については、本当に申し訳なかったと思っているよ。君にも、知香ちゃんにも…詫びようもないと思っている。自分本位に、俺が身につけた本格的な後催眠暗示を知香ちゃんに入れ込んだから。なにか影響が残っているかも、とは思っていた」

 そう呟いた片桐さんが視線をふい、と、地面に落とした。

「……やはり後催眠暗示まで入れ込んでたのか」

 ぞっとするような、周囲の気温が一気に冷えていくような、底冷えのする声で智が吐き捨てる。智のその表情に、片桐さんがふっと儚く笑った。

「ただ、それ以降魘されているような感じでなければ、大丈夫だよ。知ってるでしょ?後催眠暗示ですらも、時を経る事に抜けていく。それは時間をかけて繰り返さなければ定着しないのだから」

 片桐さんの表情を、智がじっと睨みつけている。まるで、その真意を推し量るかのように。

「……」

 長い沈黙の後、片桐さんが…いつものようにくすりと笑った。

「知香ちゃんの心の強さにまた堕とされちゃったけどさ?俺にはそこに入り込む余地はない。信じられないかもしれないけど、本当にそう思ってるから」

 そう言葉を紡いだ片桐さんが、四角いベンチから立ち上がり、大きなスーツケースの持ち手をガチャンと引き伸ばして。

「さて、と。俺はこれから帰って槻山取締役従伯叔父と話し合いがあるから。……またね」

 あの夜のように。背中を向けながら、片桐さんがひらひらと手を振った。









 片桐さんの姿が見えなくなって。

「……俺は、あいつの言葉は…信じることは出来ねぇ」

 片桐さんが消えていった方向を睨みつけながら、智がそう小さく呟いた。ぐっと、ふたたび拳を握り締められる。

 震えながら握られたその拳を、そっと握って。

「……ごめん、なさい」

 私は、智の中に渦巻く気持ちを慮ると、それしか…口に、できなかった。













 しばらく、無言の時間が続いた。ゆっくりと、智が歩き出す。それに釣られて、私も足を動かしていく。

 途中で、川に掛けられた石橋を渡っていく。すんっと智が鼻をすすった。

「……ハナミズキの香りがする」

 その言葉に、つぃ、と、石橋の真下の川に目を向けると、桜が咲き誇る川縁の石段の隙間から、ハナミズキの木が生えていて、真っ白なハナミズキが咲き誇っていた。

「………ね、智。ハナミズキって、あの白い部分、花じゃなくてほうなんだって」

 知ってた?と、真横の智を見上げる。智が驚いたように目を見開いて声を上げた。

「そうなのか?」

 その表情に少しだけ得意げな気持ちになる。

「そうなんだって。こう、蕾んでいるのから、パンって弾けてあの形になるらしいよ」

 智と繋いでない方の手で、ぎゅっと手を握り、パッと広げながら言葉を紡いだ。

 ホワイトデーで智にラナンキュラスの花束をプレゼントされてから、花に興味を持って。少しずつ、調べて知識を得た。なんとなく、そのネタが活用できたことが嬉しい。

「確か、紫陽花とか百合もそうなんだよな。俺らが花びらだと思ってるのは花びらじゃなくて、がくなんだよな」

「そうそう。びっくりだよね」

 他愛もない会話が続く。先ほどの緊張感が、嘘のような時間だった。

 石橋を渡りきった先に、同じような石段の階段があった。小高い丘に続く階段を登り切ると、小さな広場があって。智が手に持った鞄から、レジャーシートを取り出す。

「……ここで食べるか」

 レジャーシートを広げ、サンドイッチが入ったタッパーを取り出して、レジャーシートの中央に置く。念のために持ってきた膝掛けを広げていると。

「……知香。片桐のことだけど」

 智が、唐突に…片桐さんのことを口にして。私の身体が、びくりと跳ねた。
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