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本編・第三部
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およそ3ヶ月半ぶりに聴く、チリチリと鳴る軽いベルの音。ブラウンの扉を開くと、相変わらず眩いほどの白い壁紙の店内に、銀の光を湛えた大きな焙煎機。
三木ちゃんを送り届けた後、コーヒー豆が無いからと智が口にして、久しぶりに行ってみようかと提案してくれた。今日は特にすることも無かったから、その提案に乗っかることにした。
「おお、さとっちゃん」
店内の奥で豆が入った麻袋を開封してコンテナボックスに分別作業しているマスターが、入り口の方に顔を向けて目尻を下げつつ笑顔を向けてくれた。白髪混じりの髪に、深いグリーンのベレー帽。黒いエプロンには以前と変わらずたくさんのボールペンが刺さっている。
「知香ちゃんも。マサのお母さんの葬儀の時以来だな」
「はい。ご無沙汰しています」
マスターのその声にぺこり、と、頭をさげる。片桐さんもここの常連らしいから、この店にはしばらく近づくなと智に言われていた。だから、こうしてこの店に足を運ぶのは久しぶりだ。そんなことを言われたな、と思い出しながら、店内のカウンター席にふたりでゆっくりと腰を下ろしていく。
「今日は?飲んでくか?」
マスターが豆の袋を店に奥に仕舞ってカウンターに入った。カチャカチャとドリップポットを手に取って、私たちに視線を向ける。
「ん、久し振りだし、そうする」
智がこくりと頷いて、手に持った車の鍵を弄び始めた。そうして、思い出したかのように声を上げる。
「あ、そうだ。知香がハンドドリップの練習を始めた」
「そうなのか!ハンドドリップ、奥が深いだろう?」
マスターがひどく面白そうに琥珀色の瞳を細めた。その言葉に、そうですね、と頷いて。
「毎日簡単そうに淹れている姿を見ていたので、私も出来るかなって思って軽い気持ちで取り掛かったのですが、思っていたより奥が深くてびっくりしました」
苦笑しながらマスターに視線を合わせた。私のその言葉に、マスターがにやりと笑みを浮かべて。
「こいつは大学時代からだからな、ハンドドリップ歴10年近くだ。簡単に淹れているように見えて当然だ。ま、腕は俺には及ばないだろうが」
マスターは右で拳を作って親指を外に出し、くいっと親指だけを智に向けた。その仕草に、智が呆れたように眉を顰めて声をあげる。
「本職のマスターと素人の俺を比べることが間違ってるんだっつの。同じ豆でもマスターが淹れると舌触りが全然ちげぇ」
「お、負けず嫌いのお前がそんなこと口にするなんて珍しいな?明日槍でも降るんじゃねぇか」
面白そうに、それでいて楽しそうに声をあげたマスター。穏やかそうな目元に皺が寄っている。
確かに、智は負けず嫌いな面があると思う。だからこそ営業マンとして営業成績をあげて来られたのだろうし、私もそこは同じ。捨てられた女で終わりたくないと思ったから総合職に転換した。……私たちの出会いは偶然だったのかもしれないけれど、似た者同士だからこそ、ここまで強く惹かれあったのだろうと改めて感じる。
「初めてこの店に来た時のこいつ、俺に敵対心丸出しでさ?『絶対お前より上手くなってやる』って目をして俺のこと観察してやがったんだ」
カチャカチャとドリッパーやドリップペーパーの準備しながら、愉しそうに言葉を紡いでいくマスターの一言に、ふふ、と頬が緩む。
「………なんか、想像できるかも」
口ではそんなことは微塵も出さないけれど、それでもきっと、そのダークブラウンの瞳にメラメラと対抗心に近い焔を宿しながらマスターの作業を観察していたのだろう。
「……るっせぇ。ほんとそーゆーの要らねぇから。マスターってさ、昔よりもお喋りになったよな」
智がカウンターに片肘をついてほんの少し顔を赤らめながら悪態をついていく。その様子にも、思わず笑みがこぼれた。
「俺もお前も、10年っつぅ時を経て丸くなったってこったな」
ふぅ、と、マスターが大きく息を吐いて、蛇口を捻ってケトルに水を注いでいく。そうして、その琥珀色の瞳を眩しそうに細めて私たちに向き直る。
「今日は何飲んでいくか?オススメは入荷したてのマンデリン。オナンガンジャンだ」
マスターのその声に戸棚に並べられた寸胴なガラス瓶に視線を向けた智に倣って、私も視線を戸棚に向ける。
「……味のことまで書くようにしたのか、マスター」
智が驚いたようにふっと息を漏らす。
黒々とした艶のあるコーヒー豆が詰められた瓶に、ラベルシールで『オナンガンジャン』とラベルが貼ってある。その下に、マスターの几帳面そうな字で『ハーブやスパイスのニュアンスに加えて、柑橘の酸やメロンのような甘みが実に印象的。複雑な味わいで刺さるひとには徹底的に刺さる味』というメモがマスキングテープで固定してあった。
智の言葉に、マスターがにやりと口の端を歪ませて、愉しそうな笑顔を見せた。
「ん、妹のアドバイスだ。『一見さんでもわかりやすくしてあげたら?こんな髭面のおっさんにどんな味か声かけようなんて、うちの邨上みたいに人懐っこいタイプばかりじゃないのよ。それくらい配慮しなさいよ』だと」
さすがは兄弟だ。マスターが池野さんっぽい声色で声真似をしていく。妙にそっくりなその声に、ぷっと思わず笑いが漏れる。
智はマスターの言葉を受けて、不服そうな表情でふたたび片肘をついた。
「あの人、俺を引き合いに出しすぎだろう。別に俺そこまで人懐っこいわけじゃねぇと思うけど」
なんか納得いかねぇ、と智が呟いて、ダークブラウンの瞳を細めた。
「あいつは殊の外お前のこと気にかけてっからなぁ。自分に似てっからお前のことほっとけねぇんだろ」
「……」
マスターが甲高い音を響かせ始めたケトルの電源を落としながら、「オナンガンジャンにするか?」と声をあげた。その声に、黙ったままの智がこくりと頷く。そうして、コポコポとコーヒーが淹れられていく様子を、私もじっと観察する。
(……なるほど。身体の使い方も関係しているんだ)
お湯を注ぐとき、常に同じペースを保つように智にアドバイスされた。マスターは今、コーヒーポットを持っていない手を背中に回している。
智の場合は反対の手をキッチンのワークトップに置いて身体を支えるように立っていた。初めてコーヒーを淹れる指南を受けた時、様になっていた智のその姿にうっかり見惚れてしまっていたけれど。そういう身体の使い方も、美味しく淹れるためのひとつだったということなのだろう。その事実に気がついて、結局世の中には無駄なことはないのだな、と、ぼんやり考えた。
「はい、おまちどうさん」
コトリ、と音を立てて目の前にコーヒーカップが差し出される。ほわん、と、濃厚な完熟フルーツのような薫りが漂った。口をつけると、ヨーグルトのような発酵感もあって、酸味と苦みのバランスが絶妙。飲み下したあとに喉に残る、ハーブのような…なんともエキゾチックな味わいが癖になる。
「……前に飲んだケニアより好きかもしれない」
ほう、と、口の中に残る余韻を楽しみながら私が呟くと、智がふっと笑い声をあげて。
「マスター、じゃ、これ豆で200ちょうだい」
智は私が好きだと言ったものを躊躇いなく買っていく。俺が作ったものを幸せそうに食べてくれる知香が好きなんだ、と、嬉しそうに言われたのはいつの事だったかなぁ、とぼんやりと思い出していると、入り口のベルが軽い音を立てて誰かが入店したことを知らせる。
ふわり、と、シトラスの香りが漂った。昨日振りに嗅ぐその香りに嫌な予感がして。ぎこちない動きで入口を確認すると、案の定、ヘーゼル色の瞳と視線がかち合い、身体が硬直する。
「………わ~ぉ。ほ~んと、俺と知香ちゃんって運命で結ばれているんじゃないの?スゴイね、先週も桜の下で偶然会ったよね~ぇ?」
驚いた表情が瞬時に切り替わり、へにゃり、と、片桐さんが人懐っこい笑みを浮かべた。この場の空気が一気に固まる。
「………知香。帰るぞ」
智が感情を押さえた声色で低く言葉を発した。コーヒーカップに残ったコーヒーを一気に呷って智が黒い椅子から勢いよく立ち上がる。その声に、こくりと頷いて、私も同じように席を立った。すると、片桐さんが困ったように眉を歪ませて苦笑いを浮かべる。
「別に帰らなくていいよ?俺、今日は飲むつもりで来たわけじゃないからさ?」
そう口にして、くすりと笑い声を上げる。そのまま長い脚を捌きながらカウンターに近づき、手に持った白い紙袋をカウンターに置いた。
「……マスター。母の葬儀の時はありがとうございました」
片桐さんが、ぺこり、と頭を下げた。明るい髪色がふわりと揺れる。片桐さんが頭を戻して、真っ直ぐにマスターを見つめる。
「召天記念日が来週なんだけど、俺、4月1日付けで異動になってて。来週から忙しくなりそうでここには立ち寄れないかなって思ったから。ちょっと早いけど、仏式で言うところの香典返し」
マスターが、ちらりと智に視線を合わせる。会計は少し待っててくれ、という意味だろうと察して、立ち上がった椅子に、すとん、と腰を降ろした。
「そうか。逆に気を遣わせちまってすまねぇな、マサ。忙しくなるって、何かあんのか?」
マスターが、ありがとうという風に頭を下げ、カウンターに置かれた紙袋に手をかけた。マスターのその問いに、うん、と片桐さんが言葉を続ける。
「農産品の販売に携わることになったんだけど、来月、国の主催のシンポジウムがあるんだって。それに出ろって言われてさぁ?上司が細々としたことを指導してくれるってことで、色々お勉強しなきゃいけなくなっちゃった」
困ったように肩を竦める片桐さんの言葉に息を飲んだ。
それって、もしかしなくても。さっき田邊部長から自分の代わりに出席してくれといわれたシンポジウムのことなのでは。確かに、田邉部長は極東商社の農産販売部からも数名出席すると言っていた。
さぁっと血の気が引いていく。
「……マスター、忙しいところ悪いが、会計頼む」
智が苛立ったようにマスターと片桐さんの会話に割って入った。きっと、智も私が出席するはずのシンポジウムに片桐さんも来る、と勘付いたはずだ。
マスターが智の表情をちらりとみて苦笑する。告げられた金額を精算して、片桐さんの後ろを足早に通って入口のドアを開ける。
「またね、知香ちゃん、智くん」
へにゃり、と。いつもの飄々とした雰囲気で、片桐さんが笑った声が、耳に残った。
三木ちゃんを送り届けた後、コーヒー豆が無いからと智が口にして、久しぶりに行ってみようかと提案してくれた。今日は特にすることも無かったから、その提案に乗っかることにした。
「おお、さとっちゃん」
店内の奥で豆が入った麻袋を開封してコンテナボックスに分別作業しているマスターが、入り口の方に顔を向けて目尻を下げつつ笑顔を向けてくれた。白髪混じりの髪に、深いグリーンのベレー帽。黒いエプロンには以前と変わらずたくさんのボールペンが刺さっている。
「知香ちゃんも。マサのお母さんの葬儀の時以来だな」
「はい。ご無沙汰しています」
マスターのその声にぺこり、と、頭をさげる。片桐さんもここの常連らしいから、この店にはしばらく近づくなと智に言われていた。だから、こうしてこの店に足を運ぶのは久しぶりだ。そんなことを言われたな、と思い出しながら、店内のカウンター席にふたりでゆっくりと腰を下ろしていく。
「今日は?飲んでくか?」
マスターが豆の袋を店に奥に仕舞ってカウンターに入った。カチャカチャとドリップポットを手に取って、私たちに視線を向ける。
「ん、久し振りだし、そうする」
智がこくりと頷いて、手に持った車の鍵を弄び始めた。そうして、思い出したかのように声を上げる。
「あ、そうだ。知香がハンドドリップの練習を始めた」
「そうなのか!ハンドドリップ、奥が深いだろう?」
マスターがひどく面白そうに琥珀色の瞳を細めた。その言葉に、そうですね、と頷いて。
「毎日簡単そうに淹れている姿を見ていたので、私も出来るかなって思って軽い気持ちで取り掛かったのですが、思っていたより奥が深くてびっくりしました」
苦笑しながらマスターに視線を合わせた。私のその言葉に、マスターがにやりと笑みを浮かべて。
「こいつは大学時代からだからな、ハンドドリップ歴10年近くだ。簡単に淹れているように見えて当然だ。ま、腕は俺には及ばないだろうが」
マスターは右で拳を作って親指を外に出し、くいっと親指だけを智に向けた。その仕草に、智が呆れたように眉を顰めて声をあげる。
「本職のマスターと素人の俺を比べることが間違ってるんだっつの。同じ豆でもマスターが淹れると舌触りが全然ちげぇ」
「お、負けず嫌いのお前がそんなこと口にするなんて珍しいな?明日槍でも降るんじゃねぇか」
面白そうに、それでいて楽しそうに声をあげたマスター。穏やかそうな目元に皺が寄っている。
確かに、智は負けず嫌いな面があると思う。だからこそ営業マンとして営業成績をあげて来られたのだろうし、私もそこは同じ。捨てられた女で終わりたくないと思ったから総合職に転換した。……私たちの出会いは偶然だったのかもしれないけれど、似た者同士だからこそ、ここまで強く惹かれあったのだろうと改めて感じる。
「初めてこの店に来た時のこいつ、俺に敵対心丸出しでさ?『絶対お前より上手くなってやる』って目をして俺のこと観察してやがったんだ」
カチャカチャとドリッパーやドリップペーパーの準備しながら、愉しそうに言葉を紡いでいくマスターの一言に、ふふ、と頬が緩む。
「………なんか、想像できるかも」
口ではそんなことは微塵も出さないけれど、それでもきっと、そのダークブラウンの瞳にメラメラと対抗心に近い焔を宿しながらマスターの作業を観察していたのだろう。
「……るっせぇ。ほんとそーゆーの要らねぇから。マスターってさ、昔よりもお喋りになったよな」
智がカウンターに片肘をついてほんの少し顔を赤らめながら悪態をついていく。その様子にも、思わず笑みがこぼれた。
「俺もお前も、10年っつぅ時を経て丸くなったってこったな」
ふぅ、と、マスターが大きく息を吐いて、蛇口を捻ってケトルに水を注いでいく。そうして、その琥珀色の瞳を眩しそうに細めて私たちに向き直る。
「今日は何飲んでいくか?オススメは入荷したてのマンデリン。オナンガンジャンだ」
マスターのその声に戸棚に並べられた寸胴なガラス瓶に視線を向けた智に倣って、私も視線を戸棚に向ける。
「……味のことまで書くようにしたのか、マスター」
智が驚いたようにふっと息を漏らす。
黒々とした艶のあるコーヒー豆が詰められた瓶に、ラベルシールで『オナンガンジャン』とラベルが貼ってある。その下に、マスターの几帳面そうな字で『ハーブやスパイスのニュアンスに加えて、柑橘の酸やメロンのような甘みが実に印象的。複雑な味わいで刺さるひとには徹底的に刺さる味』というメモがマスキングテープで固定してあった。
智の言葉に、マスターがにやりと口の端を歪ませて、愉しそうな笑顔を見せた。
「ん、妹のアドバイスだ。『一見さんでもわかりやすくしてあげたら?こんな髭面のおっさんにどんな味か声かけようなんて、うちの邨上みたいに人懐っこいタイプばかりじゃないのよ。それくらい配慮しなさいよ』だと」
さすがは兄弟だ。マスターが池野さんっぽい声色で声真似をしていく。妙にそっくりなその声に、ぷっと思わず笑いが漏れる。
智はマスターの言葉を受けて、不服そうな表情でふたたび片肘をついた。
「あの人、俺を引き合いに出しすぎだろう。別に俺そこまで人懐っこいわけじゃねぇと思うけど」
なんか納得いかねぇ、と智が呟いて、ダークブラウンの瞳を細めた。
「あいつは殊の外お前のこと気にかけてっからなぁ。自分に似てっからお前のことほっとけねぇんだろ」
「……」
マスターが甲高い音を響かせ始めたケトルの電源を落としながら、「オナンガンジャンにするか?」と声をあげた。その声に、黙ったままの智がこくりと頷く。そうして、コポコポとコーヒーが淹れられていく様子を、私もじっと観察する。
(……なるほど。身体の使い方も関係しているんだ)
お湯を注ぐとき、常に同じペースを保つように智にアドバイスされた。マスターは今、コーヒーポットを持っていない手を背中に回している。
智の場合は反対の手をキッチンのワークトップに置いて身体を支えるように立っていた。初めてコーヒーを淹れる指南を受けた時、様になっていた智のその姿にうっかり見惚れてしまっていたけれど。そういう身体の使い方も、美味しく淹れるためのひとつだったということなのだろう。その事実に気がついて、結局世の中には無駄なことはないのだな、と、ぼんやり考えた。
「はい、おまちどうさん」
コトリ、と音を立てて目の前にコーヒーカップが差し出される。ほわん、と、濃厚な完熟フルーツのような薫りが漂った。口をつけると、ヨーグルトのような発酵感もあって、酸味と苦みのバランスが絶妙。飲み下したあとに喉に残る、ハーブのような…なんともエキゾチックな味わいが癖になる。
「……前に飲んだケニアより好きかもしれない」
ほう、と、口の中に残る余韻を楽しみながら私が呟くと、智がふっと笑い声をあげて。
「マスター、じゃ、これ豆で200ちょうだい」
智は私が好きだと言ったものを躊躇いなく買っていく。俺が作ったものを幸せそうに食べてくれる知香が好きなんだ、と、嬉しそうに言われたのはいつの事だったかなぁ、とぼんやりと思い出していると、入り口のベルが軽い音を立てて誰かが入店したことを知らせる。
ふわり、と、シトラスの香りが漂った。昨日振りに嗅ぐその香りに嫌な予感がして。ぎこちない動きで入口を確認すると、案の定、ヘーゼル色の瞳と視線がかち合い、身体が硬直する。
「………わ~ぉ。ほ~んと、俺と知香ちゃんって運命で結ばれているんじゃないの?スゴイね、先週も桜の下で偶然会ったよね~ぇ?」
驚いた表情が瞬時に切り替わり、へにゃり、と、片桐さんが人懐っこい笑みを浮かべた。この場の空気が一気に固まる。
「………知香。帰るぞ」
智が感情を押さえた声色で低く言葉を発した。コーヒーカップに残ったコーヒーを一気に呷って智が黒い椅子から勢いよく立ち上がる。その声に、こくりと頷いて、私も同じように席を立った。すると、片桐さんが困ったように眉を歪ませて苦笑いを浮かべる。
「別に帰らなくていいよ?俺、今日は飲むつもりで来たわけじゃないからさ?」
そう口にして、くすりと笑い声を上げる。そのまま長い脚を捌きながらカウンターに近づき、手に持った白い紙袋をカウンターに置いた。
「……マスター。母の葬儀の時はありがとうございました」
片桐さんが、ぺこり、と頭を下げた。明るい髪色がふわりと揺れる。片桐さんが頭を戻して、真っ直ぐにマスターを見つめる。
「召天記念日が来週なんだけど、俺、4月1日付けで異動になってて。来週から忙しくなりそうでここには立ち寄れないかなって思ったから。ちょっと早いけど、仏式で言うところの香典返し」
マスターが、ちらりと智に視線を合わせる。会計は少し待っててくれ、という意味だろうと察して、立ち上がった椅子に、すとん、と腰を降ろした。
「そうか。逆に気を遣わせちまってすまねぇな、マサ。忙しくなるって、何かあんのか?」
マスターが、ありがとうという風に頭を下げ、カウンターに置かれた紙袋に手をかけた。マスターのその問いに、うん、と片桐さんが言葉を続ける。
「農産品の販売に携わることになったんだけど、来月、国の主催のシンポジウムがあるんだって。それに出ろって言われてさぁ?上司が細々としたことを指導してくれるってことで、色々お勉強しなきゃいけなくなっちゃった」
困ったように肩を竦める片桐さんの言葉に息を飲んだ。
それって、もしかしなくても。さっき田邊部長から自分の代わりに出席してくれといわれたシンポジウムのことなのでは。確かに、田邉部長は極東商社の農産販売部からも数名出席すると言っていた。
さぁっと血の気が引いていく。
「……マスター、忙しいところ悪いが、会計頼む」
智が苛立ったようにマスターと片桐さんの会話に割って入った。きっと、智も私が出席するはずのシンポジウムに片桐さんも来る、と勘付いたはずだ。
マスターが智の表情をちらりとみて苦笑する。告げられた金額を精算して、片桐さんの後ろを足早に通って入口のドアを開ける。
「またね、知香ちゃん、智くん」
へにゃり、と。いつもの飄々とした雰囲気で、片桐さんが笑った声が、耳に残った。
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