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本編・第三部

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 あっという間に終業時刻になってしまった。南里くんと加藤さんに、配属された初日から残業させてしまっては、彼らが今後に不安を残してしまうだろうから、と、三木ちゃんと目配せをし、今日はふたりを定時で帰した。

「さ、午後から延ばし延ばしにしてた分、ふたりで分担しましょ、三木ちゃん」

「はいっ、頑張りましょう、先輩っ」

 いつもの溌剌とした声が響いた。私はポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを立ち上げる。

『残業です。ごめんね』

 智に残業になった旨のメッセージを送信して、デスクの上の書類をトントンと纏める。

「え~っと、じゃぁこっちの分を三木ちゃんお願いできる?」

「オッケーです、先輩!」

 私から書類を受け取った三木ちゃんがニコッと屈託なく笑った。制服のスキッパーブラウスの首元から、シルバーのネックレスのチェーンが、キラリ、と、煌めいた。

(……あれ?三木ちゃん、今までネックレスなんてしてたっけ…)

 新しい季節に入ったから。そういう時って、何かしら新しい物を身につけたくなる季節でもあるものね。そう結論づけて、私も自分のデスクに戻った。

 2課のブースにカタカタとキーボードを叩く音が響く。

 ふと右斜め前を見遣ると、西浦係長も今日は定時で上がってもらったようだった。ほわん、としたあの穏やかな微笑みが脳裏に蘇る。

 開発一筋だった、ということは相当頭も切れるひとだろう。10月の通関士試験なんて、半年あれば一発合格してしまうんじゃないだろうか。

 私はまだ試験範囲の3分の1くらいしか理解出来ていない。ちょっと勉強のペースを上げないとどうにもならないだろう。

 そんなことをぼんやり考えつつ、積み重なっていた書類を片づけていった。









 1時間半ほど残業し、今日処理すべき分を無事に片づけられた。目の前に座る水野課長に三井商社の移入承認の進捗を報告し、三木ちゃんとあのふたりの教育方針などを話しながら女子社員の更衣室に向かう。

 横並びに歩きながらシックな色の壁紙の廊下を歩いていると、お手洗いの角に、定時で上がらせたはずの南里くんが壁に凭れかかっていた。

「三木さん」

 南里くんが、くりくりとした目に強い意志を宿して、三木ちゃんを真っ直ぐに見つめた。その声に、三木ちゃんがきょとんとした表情で南里くんを見上げている。

「南里?まだ帰ってなかったの?どうしたの?」

 そうして。南里くんが、廊下に響き渡るような大きな声で、叫ぶように声をあげた。




「俺、あなたに一目惚れしました!!俺と付き合ってくださいませんか!?」




 一瞬、時が止まった気がした。まさか、他人の告白シーンに、こんな形で遭遇するなんて思ってもいなかったから。

 驚きのあまり、あんぐりと口を開けて南里くんのくりくりした瞳を見つめていると、真横から困惑したような三木ちゃんの声が響いた。

「……南里、あのね。まず、そういう話しをする時は人気のないところに呼び出すものよ」

 三木ちゃんの声にはっと我に返り、隣の三木ちゃんの顔を見つめる。いつもの勝気な瞳で真っ直ぐに南里くんを貫いていく。

「……あと、私、好きな人がいるから、無理。ごめん」

 そう、三木ちゃんは……この前、その人に振られてしまった、と言っていた。振られてしまったとはいえ、その人を今も想い続けていることを知っているからこそ、三木ちゃんがこの場で南里くんの言葉に応えないのは、ある意味当然のこと。

 強い意志を宿した三木ちゃんの横顔を眺めていると、南里くんのはっきりとした声が再度響いた。

「その人と付き合ってるわけじゃないんですよね?じゃぁ、ですよね」

 ……この言葉。すごく聞き覚えがある。片桐さんが私を待ち伏せしていた時に……智に向けていた言葉だ。

(……これ、ちょっとマズいやつ)

 直感的にそう思った。今、なんとかして止めないと三木ちゃんが私の二の舞になってしまう。

 私がその答えに辿り着くよりも、南里くんの方が行動が早かった。気がついたときには、南里くんが一歩を踏み出して三木ちゃんの手を取っていた。

「俺、仕事頑張って覚えます。絶対に俺に振り向かせてみせますから。だから、」

「おおっと……そこまでだよ?」


 ふわり、と。シトラスの香りが漂って。


 南里くんの言葉を遮るように飄々とした声が響き、三木ちゃんと南里くんの間に黒い背中が割り込んだ。





「真梨ちゃん、好きな人がいるって言ってたよね?聞こえなかった?それにこんなオープンな場所で迫って……ちょ~っと、ナイと思うよ?」

 土曜日振りにみる、人懐っこい笑みが目の前にあった。

 南里くんが三木ちゃんに伸ばしていた手は、今は片桐さんが掴んでいる。三木ちゃんが唖然とした表情で背の高い片桐さんを見上げていた。

「………えっと…片桐さんが…それ言います?」

 この場の空気も読まず、片桐さんをチクリと刺していく。嫌がる私に休憩中はガンガン迫ってきていた人が……しかも、手段を使った人がその言葉を口にしたところで、説得力は皆無だ。

 私の言葉に片桐さんが困ったようにヘーゼル色の瞳を歪ませて笑った。

「ん~~、それを言われると何も返せないんだけどさぁ?……俺なりの、への償いなんだ、許してよ?」

「……」

 片桐さんがそう言葉を紡いで、こてん、と、首を傾げ、いつものようにへにゃりと笑った。明るい髪がふわりと揺れる。

 ……彼。それは、きっと、智のことだろう。智への償いとして、数ヶ月前の自分と同じ行動を咎めた、ということ…なのかもしれない。

「……それはさておき。君が通関部に配属になった新入社員くんかなぁ?」

 すっと。片桐さんの瞳が、南里くんを真っ直ぐに見つめて……獲物を捕らえたように歪んだ。横からみている私からでも、はっきりと分かるような変化だった。

「……すみません、どこのどなたかは存じませんが、無関係の方が首を突っ込むのはやめていただけませんか」

 南里くんが、片桐さんに手を掴まれたまま、ぐっと威嚇するように片桐さんのヘーゼル色の瞳を見上げる。そこには、第一印象で抱いたような、チワワのような可愛い雰囲気は全くなくて。

「強気だねぇ?俺、これでも一応ね、先週まで通関部所属だったんだ。無関係ではな~いよ?」

 ゆっくりと。片桐さんの口元が、まるで南里くんを嘲るように歪んでいく。

「一緒に働いてた仲間が無理に言い寄られている。これはちょ~っと見逃せないなって思ったんだ。……ね、だから俺、無関係じゃないでしょ?」

 そう言葉を紡いで、へにゃりと笑った。

(……いや、だから片桐さんがそれ言う…?)

 どうせだったらあんな事を起こす前に、そういう気持ちになって欲しかった。そうすれば、智も負の感情を持ち続けることも無かったのだから。


 自分がひどく無防備だったから、ということを棚に上げて、心の中でひたすらに片桐さんのセリフをあげつらっていく。

 南里くんが威嚇したような視線を緩めて、片桐さんの後ろに茫然と立ったままの三木ちゃんに声をかけた。

「……三木さん。もしかして、あなたが好きな人ってこの人ですか」

「………はい?」

 三木ちゃんが、今まで聞いたことの無いような素っ頓狂な声をあげた。それもそうだろう。どうやったらそんな結論に辿り着くのか、私にもさっぱりわからない。

「三木さんのことを下の名前で呼ぶくらい親しい。おまけに、この人は先週まで通関部所属なのでしょう。こんな性格の悪い人のことを想ってるなんて、勿体無いです。俺にしませんか」

 南里くんが挑むような視線を浮かべて、背の高い片桐さんを下から睨み付けている。

「あはは、面白いね、キミ。俺の発言への着眼点も悪く無いし?頭は切れるタイプだ。……でも、残念。真梨ちゃんが好きなのは俺じゃないし、俺、むしろ真梨ちゃんに嫌われてる方だよ?」

「……では、逆にあなたが三木さんを想いを寄せている。……要は俺のライバルってことですね。そうすればあなたの行動に辻褄があう」

 南里くんの言葉に片桐さんがくっと喉の奥を鳴らして視線を私に向けた。

「それは見当違いだよ?俺はそっちの……知香ちゃん狙い」

 そう言葉を紡いだ片桐さんが、愉しそうな笑い声をあげた。その声が一瞬で、すっと低くなる。

「あんまりオイタすると、痛い目みるよ?」

 くすり、と。片桐さんが声をあげて笑った。

 掴みどころのない、いつもの飄々とした雰囲気が消え失せている。口元は笑っているのに、目は笑っていなくて、ひどく冷たい。ぞわり、と、無関係の私ですら、背筋が凍る。

 しばらく睨み合っていた南里くんと片桐さん。南里くんがすっと視線を外して、片桐さんに掴まれていた腕を勢いよく振り払った。

「……あなたが極東商社でどれくらいの権力を持っていらっしゃるのか存じませんけど、今の言葉はパワハラですからね」

「おおっと。確かにそうだね」

 戯けたように片桐さんが両手をあげて肩を竦める。

「これは一本取られちゃった。ごめんね、南里くん?」

 降参、というジェスチャーを取りながらも、くすくすと笑い声をあげる片桐さんを睨みつけ、南里くんが三木ちゃんに視線を合わせて。

「……三木さん。俺、諦めませんから」

 くりっとした瞳に強い意志を宿しながら言葉を紡いで、南里くんがくるりと踵を返した。

 その言葉に、三木ちゃんがぽつりと呟いた。

「……ふざけんじゃないわよ。誰があんたなんか」

 小さく呟いた言葉がゆっくりと消えていった。

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