俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

182 声色を、作った。

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 ふつり、と。糸が切れたかのように、知香ちゃんの身体が崩れ落ちていく。

「ちょっ……!!」

 慌てて身体を滑り込ませ、己の腕の中に知香ちゃんの華奢な肉体を抱き留める。知香ちゃんの手から滑り落ちて行った、ミネラルウォーターのボトルが階段を転がり落ちていく音が大きく響いた。

 間に合わなければ真後ろの階段から、知香ちゃん自身もそのボトルのように転がり落ちていくところだっただろう。ほっと安堵のため息を吐き出しながら、脳内で軽く現状の分析を進める。

(……睡眠薬…だね、これは)

 睡眠薬は二種類にわけられる。脳の機能を低下させる睡眠薬と、自然な眠気を強くする睡眠薬。後者は本来の眠気を強める形。故に、効果が人によって異なる。それに対して、前者の睡眠薬の効き方は「体力を使い切って寝てしまった」時のような状態をもたらす。脳の機能を低下させるため、かなり強引な効き方をする。知香ちゃんに盛られた薬は、恐らく。

(どう考えても、前者、だろうねぇ…)

 はぁ、と、ふたたび小さくため息をつく。くたりと弛緩した彼女の身体を己の肩で支えて、推測を整理していく。

 前者のタイプにおいて日本で流通している睡眠薬の主成分は、ベンゾジアゼピンB   z系と非ベンゾジアゼピンB   z系のふたつ。Bz系は催眠作用睡眠導入に加えて筋弛緩作用、抗不安作用がある。まるで糸が切れたように身体が弛緩している彼女の状態を鑑みるに恐らくBz系だろう。

(飲み下した量にもよるけど……効果はせいぜい2時間…いや、3時間弱ってところ……)

 薬は服用するとだいたい30分ほどで血液中の濃度が最高に上がる。それからだんだんと分解され血液に含まれる成分の濃度は下がっていく。したがって、服用した後30分ほどで血中濃度は最高値に達し、その後2時間経つと二分の一に、4時間経つと四分の一に、6時間経つと八分の一に、8時間経つと十六分の一に減少していく。

 知香ちゃんがテーブルに置いていったあのグラス。間違いなく、アレに溶かしてあったのだろう。その外側に付いていた水滴の位置と中身の液体の嵩の量を計算しても、ひと口程度しか飲み下していないはずだ。

 黒川は意識を失った彼女を拐かすつもりだったのだろう。そうして、意識を取り戻したら傷つける犯すつもりだった。混入させた睡眠薬は微量である可能性が高い。

「……マカロンの裏の意味、わかると思ったのになぁ。どうしてくれんの、智くん」

 ふつふつと。怒りで赤く染まる己の感情を、この場にいない智くんに対して小さく吐き出した。

 大迫係長を連れての挨拶周りから戻り、知香ちゃんがあのテーブルにいないことに気がついて、お手洗いにでも外しているかと何気なく深川係長に探りをいれた。体調不良で帰した、と深川係長に告げられた瞬間、ぞっと背筋が冷え、慌てて知香ちゃんを探しに来たのだ。

(間に合って良かった……)

 黒川がこのシンポジウムに参加するということは、黒川との業務上の遣り取りでなんとなく察していた。5月2日は午前中しか連絡が取れない、要件は5月1日までに、というメールを受け取れば俺でなくとも察することは可能だっただろう。
 彼がどのようにして知香ちゃんが参加するという情報を掴んだのかまではわからないが、智くんの恋人である知香ちゃんに、この場で何かしらの害をなそうとしているのは明らかだった。

 マカロンに託した裏の意味は、ふたつある。

 ひとつ目に、智くんへの宣戦布告。こうすれば智くんは、否が応でも知香ちゃんの身の回りに気をつけるだろうから。午前中の打ち合わせ前に知香ちゃんにひどく揺さぶりをかけたのも、今回のシンポジウム中、知香ちゃん自身でも身の回りに警戒させるため。俺を好きになって欲しい、俺を選んで欲しい、というのは紛れもない本心だけれども。

 ふたつ目に、黒川が手を染めている循環取引の示唆。循環取引は「ぐるぐる取引」とも呼ばれる。……マカロンはぐるぐると絞り袋を絞って作られる。ダブルミーイングを込めた香典返しにしたつもりだった。

(案外……鈍かったんだね、智くんは)

 結局、グァテマラ向けの冷凍ブロッコリー輸出の手続きは、今朝になっても進行したままのようだった。気がついていないのか、気がついていても証拠が掴めず動けないでいるのか。

「………」

 こんなことになるなら、大迫係長とペアを組まなければよかった。彼女から目を離さないために、彼女とペアを組んでいれば。

 意味のない後悔ばかりが、胸をじくじくと苛んでいく。

 肩で支えたままの彼女の顔をそっと覗き込んだ。

 無防備な、寝顔。穏やかな呼吸。くるりとカールされた長いまつ毛。繊細なアイシャドウが、俺が身動ぎする度に、廊下の小さなシャンデリアの光を浴びてキラキラと煌めいた。


 くたりと弛緩した身体から香る、馨しい知香ちゃん自身の甘い香り。


 アルコールのせいか、僅かに上気した頬。優しげな赤い口紅を纏った薄い唇。何かを誘うように、薄らと開かれた……その、唇に。


 ぞくり、と。背筋がで、震えた。


 その感覚に、思わず身体が跳ねる。俺の身体が跳ねたことで、ダイヤモンドのイヤリングに彩られている耳にかかっていた髪がさらりと落ちて、更に強烈な色香を醸し出していた。


  このまま自宅に連れ帰って。彼女を物理的に手に入れる、ということも―――出来なくは、ない。



「こ~んな無防備で。………食べちゃうぞ?」



 小さく、小さく。意識を失くしている彼女には届かない、と分かっていても。彼女の頬の輪郭を慈しむようになぞりながら、左の耳元で小さく囁いた。



 知香ちゃんを手に入れる。俺は、そう決めた。けれど。

(こんなのは、俺の望むやり方じゃないね~ぇ……)

 他人が飲ませた睡眠薬。それを利用して自分のモノにするのは、自らの流儀に反する。そもそも、今度は媚薬や睡眠薬そんな催眠暗示モノを使わずに智くんから正々堂々と奪いに行く、と決めていたのだから。

 黒川が、知香ちゃんの腕を掴んでいるあの場面を見た瞬間。かっと全身が沸騰して……咄嗟に『俺の女』と口にした。

(……俺とデキてるって勘違いさせた方が、智くんの立場を危うくさせるっていう目論見も外れるだろうし)

 あれは、そう結論付けて黒川に向かって嗤ってみせたのだ。そう……まるで蛇が捕食物を見つけたかのように。

 その思惑通り、黒川は『勘違いさせやがって』というような視線を知香ちゃんに向けて去っていった。これで知香ちゃんの身の安全は確保された、はずだった。


 ……よもや、彼女が睡眠薬を飲まされているとは知らずに。



(………あの梅酒を飲み干してたら…)

 睡眠薬の効きが早く、俺はきっと間に合わなかったかもしれない。彼女はひと口飲んで気付いたのか、それとも別の理由で体調が悪かったのか。アレをひと口しか飲み下していないのは本当に不幸中の幸いだっただろう。間に合わなければ、彼女は確実に黒川に穢されていた。そう思うと、改めて肝が冷える。

 ひとまず、この場から離れるべきだ。もうすぐ交流食事会もお開きを迎える。国の主催のシンポジウムでこんな騒ぎが起きていたと知られる訳にはいかない。この状況では一見すると交流食事会で知香ちゃんが酔いつぶれたように見られるやもしれない。極東商社のメンツにも関わる事態だ。

 この階段を降りきれば、1階の正面玄関。中ホールまでくる廊下の途中で見かけた、フロア図をざっと頭の中に描く。施設の裏側の出口の近くに、『交流スクエア』というギャラリー機能を備えた多目的ホールがあった。確か、あそこには壁に凭れかかれるタイプの椅子が多数設置してあったはず。

 ひとつ下の階に降りて、施設の裏側に降りる階段を使ってその交流スクエアに出る。智くんは恐らく、交流食事会が終わる頃合いを見計らって知香ちゃんを迎えに来るつもりだろう。彼らの自宅からこの場所はそう遠くはないけれど、俺が智くんだったらそうする。


 俺と智くんの発想は、ほぼ同じ。俺たちは、同族、だから。


(だからこそ。マカロンに隠した意味に気が付くと思ったのになぁ……)

 込み上げる何かを堪えつつ、彼女の身体に改めて触れた。

「……ごめん、知香ちゃん。ちょっと抱えるね」

 意識のない知香ちゃんには聞こえない、と分かっていても、断りを入れずに彼女の身体を抱えるのは憚られた。

 いつもスカートを好んで履いている彼女だけれど、今日はぱりっとしたスーツ。しかも、スラックスタイプだ。背中に背負ったとしても下着が見えてしまうような事態にはならないだろう。
 彼女のそばには彼女のスーツケースもある。身体の前で抱えたら手が塞がってしまいそのスーツケースを置き去りにしてしまう。己の背中に知香ちゃんを背負い、もう片方の手でスーツケースの持ち手を握るほうが建設的。そう考えて、彼女の華奢な肉体を己の背中に預けた。

 華奢な見た目の知香ちゃんは、その見た目通りに意識を失っていても重さをそこまで感じない。人間は意識を失っている時が一番重たさを感じるはずなのに。

 ゆっくりと、彼女の身体を落とさないように階段を慎重に降りていく。

 途中、知香ちゃんの手から転がり落ちたミネラルウォーターのボトルを拾う。腰を曲げた動作に合わせて、ゆらゆらと。己の首にかけた名札が、力の入っていない知香ちゃんの腕が、揺れ動いた。



(………悲しみから逃れたい、と思ったら)

 愛することを考えるべきだ、と。あの赤い唇が言った。

「愛すること、ね……」

 愛していた。Maisieメイジーのことを、心から愛していた。だから、愛すること、という意味をわかってるはずだった。

「俺は、どこから間違えたんだろうねぇ……」

 ふぅ、と。誰に問いかけるでもない、その言葉が、降りていく階段に反響して小さく響いた。


 人生は何度だって、ゼロから始められると言ってくれた、知香ちゃんが欲しかった。

 嘘でもいいから。知香ちゃんMaisieに、幸せだとわらってほしかった。それは、結局のところ、紐解いていけば。


(愛して、ほしかったから……)


 彼女に、愛されたかった。だからなのか、彼女が午前中のあの場で俺に嘘をついたことが殊の外面白くなかった。


 自分でも、ひどく矛盾している、とは思う。

 彼女には、嘘でもいいから幸せだと言って欲しいのに。
 彼女に嘘をつかれると、腑が煮え繰り返るほど苛立ってしまう。


 俺は、知香ちゃんに。愛されたかった。

 だからこそ、彼女の嘘が赦せなかった。


 知香ちゃんを、愛すること。知香ちゃんに愛されるのではなく。


『マーガレットさんのことが好きなくせに、私を好きだと嘘をついた。それは紛れもない事実。揺るがない、事実。そうでしょう、片桐さん?』


 午前中に。焦げ茶色の瞳に薄らと涙を滲ませながらも、毅然とした表情で突きつけられた、あの言葉。

(嘘をついているつもりは、なかったんだけどね~ぇ……)

 階段を降り切って、施設の裏側に通ずる廊下をゆっくりと歩いていく。足を踏み入れるとふわふわと沈むカーペット。ふたり分の体重を乗せた俺の足は、自分だけで歩くより沈む。

 俺が歩みを進めるたびに、手に持ったミネラルウォーターのボトルが、チャポチャポと水音を立てた。



(愛すること、ね……)

 ふたたび、その言葉を。今度は心の中で小さく口にした。




 愛すること。たった6文字の言葉なのに、その意味が噛み砕けない。何をすれば、彼女を愛することに繋がるのか。今の俺には、さっぱりわからない。




 悶々と考え込みながら、突き当たりにある階段をふたたび慎重に降りていく。
 降りきった先で、先ほど脳内に描いたフロア図に載っていた交流スクエアに出た。そこには誰も居らず、舞台照明に使われるパーライトのような眩い照明だけが灯されている。

 壁側の椅子まで歩み寄り、手に持ったミネラルウォーターのボトルを椅子に置いて、その隣に知香ちゃんの身体を壊れ物のように……そっとその椅子に預けた。彼女の肩を支えて、壁に凭れかけさせる。だらん、と、細い腕が、白魚のような指が、無造作に投げ出された。

 操者を失ったその手を彼女の膝の上に乗せて、壁に凭れかかった知香ちゃんの正面に座り込む。

「……名札、預かっておくね…」

 そう小さく呟いて、彼女の首にかかっている名札をそっと回収する。完全なお開きを迎えたら纏めて俺が返却しよう、と考え、自分の名札と一緒にネックストラップをくるくると巻いて、背広のポケットに仕舞う。



(…………)



 俺は、知香ちゃんに愛されたかったから、上手くいかなかった。だからこそ、初めから。勝てる試合だと勘違いをして、敗け試合を挑んでいたのだ。


 愛すること。自分本位ではなく、彼女のために、出来ること。


「……」


 目の前で眠る彼女は、まるで……穢れを知らない聖母のようだ。思わず―――これまでの行いを、懺悔したくなるような。全ての罪を、赦してくれるような。


 するり、と手を伸ばして、ゆっくりと。眠ったままの知香ちゃんの頬に触れた。アルコールが入っているからだろうか、俺よりも少しだけ高い体温が手のひらに伝わってくる。



「……俺は、どうしたらいい?知香ちゃん」 



 ぽつり、と。小さく吐き出した言葉が、口の中で消えていった。


 彼女に届かない、と、わかっていても。どんなにこの手を伸ばしても、彼女には届かないのだ、と、わかっていても。



 俺は。彼女が欲しい。

 彼女に。幸せだと言って欲しい。

 彼女に。俺の隣で、ただただ、笑って欲しい。



 俺が望むのは、ただ、それだけなのに。



「どうしたら……俺を好きになってくれる?俺の隣で、笑ってくれる?」



 胸の奥が、軋む。痛い。なんなのだろう、この痛みは。
 不意に。『マーくん』、と、拙いような声色で俺の名前を呼ぶ声が、聴こえた。



「どうしたら……俺の名前を。苗字じゃなくて、俺の名前を……呼んでくれる?」



 どうしたら。

 Maisieが居ないこの世界のことを。

 その、死を。

 それらの、全てを。



「俺は……どうしたら。知香ちゃんはMaisieじゃないって……受け入れられる?」



 軋んだ心に、ピシリ、と。大きな音を立てて、ヒビが入った。そんな、気がした。



 目の前にあるはずの知香ちゃんの顔が歪んで、灼熱の雫が一筋。俺の眦から頬を伝って滑り落ちていく。

 その雫を乱暴に己の指先で拭うと、バイブレーションの音が俺と知香ちゃんだけのこの静かな空間に響いた。

「……」

 それは、知香ちゃんのスーツのポケットから聞こえてくる。きっと、スマホの着信かなにか。この時間に電話をかけてくるのは、恐らく。

(……智くん……だね)

 彼しか、いないだろう。長く長く、バイブレーションの音が響いているのが、何よりの証拠だ。

 しばらく待ってみても、バイブレーションの音は途切れない。

 執拗いほど震えている音を前に、出るべきか、出ないべきか。そう逡巡している間にも、長く長くスマホが震えている。

 出たところで、俺には智くんから見ての前科がある。俺からしてみればそういうつもりは全くないのだけれども。

 この状況では、確実に……濡れ衣を着せられるだけ。

 それでも……それでも。彼女をここに置いて立ち去るわけにもいかない。智くんが迎えに来るのを見届けなければ。

 智くんが知香ちゃんを無防備にさせた結果、黒川に睡眠薬を飲まされた、という事実に、己の感情を赤く染め上げるような怒りを抑える。

(俺だったら。こんな目には合わせないのに)

 ふつふつと滾る感情を堪え、知香ちゃんにふたたび謝った。

「……ごめんね、知香ちゃん。スマホ、借りるね…」

 先ほどの嗚咽を堪えたままの震える声でその言葉を紡いで、そっとスーツのポケットをまさぐり知香ちゃんのスマホを手に取った。

 案の定、ディスプレイには『智』の文字。

 己を落ち着けるように深く深呼吸をして、応答、のボタンを静かにタップする。


 そうして。口の端を、ゆっくりとつり上げながら。


「……やぁ、智くん」


 あの夜のような声色を、作った。



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