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本編・第三部
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昼休みを終えて、通関部のフロアに戻る。行動予定表のマグネットを在籍に戻して、税関で受け取ったベネフィット認証の資料を取り出し、席に座っている田邉部長の前まで歩いた。
「田邉部長。税関から戻りました。……お預かりした書類があるのですが」
「ん?」
田邉部長が、眼鏡を外しながら私が差し出した書類を受け取った。「最近老眼が一気に進んでしまってね」と、期末慰労会で苦笑していた光景が脳裏に蘇る。
ぱらぱらと、それでもじっくりと田邉部長が資料に目を通していく。一通り目を通し終えた田邉部長が、ほう、と息を吐いて、私にふわりと微笑みかけた。
「………一瀬、ご苦労。あとでしっかり読み込むよ。この資料、コピーして各販売部に持って行ってくれないか」
「わかりました」
「各販売部の意見も聞いて合同で稟議を起案する方が役員会で通りやすいだろうからね。さっきまで外出していて仕事が立て込んでいるところすまないが、よろしく頼むよ」
先ほど渡した資料をすっと戻されつつ、眼鏡を外した田邉部長から真っ直ぐに見つめられる。
確かに、通関部単独で稟議を上げるよりは、合同で稟議を上げた方が決裁が下りやすいだろう。
告げられた言葉に了承の言葉を口にしながら頷き、コピーを取ろうと、複合機が置いてある1課の方に足を向けると、あぁそうだ、と、田邉部長が私を呼び止めた。
「ついでに南里と加藤も連れて各販売部の人たちに顔見せに行っておいで。仕事を覚えて来たら、社内の各販売部の業務から担当してもらおうと思っているから」
去年の新入社員だった小林くんの時も、社内の各販売部の業務から任せて、徐々に社外の顧客を引き継ぐようにしていった。田邉部長の中では今年もそれに倣って教育していく方針なのだろう。
今の時点で社内の各販売部に顔見せに行っていた方が、今後連携が取りやすくて円滑に業務が回るだろう、と踏んでのことだと察した。
「承知しました」
田邉部長に視線を合わせながら返答をし、複合機で資料のコピーを取っていく。コピーを取り終えて、念のため自分のパソコンにPDFでデータを送信する。稟議を起案するのは恐らく私の仕事になるだろうから、手が空いた時に仮で文章を作成しておいた方がいいような気がした。
原本を田邉部長に手渡し、コピーした資料をクリアファイルに挟んで、南里くんと加藤さんに声をかけて通関部のフロア真横の畜産販売部に足を向けた。
畜産販売部のブースを覗くと、よくやり取りをしていた一般職の佐々木さんが不在だった。佐々木さんのデスクに資料を置いて、制服のポケットから付箋を取り出し、『税関から預かりました。各販売部から合同で稟議をあげたいと田邉部長から言付かっています』と書き込んで、浸透印を捺印する。
通関依頼をよくかけてくる営業担当さんのデスクに近づき、電話の合間を縫って加藤さんを紹介する。
『極東商社です』と、聴き慣れた声がした。ふい、と視線をあげると、近くのデスクに、昼休みに一緒に食事をした小林くんが座っていて。受話器を左肩に挟んで色々とメモを取っている。あの時に脳裏で浮かべた奮闘している姿と相違ないその姿に、思わず笑みが溢れる。
自分が教育を担当した後輩。しかも総合職の教育は初めてだった。だから、小林くんに対しては親心のような、なんとも言えない気持ちもある。そんな小林くんが通関士として独り立ちするところを見たかった、と、異動を残念に思う気持ちはあったけれど。
こうして、営業マンとして渡り歩いていく姿を見ることが出来ればいいかな、と……目に映るその姿に、少しだけ自分を納得させることができた。
カチャリ、と、小林くんが受話器を置いて、隣の席の社員さんに「三井商社の浅田さんとアポが取れたので今から行って来ていいですか」と訊ねているその声に、はっと我に返る。
営業さんと硬い声色で会話をしている加藤さんに、そろそろ行こうかと促して、後ろに待機していた南里くんを振り返る。
「じゃ、農産販売部にいきましょう」
小林くんが配属された昨年と違うのは、今年から通関部はチーム制になったところ。南里くんは私と一緒に農産チーム、加藤さんは西浦係長とともに畜産チームとなる予定だ。
次は1階下の農産販売部に南里くんを紹介して、あとは水産販売部の佐藤さんにも書類を預けて、今回のお遣いは終わり。
加藤さんと南里くんを連れて、ゆっくりと畜産販売部のブースを後にした。
がちゃり、と音を立てて通関部のフロアを出て、無言でエレベーターホールを抜け、階段への扉を開く。
「日中はエレベーター使うよりも螺旋階段を使う方が早いの。上の総務部に用がある時とか、今日みたいに下の農産販売部と水産販売部に用がある時はこっちがおすすめよ」
ギィ、と、蝶番が軋む音を聴きながら、南里くんと加藤さんを螺旋階段へ誘う。南里くんの革靴の音と、私と加藤さんのヒールの音が軽快に響いていく中、南里くんが私を振り返った。
「一瀬さん。この前の……片桐さんと、三木さん。何があったんですか?」
「え?」
思わぬ質問に目を瞬かせ、数段下にいる南里くんと視線が並行に交わった。
「いや。さっき、あの小林さんが言ってましたよね、片桐さんみたいな人でない人が三木さんの好みなんじゃないかって」
南里くんの声のトーンが低くなって、くりくりした瞳がすっと鈍く光る。その視線に、一瞬、背筋が冷える感覚があって。息が詰まった。
(……なんだろう、今の感覚)
まるで、あのヘーゼル色の瞳に射抜かれた時のようだ。ぞわり、と、訳のわからない恐怖感が足元を這いずっている。
「………片桐係長、ね。あんな飄々とした人だけれど、一応、係長っていう立場なの。南里くん、そこは弁えて」
迫ってくるような恐怖感を振り払うように軽く身動ぎをして、南里くんを鋭く窘める。
「あの人と、私が色々とトラブったの。それで三木ちゃんは私の味方についてくれた。だから結果的に片桐係長のことが嫌いなんだと思うわ?」
ゆっくりと。諭すように。そうして、これ以上トラブルを引き起こすようなら、私は南里くんの味方をしない、と、言外に突き付ける。
南里くんがじっと考え込むように目を瞬かせた。そうして、ふい、と、私から視線を外して。
「……肝に銘じます」
ぽつり、と呟いて、南里くんがふたたび階段を下っていった。その様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
これできっと、彼も少しは思い直してくれるだろう。そう考えて手すりにつかまりながら、階段を下っていった。
シックな色の壁紙の廊下を歩き、農産販売部のブースに繋がる扉の前に立つ。扉横のセキュリティに社員証を翳して扉を開こうとした瞬間、カチャリ、と扉を開く音がして、驚いて身体が竦んだ。
「わ……!?」
扉から出て来た人の、久しぶりに聞くねっとりしたその声に、ふわり、と香るシトラスの香り。思いもよらない人物ふたりと鉢合わせたのだということを理解して、思考が一瞬停止する。
その人の隣に立っている、さっき脳裏に浮かんだヘーゼル色の瞳が。今にも零れ落ちそうに見開かれて私を見ていた。
「あれ、知香ちゃん?びっくりした~」
驚いたような顔から、一瞬でへにゃりと人懐っこい笑みに変わる。そうして、片桐さんが仕事用の穏やかな声色で隣の人に語りかけた。
「先ほどお話しした弊社通関部、農産担当の一瀬です。御社にもご挨拶に伺ったんですよね」
目の前にある面長の細い瞳と視線が交差する。
「あぁ、あ、はい。そうです、ね」
黒川さんが、オドオドしたような声色で、忙しなく私と片桐さんを見比べている。その様子に、あの喫茶店での横柄な態度とまるで二重人格のように別人だ、と感じながら、にこりと営業スマイルを貼り付けた。
きっと片桐さんは、黒川さんと商談中だったのだろう。黒川さんは三井商社の農産チームだ。うちの農産販売部に出入りしていてもおかしくはないと気がつき、ゆっくりと呼吸をする。
商談後は相手の帰りを見送るのが営業マンの務めでもあるから、そのタイミングと被ったのだ、と理解して。
「黒川さん、ご無沙汰しております。改めて、今後ともよろしくお願いいたしますね」
智を引き摺り下ろそうとしている貴方なんかには負けない。自分の視線にそんな意志を込め、それでもなお営業スマイルを顔に貼り付けて、目の前の細い瞳を見据えた。
す、と。その細い目が、あの喫茶店で感じた値踏みされているような視線に、一瞬だけ変わる。その瞳を睨めつけるように見上げたあと。
「では……失礼します」
黒川さんが、私から視線を外さないまま、頭を下げてすっと私の横を通り過ぎていった。その行動に、ほう、と小さく息を吐く。
どんな手段で、黒川さんが智を引き摺り下ろそうとしてくるのかわからない。けれど、私は黒川さんのいいようにされるつもりはない。
「……びっくりしたよ、知香ちゃん。どうしたの?」
そう心の中で呟いていると、へにゃり、と。片桐さんが私に笑いかけた。
業務上、片桐さんと接触するのは仕方ないこと。だけれど、業務以外のことで会話を続ける気はない。そう言わんばかりにピシャリと声をあげた。
「税関から預かった資料がありまして。田邉部長から、各販売部にも持っていくように言付かっています。木村さんいらっしゃいますか?」
「木村さん?今日は午後から外出してるよ?」
私の冷えた声色に「相変わらずつれないな」と、苦笑しながら片桐さんが口を開く。
「そうでしたか。田邉部長は各販売部と通関部の合同で稟議を起案したいそうなので、木村さんのデスクに置いていただきたいのですが」
そう口にしながら、すっと手に持ったクリアファイルを片桐さんに差し出す。片桐さんが、その資料の表紙をに目を落として、訝しむように眉を動かした。
「一応、確認しておきたいんだけど。どういう内容?」
片桐さんは係長だ。立場上、今回のような内容は極力把握しておきたいと考えているのだろう、と気がついて、ざっくりとした概要を口にする。
「……あの大規模テロをきっかけに出来た国際的な取り組みだそうです。認証を受けると通関処理が一部簡素化されます」
片桐さんが、じっと。私が手渡したその資料を見つめている。
そうして、小さく。ヘーゼル色の瞳を細めながら、吐息を漏らして、小さく呟いた。
「Why can't I move on, while the world has let it go to move on forward?」
「……え?」
片桐さんの唇から紡がれた、誰に伝えるでもないような、そんな小さな声。
そしてその声色は、ひどく……やるせなさが滲んだ、哀しい色を孕んでいた。
私は仕事柄、ビジネスシーンでの日常会話レベルの英語しか使えない。だから、今、発された英語が何を意味するのか、さっぱりわからなかった。
どうしたんですか、と、聞き返そうとした瞬間、片桐さんが纏うオーラが、やるせなさが滲むようなものからいつものような飄々としたものに変わって。
「木村さんに渡しておけばいいんだよね?預かっておくよ」
へにゃり、と。ふたたび、片桐さんが笑う。瞬時に切り替わった表情に呆気に取られていると、ふわり、と、長い黒髪がたなびいて。
私の後ろに立っていたはずの加藤さんが、片桐さんのスーツの裾を力強く掴んだ。
「That person would have wanted you to be happier than anyone. You are alive right now, so you can step forward.」
加藤さんがとても流暢な英語で、片桐さんに語りかけた。その言葉を受けて、ヘーゼル色の瞳が大きく揺れる。
ふるふると。本当はマーガレットさんが好きなくせに、と、突き付けたあの瞬間のように。片桐さんの瞳が、揺れ動いている。
そうして、片桐さんの声が、一気に低くなった。
「……What do you know?」
その言葉だけは、私でも、聞き取れた。
片桐さんが、加藤さんに視線を合わせて。低く、低く問いかける。その低く鋭い声色に、片桐さんと直接視線が交わっていない私でさえ、一瞬、圧倒された。
何が起きているのか、ふたりの間でどういう会話が飛び交ったのか、よくわからなかった。
けれど、片桐さんが呟いた哀しい独り言に、加藤さんが励ましの一言を伝えて。その言葉が、片桐さんの逆鱗に触れた、ということは、なんとなく理解した。
片桐さんが冷たい瞳をしたまま、加藤さんの手を勢いよく振り払っていく。そうして。
「……木村さんにはきちんと渡すから」
―――私を見ているのに、私を見ていない、あの瞳で。私をじっと見つめて、ぽつりと呟いた。
片桐さんは私の真横を通って、廊下を歩いて。廊下の角に設置してある、喫煙ルームの扉を押し開いていった。
「……加藤、さん?」
片桐さんに腕を振り払われた加藤さんが心配で、ゆっくりと声をかける。
「………私と、同じなんでしょうね、あの方は。綺麗な思い出から、一歩も、動けていない」
加藤さんは、二重の大きな瞳を切なげに細め、今にも泣き出しそうな顔をして。
声を震わせながら、喫煙ルームの扉を。
ただ、じっと。見つめていた。
「田邉部長。税関から戻りました。……お預かりした書類があるのですが」
「ん?」
田邉部長が、眼鏡を外しながら私が差し出した書類を受け取った。「最近老眼が一気に進んでしまってね」と、期末慰労会で苦笑していた光景が脳裏に蘇る。
ぱらぱらと、それでもじっくりと田邉部長が資料に目を通していく。一通り目を通し終えた田邉部長が、ほう、と息を吐いて、私にふわりと微笑みかけた。
「………一瀬、ご苦労。あとでしっかり読み込むよ。この資料、コピーして各販売部に持って行ってくれないか」
「わかりました」
「各販売部の意見も聞いて合同で稟議を起案する方が役員会で通りやすいだろうからね。さっきまで外出していて仕事が立て込んでいるところすまないが、よろしく頼むよ」
先ほど渡した資料をすっと戻されつつ、眼鏡を外した田邉部長から真っ直ぐに見つめられる。
確かに、通関部単独で稟議を上げるよりは、合同で稟議を上げた方が決裁が下りやすいだろう。
告げられた言葉に了承の言葉を口にしながら頷き、コピーを取ろうと、複合機が置いてある1課の方に足を向けると、あぁそうだ、と、田邉部長が私を呼び止めた。
「ついでに南里と加藤も連れて各販売部の人たちに顔見せに行っておいで。仕事を覚えて来たら、社内の各販売部の業務から担当してもらおうと思っているから」
去年の新入社員だった小林くんの時も、社内の各販売部の業務から任せて、徐々に社外の顧客を引き継ぐようにしていった。田邉部長の中では今年もそれに倣って教育していく方針なのだろう。
今の時点で社内の各販売部に顔見せに行っていた方が、今後連携が取りやすくて円滑に業務が回るだろう、と踏んでのことだと察した。
「承知しました」
田邉部長に視線を合わせながら返答をし、複合機で資料のコピーを取っていく。コピーを取り終えて、念のため自分のパソコンにPDFでデータを送信する。稟議を起案するのは恐らく私の仕事になるだろうから、手が空いた時に仮で文章を作成しておいた方がいいような気がした。
原本を田邉部長に手渡し、コピーした資料をクリアファイルに挟んで、南里くんと加藤さんに声をかけて通関部のフロア真横の畜産販売部に足を向けた。
畜産販売部のブースを覗くと、よくやり取りをしていた一般職の佐々木さんが不在だった。佐々木さんのデスクに資料を置いて、制服のポケットから付箋を取り出し、『税関から預かりました。各販売部から合同で稟議をあげたいと田邉部長から言付かっています』と書き込んで、浸透印を捺印する。
通関依頼をよくかけてくる営業担当さんのデスクに近づき、電話の合間を縫って加藤さんを紹介する。
『極東商社です』と、聴き慣れた声がした。ふい、と視線をあげると、近くのデスクに、昼休みに一緒に食事をした小林くんが座っていて。受話器を左肩に挟んで色々とメモを取っている。あの時に脳裏で浮かべた奮闘している姿と相違ないその姿に、思わず笑みが溢れる。
自分が教育を担当した後輩。しかも総合職の教育は初めてだった。だから、小林くんに対しては親心のような、なんとも言えない気持ちもある。そんな小林くんが通関士として独り立ちするところを見たかった、と、異動を残念に思う気持ちはあったけれど。
こうして、営業マンとして渡り歩いていく姿を見ることが出来ればいいかな、と……目に映るその姿に、少しだけ自分を納得させることができた。
カチャリ、と、小林くんが受話器を置いて、隣の席の社員さんに「三井商社の浅田さんとアポが取れたので今から行って来ていいですか」と訊ねているその声に、はっと我に返る。
営業さんと硬い声色で会話をしている加藤さんに、そろそろ行こうかと促して、後ろに待機していた南里くんを振り返る。
「じゃ、農産販売部にいきましょう」
小林くんが配属された昨年と違うのは、今年から通関部はチーム制になったところ。南里くんは私と一緒に農産チーム、加藤さんは西浦係長とともに畜産チームとなる予定だ。
次は1階下の農産販売部に南里くんを紹介して、あとは水産販売部の佐藤さんにも書類を預けて、今回のお遣いは終わり。
加藤さんと南里くんを連れて、ゆっくりと畜産販売部のブースを後にした。
がちゃり、と音を立てて通関部のフロアを出て、無言でエレベーターホールを抜け、階段への扉を開く。
「日中はエレベーター使うよりも螺旋階段を使う方が早いの。上の総務部に用がある時とか、今日みたいに下の農産販売部と水産販売部に用がある時はこっちがおすすめよ」
ギィ、と、蝶番が軋む音を聴きながら、南里くんと加藤さんを螺旋階段へ誘う。南里くんの革靴の音と、私と加藤さんのヒールの音が軽快に響いていく中、南里くんが私を振り返った。
「一瀬さん。この前の……片桐さんと、三木さん。何があったんですか?」
「え?」
思わぬ質問に目を瞬かせ、数段下にいる南里くんと視線が並行に交わった。
「いや。さっき、あの小林さんが言ってましたよね、片桐さんみたいな人でない人が三木さんの好みなんじゃないかって」
南里くんの声のトーンが低くなって、くりくりした瞳がすっと鈍く光る。その視線に、一瞬、背筋が冷える感覚があって。息が詰まった。
(……なんだろう、今の感覚)
まるで、あのヘーゼル色の瞳に射抜かれた時のようだ。ぞわり、と、訳のわからない恐怖感が足元を這いずっている。
「………片桐係長、ね。あんな飄々とした人だけれど、一応、係長っていう立場なの。南里くん、そこは弁えて」
迫ってくるような恐怖感を振り払うように軽く身動ぎをして、南里くんを鋭く窘める。
「あの人と、私が色々とトラブったの。それで三木ちゃんは私の味方についてくれた。だから結果的に片桐係長のことが嫌いなんだと思うわ?」
ゆっくりと。諭すように。そうして、これ以上トラブルを引き起こすようなら、私は南里くんの味方をしない、と、言外に突き付ける。
南里くんがじっと考え込むように目を瞬かせた。そうして、ふい、と、私から視線を外して。
「……肝に銘じます」
ぽつり、と呟いて、南里くんがふたたび階段を下っていった。その様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
これできっと、彼も少しは思い直してくれるだろう。そう考えて手すりにつかまりながら、階段を下っていった。
シックな色の壁紙の廊下を歩き、農産販売部のブースに繋がる扉の前に立つ。扉横のセキュリティに社員証を翳して扉を開こうとした瞬間、カチャリ、と扉を開く音がして、驚いて身体が竦んだ。
「わ……!?」
扉から出て来た人の、久しぶりに聞くねっとりしたその声に、ふわり、と香るシトラスの香り。思いもよらない人物ふたりと鉢合わせたのだということを理解して、思考が一瞬停止する。
その人の隣に立っている、さっき脳裏に浮かんだヘーゼル色の瞳が。今にも零れ落ちそうに見開かれて私を見ていた。
「あれ、知香ちゃん?びっくりした~」
驚いたような顔から、一瞬でへにゃりと人懐っこい笑みに変わる。そうして、片桐さんが仕事用の穏やかな声色で隣の人に語りかけた。
「先ほどお話しした弊社通関部、農産担当の一瀬です。御社にもご挨拶に伺ったんですよね」
目の前にある面長の細い瞳と視線が交差する。
「あぁ、あ、はい。そうです、ね」
黒川さんが、オドオドしたような声色で、忙しなく私と片桐さんを見比べている。その様子に、あの喫茶店での横柄な態度とまるで二重人格のように別人だ、と感じながら、にこりと営業スマイルを貼り付けた。
きっと片桐さんは、黒川さんと商談中だったのだろう。黒川さんは三井商社の農産チームだ。うちの農産販売部に出入りしていてもおかしくはないと気がつき、ゆっくりと呼吸をする。
商談後は相手の帰りを見送るのが営業マンの務めでもあるから、そのタイミングと被ったのだ、と理解して。
「黒川さん、ご無沙汰しております。改めて、今後ともよろしくお願いいたしますね」
智を引き摺り下ろそうとしている貴方なんかには負けない。自分の視線にそんな意志を込め、それでもなお営業スマイルを顔に貼り付けて、目の前の細い瞳を見据えた。
す、と。その細い目が、あの喫茶店で感じた値踏みされているような視線に、一瞬だけ変わる。その瞳を睨めつけるように見上げたあと。
「では……失礼します」
黒川さんが、私から視線を外さないまま、頭を下げてすっと私の横を通り過ぎていった。その行動に、ほう、と小さく息を吐く。
どんな手段で、黒川さんが智を引き摺り下ろそうとしてくるのかわからない。けれど、私は黒川さんのいいようにされるつもりはない。
「……びっくりしたよ、知香ちゃん。どうしたの?」
そう心の中で呟いていると、へにゃり、と。片桐さんが私に笑いかけた。
業務上、片桐さんと接触するのは仕方ないこと。だけれど、業務以外のことで会話を続ける気はない。そう言わんばかりにピシャリと声をあげた。
「税関から預かった資料がありまして。田邉部長から、各販売部にも持っていくように言付かっています。木村さんいらっしゃいますか?」
「木村さん?今日は午後から外出してるよ?」
私の冷えた声色に「相変わらずつれないな」と、苦笑しながら片桐さんが口を開く。
「そうでしたか。田邉部長は各販売部と通関部の合同で稟議を起案したいそうなので、木村さんのデスクに置いていただきたいのですが」
そう口にしながら、すっと手に持ったクリアファイルを片桐さんに差し出す。片桐さんが、その資料の表紙をに目を落として、訝しむように眉を動かした。
「一応、確認しておきたいんだけど。どういう内容?」
片桐さんは係長だ。立場上、今回のような内容は極力把握しておきたいと考えているのだろう、と気がついて、ざっくりとした概要を口にする。
「……あの大規模テロをきっかけに出来た国際的な取り組みだそうです。認証を受けると通関処理が一部簡素化されます」
片桐さんが、じっと。私が手渡したその資料を見つめている。
そうして、小さく。ヘーゼル色の瞳を細めながら、吐息を漏らして、小さく呟いた。
「Why can't I move on, while the world has let it go to move on forward?」
「……え?」
片桐さんの唇から紡がれた、誰に伝えるでもないような、そんな小さな声。
そしてその声色は、ひどく……やるせなさが滲んだ、哀しい色を孕んでいた。
私は仕事柄、ビジネスシーンでの日常会話レベルの英語しか使えない。だから、今、発された英語が何を意味するのか、さっぱりわからなかった。
どうしたんですか、と、聞き返そうとした瞬間、片桐さんが纏うオーラが、やるせなさが滲むようなものからいつものような飄々としたものに変わって。
「木村さんに渡しておけばいいんだよね?預かっておくよ」
へにゃり、と。ふたたび、片桐さんが笑う。瞬時に切り替わった表情に呆気に取られていると、ふわり、と、長い黒髪がたなびいて。
私の後ろに立っていたはずの加藤さんが、片桐さんのスーツの裾を力強く掴んだ。
「That person would have wanted you to be happier than anyone. You are alive right now, so you can step forward.」
加藤さんがとても流暢な英語で、片桐さんに語りかけた。その言葉を受けて、ヘーゼル色の瞳が大きく揺れる。
ふるふると。本当はマーガレットさんが好きなくせに、と、突き付けたあの瞬間のように。片桐さんの瞳が、揺れ動いている。
そうして、片桐さんの声が、一気に低くなった。
「……What do you know?」
その言葉だけは、私でも、聞き取れた。
片桐さんが、加藤さんに視線を合わせて。低く、低く問いかける。その低く鋭い声色に、片桐さんと直接視線が交わっていない私でさえ、一瞬、圧倒された。
何が起きているのか、ふたりの間でどういう会話が飛び交ったのか、よくわからなかった。
けれど、片桐さんが呟いた哀しい独り言に、加藤さんが励ましの一言を伝えて。その言葉が、片桐さんの逆鱗に触れた、ということは、なんとなく理解した。
片桐さんが冷たい瞳をしたまま、加藤さんの手を勢いよく振り払っていく。そうして。
「……木村さんにはきちんと渡すから」
―――私を見ているのに、私を見ていない、あの瞳で。私をじっと見つめて、ぽつりと呟いた。
片桐さんは私の真横を通って、廊下を歩いて。廊下の角に設置してある、喫煙ルームの扉を押し開いていった。
「……加藤、さん?」
片桐さんに腕を振り払われた加藤さんが心配で、ゆっくりと声をかける。
「………私と、同じなんでしょうね、あの方は。綺麗な思い出から、一歩も、動けていない」
加藤さんは、二重の大きな瞳を切なげに細め、今にも泣き出しそうな顔をして。
声を震わせながら、喫煙ルームの扉を。
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