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本編・第三部
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「んん~!おいし~い!」
リビングのローテーブルに『先付け』として並べられた色とりどりの小鉢。実家の料亭からいろいろ取り寄せた、と三木ちゃんが口にしていたけれど、まさか食材だけでなく食器も取り寄せているとは思わなかった。
静謐の中で次々と小鉢が登場する懐石料理さながらの三木ちゃんの手料理に舌鼓を打つ。
「この器、可愛い……!」
手に持った桜の形をした小鉢。そこには四角く切られた小さな牛乳豆腐に、塩漬けされた桜の花が乗っている。その牛乳豆腐の味もさることながら、その小鉢の儚げな薄紅色に目を奪われた。キッチンに立つ三木ちゃんが私の言葉に満足そうに笑顔を見せる。
「先輩に喜んでもらえてよかった!器も実家から持ってきた甲斐があったというものですっ」
そう言葉を紡いで、ふたたびローテーブルに料理を運んでくる。次に運ばれてきたのは『八寸』にアワビの桜葉揚げ、『先吸い』によもぎ麩のお吸い物。まるできちんとした料亭で出てくる春の懐石料理のようだ。
「器は毎年、ゴールデンウィークに先輩の地元で開かれる陶器市に両親が買い付けに行くんです。ずっと懇意にしている窯元さんがいるんですよ」
「えっ、そうなの?」
ゴールデンウィーク期間中、私の実家の近くで陶器市が開かれている。もしかしてあの陶器市のことだろうか。
三木ちゃんのご家族と思わぬ接点があることを知り、床に膝をついて料理をお盆からテーブルに移している三木ちゃんの顔を見つめた。
「はい!先輩のご実家の近くでやっている陶器市です。あの辺りは皇室御用達の窯元さんも多くて、『こんな感じで』というリクエストも聞いてくれるんですって」
三木ちゃんはにこっと笑顔を向けながら声を弾ませ、ソファに座る私の隣に沈み込んだ。
幼い頃から身近にあった陶器市。こんな風に都会で私の地元が評価されているなんて、知らなかった。今朝方、出張に出る智に『地元は温泉以外何もないところ』なんて言ってしまったけれど、あの発言は撤回すべきだろうか。
(そういえば……家のお皿、全部白で統一してあるけれど、智の趣味なのかな?)
自宅は色のついたお皿はひとつもない。敢えて言うなら、お味噌汁用の朱色の汁椀と、コーヒーを飲むマグカップだけ。その他は、小皿も大皿も、ご飯茶碗も白だ。
(……ゴールデンウィーク、連れて行きたいところ、増えちゃったなぁ)
せっかく実家の近くでそんなに有名な陶器市が開催されるタイミングで帰省するのだ。せっかくだったら、智と一緒に回ってみよう。
でも、そもそも全ての器を白で統一するくらいだから、智なりのこだわりがあるのかもしれないけれど。
最近は私も智も忙しくて。国際空港の近くに桜を見に行って以降、デートらしいデートもしていない。だから、智と一緒にどこかを歩く、と想像するだけで口元が緩んでいく。
すると、三木ちゃんがいたずらっぽい笑みを浮かべて、私に視線を合わせた。
「……先輩。今、ゴールデンウィークに邨上さんとその陶器市に行こうって考えてますよね?」
「っ!?」
思わず口に運んでいたアワビの桜葉揚げを喉につっかえそうになった。どうしてわかったんだろう、という感情が頭の中をぐるぐると回っている。
ゆっくりと耳まで赤くなった私を見て、くすくす、と。三木ちゃんが笑い声をあげた。
「先輩って、邨上さんのことになるとほ~んとわかりやすいですもん。まさに『顔に書いてある』って感じです」
「ええっ、うそっ」
三木ちゃんの言葉に思わず狼狽える。取引先同士の恋愛だから、あの合コンに出席していた三木ちゃんと小林くん以外には悟られないように振る舞ってきたつもりだったのだけれど……!!
「あ、仕事中は別ですよ?正確には、『私と小林の前にいる時の先輩はわかりやすい』って感じですね」
私の焦ったような表情に、三木ちゃんが訂正するように言葉を続けて。そうして、少しだけ儚げな笑顔を見せた。
「でも、こんな可愛い先輩がみれるなんて思ってもみなかったです。先輩には悪いですけど、平山さんが先輩を手放してくれたおかげですねっ」
三木ちゃんのその言葉に、先月の初旬に、グリーンエバー社に見学に行った時に田邉部長から伝えられた言葉が脳裏に蘇った。
『一瀬は、総合職になってから本当に表情豊かになったと思う。ああなって、結果的によかったのではないかと思っているよ』
それ以前の私は、どんなだっただろうか。今となってはハッキリとは思い出せないけれど、三木ちゃんも田邉部長と同じようなことを口にしたことから推測するに。
限られた人たちとしか会話せず、日々淡々と仕事をこなして、淡々とした日常を重ねていたのだろう、と思う。今のように……自分で考えて、得意先に自分から電話をかけて営業して。少なくとも、今日の更衣室でのように、自分が教育をしている三木ちゃんや小林くん以外の社員とも積極的にコミュニケーションを取るような人間ではなかったように思う。
智に出会って、智を愛して。私の世界は一変した。そう、まるで……全ての色を失っていた世界に、色がついたかのように。
凌牙に捨てられたことがきっかけで、合コンに参加する、という話になったのだ。凌牙が私を手放したからこそ、智に出会えた。それは紛れもない事実だけれど。
「……なにより、三木ちゃんがあの時、小林くんに『先輩も参加出来ないのか』って尋ねてくれたおかげよ。本当にありがとう」
手に持ったお箸を置いて、隣に沈み込んでいる三木ちゃんに頭を下げる。その様子に、三木ちゃんが慌てたようにお箸を置いて声をあげた。
「ええっ、違いますって!先輩が努力した結果です!私のおかげだなんて、本当に違いますから!私の方こそ、先輩に感謝してるんです」
「……え?」
三木ちゃんが紡いだ言葉の意味が飲み込めなくて、思わず顔を上げると、膝の上に置いている私の手を三木ちゃんがそっと握った。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が少しだけ翳って、じっと私を見据える。
「先輩が……ホワイトデーの時。『絶対に報われる日がくる、間違ってないと思う』って言ってくださったじゃないですか?あの時期……私は、私が取った行動が間違った行動で、間違った選択だって……本当に悩んでいたんですけれど」
そこまで続けた三木ちゃんが、何かを堪えるように唇を震わせて。そうして、花が綻ぶように……柔らかく、温かい笑みを浮かべた。その笑顔は、思わずハッとするほど、美しくて。
「先輩が背中を押してくれたから。それを貫いて……今は、幸せなんです。だから私の方こそ、ありがとうございます、ですよ?」
そうして、ふふ、と。幸せそうに口元を緩めた。
「先輩に救われたから、私も先輩を助けたいし、先輩の力になりたいんです。だから……あの人のことで力になれることがあれば、なんだってします。あっ、あの人のことだけじゃなくて、邨上さんと喧嘩したりしたら今回みたいにうちに泊まりに来てくださって全然構いませんから!」
三木ちゃんの優しさが胸にしみた。三木ちゃんに握られた手を、私もきゅっと握り返す。
「私もそう。三木ちゃんの力になりたいと思っているわ?だから、三木ちゃんも……私にできることがあったら、なんでも言ってね?」
早出を交代することや、それ以外でも。私にできることなら、なんだって力になってあげたい。
お互いに視線が交差して。同じ気持ちなのだと理解して、私たちはくすくすと笑い合った。
夕食を終えて、キッチンを借りてコーヒーを淹れていく。
懐石料理の後にコーヒーは合わないだろうから明日の朝にでも言ったけれど、三木ちゃんが期待に満ちた表情で「飲みたいです!」…と主張してきたのもあって。あんな豪勢な料理の後に練習中のコーヒーを淹れるということに気後れはするけれども、三木ちゃんの頼みだから。
ゆっくりとドリッパーにお湯を注いでいくと、ほわん、と、コーヒーの良い香りが部屋全体に漂っていく。
注ぎ始めは1分蒸らす。だから一度コーヒーポットをキッチンのワークトップに置いて、スマホの画面を確認していると。リビングのソファに座ってテレビを眺めていた三木ちゃんから、衝撃的な言葉が飛び出してきた。
「そう言えば、聞きました?南里って、あの百貨店の息子なんだそうです」
「ええっ!?本当に?」
信じられない一言に思わず目を剥いた。
「そうです。なんでも、お母さまが今の社長の妹さんにあたられるそうで。社長は子どもに恵まれなかったそうで、それでお父さまが養子縁組なさったとか」
三木ちゃんはテレビを見ながら淡々と言葉を続ける。南里くんにあんな風に迫られていた三木ちゃんだからこそ、南里くんに対してそこまで興味がないのだろうと察して、少しだけ苦笑いがもれる。
「そう言えば、お花見歓迎会の時に……徳永さんにも言ってたわね、母方の家を継ぐためにお父さまが養子縁組した、って」
確かに。言われてみれば、高校や大学を通してアルバイトの経験が無いといっていたのは、アルバイトをする必要がない環境で過ごしてきたからだろう。だからこそ社会経験がゼロで……周囲の人たちもあの高級百貨店の息子という彼には、思うところがあっても注意したり出来なかったのでは。ゆえに、彼の言動ひとつひとつに不安が残るのだ。
そこまで考えて、はっと気がつく。
(だから……小林くんは出自を隠して入社したのか)
彼は九十銀行頭取の甥、なんだそうだ。それが明るみになったのは最近だけれども、彼も過去にそういう経験をしてきたのだろうか。
スマホをチラリと見遣ると、あっという間に1分が経っていた。ふたたびコーヒーポットを手に取り、ゆっくりとお湯を注いでいきながら、今朝、俺にもできることがあれば言ってください、と口にして、真っ直ぐに私を見つめてきたあの澄んだ一重の瞳を思い出す。
(……)
小林くんも、同じような経験をしてきたのかもしれない。片桐さんが社員食堂で口にしたように、他者から機能価値でしか見られずに、時にその肩書きに媚びられて、時に周囲の人に手のひらを返されて。
そう考えると。南里くんの『押しが強い』というのは、そういった経験から来ている可能性もある。私は平均的な家庭の生まれだから、生まれたときから決められた未来がある彼らの感情なんて、これっぽっちもわかってあげられない。
南里くんの教育で詰まった時は……小林くんに相談してみるのもいいのかもしれない。でも、小林くんの中にあるそういった嫌な記憶や感情を掘り起すのは憚られるなぁという気持ちもある。
(……難しいなぁ、教育って)
改めて、後輩指導の難しさを痛感しながら……コポコポとコーヒーを淹れていく。
「………ん、よし」
最後の一滴がサーバーから落ちるのを確認して、サーバーを流しに避けた。淹れたてのコーヒーをマグカップに移し替えて、リビングに座っている三木ちゃんにマグカップを手渡す。
ありがとうございます、と笑顔を向けてくれた三木ちゃんが、ふっくらした赤い唇をマグカップにつけて。
「美味しい……」
ほう、と。三木ちゃんがほっとしたようなため息をつきながら、ゆっくりとその言葉を紡いだ。
あんなに三木ちゃんに付き纏っていた南里くんは、今のところ穏やかだ。休憩中も三木ちゃんに近寄っている様子はない。加藤さんの予想通り、徳永さんに想いが移ったのだろうか。徳永さんには悪いけれど、そうであれば1番良い。
ぼんやりと考えつつ、私も三木ちゃんの隣に身体を沈みこませながら更衣室での加藤さんとの会話を反芻させて、気になっていたことを三木ちゃんに訊ねた。
「そういえば、親戚さん。食品商社に勤めてるんだ?もしかして仕事上でやり取りしてたりするの?」
その人は食品系の商社に勤めているから香水のような取り寄せはお願い出来ない、と口にしていた。それは、輸入出を伴うお仕事に携わっていることの裏返しではないのだろうか。
私の質問に、三木ちゃんが驚いたように勝気な瞳を数度瞬かせる。
「私はやり取りはしたことないです。丸永忠商社に勤めているので」
「え!?そうなんだ」
丸永忠商社は、今年に入ってから小林くんが落としてきてくれた得意先だ。まさかそんな繋がりがあるなんて思ってもおらず、私も驚いて、ぱちくりと瞬きをする。
「響介……あ、その親戚です。彼とは5年ほど連絡取っていません。だから今も丸永忠商社に勤めてるのかまではわかりませんけど、畜肉関係のバイヤーを辞して違う職に就いたなんて話しは両親からは聞いていないので」
三木ちゃんが、ふたたびマグカップに口付けた。コーヒーを飲み下したふっくらした赤い唇からほぅ、と吐かれた吐息が、テレビから流れてくる音声に紛れていく。
そして、夕食のためにテレビ台の上に移動させていた例の白い封筒を指差して、言葉を続けた。
「その響介の結婚式なんですよ。6月25日は」
「へぇ、そうなんだね……」
さっき三木ちゃんは、再従兄弟の結婚式、と言っていた。私には従兄弟や再従兄弟と呼べる親戚がいない。だから、素直に羨ましいなと思う。
「楽しんできてね、結婚式」
5年近く連絡を取っていない親戚の結婚式。積もる話しもあるだろう。結婚式の主役は当日は忙しいはずだから話す時間はあまりないだろうけれど、せっかくのお祝いの場だ。楽しんできて欲しい。そう考えて、ゆっくりと隣に座る三木ちゃんに視線を合わせる。
すると、うふふ、と……三木ちゃんが何かを企むように、肩を竦めた。
「そうですねぇ、先輩がウェディングドレス着たらどんなかなって想像して楽しみながら参列してきますね?」
「~~~っ!」
突如ぶっこまれた私を揶揄うような三木ちゃんのセリフに、耳まで赤くしながら言葉を失っていると。
くすり、と。三木ちゃんがいつものように悪戯っぽく笑って、明るい髪がふわりと揺れた。
リビングのローテーブルに『先付け』として並べられた色とりどりの小鉢。実家の料亭からいろいろ取り寄せた、と三木ちゃんが口にしていたけれど、まさか食材だけでなく食器も取り寄せているとは思わなかった。
静謐の中で次々と小鉢が登場する懐石料理さながらの三木ちゃんの手料理に舌鼓を打つ。
「この器、可愛い……!」
手に持った桜の形をした小鉢。そこには四角く切られた小さな牛乳豆腐に、塩漬けされた桜の花が乗っている。その牛乳豆腐の味もさることながら、その小鉢の儚げな薄紅色に目を奪われた。キッチンに立つ三木ちゃんが私の言葉に満足そうに笑顔を見せる。
「先輩に喜んでもらえてよかった!器も実家から持ってきた甲斐があったというものですっ」
そう言葉を紡いで、ふたたびローテーブルに料理を運んでくる。次に運ばれてきたのは『八寸』にアワビの桜葉揚げ、『先吸い』によもぎ麩のお吸い物。まるできちんとした料亭で出てくる春の懐石料理のようだ。
「器は毎年、ゴールデンウィークに先輩の地元で開かれる陶器市に両親が買い付けに行くんです。ずっと懇意にしている窯元さんがいるんですよ」
「えっ、そうなの?」
ゴールデンウィーク期間中、私の実家の近くで陶器市が開かれている。もしかしてあの陶器市のことだろうか。
三木ちゃんのご家族と思わぬ接点があることを知り、床に膝をついて料理をお盆からテーブルに移している三木ちゃんの顔を見つめた。
「はい!先輩のご実家の近くでやっている陶器市です。あの辺りは皇室御用達の窯元さんも多くて、『こんな感じで』というリクエストも聞いてくれるんですって」
三木ちゃんはにこっと笑顔を向けながら声を弾ませ、ソファに座る私の隣に沈み込んだ。
幼い頃から身近にあった陶器市。こんな風に都会で私の地元が評価されているなんて、知らなかった。今朝方、出張に出る智に『地元は温泉以外何もないところ』なんて言ってしまったけれど、あの発言は撤回すべきだろうか。
(そういえば……家のお皿、全部白で統一してあるけれど、智の趣味なのかな?)
自宅は色のついたお皿はひとつもない。敢えて言うなら、お味噌汁用の朱色の汁椀と、コーヒーを飲むマグカップだけ。その他は、小皿も大皿も、ご飯茶碗も白だ。
(……ゴールデンウィーク、連れて行きたいところ、増えちゃったなぁ)
せっかく実家の近くでそんなに有名な陶器市が開催されるタイミングで帰省するのだ。せっかくだったら、智と一緒に回ってみよう。
でも、そもそも全ての器を白で統一するくらいだから、智なりのこだわりがあるのかもしれないけれど。
最近は私も智も忙しくて。国際空港の近くに桜を見に行って以降、デートらしいデートもしていない。だから、智と一緒にどこかを歩く、と想像するだけで口元が緩んでいく。
すると、三木ちゃんがいたずらっぽい笑みを浮かべて、私に視線を合わせた。
「……先輩。今、ゴールデンウィークに邨上さんとその陶器市に行こうって考えてますよね?」
「っ!?」
思わず口に運んでいたアワビの桜葉揚げを喉につっかえそうになった。どうしてわかったんだろう、という感情が頭の中をぐるぐると回っている。
ゆっくりと耳まで赤くなった私を見て、くすくす、と。三木ちゃんが笑い声をあげた。
「先輩って、邨上さんのことになるとほ~んとわかりやすいですもん。まさに『顔に書いてある』って感じです」
「ええっ、うそっ」
三木ちゃんの言葉に思わず狼狽える。取引先同士の恋愛だから、あの合コンに出席していた三木ちゃんと小林くん以外には悟られないように振る舞ってきたつもりだったのだけれど……!!
「あ、仕事中は別ですよ?正確には、『私と小林の前にいる時の先輩はわかりやすい』って感じですね」
私の焦ったような表情に、三木ちゃんが訂正するように言葉を続けて。そうして、少しだけ儚げな笑顔を見せた。
「でも、こんな可愛い先輩がみれるなんて思ってもみなかったです。先輩には悪いですけど、平山さんが先輩を手放してくれたおかげですねっ」
三木ちゃんのその言葉に、先月の初旬に、グリーンエバー社に見学に行った時に田邉部長から伝えられた言葉が脳裏に蘇った。
『一瀬は、総合職になってから本当に表情豊かになったと思う。ああなって、結果的によかったのではないかと思っているよ』
それ以前の私は、どんなだっただろうか。今となってはハッキリとは思い出せないけれど、三木ちゃんも田邉部長と同じようなことを口にしたことから推測するに。
限られた人たちとしか会話せず、日々淡々と仕事をこなして、淡々とした日常を重ねていたのだろう、と思う。今のように……自分で考えて、得意先に自分から電話をかけて営業して。少なくとも、今日の更衣室でのように、自分が教育をしている三木ちゃんや小林くん以外の社員とも積極的にコミュニケーションを取るような人間ではなかったように思う。
智に出会って、智を愛して。私の世界は一変した。そう、まるで……全ての色を失っていた世界に、色がついたかのように。
凌牙に捨てられたことがきっかけで、合コンに参加する、という話になったのだ。凌牙が私を手放したからこそ、智に出会えた。それは紛れもない事実だけれど。
「……なにより、三木ちゃんがあの時、小林くんに『先輩も参加出来ないのか』って尋ねてくれたおかげよ。本当にありがとう」
手に持ったお箸を置いて、隣に沈み込んでいる三木ちゃんに頭を下げる。その様子に、三木ちゃんが慌てたようにお箸を置いて声をあげた。
「ええっ、違いますって!先輩が努力した結果です!私のおかげだなんて、本当に違いますから!私の方こそ、先輩に感謝してるんです」
「……え?」
三木ちゃんが紡いだ言葉の意味が飲み込めなくて、思わず顔を上げると、膝の上に置いている私の手を三木ちゃんがそっと握った。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が少しだけ翳って、じっと私を見据える。
「先輩が……ホワイトデーの時。『絶対に報われる日がくる、間違ってないと思う』って言ってくださったじゃないですか?あの時期……私は、私が取った行動が間違った行動で、間違った選択だって……本当に悩んでいたんですけれど」
そこまで続けた三木ちゃんが、何かを堪えるように唇を震わせて。そうして、花が綻ぶように……柔らかく、温かい笑みを浮かべた。その笑顔は、思わずハッとするほど、美しくて。
「先輩が背中を押してくれたから。それを貫いて……今は、幸せなんです。だから私の方こそ、ありがとうございます、ですよ?」
そうして、ふふ、と。幸せそうに口元を緩めた。
「先輩に救われたから、私も先輩を助けたいし、先輩の力になりたいんです。だから……あの人のことで力になれることがあれば、なんだってします。あっ、あの人のことだけじゃなくて、邨上さんと喧嘩したりしたら今回みたいにうちに泊まりに来てくださって全然構いませんから!」
三木ちゃんの優しさが胸にしみた。三木ちゃんに握られた手を、私もきゅっと握り返す。
「私もそう。三木ちゃんの力になりたいと思っているわ?だから、三木ちゃんも……私にできることがあったら、なんでも言ってね?」
早出を交代することや、それ以外でも。私にできることなら、なんだって力になってあげたい。
お互いに視線が交差して。同じ気持ちなのだと理解して、私たちはくすくすと笑い合った。
夕食を終えて、キッチンを借りてコーヒーを淹れていく。
懐石料理の後にコーヒーは合わないだろうから明日の朝にでも言ったけれど、三木ちゃんが期待に満ちた表情で「飲みたいです!」…と主張してきたのもあって。あんな豪勢な料理の後に練習中のコーヒーを淹れるということに気後れはするけれども、三木ちゃんの頼みだから。
ゆっくりとドリッパーにお湯を注いでいくと、ほわん、と、コーヒーの良い香りが部屋全体に漂っていく。
注ぎ始めは1分蒸らす。だから一度コーヒーポットをキッチンのワークトップに置いて、スマホの画面を確認していると。リビングのソファに座ってテレビを眺めていた三木ちゃんから、衝撃的な言葉が飛び出してきた。
「そう言えば、聞きました?南里って、あの百貨店の息子なんだそうです」
「ええっ!?本当に?」
信じられない一言に思わず目を剥いた。
「そうです。なんでも、お母さまが今の社長の妹さんにあたられるそうで。社長は子どもに恵まれなかったそうで、それでお父さまが養子縁組なさったとか」
三木ちゃんはテレビを見ながら淡々と言葉を続ける。南里くんにあんな風に迫られていた三木ちゃんだからこそ、南里くんに対してそこまで興味がないのだろうと察して、少しだけ苦笑いがもれる。
「そう言えば、お花見歓迎会の時に……徳永さんにも言ってたわね、母方の家を継ぐためにお父さまが養子縁組した、って」
確かに。言われてみれば、高校や大学を通してアルバイトの経験が無いといっていたのは、アルバイトをする必要がない環境で過ごしてきたからだろう。だからこそ社会経験がゼロで……周囲の人たちもあの高級百貨店の息子という彼には、思うところがあっても注意したり出来なかったのでは。ゆえに、彼の言動ひとつひとつに不安が残るのだ。
そこまで考えて、はっと気がつく。
(だから……小林くんは出自を隠して入社したのか)
彼は九十銀行頭取の甥、なんだそうだ。それが明るみになったのは最近だけれども、彼も過去にそういう経験をしてきたのだろうか。
スマホをチラリと見遣ると、あっという間に1分が経っていた。ふたたびコーヒーポットを手に取り、ゆっくりとお湯を注いでいきながら、今朝、俺にもできることがあれば言ってください、と口にして、真っ直ぐに私を見つめてきたあの澄んだ一重の瞳を思い出す。
(……)
小林くんも、同じような経験をしてきたのかもしれない。片桐さんが社員食堂で口にしたように、他者から機能価値でしか見られずに、時にその肩書きに媚びられて、時に周囲の人に手のひらを返されて。
そう考えると。南里くんの『押しが強い』というのは、そういった経験から来ている可能性もある。私は平均的な家庭の生まれだから、生まれたときから決められた未来がある彼らの感情なんて、これっぽっちもわかってあげられない。
南里くんの教育で詰まった時は……小林くんに相談してみるのもいいのかもしれない。でも、小林くんの中にあるそういった嫌な記憶や感情を掘り起すのは憚られるなぁという気持ちもある。
(……難しいなぁ、教育って)
改めて、後輩指導の難しさを痛感しながら……コポコポとコーヒーを淹れていく。
「………ん、よし」
最後の一滴がサーバーから落ちるのを確認して、サーバーを流しに避けた。淹れたてのコーヒーをマグカップに移し替えて、リビングに座っている三木ちゃんにマグカップを手渡す。
ありがとうございます、と笑顔を向けてくれた三木ちゃんが、ふっくらした赤い唇をマグカップにつけて。
「美味しい……」
ほう、と。三木ちゃんがほっとしたようなため息をつきながら、ゆっくりとその言葉を紡いだ。
あんなに三木ちゃんに付き纏っていた南里くんは、今のところ穏やかだ。休憩中も三木ちゃんに近寄っている様子はない。加藤さんの予想通り、徳永さんに想いが移ったのだろうか。徳永さんには悪いけれど、そうであれば1番良い。
ぼんやりと考えつつ、私も三木ちゃんの隣に身体を沈みこませながら更衣室での加藤さんとの会話を反芻させて、気になっていたことを三木ちゃんに訊ねた。
「そういえば、親戚さん。食品商社に勤めてるんだ?もしかして仕事上でやり取りしてたりするの?」
その人は食品系の商社に勤めているから香水のような取り寄せはお願い出来ない、と口にしていた。それは、輸入出を伴うお仕事に携わっていることの裏返しではないのだろうか。
私の質問に、三木ちゃんが驚いたように勝気な瞳を数度瞬かせる。
「私はやり取りはしたことないです。丸永忠商社に勤めているので」
「え!?そうなんだ」
丸永忠商社は、今年に入ってから小林くんが落としてきてくれた得意先だ。まさかそんな繋がりがあるなんて思ってもおらず、私も驚いて、ぱちくりと瞬きをする。
「響介……あ、その親戚です。彼とは5年ほど連絡取っていません。だから今も丸永忠商社に勤めてるのかまではわかりませんけど、畜肉関係のバイヤーを辞して違う職に就いたなんて話しは両親からは聞いていないので」
三木ちゃんが、ふたたびマグカップに口付けた。コーヒーを飲み下したふっくらした赤い唇からほぅ、と吐かれた吐息が、テレビから流れてくる音声に紛れていく。
そして、夕食のためにテレビ台の上に移動させていた例の白い封筒を指差して、言葉を続けた。
「その響介の結婚式なんですよ。6月25日は」
「へぇ、そうなんだね……」
さっき三木ちゃんは、再従兄弟の結婚式、と言っていた。私には従兄弟や再従兄弟と呼べる親戚がいない。だから、素直に羨ましいなと思う。
「楽しんできてね、結婚式」
5年近く連絡を取っていない親戚の結婚式。積もる話しもあるだろう。結婚式の主役は当日は忙しいはずだから話す時間はあまりないだろうけれど、せっかくのお祝いの場だ。楽しんできて欲しい。そう考えて、ゆっくりと隣に座る三木ちゃんに視線を合わせる。
すると、うふふ、と……三木ちゃんが何かを企むように、肩を竦めた。
「そうですねぇ、先輩がウェディングドレス着たらどんなかなって想像して楽しみながら参列してきますね?」
「~~~っ!」
突如ぶっこまれた私を揶揄うような三木ちゃんのセリフに、耳まで赤くしながら言葉を失っていると。
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