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本編・第三部
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「はい、極東商社通関部三木です」
外線の音が鳴り、いつもよりも数倍元気な三木ちゃんの声がフロアに響いた。
三木ちゃんの家にお世話になって5日目、金曜日を迎えた。毎朝一緒に出勤して、終業を迎えれば一緒に帰る、という、まるで恋人同士のようなべったりとした時間を過ごしている。三木ちゃんと過ごすプライベートの時間はとても楽しく、智がそばにいない、という寂しさも、眠る前に少しそれを感じるだけで済んでいる。本当に三木ちゃんには感謝しかない。
三木ちゃんもここ数日は私を独占できていることが本当に嬉しいらしく、溌剌とした声色がより一層響いているのだ。
けれど、この状況が智に知れたら……あのお花見歓迎会の帰り道の車内でのあの瞬間のように、独占欲丸出しかつ怒っているとわかるあの丁寧な口調で三木ちゃんに向かって毒を吐くだろう、と容易に想像が出来た。その上で。
『知香さんが誰のものなのか、その身体にしっかりと教え込まなければいけませんねぇ?』
なんて、にこりと笑われて。お仕置きと称してねちっこく翻弄されるに決まっている。その場面を想像するだけで、ふるりと身体が震えた。
だから、日記アプリには。三木ちゃんのおかげで日々無事に過ごしているよ、と、伝えるに留まっている。それ以上はさすがに言えない、というか言いたくない。
今日は金曜日で、土日は三木ちゃんも実家の料亭のお手伝いに行く事情もあるし、さすがに土日までお世話になるのは気が引けるから、今夜から日曜日の夕方まではまた自宅に帰ることにしている。
(そういえば……三木ちゃん、例の好きな人に連絡している様子がないけれど、大丈夫かな?)
通関システムに入力しながら、ちらりとその考えが脳裏をよぎる。ふい、と、三木ちゃんの席に視線を向けた。三木ちゃんは私より少し背が低いから、座高も私よりわずかに低くて。私の視線を少しだけ下げると、三木ちゃんの整った顔があった。三木ちゃんは手に取った受話器を肩に挟んで、要件のメモを取っている。
三木ちゃんも…小林くんと同じで仕事もできて気配りができる子だし、その好きな人と幸せになって欲しい。彼女の恋路がうまくいけばいいなと、素直にそう思う。
そんなことをつらつらと考えていたら、フロアを仕切るパーティションの奥から小林くんの顔がちらりと見え、彼の一重の瞳と視線が交差する。困り果てたように眉を顰めているその表情に、「どうしたの?」と口だけを動かして訊ねると、小林くんが加藤さんと南里くんのデスクの後ろを通って、私のそばまで歩いてきた。ふわり、と、小林くんの香水の香りが漂って。
「すみません、一瀬さん。実は税関に不服申し立てをしていただきたい案件がありまして」
「えっ、ちょっと待って、どういうこと?」
小林くんから飛び出してきた不穏な一言に思わず慌てる。
通関手続きをしても、税関に申告した内容に問題がある、と税関が判断すれば不許可となり通関が切れない場合もある。その際は、不許可の理由に納得すれば修正して再申告し直すけれど、不許可の理由に不服があれば依頼主に代わり申し立てや陳述を行うのも通関業者の仕事の一つ。
基本的に不許可の場合は提出した書類の不備などが多く、再申告を行うことで通関許可がおりることが殆どだ。だから不服申し立てを行うのは私もあまり経験がない。
詳しい事情を聞こうと手元の資料を一旦デスク脇に避けていると、電話を終えた三木ちゃんが勝気な瞳を小林くんに向けて、カチャリと受話器を置いた。
「小林。畜産販売部名義で輸入するイタリア産の畜肉の件?」
小林くんは三木ちゃんのその問いに数度目を瞬かせ、小さく頷く。三木ちゃんは小林くんの無言の肯定を受けて席を立ち、私の目の前に座っている水野課長のそばまで歩いた。
「水野課長、税関よりお電話でした。うちの畜産販売部名義で輸入する予定だった貨物が、申告した内容に問題があると税関が判断し不許可となったとのことです」
三木ちゃんのふっくらした赤い唇から紡がれた言葉に息を飲む。その報告を受けた水野課長がざぁっと顔色を変えた。
「……なんだと?」
私はそっと隣に立つ小林くんに視線を向けた。きっと、うちの畜産販売部の担当は彼なのだろう。小林くんがこうして通関部に相談に来たことが何よりの証拠だ。
不服申立ては輸出入者の権利を守るために通関業者が代行する大切な手続き。今回のように輸出入者から税関長の決定に対して納得がいかないと不服申立てを行いたい旨を相談されることも、ままあることだ。
先月まで通関部に所属していた小林くん。通関手続きの流れを知っている小林くんだからこそ、彼自身で不服申し立てをすることもできる。けれど、手順を踏んで行うことはもちろん、今後の輸出入手続きに支障をきたさないためにも、輸出入者や税関との打ち合わせは出来うる限り通関業者が中立の立場で行うことが大切。
だからこそ、小林くんは自分でもできるはずの不服申し立てを通関部にわざわざ相談にきたのだろう。相変わらず周囲の顔を立てることができる聡い子だなぁと感心する。
水野課長がつり目の瞳を僅かに細めて、私の隣に立っている小林くんを見つめた。
「何が理由だ?税関から直接お前にも通達があっただろう?」
小林くんはその視線を受けて、水野課長に視線を合わせながら淡々と事情を説明していく。
「原産地を偽ったもしくは誤認させるおそれのある表示がある貨物、ということでした。自分は三井商社畜産チームから仕入れた際にイタリア産と聞いており、それで通関依頼をしていたのですが、外箱にはフランス産と明記してあるラベルが貼ってある、とのことです」
「三井商社へは?調査依頼しているのか」
小林くんの説明を静かに聞いていた水野課長が、小林くんにふたたび問いかける。小林くんが「はい」と声をあげながら小さく首を縦に振った。その瞬間、外線が鳴って、私の隣の席に座る南里くんが受話器を取った。その様子を小林くんがじっと見つめている。
「はい、少々お待ちください」
南里くんがくりくりした瞳を斜め前に座る水野課長に向けながら、この異様な雰囲気にも臆することなく電話を取り次いでいく。
「水野課長、三井商社池野さまです」
「……この件だろうな」
はぁ、と、水野課長が小さくため息をついて、右手で眉間を軽く揉みながら電話を代わった。私はそっと南里くんに視線を向ける。
突如イレギュラーな案件が放り込まれ若干張り詰めた空気が漂う中でも、凛と背筋を伸ばして自分に与えられた作業を再開している。チワワのような可愛らしい見た目よりも芯があり、年不相応の胆力も備えていることが窺えた。
……押しが強い、という部分をどうにかいい方向に持っていければ…彼はきっと腕の立つ営業マンになれるだろう。先ほどの様子から、なんとなくそう感じた。
水野課長が電話を終えて受話器を置く。そうして、目の前の私たちに視線を合わせた。
「輸入先の会社の単なるミスらしい。フランス産の豚肉をイタリアで加工している。だから原産地はイタリアで間違いない。が、イタリアで加工した会社が外箱の使い回しをしていたそうだ。それで税関の検査に引っかかったのだろう」
水野課長の言葉に小林くんがほっとしたように顔を和らげた。彼は畜産販売部に異動したばかりだから、今回通関がおりなかったことは自分自身の不手際だったのだろうかと不安だったのだろう。
「畜産販売部に電話をしたらお前が席を外しているとのことだったから、乙仲である通関部にも連絡を入れてくれたそうだ。……で」
水野課長が、下がってきた銀縁メガネを右手でずり上げながら言葉を続けた。
「先方の営業担当が小林と通関部宛に謝罪に来る。池野さんがすぐに行けと言ったそうでな、あと5分もすればこちらに来るだろう」
ちらり、と。つり目の瞳が、私を見遣った。その視線で、なんとなく水野課長の言外の指示を受け取る。
4月の組織再編により、畜産チームは今、西浦係長と加藤さんだ。本来はこのふたりが担当するはずなのだが、異動したばかりの西浦係長と新入社員の加藤さんに代わって業務の大部分を水野課長と私とで分担してやっている。そうして、今。それを段階的に西浦係長に引き継いでいっているのだ。
きっと、水野課長が西浦係長にこういった際の不服申し立ての手続きの指導をするから、代わりにその謝罪の席に私が通関部として同席してこい、という事だろう。
「わかりました。私が同席してきます。先に応接室の空き状況を総務に聞いてみますね」
水野課長の思惑を察して、了承の言葉を口にする。席を立ちあがって水野課長に視線を合わせた。水野課長が、私の言葉に硬い表情をふっと和らげる。
水野課長の部下を3年もやっていれば、こういう事態になっても呼吸が合うようにもなる。私に何を求めているのかも察することができるようになるというものだ。
水野課長が、隣の席に座る西浦係長に視線を向ける。
「……西浦、税関に不服申し立てをする。三木、補佐を頼むぞ」
「承知しました」
西浦係長が水野課長の言葉に短く返答し、ふたりの間に立っていた三木ちゃんが弾かれたように自分のデスクに戻る。ふわり、と、三木ちゃんの明るい髪が揺れた。その様子を視界の端で確認して、隣に立ったままの小林くんに視線を向ける。
「小林くん、そういうことだけど、今、時間とか大丈夫かな。同席できる?」
デスクに広げていた資料を手早く片付けながら問いかけると、小林くんが「大丈夫です」と答えてくれる。
その答えを受けて総務部に応接室の空き状況の確認で内線すると、第2研修ルームだったら空いているとのことだった。研修ルームに外部の方をお通しして良いか確認を取ると、営業担当判断でとの返答をもらう。一旦、総務との通話を保留にし、その旨を小林くんに問うと、小林くんは澄んだ瞳を数度瞬かせる。
「……今回は商談ではありませんし、研修ルームでいいのでは」
「それもそうねぇ…」
確かに、商談ならまだしも、今回は謝罪を受けるだけ。ならば、場所は研修ルームでも良いだろうと判断して、総務に研修ルームを押さえて貰い、小林くんとふたりで連れ立って通関部のフロアを退出した。
「今回は本当にご迷惑をおかけしました」
短く切り揃えられた短髪が下げられて、真摯な声が研修ルームに響く。その声に、顔をあげてください、と、小林くんが語りかけた。
「畜産販売部さんだけでなく、通関部さんにもご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ありませんでした」
そうして、気の毒なほど強張った表情をした浅田さんがふたたび頭を下げた。
「いえ、不服申し立ては通関業者の仕事のひとつですから、どうかお気になさらず」
そう声を上げながら、私は走る心臓を必死に押さえつけていた。
(まさか、小林くんが取引してる三井商社の担当が浅田さんだったなんて……)
ぱちりとした二重の瞳。あの日、電車内でちらりと盗み見た浅田さんの顔が目の前にある。予想外の人物との接点が出来てしまったことに鼓動が早くなっていく。
「イタリアの会社にはクレームを入れました。以降はこのような事がないように気をつけさせます」
「よろしくお願いします。今後とも御社とは長いお付き合いをさせて頂きたいですから」
小林くんが穏やかな笑顔を浅田さんに向けた。そうしてその言葉を最後にこの件を切り上げ、話題は軽い雑談に流れていく。
智は浅田さんにも、私の存在を隠し通したいとのことだったから。雑談でさえも余計なことは話さないようにしなければ、と、気を張ってふたりと会話を進めていった。
「……さて、私はそろそろ戻ります。池野に雷落とされて来たので、早々に帰って報告をしなければいけませんから」
浅田さんが苦笑しながら、では、と、席を立った。半年ほど前に小林くんを連れて三井商社に行った時に、藤宮くんに向けていた……柔和なのに般若にも見える池野さんのあの柔らかい笑みを思い出し、くすりと笑みが漏れる。
小林くんも浅田さんに倣って席を立ったのを視界の端で確認して、出入り口に近い席に座っていた私も浅田さんの名刺を手に持って立ち上がった。その流れで、カチャリ、と出入り口の扉を開けて、浅田さんを外に促す。小さく頭を下げて浅田さんが研修ルームを退出しようとして、廊下に視線を向けて小さく息を飲んだ。
どうされたのだろう、と、小さく首を傾げながら廊下に視線を向けると、ふわり、と、煙草の苦い香りが漂って。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が、大きく見開かれていた。
「……真梨?」
浅田さんが驚いたように三木ちゃんの下の名前を呼んだ。ふたりの関係性が全くわからずに、口がぽかんと開く。
「響介……」
三木ちゃんが、三木ちゃんの再従兄弟の名前を紡いだと同時に、私の少し後ろに立っていた小林くんが小さく身動ぎしたのを感じた。
外線の音が鳴り、いつもよりも数倍元気な三木ちゃんの声がフロアに響いた。
三木ちゃんの家にお世話になって5日目、金曜日を迎えた。毎朝一緒に出勤して、終業を迎えれば一緒に帰る、という、まるで恋人同士のようなべったりとした時間を過ごしている。三木ちゃんと過ごすプライベートの時間はとても楽しく、智がそばにいない、という寂しさも、眠る前に少しそれを感じるだけで済んでいる。本当に三木ちゃんには感謝しかない。
三木ちゃんもここ数日は私を独占できていることが本当に嬉しいらしく、溌剌とした声色がより一層響いているのだ。
けれど、この状況が智に知れたら……あのお花見歓迎会の帰り道の車内でのあの瞬間のように、独占欲丸出しかつ怒っているとわかるあの丁寧な口調で三木ちゃんに向かって毒を吐くだろう、と容易に想像が出来た。その上で。
『知香さんが誰のものなのか、その身体にしっかりと教え込まなければいけませんねぇ?』
なんて、にこりと笑われて。お仕置きと称してねちっこく翻弄されるに決まっている。その場面を想像するだけで、ふるりと身体が震えた。
だから、日記アプリには。三木ちゃんのおかげで日々無事に過ごしているよ、と、伝えるに留まっている。それ以上はさすがに言えない、というか言いたくない。
今日は金曜日で、土日は三木ちゃんも実家の料亭のお手伝いに行く事情もあるし、さすがに土日までお世話になるのは気が引けるから、今夜から日曜日の夕方まではまた自宅に帰ることにしている。
(そういえば……三木ちゃん、例の好きな人に連絡している様子がないけれど、大丈夫かな?)
通関システムに入力しながら、ちらりとその考えが脳裏をよぎる。ふい、と、三木ちゃんの席に視線を向けた。三木ちゃんは私より少し背が低いから、座高も私よりわずかに低くて。私の視線を少しだけ下げると、三木ちゃんの整った顔があった。三木ちゃんは手に取った受話器を肩に挟んで、要件のメモを取っている。
三木ちゃんも…小林くんと同じで仕事もできて気配りができる子だし、その好きな人と幸せになって欲しい。彼女の恋路がうまくいけばいいなと、素直にそう思う。
そんなことをつらつらと考えていたら、フロアを仕切るパーティションの奥から小林くんの顔がちらりと見え、彼の一重の瞳と視線が交差する。困り果てたように眉を顰めているその表情に、「どうしたの?」と口だけを動かして訊ねると、小林くんが加藤さんと南里くんのデスクの後ろを通って、私のそばまで歩いてきた。ふわり、と、小林くんの香水の香りが漂って。
「すみません、一瀬さん。実は税関に不服申し立てをしていただきたい案件がありまして」
「えっ、ちょっと待って、どういうこと?」
小林くんから飛び出してきた不穏な一言に思わず慌てる。
通関手続きをしても、税関に申告した内容に問題がある、と税関が判断すれば不許可となり通関が切れない場合もある。その際は、不許可の理由に納得すれば修正して再申告し直すけれど、不許可の理由に不服があれば依頼主に代わり申し立てや陳述を行うのも通関業者の仕事の一つ。
基本的に不許可の場合は提出した書類の不備などが多く、再申告を行うことで通関許可がおりることが殆どだ。だから不服申し立てを行うのは私もあまり経験がない。
詳しい事情を聞こうと手元の資料を一旦デスク脇に避けていると、電話を終えた三木ちゃんが勝気な瞳を小林くんに向けて、カチャリと受話器を置いた。
「小林。畜産販売部名義で輸入するイタリア産の畜肉の件?」
小林くんは三木ちゃんのその問いに数度目を瞬かせ、小さく頷く。三木ちゃんは小林くんの無言の肯定を受けて席を立ち、私の目の前に座っている水野課長のそばまで歩いた。
「水野課長、税関よりお電話でした。うちの畜産販売部名義で輸入する予定だった貨物が、申告した内容に問題があると税関が判断し不許可となったとのことです」
三木ちゃんのふっくらした赤い唇から紡がれた言葉に息を飲む。その報告を受けた水野課長がざぁっと顔色を変えた。
「……なんだと?」
私はそっと隣に立つ小林くんに視線を向けた。きっと、うちの畜産販売部の担当は彼なのだろう。小林くんがこうして通関部に相談に来たことが何よりの証拠だ。
不服申立ては輸出入者の権利を守るために通関業者が代行する大切な手続き。今回のように輸出入者から税関長の決定に対して納得がいかないと不服申立てを行いたい旨を相談されることも、ままあることだ。
先月まで通関部に所属していた小林くん。通関手続きの流れを知っている小林くんだからこそ、彼自身で不服申し立てをすることもできる。けれど、手順を踏んで行うことはもちろん、今後の輸出入手続きに支障をきたさないためにも、輸出入者や税関との打ち合わせは出来うる限り通関業者が中立の立場で行うことが大切。
だからこそ、小林くんは自分でもできるはずの不服申し立てを通関部にわざわざ相談にきたのだろう。相変わらず周囲の顔を立てることができる聡い子だなぁと感心する。
水野課長がつり目の瞳を僅かに細めて、私の隣に立っている小林くんを見つめた。
「何が理由だ?税関から直接お前にも通達があっただろう?」
小林くんはその視線を受けて、水野課長に視線を合わせながら淡々と事情を説明していく。
「原産地を偽ったもしくは誤認させるおそれのある表示がある貨物、ということでした。自分は三井商社畜産チームから仕入れた際にイタリア産と聞いており、それで通関依頼をしていたのですが、外箱にはフランス産と明記してあるラベルが貼ってある、とのことです」
「三井商社へは?調査依頼しているのか」
小林くんの説明を静かに聞いていた水野課長が、小林くんにふたたび問いかける。小林くんが「はい」と声をあげながら小さく首を縦に振った。その瞬間、外線が鳴って、私の隣の席に座る南里くんが受話器を取った。その様子を小林くんがじっと見つめている。
「はい、少々お待ちください」
南里くんがくりくりした瞳を斜め前に座る水野課長に向けながら、この異様な雰囲気にも臆することなく電話を取り次いでいく。
「水野課長、三井商社池野さまです」
「……この件だろうな」
はぁ、と、水野課長が小さくため息をついて、右手で眉間を軽く揉みながら電話を代わった。私はそっと南里くんに視線を向ける。
突如イレギュラーな案件が放り込まれ若干張り詰めた空気が漂う中でも、凛と背筋を伸ばして自分に与えられた作業を再開している。チワワのような可愛らしい見た目よりも芯があり、年不相応の胆力も備えていることが窺えた。
……押しが強い、という部分をどうにかいい方向に持っていければ…彼はきっと腕の立つ営業マンになれるだろう。先ほどの様子から、なんとなくそう感じた。
水野課長が電話を終えて受話器を置く。そうして、目の前の私たちに視線を合わせた。
「輸入先の会社の単なるミスらしい。フランス産の豚肉をイタリアで加工している。だから原産地はイタリアで間違いない。が、イタリアで加工した会社が外箱の使い回しをしていたそうだ。それで税関の検査に引っかかったのだろう」
水野課長の言葉に小林くんがほっとしたように顔を和らげた。彼は畜産販売部に異動したばかりだから、今回通関がおりなかったことは自分自身の不手際だったのだろうかと不安だったのだろう。
「畜産販売部に電話をしたらお前が席を外しているとのことだったから、乙仲である通関部にも連絡を入れてくれたそうだ。……で」
水野課長が、下がってきた銀縁メガネを右手でずり上げながら言葉を続けた。
「先方の営業担当が小林と通関部宛に謝罪に来る。池野さんがすぐに行けと言ったそうでな、あと5分もすればこちらに来るだろう」
ちらり、と。つり目の瞳が、私を見遣った。その視線で、なんとなく水野課長の言外の指示を受け取る。
4月の組織再編により、畜産チームは今、西浦係長と加藤さんだ。本来はこのふたりが担当するはずなのだが、異動したばかりの西浦係長と新入社員の加藤さんに代わって業務の大部分を水野課長と私とで分担してやっている。そうして、今。それを段階的に西浦係長に引き継いでいっているのだ。
きっと、水野課長が西浦係長にこういった際の不服申し立ての手続きの指導をするから、代わりにその謝罪の席に私が通関部として同席してこい、という事だろう。
「わかりました。私が同席してきます。先に応接室の空き状況を総務に聞いてみますね」
水野課長の思惑を察して、了承の言葉を口にする。席を立ちあがって水野課長に視線を合わせた。水野課長が、私の言葉に硬い表情をふっと和らげる。
水野課長の部下を3年もやっていれば、こういう事態になっても呼吸が合うようにもなる。私に何を求めているのかも察することができるようになるというものだ。
水野課長が、隣の席に座る西浦係長に視線を向ける。
「……西浦、税関に不服申し立てをする。三木、補佐を頼むぞ」
「承知しました」
西浦係長が水野課長の言葉に短く返答し、ふたりの間に立っていた三木ちゃんが弾かれたように自分のデスクに戻る。ふわり、と、三木ちゃんの明るい髪が揺れた。その様子を視界の端で確認して、隣に立ったままの小林くんに視線を向ける。
「小林くん、そういうことだけど、今、時間とか大丈夫かな。同席できる?」
デスクに広げていた資料を手早く片付けながら問いかけると、小林くんが「大丈夫です」と答えてくれる。
その答えを受けて総務部に応接室の空き状況の確認で内線すると、第2研修ルームだったら空いているとのことだった。研修ルームに外部の方をお通しして良いか確認を取ると、営業担当判断でとの返答をもらう。一旦、総務との通話を保留にし、その旨を小林くんに問うと、小林くんは澄んだ瞳を数度瞬かせる。
「……今回は商談ではありませんし、研修ルームでいいのでは」
「それもそうねぇ…」
確かに、商談ならまだしも、今回は謝罪を受けるだけ。ならば、場所は研修ルームでも良いだろうと判断して、総務に研修ルームを押さえて貰い、小林くんとふたりで連れ立って通関部のフロアを退出した。
「今回は本当にご迷惑をおかけしました」
短く切り揃えられた短髪が下げられて、真摯な声が研修ルームに響く。その声に、顔をあげてください、と、小林くんが語りかけた。
「畜産販売部さんだけでなく、通関部さんにもご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ありませんでした」
そうして、気の毒なほど強張った表情をした浅田さんがふたたび頭を下げた。
「いえ、不服申し立ては通関業者の仕事のひとつですから、どうかお気になさらず」
そう声を上げながら、私は走る心臓を必死に押さえつけていた。
(まさか、小林くんが取引してる三井商社の担当が浅田さんだったなんて……)
ぱちりとした二重の瞳。あの日、電車内でちらりと盗み見た浅田さんの顔が目の前にある。予想外の人物との接点が出来てしまったことに鼓動が早くなっていく。
「イタリアの会社にはクレームを入れました。以降はこのような事がないように気をつけさせます」
「よろしくお願いします。今後とも御社とは長いお付き合いをさせて頂きたいですから」
小林くんが穏やかな笑顔を浅田さんに向けた。そうしてその言葉を最後にこの件を切り上げ、話題は軽い雑談に流れていく。
智は浅田さんにも、私の存在を隠し通したいとのことだったから。雑談でさえも余計なことは話さないようにしなければ、と、気を張ってふたりと会話を進めていった。
「……さて、私はそろそろ戻ります。池野に雷落とされて来たので、早々に帰って報告をしなければいけませんから」
浅田さんが苦笑しながら、では、と、席を立った。半年ほど前に小林くんを連れて三井商社に行った時に、藤宮くんに向けていた……柔和なのに般若にも見える池野さんのあの柔らかい笑みを思い出し、くすりと笑みが漏れる。
小林くんも浅田さんに倣って席を立ったのを視界の端で確認して、出入り口に近い席に座っていた私も浅田さんの名刺を手に持って立ち上がった。その流れで、カチャリ、と出入り口の扉を開けて、浅田さんを外に促す。小さく頭を下げて浅田さんが研修ルームを退出しようとして、廊下に視線を向けて小さく息を飲んだ。
どうされたのだろう、と、小さく首を傾げながら廊下に視線を向けると、ふわり、と、煙草の苦い香りが漂って。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が、大きく見開かれていた。
「……真梨?」
浅田さんが驚いたように三木ちゃんの下の名前を呼んだ。ふたりの関係性が全くわからずに、口がぽかんと開く。
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