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本編・第三部

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 西日が差し込む歩道を、車を停めたコインパーキングまでふたりでゆっくりと歩いていく。

 プライベートで片桐さんとふたたび遭遇することになるなんて、思ってもいなかった。しかも、田邉部長の代わりに出席することになっていたシンポジウム、そしてその後に開かれる交流会にも片桐さんが参加することになるなんて。誰が予想出来ただろう。

 無言の何とも言えない時間が過ぎて、思わず小さくため息を吐いた。

「ねぇ、智。……私、会社辞めようと思う」

「は……?」

 私の言葉に、智が驚いて立ち止まった。少し冷えた風が私たちの間を吹き抜けていく。

 なにも突然思いついたことじゃない。先週からチラチラと考えていたことだった。踏ん切りがつかなくて、今まで口には出来なかったけれど。

 ついに言葉にしてしまった、という、言いようのない感情が込み上げて、思わず視線を足元に落とす。

 私が極東商社に在籍しているからこそ片桐さんとも黒川さんとも繋がりが断ち切れない。この現状を打破するなら、私が極東商社を退職してしまうのが一番だ。

 智はいつだって、私がそうしたいと思ったことを尊重してくれる。昨晩だって、私に主導権を握らせてくれた。それを自分でもわかっていてこんな形で利用するのはとてもずるいということもしっかりわかっている。

 南里くんの教育もある。田邉部長に推して貰って主任にも昇進した。通関部の仕事が嫌いなわけではない。

 でも。

「色々考えたけど、これが一番だと思う。今、通関部は人がいないから、すぐに辞めれるわけじゃないと思うけれど……少なくとも、秋くらいには、」

「ダメ。ぜってぇ許さねぇ」

「え」

 私の言葉を遮るように智の声が響く。私がしたい、と思ったことを否定されるとは思っていなくて。思わず息を飲んで顔を上げた。

「知香は通関部の仕事が好きなんだろ?好きな仕事が出来るっつぅ幸せを自分からみすみす捨てようとしてんじゃねぇ」

 智の怒ったような声が響く。ぐっと、両腕を掴まれて、智が腰を曲げて視線を落とした。ダークブラウンの瞳が私の視線と平行な位置にあって。

 そうして紡がれた言葉は、私には到底思いつきもしない発想だった。

「世の中、自分が心から好きだと思える仕事が出来ている人間ってどれくらいいると思う?1割もいねぇよ。普通の人間は、生活のために仕事をしているんだ。やりたくもない仕事だったとして、それでも生きていかなきゃいけねぇから、何があっても踏ん張って生きてる」

「……あ…」

「俺は料理が好きだが、料理人になろうと思ったことはねぇ。それを仕事にすると、楽しくなくなるから。料理は好きだが、好きな料理を好きに作りたい、っつうのが、近いのかもしれねぇ。料理を仕事にしちまえば、好きじゃない料理だって作らなきゃいけねぇし、儲けるために原価率や回転率も考えなきゃいけねぇだろ?そうなったら、俺は料理が嫌いになっちまうと思う」

 すごく深いな、と思った。好きなことを仕事にできている人って、一体この世の中にどれくらいいるんだろう。好きだからこそ、嫌いになってしまうことも、あるのだと思うから。

 そうして、智が私を諭すように声を和らげた。

「知香がいつだって俺のことを第一に考えてくれているのはわかってる。それはありがてぇと思ってるよ。でも、好きな仕事を嫌いになることなく、そこに関われている幸せ、っつうのを、よくよく考えて欲しいんだ。……俺は知香にやりたい仕事、好きな仕事を我慢してまで無理にそういう決断をして欲しいわけじゃねぇ。それを望んでもいねぇ。だから俺は……今の仕事を辞めるのは、反対」

「……」

 黙りこくった私の腕を掴んでいる智の手に再度力が入る。

「あの夜、知香が異動願い出すって言ったのを肯定したのは、それが知香のステップアップに繋がると思ったからだ。三井商社うちもそうだが、総合職は定期的な異動がある。知香だっていつかは異動する時がくるだろう。だから、いつの日か通関部に戻った時に更に活躍出来るように、異動先で営業の力をつけてくれたらと思っていた。……今極東商社を辞めることは、知香にとってステップアップになるのか?必ず同業企業に転職できるのか?」

 極東商社じゃなくても、通関の仕事は出来る。初めは同業他社の求人を探そうと思っていた。だけど、中途入社は即戦力が求められる。貿易業務が未経験の片桐さんが中途入社出来たのも、英語が出来るから即戦力になり得る、と判断された故の出来事。

 実務に携わっていたとはいえ、3年間という短い期間で、しかも半分以上は一般職として通関業務のなかの事務作業しかやってこなかった。転職したとして、同種の乙仲企業への再就職は難しいだろう。現状で求人が出ている企業での一般事務として……と考えていたから、智のその言葉が思った以上に私の心に刺さった。

「主任昇進、っつう評価もしてもらってる。そこに後ろ足で砂をかけるのか?」

 ダークブラウンの瞳が、私を心配するようにじっと見つめている。


 好きな事を仕事に出来ている幸せ。

 がむしゃらに働こうと決意し希望に満ちあふれて新卒で入った会社なのに、自分が思っていたイメージと大きくかけ離れているなんてことも大いにあっただろう。大学の同期の中で、新卒で入社した会社を入社して間もなく辞めている子たちも数人知っている。

 幸い私はそういうこともなく、初めて配属された通関部の仕事がとても面白くて、1年目2年目で失敗して挫けそうになっても、辞めようとは思わなかった。それはやっぱり、この仕事が好きだと感じていたからだろう。


 何より、三木ちゃんや水野課長、田邉部長……そして、小林くんと一緒に仕事が出来ていた極東商社通関部この環境のことが、好きなんだ、と。改めてそう感じた。


 それを気が付かせてくれたのは、紛れもなく目の前にいる智だ。


 じん、と、込み上げる何かを振り払うように、じっとダークブラウンの瞳を見つめて。

「……うん。そうだね。……馬鹿なことしそうになって、ごめん。叱ってくれてありがとう」

 ぺこり、と、首だけを動かして頭を下げた。掴まれていた腕にぎゅっと力が入って。

「んーん。俺が馬鹿なことしそうになった時は知香が叱ってくれな。これからも、お互いに補っていこう、な?」

 ふわり、と。目の前の智が、やわらかく微笑んだ。その笑みに、私もゆっくりと笑みを返す。

「うん。そうだね。欠けた部分を埋めるんじゃなくて……補っていこう。ふたりで、これからもずっと」

 お互いに視線が交わって。ふふ、と、声をあげ、どちらからとなく手を絡める。



 桜の花びらが舞い散る中を、コインパーキングに向かって。お互いを補うように。ぴとり、と、身体を寄せあった。









 帰宅すると、太陽が半分くらい地平線に隠れてしまっていた。慌ててベランダに出している洗濯物を取り込んでいく。腕の中に洗濯物を抱えて、リビングに敷いてあるラグの上にぺたんと座り込んだ。

 ついさっき、智に言われた事を頭の中で反芻する。


 私は多分、というか絶対に幸せな部類の人間だ。

 好きな仕事が出来ている。そうして、心から好きな人と、一緒の時間を過ごせている。愛し愛されて、満たされた生活を送れている。


 ただただ漠然と。何かに満たされたいと思っていた。それはきっと、自分のことで精一杯だったから。
 今は何もかもが満たされている。それはきっと、余計な事を考えずに、前向きに未来へ向かって歩んでいけているから、だろう。

 智が私を私として見てくれているから。この人となら、隣で一緒に歩いていける、と感じているから。
 先に歩んで、手を引っ張られるのでもなく、きちんと、隣で。私の歩幅に合わせて歩んでくれている、と……実感しているから、だろう。


 そんなことを考えをしながら洗濯物を畳んでいると、太ももが重たくなった。
 ふい、と視線を落とすと、ちゃっかり智が膝枕をして英会話の本を読んでいた。

「米、炊けるまで。いーだろ?」

 じっと。智が私の顔を見上げている。私が洗濯物を畳んでいる間に手早く夕食の準備を終えてしまったのだろう。待ち時間の間だけ、と、ダークブラウンの瞳が訴えながら、こてんと首を傾げている。断るつもりはないけれど、それでも子どもっぽい智のその仕草に思わず苦笑いが溢れた。

「うん。いいよ」

 私がそう返事をすると、嬉しそうにふっと小さく吐息を漏らして。また英会話の本に視線を向けた。

 イタリア出張の時の日記アプリにも書いてあったけれど、やっぱり英語だけでも話せるようになりたいらしく、独学で勉強を始めたようだった。貪欲に知識を欲しがる智のその向上心に煽られ、私も洗濯物を畳み終えたら通関士のテキストを読もうと決めて、そのまましばらく洗濯物を畳んでいく。

 全て畳み終わって通関士のテキストに手を伸ばそうと、膝の上に視線を落とすと。英会話の本を首元に落として、智は眠り込んでしまっていた。規則的な寝息が小さく聞こえてくる。

(あ………寝ちゃってる)

 今畳んだばかりのバスタオルを手に取って、智の肩からお腹の辺りに広げてかけた。ふふ、と声をあげて、ひとりで小さく笑いながら智の寝顔を眺める。

(ほんと、幸せそうな寝顔してる……)

 起こさないように身体を動かして、しみじみと智の寝顔を見つめた。

 今週はお互いに残業続きで、きっと疲れが蓄積していたのだろう。それなのに、昨晩は私を抱いて、お風呂に入らずに意識を飛ばした私の身体を清めてくれていた。
 メイクまでしっかり落としてくれていたこと、そして今日は送り迎えをしてもらって、しかも三木ちゃんの実家まで送ってもらったことに、改めて申し訳なさが込み上げてくる。

 それでも、私といる日常を幸せだと感じている、と。こうして、無意識の部分でも私に訴えかけてくる。それがひどく、嬉しい。

 ゆっくりと智のサラサラな髪に指を差し入れて、さわさわと頭を撫でる。

「……ん…」

 智が小さく身動ぎをして、声を上げた。起こしたかな、と一瞬不安になり、智の表情を観察する。

「ちか……」

「っ」

 唐突に私の名前を呼ばれて、これは確実に起こしてしまったと罪悪感が込み上げる。それでも、智は目を瞑ったままで。

「……」

 すぅ、と。智が再び規則的な寝息をもらしていく。その様子に、私の事を夢に見ているんだ、と気がついて、顔がかぁっと赤くなる。

(……どんなことを夢に見ているんだろう)

 赤く火照った顔を冷ますように、パタパタと小さく手を振って風を送る。
 ふ、と。智がイタリア出張に出て、帰国する前の日の夜に見た夢を思い出した。

 帰国してから初めて抱かれた時に、どんな夢を見たのかと聞かれた。結局、あの時はイかされるだけイかされて、どんな夢だったのかを伝えられず終いだった。

「あのね、智……私が見た夢はね…」

 ゆっくりと、智の髪を撫でながら。夢の中の智に、小さく小さく語りかけた。

「本当に、他愛もない……いつもの日常の夢だったの。おはようって声を掛け合って、行ってらっしゃいって言い合って、ただいまって言い合って。一緒に晩御飯を食べて、仕事の愚痴聞いてもらって。智に抱き枕にされながら、おやすみって言い合う、ただ、それだけの夢」


 とても、幸せな夢だった。

 ……ううん、夢じゃない。

 本当に起きている、現実のこと。毎日が、幸せ。

 他人から見てみれば、何の変哲もない退屈な日常かもしれない。



 それでも、私にとっては。



「すっごく、幸せなの……」



 ただただ。智と過ごす日々が、幸せ。

 智の穏やかな、幸せそうな寝顔を眺めて。智の顔の輪郭をなぞりながら。


 ゆっくりと。この手の中にある小さくて大きな幸せを、噛み締めた。
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