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本編・第三部
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どうして、彼が。シンポジウム会場にいるのだろう。
「極東商社さんからは一瀬さんが参加するんだ」
砕けたような話し方。喫茶店で声をかけられた時と同じ。値踏みされるような、黒川さんの視線に……ドクドクと、心臓が跳ねている。
頭の中で、警鐘が大きく鳴り響いている。この直感を無視してはいけないような気がした。
思えば、彼は三井商社営業2課農産チーム所属だ。このシンポジウムに参加していてもおかしくは、なかった。
「……三井商社さんからは、黒川さんが参加されるのですね。奇遇ですねぇ」
言いようのない恐怖感で噴き出た汗が、するりと背筋を滑り落ちていった。頭の中で鳴り響く警鐘を、汗が伝う不快な感覚を、必死に押さえつけてにこりと営業スマイルを顔に貼り付ける。
値踏みするような黒川さんのその視線が、私の手元に、すい、と落とされる。
「一瀬さんだけ……じゃ、ないんだ」
大迫係長や片桐さん、農産販売部のメンバーの名札を持っていることから推測したのだろう。参加しているのは私ひとりではない、ということを確認されるように言葉を投げかけられる。
「……はい、弊社からは農産販売部と通関部のメンバーで。えっと、」
「へぇ、そっか。俺はひとり参加なんだ」
三井商社さんからは他にどなたが、と尋ねたかったのに、黒川さんが言葉を被せてくる。これも、喫茶店で遭遇した時と同じだ。
相変わらず頭の中では警鐘がガンガンと鳴り響いている。まるで耳の真横で喚鐘を打ち鳴らされているようにうるさい。早いところこの場を立ち去りたいのに、身体が言うことを聞かない。足が地面に埋め込まれたかのように動かず、心だけが急いていく。
さながら、今の私は。蛇に睨まれた蛙のようだ。
黒川さんの細い瞳に射すくめられて、身動ぎひとつできない。
「お~い、一瀬さん?知り合い?」
その声に、全身が心臓になったかのようにびくりと跳ねて、ようやく身体が動かせるようになった。私と黒川さんの間に漂う澱んだ空気感に似つかわしくない、少しだけ能天気な声が響く。大迫係長が、黒川さんの背後からひょっこりと顔を出していた。
受付に行くと言って、あの場に戻るのが遅いから探しに来てくれたのだろう。
「す、みません。……2課の取引先の方だったので。黒川さん、また後ほど」
ドクドクと速い鼓動を刻んでいる心臓を押さえつけて、大迫係長に笑みを向けた。失礼します、という視線を黒川さんに送って、するり、と。黒川さんの真横を通りすぎる。
私の背中に、上手く言葉で表現出来ない……そんな視線が刺さっていることを感じながら、係りの人から受け取った名札を一緒に来たメンバーに順繰りに配っていった。
大ホールでのシンポジウムが無事に閉幕し、中ホールでの交流食事会が始まる。極東商社の役員懇談会のように、立食パーティー形式での開催だった。このシンポジウムは国主催ということもあり、官公庁からの出席者も多く、開会の挨拶が長かった。正直、ヒールを履いている足の裏の土踏まずが痛い、という感想しか浮かばない。
「片桐。俺らは通関部の顧客捕まえなきゃいけねぇんだ。俺らを連れて分散して回ってくんねぇ?」
開会の挨拶がスピーカーから流れる中、乾杯用のシャンパンを持った大迫係長が小さな声で片桐さんに話しかけていた。
確かに、通関部が新規顧客を獲得するのならば、農産販売部が抱える取引先から切り込んでいくのが手っ取り早い。大迫係長の提案に、片桐さんがふっと小さく笑みを浮かべた。
「もちろん、そのつもりですよ?俺が通関部から異動してしまったから大迫係長に負担が行っているのですし。ですので、その罪滅ぼしとして俺が大迫係長。そちらの深川係長が一瀬さんとペアを組むような段取りにしています」
片桐さんのその返答に小さく安堵の息を吐いた。片桐さんとペアで動かされることになったら、智から返ってくるであろう今夜の合流場所のメッセージを確認できるタイミングを逸することになりそうだった。
明らかにほっとしたような表情を浮かべた大迫係長が、ぽんぽんと片桐さんの肩を軽くたたく。
「おお、あんがと。やっぱお前仕事早ぇなぁ」
「いえいえ、大迫係長ほどでは」
片桐さんが困ったように笑いながら、謙遜の言葉を口にした。確かに、彼は入社当時からどんな仕事も早かった。彼のおかげで円滑に業務を回せていた部分も多い。言葉に出来ない微妙な感情が湧きあがってきたのと同時に乾杯の挨拶となり、歓談が始まった。
私とペアを組んでくれた深川係長。通常の業務ではなかなか関わりがないひとだった。挨拶まわりの合間合間にプライベートな話題でコミュニケーションを取ってみると、なんと同郷ということが判明して、地元トークに花が咲いた。
「俺の実家は窯元で。明日からの陶器市にも出てるから、一瀬さん帰省するなら寄ってみて」
「ぜひ!あぁ、帰省が楽しみになりました」
三木ちゃんのご両親も足を運んでいるはずの陶器市。深川係長からご実家の窯元名を聞いて、智と一緒に行こうとスマホにメモを取る。
(あ……メッセージ、来てる)
日記アプリにどこかで合流したい、と書き込んだ返事だろう。テーブルの上に置きっぱなしにしていた梅酒のグラスを手にとって、そのグラスに口をつけながらメッセージアプリを立ち上げようと、ディスプレイをタップして画面を切り替えた。
グラスからひと口分の梅酒を口に含む。そうして、喉を滑り降りていった梅酒の味に、一瞬の違和感を抱く。
(……なんか…苦い……?)
氷が溶けてしまってぬるくなってしまったからだろうか。いつも口にしているはずの梅酒と、違う味がする、ような。
(………この会場で提供されている梅酒の種類が、違う、とか…?)
すぅ、と。指先の温度が失くなっていく。自分の心臓の音だけがやけに耳についた。それは、先ほど自分の中に浮かんだ考えを否定するかのようで。
(…………)
極東商社に割り当てられたこのテーブルから離れている時間も多かった。
テーブルに置きっぱなしにしていた、この梅酒のグラス。私が梅酒しか頼まない、ということは、大迫係長と―――片桐さんは、知っているはず。
先ほど感じた、苦み。それはあの夜に口にした……ガラナ入りの梅酒を連想させた。そこから導き出される、答え。
(盛られた!?)
自分でも、ざぁっと音を立てて顔色が変わるのがわかった。
片桐さんにはこれでもかと警戒していたはずなのに。あの夜と同じ手段を使われるとは夢にも思っていなかった。
つい、と、視線を彷徨わせる。片桐さんの明るい髪は目立つから、直ぐに彼を見つけ出せた。大迫係長とふたりで、ここから遠いテーブルを囲んで他社の人達と交流を深めているようだった。
心臓に血流が集中する。脈拍が上がっていくのは、盛られた所為なのか、それとも自分の中の混乱が引き起こしている現象なのか。判別がつかない。それでも、これ以上この場にいては片桐さんの思う壺だ。
有り得ない速さで鼓動を刻んでいる心臓を押さえつけて敢えて儚げな表情を作って、隣に立つ深川係長に視線を向けた。
「深川係長……すみません、ちょっと飲みすぎたのか具合が悪くて。少しばかり席を外してもよろしいですか?」
「え、大丈夫?なんならもう交流会も終盤だしそのまま帰ってもいいと思う。大迫には俺から伝えておくよ」
顔真っ青だよ、と。深川係長は眉間に皺を寄せて心配そうな面持ちで私を見つめた。
帰っていい、という言質が取れれば十分。会社の人に対して嘘をつくことに罪悪感が無いわけではなかったけれども、それよりも身の安全のためにこの場から一刻も早く脱したかった。
深川係長の配慮に対する謝意を伝えてテーブルを辞する。テーブルの下、テーブルクロスで隠れる位置に押し込めて置いていた自分の鞄を肩にかけて、スーツケースを手に持ち、くるり、と踵を返して中ホールの出入り口に向かった。
足早に中ホールの出入り口をくぐり抜ける。クロークに荷物を預けなくて正解だった。足を踏み入れるとふわふわと沈むカーペットに、廊下に設置されたシャンデリアの光がキラキラと差し込んでいる。そのカーペットの上を暫く歩くと、正面玄関に繋がる階段の傍に自動販売機があった。
(確か……水を飲んで、薄めれば)
日本で流通している媚薬は漫画やアニメで表現されるような催淫効能は無く、基本的には健康食品に使われるものの組み合わせ。水を飲んで、成分を薄め、体内から排出するように促せば特に問題ないだろう、というのが智の見解だった。その分析の通りで、あの時智に水を飲ませてもらって以降は、あんなに速かった鼓動がおさまっていた。
あの場面を思い出しながら、震える手で肩にかけた鞄から財布を取り出してミネラルウォーターを購入する。キャップを外して一気にボトルの半分まで飲み干した。
とにかく早急に智と合流したい。スーツのポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを確認する。さっきの場では飲んだ梅酒に気を取られて智からのメッセージを確認することも出来なかった。ちょうど交流食事会が始まった時間に、智からのメッセージが届いている。
『ただいま。今、着陸した。手続きして電車乗ったら、ちょうど食事会が終わる頃にそっちに着く。施設の裏側で待ち合わせよう』
この施設の裏口で待ち合わせようと言われるとは思っていなかった。ここは自宅から歩いて来れる範囲だから、自宅の最寄り駅の近く等で待ち合わせるのではと予想していた。
けれど、こういう状況になってしまったから、逆に良かったのかもしれない。小刻みに震える指先を懸命に動かしながら、片桐さんに盛られた気がする、ということを書き込んだ。
バクバクと、心臓が跳ねている。胸元を抑えながら浅い呼吸をしつつ、出入り口から死角になる自動販売機の側面に凭れかかって、盛られたものが全身に回らないようにじっとして、智からの返信を待つ。
この時間なら確実に帰ってくる電車の中、もしくは、もう最寄駅に着いているはず。なのに。
(既読がつかない……)
20分ほど待っても、智からの返信が、ない。
ぎゅう、と、手に持ったスマホを握り締める。
(……どうしよう)
少しばかり身体がふらつく感覚がある。前回盛られた時にはこんな感覚はなかった。あれとは違う成分が含まれているのかも。
会場の近くで身動きが出来なくなるよりは、施設の裏側に先に行っていた方がいいかもしれない。片桐さんが私を探しに来て、あのヘーゼル色の瞳に捕らえられたら、もう私は終わりだ。待ち合わせ場所に着いたらメッセージアプリに連絡ではなく、電話をかけよう。
ふらつく身体の感覚を堪えて壁に手をつきながら、ゆっくりと階段を下りようとした、その瞬間。
「あれ。一瀬さん、ここにいたんだ」
ねっとりとした声が、階段に反響して響いた。
面長の細い瞳が、すっと。細められる。
「一瀬さんを探していたんだ。ちょっと仕事のことで……話したいことがあってさ」
喉が凍りついている。上手く声が出せない。声を出そうとすると、ひゅう、と、喉が鳴った。
「あぁ、そんなふらついた身体で階段を下りたら足を踏み外して落ちるよ。俺と一緒にあっちのエレベーターに乗ろう」
黒川さんはそう口にして、にへら、と。気持ちの悪い笑みを浮かべた。べたついた髪の脂が、階段に下げられた小さなペンダントライトの光を奇しく反射する。
『そんなふらついた身体』。まるで、私の身体に起きていることを知っている、というような。そんなセリフだ。
その言葉に、黒川さんのその確信犯のような笑い方に。思わず小さく息を飲んで、自分の推測が誤っていたことにようやく気がついた。
(片桐さんじゃなくて……黒川、さん!?)
そうだ。黒川さんは、三井商社のひと。智が今日の夕方にノルウェー出張から帰ってくることを知っているはず。私の近くに、智がいない、と。知っているのだ。
彼は不正な取引で智を引き摺り下ろそうとしている、とばかり思い込んでいた。違うのだ。彼は、過去に。
(警察沙汰を起こしたことがあるひとだった……!!)
智に嘘をつかれた、あの日。黒川さんのことをなんと言っていたか。
『いつか、知香が…黒川から、刃物を向けられるかもしれない。スタンガンで痛めつけられるかもしれない。本当に、ドラマみてぇだけど……俺を憎んでいる黒川なら…………やりかねねぇんだ』
その言葉が脳裏に蘇って、大袈裟でもなんでもなく生命の危険を感じて全身の血の気が引いていく。指先すら、動かせない。
青ざめた表情のまま黒川さんを見つめていると、黒川さんの苛立ったような声が低く響いた。
「ほら。こっち来いって」
左腕を勢いよく引っ張られて、身体がつんのめる。ふらつく身体を懸命に動かして抵抗しようとするけれど、所詮、女の力では男の力に敵わない。触れられた箇所が、不快な熱を持った。
離して、と、瞬間的に大声を出そうと口を開いた、その瞬間。
ふわり、と。シトラスの香りが漂った。
「俺の女に手を出さないでくれる?」
飄々とした声が響き、私と黒川さんの間にネイビーの背中が割り込まれた。
私の腕を掴んでいる黒川さんの腕を、片桐さんが握っている。握った指の先が白く変色していることから、相当な力を入れているのだろう。黒川さんがその痛みに耐えかねたのか顔を顰めて私の腕からその手を離した。
すっと。ヘーゼル色の瞳が、黒川さんを真っ直ぐに捕らえ、獲物を前にしたかのように細く歪む。横から見ている私でもはっきりとわかる、その変化。
「いい度胸だね?取引先の人とはいえ、黒川さん。この現状はちょ~っと看過できないね~ぇ?」
ゆっくりと。片桐さんの口元が、まるで黒川さんを嘲るように歪んでいく。笑う、ではなく。嗤う、という言葉が適切のような、その表情。
片桐さんのその整った顔に浮かび始めた残虐な微笑。私に向けられているわけではない、と分かっていても。毒のような何かが足元を這いずって、私を雁字搦めに捕らえるような、そんな感覚。
色にしてみれば、それはきっと紫色の霧なのだろうな、と、ぼんやり考えた。瘴気と呼ぶべきような何かが、私と黒川さん、片桐さんの3人しかいないこの空間に、私を苛むように立ち込めていく。
「なっ……この女は、邨上の」
黒川さんが焦ったように智の名前を口にする。その単語に、片桐さんが不機嫌そうに眉を跳ね上げた。
「聞こえなかったか?……俺の女に、手を出すな」
午前中、打ち合わせ前に。俺に嘘をついたんだ、と口にしたときのような、冷え冷えとした声色。地を這うようなその声が、低く、低く響いた。
「違った……のか?」
片桐さんの言葉を受けて、黒川さんが呆然とした表情で片桐さんを見つめていた。片桐さんは黒川さんをの腕を握ったまま、威嚇するように黒川さんを睨み続けている。
視線を外したのは、黒川さんが先だった。片桐さんに掴まれていた腕を勢いよく振り払い、そうして、睨みつけるような表情を私に向けた。その表情は、まるで。
『勘違いさせやがって』
とでもいうような、そんな表情だった。黒川さんは、私を睨みつけたままくるりと踵を返していく。黒い背広の裾が翻った。
黒川さんの背中が完全に見えなくなったことを確認して、割って入ってくれた片桐さんに視線を向けた。ヘーゼル色の瞳が言いようの無い感情を湛えて、大きく揺れ動いている。
絶体絶命の場面を助けてもらったのは感謝するけれど、私はあなたの女ではない。そんな言葉を紡ごうと口を開いて―――
(あ、れ……?)
ふつり、と。意識が途切れた。
「極東商社さんからは一瀬さんが参加するんだ」
砕けたような話し方。喫茶店で声をかけられた時と同じ。値踏みされるような、黒川さんの視線に……ドクドクと、心臓が跳ねている。
頭の中で、警鐘が大きく鳴り響いている。この直感を無視してはいけないような気がした。
思えば、彼は三井商社営業2課農産チーム所属だ。このシンポジウムに参加していてもおかしくは、なかった。
「……三井商社さんからは、黒川さんが参加されるのですね。奇遇ですねぇ」
言いようのない恐怖感で噴き出た汗が、するりと背筋を滑り落ちていった。頭の中で鳴り響く警鐘を、汗が伝う不快な感覚を、必死に押さえつけてにこりと営業スマイルを顔に貼り付ける。
値踏みするような黒川さんのその視線が、私の手元に、すい、と落とされる。
「一瀬さんだけ……じゃ、ないんだ」
大迫係長や片桐さん、農産販売部のメンバーの名札を持っていることから推測したのだろう。参加しているのは私ひとりではない、ということを確認されるように言葉を投げかけられる。
「……はい、弊社からは農産販売部と通関部のメンバーで。えっと、」
「へぇ、そっか。俺はひとり参加なんだ」
三井商社さんからは他にどなたが、と尋ねたかったのに、黒川さんが言葉を被せてくる。これも、喫茶店で遭遇した時と同じだ。
相変わらず頭の中では警鐘がガンガンと鳴り響いている。まるで耳の真横で喚鐘を打ち鳴らされているようにうるさい。早いところこの場を立ち去りたいのに、身体が言うことを聞かない。足が地面に埋め込まれたかのように動かず、心だけが急いていく。
さながら、今の私は。蛇に睨まれた蛙のようだ。
黒川さんの細い瞳に射すくめられて、身動ぎひとつできない。
「お~い、一瀬さん?知り合い?」
その声に、全身が心臓になったかのようにびくりと跳ねて、ようやく身体が動かせるようになった。私と黒川さんの間に漂う澱んだ空気感に似つかわしくない、少しだけ能天気な声が響く。大迫係長が、黒川さんの背後からひょっこりと顔を出していた。
受付に行くと言って、あの場に戻るのが遅いから探しに来てくれたのだろう。
「す、みません。……2課の取引先の方だったので。黒川さん、また後ほど」
ドクドクと速い鼓動を刻んでいる心臓を押さえつけて、大迫係長に笑みを向けた。失礼します、という視線を黒川さんに送って、するり、と。黒川さんの真横を通りすぎる。
私の背中に、上手く言葉で表現出来ない……そんな視線が刺さっていることを感じながら、係りの人から受け取った名札を一緒に来たメンバーに順繰りに配っていった。
大ホールでのシンポジウムが無事に閉幕し、中ホールでの交流食事会が始まる。極東商社の役員懇談会のように、立食パーティー形式での開催だった。このシンポジウムは国主催ということもあり、官公庁からの出席者も多く、開会の挨拶が長かった。正直、ヒールを履いている足の裏の土踏まずが痛い、という感想しか浮かばない。
「片桐。俺らは通関部の顧客捕まえなきゃいけねぇんだ。俺らを連れて分散して回ってくんねぇ?」
開会の挨拶がスピーカーから流れる中、乾杯用のシャンパンを持った大迫係長が小さな声で片桐さんに話しかけていた。
確かに、通関部が新規顧客を獲得するのならば、農産販売部が抱える取引先から切り込んでいくのが手っ取り早い。大迫係長の提案に、片桐さんがふっと小さく笑みを浮かべた。
「もちろん、そのつもりですよ?俺が通関部から異動してしまったから大迫係長に負担が行っているのですし。ですので、その罪滅ぼしとして俺が大迫係長。そちらの深川係長が一瀬さんとペアを組むような段取りにしています」
片桐さんのその返答に小さく安堵の息を吐いた。片桐さんとペアで動かされることになったら、智から返ってくるであろう今夜の合流場所のメッセージを確認できるタイミングを逸することになりそうだった。
明らかにほっとしたような表情を浮かべた大迫係長が、ぽんぽんと片桐さんの肩を軽くたたく。
「おお、あんがと。やっぱお前仕事早ぇなぁ」
「いえいえ、大迫係長ほどでは」
片桐さんが困ったように笑いながら、謙遜の言葉を口にした。確かに、彼は入社当時からどんな仕事も早かった。彼のおかげで円滑に業務を回せていた部分も多い。言葉に出来ない微妙な感情が湧きあがってきたのと同時に乾杯の挨拶となり、歓談が始まった。
私とペアを組んでくれた深川係長。通常の業務ではなかなか関わりがないひとだった。挨拶まわりの合間合間にプライベートな話題でコミュニケーションを取ってみると、なんと同郷ということが判明して、地元トークに花が咲いた。
「俺の実家は窯元で。明日からの陶器市にも出てるから、一瀬さん帰省するなら寄ってみて」
「ぜひ!あぁ、帰省が楽しみになりました」
三木ちゃんのご両親も足を運んでいるはずの陶器市。深川係長からご実家の窯元名を聞いて、智と一緒に行こうとスマホにメモを取る。
(あ……メッセージ、来てる)
日記アプリにどこかで合流したい、と書き込んだ返事だろう。テーブルの上に置きっぱなしにしていた梅酒のグラスを手にとって、そのグラスに口をつけながらメッセージアプリを立ち上げようと、ディスプレイをタップして画面を切り替えた。
グラスからひと口分の梅酒を口に含む。そうして、喉を滑り降りていった梅酒の味に、一瞬の違和感を抱く。
(……なんか…苦い……?)
氷が溶けてしまってぬるくなってしまったからだろうか。いつも口にしているはずの梅酒と、違う味がする、ような。
(………この会場で提供されている梅酒の種類が、違う、とか…?)
すぅ、と。指先の温度が失くなっていく。自分の心臓の音だけがやけに耳についた。それは、先ほど自分の中に浮かんだ考えを否定するかのようで。
(…………)
極東商社に割り当てられたこのテーブルから離れている時間も多かった。
テーブルに置きっぱなしにしていた、この梅酒のグラス。私が梅酒しか頼まない、ということは、大迫係長と―――片桐さんは、知っているはず。
先ほど感じた、苦み。それはあの夜に口にした……ガラナ入りの梅酒を連想させた。そこから導き出される、答え。
(盛られた!?)
自分でも、ざぁっと音を立てて顔色が変わるのがわかった。
片桐さんにはこれでもかと警戒していたはずなのに。あの夜と同じ手段を使われるとは夢にも思っていなかった。
つい、と、視線を彷徨わせる。片桐さんの明るい髪は目立つから、直ぐに彼を見つけ出せた。大迫係長とふたりで、ここから遠いテーブルを囲んで他社の人達と交流を深めているようだった。
心臓に血流が集中する。脈拍が上がっていくのは、盛られた所為なのか、それとも自分の中の混乱が引き起こしている現象なのか。判別がつかない。それでも、これ以上この場にいては片桐さんの思う壺だ。
有り得ない速さで鼓動を刻んでいる心臓を押さえつけて敢えて儚げな表情を作って、隣に立つ深川係長に視線を向けた。
「深川係長……すみません、ちょっと飲みすぎたのか具合が悪くて。少しばかり席を外してもよろしいですか?」
「え、大丈夫?なんならもう交流会も終盤だしそのまま帰ってもいいと思う。大迫には俺から伝えておくよ」
顔真っ青だよ、と。深川係長は眉間に皺を寄せて心配そうな面持ちで私を見つめた。
帰っていい、という言質が取れれば十分。会社の人に対して嘘をつくことに罪悪感が無いわけではなかったけれども、それよりも身の安全のためにこの場から一刻も早く脱したかった。
深川係長の配慮に対する謝意を伝えてテーブルを辞する。テーブルの下、テーブルクロスで隠れる位置に押し込めて置いていた自分の鞄を肩にかけて、スーツケースを手に持ち、くるり、と踵を返して中ホールの出入り口に向かった。
足早に中ホールの出入り口をくぐり抜ける。クロークに荷物を預けなくて正解だった。足を踏み入れるとふわふわと沈むカーペットに、廊下に設置されたシャンデリアの光がキラキラと差し込んでいる。そのカーペットの上を暫く歩くと、正面玄関に繋がる階段の傍に自動販売機があった。
(確か……水を飲んで、薄めれば)
日本で流通している媚薬は漫画やアニメで表現されるような催淫効能は無く、基本的には健康食品に使われるものの組み合わせ。水を飲んで、成分を薄め、体内から排出するように促せば特に問題ないだろう、というのが智の見解だった。その分析の通りで、あの時智に水を飲ませてもらって以降は、あんなに速かった鼓動がおさまっていた。
あの場面を思い出しながら、震える手で肩にかけた鞄から財布を取り出してミネラルウォーターを購入する。キャップを外して一気にボトルの半分まで飲み干した。
とにかく早急に智と合流したい。スーツのポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを確認する。さっきの場では飲んだ梅酒に気を取られて智からのメッセージを確認することも出来なかった。ちょうど交流食事会が始まった時間に、智からのメッセージが届いている。
『ただいま。今、着陸した。手続きして電車乗ったら、ちょうど食事会が終わる頃にそっちに着く。施設の裏側で待ち合わせよう』
この施設の裏口で待ち合わせようと言われるとは思っていなかった。ここは自宅から歩いて来れる範囲だから、自宅の最寄り駅の近く等で待ち合わせるのではと予想していた。
けれど、こういう状況になってしまったから、逆に良かったのかもしれない。小刻みに震える指先を懸命に動かしながら、片桐さんに盛られた気がする、ということを書き込んだ。
バクバクと、心臓が跳ねている。胸元を抑えながら浅い呼吸をしつつ、出入り口から死角になる自動販売機の側面に凭れかかって、盛られたものが全身に回らないようにじっとして、智からの返信を待つ。
この時間なら確実に帰ってくる電車の中、もしくは、もう最寄駅に着いているはず。なのに。
(既読がつかない……)
20分ほど待っても、智からの返信が、ない。
ぎゅう、と、手に持ったスマホを握り締める。
(……どうしよう)
少しばかり身体がふらつく感覚がある。前回盛られた時にはこんな感覚はなかった。あれとは違う成分が含まれているのかも。
会場の近くで身動きが出来なくなるよりは、施設の裏側に先に行っていた方がいいかもしれない。片桐さんが私を探しに来て、あのヘーゼル色の瞳に捕らえられたら、もう私は終わりだ。待ち合わせ場所に着いたらメッセージアプリに連絡ではなく、電話をかけよう。
ふらつく身体の感覚を堪えて壁に手をつきながら、ゆっくりと階段を下りようとした、その瞬間。
「あれ。一瀬さん、ここにいたんだ」
ねっとりとした声が、階段に反響して響いた。
面長の細い瞳が、すっと。細められる。
「一瀬さんを探していたんだ。ちょっと仕事のことで……話したいことがあってさ」
喉が凍りついている。上手く声が出せない。声を出そうとすると、ひゅう、と、喉が鳴った。
「あぁ、そんなふらついた身体で階段を下りたら足を踏み外して落ちるよ。俺と一緒にあっちのエレベーターに乗ろう」
黒川さんはそう口にして、にへら、と。気持ちの悪い笑みを浮かべた。べたついた髪の脂が、階段に下げられた小さなペンダントライトの光を奇しく反射する。
『そんなふらついた身体』。まるで、私の身体に起きていることを知っている、というような。そんなセリフだ。
その言葉に、黒川さんのその確信犯のような笑い方に。思わず小さく息を飲んで、自分の推測が誤っていたことにようやく気がついた。
(片桐さんじゃなくて……黒川、さん!?)
そうだ。黒川さんは、三井商社のひと。智が今日の夕方にノルウェー出張から帰ってくることを知っているはず。私の近くに、智がいない、と。知っているのだ。
彼は不正な取引で智を引き摺り下ろそうとしている、とばかり思い込んでいた。違うのだ。彼は、過去に。
(警察沙汰を起こしたことがあるひとだった……!!)
智に嘘をつかれた、あの日。黒川さんのことをなんと言っていたか。
『いつか、知香が…黒川から、刃物を向けられるかもしれない。スタンガンで痛めつけられるかもしれない。本当に、ドラマみてぇだけど……俺を憎んでいる黒川なら…………やりかねねぇんだ』
その言葉が脳裏に蘇って、大袈裟でもなんでもなく生命の危険を感じて全身の血の気が引いていく。指先すら、動かせない。
青ざめた表情のまま黒川さんを見つめていると、黒川さんの苛立ったような声が低く響いた。
「ほら。こっち来いって」
左腕を勢いよく引っ張られて、身体がつんのめる。ふらつく身体を懸命に動かして抵抗しようとするけれど、所詮、女の力では男の力に敵わない。触れられた箇所が、不快な熱を持った。
離して、と、瞬間的に大声を出そうと口を開いた、その瞬間。
ふわり、と。シトラスの香りが漂った。
「俺の女に手を出さないでくれる?」
飄々とした声が響き、私と黒川さんの間にネイビーの背中が割り込まれた。
私の腕を掴んでいる黒川さんの腕を、片桐さんが握っている。握った指の先が白く変色していることから、相当な力を入れているのだろう。黒川さんがその痛みに耐えかねたのか顔を顰めて私の腕からその手を離した。
すっと。ヘーゼル色の瞳が、黒川さんを真っ直ぐに捕らえ、獲物を前にしたかのように細く歪む。横から見ている私でもはっきりとわかる、その変化。
「いい度胸だね?取引先の人とはいえ、黒川さん。この現状はちょ~っと看過できないね~ぇ?」
ゆっくりと。片桐さんの口元が、まるで黒川さんを嘲るように歪んでいく。笑う、ではなく。嗤う、という言葉が適切のような、その表情。
片桐さんのその整った顔に浮かび始めた残虐な微笑。私に向けられているわけではない、と分かっていても。毒のような何かが足元を這いずって、私を雁字搦めに捕らえるような、そんな感覚。
色にしてみれば、それはきっと紫色の霧なのだろうな、と、ぼんやり考えた。瘴気と呼ぶべきような何かが、私と黒川さん、片桐さんの3人しかいないこの空間に、私を苛むように立ち込めていく。
「なっ……この女は、邨上の」
黒川さんが焦ったように智の名前を口にする。その単語に、片桐さんが不機嫌そうに眉を跳ね上げた。
「聞こえなかったか?……俺の女に、手を出すな」
午前中、打ち合わせ前に。俺に嘘をついたんだ、と口にしたときのような、冷え冷えとした声色。地を這うようなその声が、低く、低く響いた。
「違った……のか?」
片桐さんの言葉を受けて、黒川さんが呆然とした表情で片桐さんを見つめていた。片桐さんは黒川さんをの腕を握ったまま、威嚇するように黒川さんを睨み続けている。
視線を外したのは、黒川さんが先だった。片桐さんに掴まれていた腕を勢いよく振り払い、そうして、睨みつけるような表情を私に向けた。その表情は、まるで。
『勘違いさせやがって』
とでもいうような、そんな表情だった。黒川さんは、私を睨みつけたままくるりと踵を返していく。黒い背広の裾が翻った。
黒川さんの背中が完全に見えなくなったことを確認して、割って入ってくれた片桐さんに視線を向けた。ヘーゼル色の瞳が言いようの無い感情を湛えて、大きく揺れ動いている。
絶体絶命の場面を助けてもらったのは感謝するけれど、私はあなたの女ではない。そんな言葉を紡ごうと口を開いて―――
(あ、れ……?)
ふつり、と。意識が途切れた。
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「愛と快楽に溺れて」に登場する、水野課長代理と池野課長のお話し。
◎バッドエンド。胸が締め付けられるような切ないシーンが多めになります。
◎タイトル番号の横にサブタイトルがあるものは他キャラ目線のお話しです。
◎作中に出てくる企業、情報、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです。
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