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本編・第三部
190 願いとともに。
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オレンジ色の豆電球が、室内をぼんやりと映し出す。知香が学生の頃に暮らしていた部屋は、2月に引き払った知香の自宅と比べて思いのほかシンプルで。学習机に、小さなテレビと小さなクローゼットがあるだけだった。
彌月さんが用意してくれていた、ふたり分の布団。それを当たり前のように真横にくっつけて、ふたりで布団に潜り込み眠りについた。
もちろん。『お仕置き』と称して知香を組み敷き、胸元にも背中にも、俺のシルシをつけた。レンタカーの窓を開けて、硫黄の香りを胸に吸い込んだあの時。せっかくだから日帰り温泉に行こうと知香が笑っていたが、あの状態ではとても無理だろう。きっと、明日起きた知香はむくれているはずだ。その表情を想像すると笑みが零れる。
(……新婚旅行、は。値の張る旅館に行く、っつうのでもいいな……)
プロポーズすら未だの状態で、気が早すぎるのはわかりきっている。けれど、俺にとっては。生涯の伴侶とするのは、知香以外、考えられない。
離れで貸し切り温泉がある旅館。確か、自宅から車で数時間の山奥に、秘境の温泉旅館があったはず。浅田によると、今、じわじわと口コミで良い評判が広がっている、らしい。もっとも……知香が、せっかくの新婚旅行は海外に行きたい、と言えばそうするつもりだが。
(………眠れねぇ)
こちらに向かう飛行機の中で寝たからか、全く眠くないのだ。日本とノルウェー間での時差ぼけが直っていないことも眠れない一因だろう。こういう時、寝なければと思えば思うほど眠れなくなる。諦めのようなため息を、ほぅ、と、長く吐き出しながら、ゆっくりと瞼をおろす。
目を瞑ると。昨晩対峙した、憎悪に染まったヘーゼル色の瞳が、鮮やかに蘇る。
「……」
ふっと。目を開く。首だけを動かして、俺の右腕を枕にしている知香の穏やかな寝顔をじっと眺めた。
深く寝入っている知香を起こさないように、そっと頭上に手を伸ばしてスマホの充電コードを手に取り、スマホ本体を引き寄せる。充電コードから手を離して、今度は自分の小さな鞄に手を伸ばす。片手でチャックを開き、イヤホンを引っ張り出した。
飛行機の中で、知香と一緒にあの思い出の曲を聴いた。
けれど、今は。あのヘーゼル色の瞳がちらつく、今は。音楽を聴く気分には、とてもなれない。
(……)
イヤホンをスマホに接続し、音声メモのアプリを立ち上げた。昨晩の日付がタイトルになっている音声を呼び出し、イヤホンを左耳だけにつける。
『知香っ……!』
焦ったような自分の声色が、冒頭から再生される。その直後に、ガタン、と。スーツケースが自動ドアにぶつかった音が響いた。
「………っ…」
はぁ、と。小さく息を吐いて、左手だけでアプリを操作し、昨晩何度も聞いて、秒数―――いや、ミリ秒数まで憶えてしまった位置まで、早送りする。
『彼女が自分で気が付いたから、彼女は助かった。黒川が混ぜた睡眠薬入りの酒を飲み干さなかった。だから俺が間に合った。……お前が黒川の恨みを買ったが故に、知香ちゃんを危険に晒した。この事実は消えない。一生』
低く、低く。地を這うような声が、片耳だけのイヤホンから小さく響く。目を瞑り、全身の空気を抜くように、身体に残った息のすべてを吐き出した。
『わかるか?お前が、知香ちゃんを危険に晒した』
片桐の。憎悪が滲んだ、低い声色。聞いているだけでも、己の体温が低くなっていく。込み上げてくる自分への怒りを堪えて、ぐっと唇を噛む。ぽふり、と音を立てて、自分の枕の左に、スマホが沈んだ。
この音声は。片桐の言質を取るために起動させていた、スマホの録音機能のもの。
知香を害そうとしていたのは片桐ではなく、黒川だった。片桐は知香を救った。前科があるとはいえ、早とちりして片桐に濡れ衣を着せ、挙句に片桐を電話口で罵倒した己の情けなさに、反吐が出るほどだ。
『この状況をみろ。かっとなりやすいお前が上手く立ち回らないからこそ黒川の恨みを買ったのだろう』
低く響く、片桐の言葉。
かっとなりやすい。その一言に、反論することなど、出来るはずもない。
年始。片桐につけられた知香に自宅に帰ることを禁じ、電話で博之さんに同棲の許しを請うた翌朝。片桐が知香を待ち伏せしていた、あの朝だって。俺は、かっとなる自分を抑えられず、片桐に殴り掛かるところだった。あの時の俺を止めたのは、紛れもなく知香だった。
結局、俺は。知香がいなければ、正常な判断すら、くだせなくなるのだ。
(んだよ……ただの、阿呆じゃねぇか…)
左腕を持ち上げ、その腕で自分の顔を隠すように動かした。瞑った目の上にずっしりと、自分の腕の重さがのしかかる。
鉛のように、腕が重たい。
この重さはまるで。小林と、片桐の。
(ふたりが知香に向ける、想いの、重さ、だ……)
ぐるぐると。真っ暗闇にひとり取り残され、五感の全てを封じられたような、途方もない宵闇の中。
鮮明なはずの記憶が、セピア色の画面に流れていく。
いつもの交差点で。小林が俺に向けてきた、あの悔しそうな笑顔。
昨日の、夜。去り際に一瞬だけ知香を見遣った、痛みを孕んだ片桐の視線。
小林も、片桐も。自分の願いが叶わなくても、知香が幸せであればいい、と。それに勝るものなど、この世界にあるわけがないのだ、と。俺に―――突き付けてきた。
俺は。小林とも。片桐とも。相容れることはない。
一生をかけても、彼らと相容れることは、できない。
それは、あのふたりも同じだろう。あのふたりも、俺と相容れるつもりはないはずだ。
それでも、あのふたりは。喩えこの世界で一番相容れない相手であっても、構わないと。
知香が笑っていられるのなら、知香が幸せであるのならば、それでいいのだ、と。そう、俺に突き付けてきた。
(……ッ、)
ぎり、と。奥歯をあらん限りの力で噛み締める。
『……知香ちゃんに、お前はふさわしくない。お前では知香ちゃんを護れない。彼女を護ることすら満足に出来ないお前が、彼女を危険に晒すことしか出来ないお前が。知香ちゃんを幸せになんか出来やしない。俺はそう思う』
左耳から零れ落ちてくる、片桐の震えた声。
ただただ。自分が、滑稽だ。
あの時。あの瞬間。
明けない夜はある、と。
俺を嗤いながら見つめた、ヘーゼル色の瞳。
あの時。俺を嘲笑っていたのは。
ヘーゼル色の瞳ではなく―――俺自身だった。
絢子を失って、自分のすべてを砕かれて。世界から色を失くして。
失くした色を、鮮やかな絵の具を、その手いっぱいに抱え切れないほど俺に与えて。世界に色を取り戻してくれたのは、知香だ。
片桐に挑発され、かっとなった瞬間に自分を取り戻させてくれたのも、知香。
片桐が企てた策略を妨害しようと動いたのは、三木と小林だ。小林に至っては、電磁遮蔽によって全く身動きが取れなくなった俺を、あの店まで導いてくれた。そのアシストをしたのは、藤宮。
片桐の暗示を振り払い、知香は自分で俺の腕の中に戻ってきてくれた。
昨晩。黒川の魔の手から知香を護ったのは、ほかでもない片桐。
これまで、己の手で取り戻したものなど―――ひとつも、ない。
『………俺からの最後通牒だ。お前の覚悟をみせろ。彼女を護り抜くという、揺るぎない覚悟を』
イヤホンから響く、片桐の無機質な声が。
俺の身体を、心を、感情を、苛んでいく。
―――もう、誰も、失いたく、ない。
慟哭、悲鳴、咆哮、懇願。冷たく俺を突き放す片桐の言葉に込められた、片桐の胸の中に閉じ込めてある、誰も失いたくない、という、一糸纏わぬ裸の言葉。
鉛のように重い腕をのろのろと動かし、緩慢な動作でスマホを手に取った。
音声アプリが表示されたディスプレイ。そのディスプレイをダブルタップして、再生位置を少しだけ巻き戻す。
『お前の覚悟をみせろ。彼女を護り抜くという、揺るぎない覚悟を』
ふたたび再生された、片桐の、冷たい声。
もう誰ひとりとして失いたくないのだ、と。
自分を救ってくれたひとを、失いたくないのだ、と。
生命のヒカリが、伸ばした手のひらから、指の隙間から零れ落ちていく、と。絶望するような。
心も身体も感情も、何もかもが焼け落ちて……悠久の時の彼方へ散り散りに消えていくような。
(……この、言葉は)
片桐の。魂の叫び、だ。
何度再生しても。その言葉に、その声に。
生死の狭間を揺蕩っているような。
片桐が俺に、縋っているような。
そんな感情が、この言葉の裏に、潜んでいる。滲みでて、いる。
それは、彌月さんが用意してくれた、あのまっさらなバスタオルの上に落とされたシミのようだった。
叩いても、擦っても落ちない。俺の中から、消えてくれない。
音声アプリを操作し再生を停止させ、ふたたび重たい腕を自分を覆い隠すように乗せた。
片桐は。諜報機関に属していた、と、口にした。
それはきっと、俺が知らない宵闇の世界だ。
生も死もすべてが曖昧で、生きる事も死ぬ事も、さほど大差がないような、そんな宵闇のなかを。
明日をも知らぬ、砂塵の日々を、生きてきたのだろう。
『闇』の世界を生きてきた片桐。
そんな片桐の。
この世の哀しみを全て凝縮した悲惨な感情を、激しい感情を。
あのヘーゼル色の瞳の向こうに抱える闇を。
色も無いそれらを、表現できる言葉を。
情けないことに。
『光』の世界を生きてきた俺は。
(持ちあわせてなんか、いやしない)
自分の顔を隠すように置いていた左腕を動かして。天井の豆電球に向かって手を伸ばし、手のひらを翳す。オレンジ色の淡い光が、広げた指の間から差し込んでゆく。
俺の足元に放りなげられた、薄紅色の封筒。あの封筒に封入されていた、複数の証拠と呼べる資料。あれになんの思惑もないと思えるほど、俺が片桐に向ける警戒心は、正直なところ薄くは無かった。
嫌な想像は、精神を蝕み、削る。心をすり鉢のなかにつっこまれ、容赦なく削られていく。
あの狡猾な男が、なんの思惑もなく、なんの抵抗もなく。あの資料を、憎むべきはずの俺に渡すだろうか。知香をあの場で救ったのも、俺を陥れるために黒川と仕組んだ行為なのでは、と。
そんな考えが、昨晩。知香を自宅に連れ帰っている最中に思い浮かんだ。
知香をベッドに寝かせ、リビングのソファに沈み込んで、ただただあの資料と睨みあった。この……今聞いている音声を、聞きながら。
『人間関係は鏡。他人を見下せば、他人からも見下される。他人を嫌えば、他人からも嫌われる。今回に関してはあなたが悪というわけではないとわかっているけれど、あなた自身が変わらないと状況は変わらないわ』
池野課長に、突き付けられたあの言葉。
そして―――この、音声。
(人間関係は……鏡)
この音声に吹き込まれた、揺れ動く片桐の感情。
なにものにも代えられない、片桐柾臣という、ただひとりの人間の―――全て。
ぼんやりとした豆電球に翳した手のひらを、ぐっと握りしめる。
(……俺は、信じる。片桐を)
あのような出来事を経て、片桐を赦すことは到底難しい。けれど。
(もう、誰も失いたくねぇって感情だけは……きっと、真実、だ)
この音声は、決して消さない。スマホの容量をどれほど圧迫しようとも……この音声は一生、消さない。
自分を奮い立たせるために。自分を戒めるために。
小林の気持ちを、片桐の想いを、背負うために。
「…………」
池野課長に、証拠が揃った、と、連絡を取った時。連休明けに黒川と対峙して、全てを押えて来い、と……指示された。
片桐から渡された封筒の中に入っていた書類が示す事実。
巻き込んでいたのは極東商社だけではなかった。巧妙な手口で通謀した行為が垣間見えた。
片桐からもたらされた情報は非常に有益だった。しかし、有益だからこそ、その信憑性を慎重に検証しなければならなかった。
黒川は恐らく、いや、ほぼ確実に。複数の商社を巻き込んでいる。片桐からもたらされた情報は紛れもなくその薄衣を纏っていた。それらの全容を明らかにし、黒川を―――懲戒解雇できる形まで持っていけ、と。あの指示には、明らかにそういう意図がある。
俺が行った虚偽の理由によるオフィスビルの鍵の賃借。これを相殺させる意味も含め……極東商社だけではなく、その他に関わっている商社を全て暴け、と。そう指示されたのだ。
だから。俺は今度こそ。自分の手で。
(……黒川を…潰してみせる。そして、知香を…護って、みせる)
俺のこの手に託された……あいつらの、願いとともに。
彌月さんが用意してくれていた、ふたり分の布団。それを当たり前のように真横にくっつけて、ふたりで布団に潜り込み眠りについた。
もちろん。『お仕置き』と称して知香を組み敷き、胸元にも背中にも、俺のシルシをつけた。レンタカーの窓を開けて、硫黄の香りを胸に吸い込んだあの時。せっかくだから日帰り温泉に行こうと知香が笑っていたが、あの状態ではとても無理だろう。きっと、明日起きた知香はむくれているはずだ。その表情を想像すると笑みが零れる。
(……新婚旅行、は。値の張る旅館に行く、っつうのでもいいな……)
プロポーズすら未だの状態で、気が早すぎるのはわかりきっている。けれど、俺にとっては。生涯の伴侶とするのは、知香以外、考えられない。
離れで貸し切り温泉がある旅館。確か、自宅から車で数時間の山奥に、秘境の温泉旅館があったはず。浅田によると、今、じわじわと口コミで良い評判が広がっている、らしい。もっとも……知香が、せっかくの新婚旅行は海外に行きたい、と言えばそうするつもりだが。
(………眠れねぇ)
こちらに向かう飛行機の中で寝たからか、全く眠くないのだ。日本とノルウェー間での時差ぼけが直っていないことも眠れない一因だろう。こういう時、寝なければと思えば思うほど眠れなくなる。諦めのようなため息を、ほぅ、と、長く吐き出しながら、ゆっくりと瞼をおろす。
目を瞑ると。昨晩対峙した、憎悪に染まったヘーゼル色の瞳が、鮮やかに蘇る。
「……」
ふっと。目を開く。首だけを動かして、俺の右腕を枕にしている知香の穏やかな寝顔をじっと眺めた。
深く寝入っている知香を起こさないように、そっと頭上に手を伸ばしてスマホの充電コードを手に取り、スマホ本体を引き寄せる。充電コードから手を離して、今度は自分の小さな鞄に手を伸ばす。片手でチャックを開き、イヤホンを引っ張り出した。
飛行機の中で、知香と一緒にあの思い出の曲を聴いた。
けれど、今は。あのヘーゼル色の瞳がちらつく、今は。音楽を聴く気分には、とてもなれない。
(……)
イヤホンをスマホに接続し、音声メモのアプリを立ち上げた。昨晩の日付がタイトルになっている音声を呼び出し、イヤホンを左耳だけにつける。
『知香っ……!』
焦ったような自分の声色が、冒頭から再生される。その直後に、ガタン、と。スーツケースが自動ドアにぶつかった音が響いた。
「………っ…」
はぁ、と。小さく息を吐いて、左手だけでアプリを操作し、昨晩何度も聞いて、秒数―――いや、ミリ秒数まで憶えてしまった位置まで、早送りする。
『彼女が自分で気が付いたから、彼女は助かった。黒川が混ぜた睡眠薬入りの酒を飲み干さなかった。だから俺が間に合った。……お前が黒川の恨みを買ったが故に、知香ちゃんを危険に晒した。この事実は消えない。一生』
低く、低く。地を這うような声が、片耳だけのイヤホンから小さく響く。目を瞑り、全身の空気を抜くように、身体に残った息のすべてを吐き出した。
『わかるか?お前が、知香ちゃんを危険に晒した』
片桐の。憎悪が滲んだ、低い声色。聞いているだけでも、己の体温が低くなっていく。込み上げてくる自分への怒りを堪えて、ぐっと唇を噛む。ぽふり、と音を立てて、自分の枕の左に、スマホが沈んだ。
この音声は。片桐の言質を取るために起動させていた、スマホの録音機能のもの。
知香を害そうとしていたのは片桐ではなく、黒川だった。片桐は知香を救った。前科があるとはいえ、早とちりして片桐に濡れ衣を着せ、挙句に片桐を電話口で罵倒した己の情けなさに、反吐が出るほどだ。
『この状況をみろ。かっとなりやすいお前が上手く立ち回らないからこそ黒川の恨みを買ったのだろう』
低く響く、片桐の言葉。
かっとなりやすい。その一言に、反論することなど、出来るはずもない。
年始。片桐につけられた知香に自宅に帰ることを禁じ、電話で博之さんに同棲の許しを請うた翌朝。片桐が知香を待ち伏せしていた、あの朝だって。俺は、かっとなる自分を抑えられず、片桐に殴り掛かるところだった。あの時の俺を止めたのは、紛れもなく知香だった。
結局、俺は。知香がいなければ、正常な判断すら、くだせなくなるのだ。
(んだよ……ただの、阿呆じゃねぇか…)
左腕を持ち上げ、その腕で自分の顔を隠すように動かした。瞑った目の上にずっしりと、自分の腕の重さがのしかかる。
鉛のように、腕が重たい。
この重さはまるで。小林と、片桐の。
(ふたりが知香に向ける、想いの、重さ、だ……)
ぐるぐると。真っ暗闇にひとり取り残され、五感の全てを封じられたような、途方もない宵闇の中。
鮮明なはずの記憶が、セピア色の画面に流れていく。
いつもの交差点で。小林が俺に向けてきた、あの悔しそうな笑顔。
昨日の、夜。去り際に一瞬だけ知香を見遣った、痛みを孕んだ片桐の視線。
小林も、片桐も。自分の願いが叶わなくても、知香が幸せであればいい、と。それに勝るものなど、この世界にあるわけがないのだ、と。俺に―――突き付けてきた。
俺は。小林とも。片桐とも。相容れることはない。
一生をかけても、彼らと相容れることは、できない。
それは、あのふたりも同じだろう。あのふたりも、俺と相容れるつもりはないはずだ。
それでも、あのふたりは。喩えこの世界で一番相容れない相手であっても、構わないと。
知香が笑っていられるのなら、知香が幸せであるのならば、それでいいのだ、と。そう、俺に突き付けてきた。
(……ッ、)
ぎり、と。奥歯をあらん限りの力で噛み締める。
『……知香ちゃんに、お前はふさわしくない。お前では知香ちゃんを護れない。彼女を護ることすら満足に出来ないお前が、彼女を危険に晒すことしか出来ないお前が。知香ちゃんを幸せになんか出来やしない。俺はそう思う』
左耳から零れ落ちてくる、片桐の震えた声。
ただただ。自分が、滑稽だ。
あの時。あの瞬間。
明けない夜はある、と。
俺を嗤いながら見つめた、ヘーゼル色の瞳。
あの時。俺を嘲笑っていたのは。
ヘーゼル色の瞳ではなく―――俺自身だった。
絢子を失って、自分のすべてを砕かれて。世界から色を失くして。
失くした色を、鮮やかな絵の具を、その手いっぱいに抱え切れないほど俺に与えて。世界に色を取り戻してくれたのは、知香だ。
片桐に挑発され、かっとなった瞬間に自分を取り戻させてくれたのも、知香。
片桐が企てた策略を妨害しようと動いたのは、三木と小林だ。小林に至っては、電磁遮蔽によって全く身動きが取れなくなった俺を、あの店まで導いてくれた。そのアシストをしたのは、藤宮。
片桐の暗示を振り払い、知香は自分で俺の腕の中に戻ってきてくれた。
昨晩。黒川の魔の手から知香を護ったのは、ほかでもない片桐。
これまで、己の手で取り戻したものなど―――ひとつも、ない。
『………俺からの最後通牒だ。お前の覚悟をみせろ。彼女を護り抜くという、揺るぎない覚悟を』
イヤホンから響く、片桐の無機質な声が。
俺の身体を、心を、感情を、苛んでいく。
―――もう、誰も、失いたく、ない。
慟哭、悲鳴、咆哮、懇願。冷たく俺を突き放す片桐の言葉に込められた、片桐の胸の中に閉じ込めてある、誰も失いたくない、という、一糸纏わぬ裸の言葉。
鉛のように重い腕をのろのろと動かし、緩慢な動作でスマホを手に取った。
音声アプリが表示されたディスプレイ。そのディスプレイをダブルタップして、再生位置を少しだけ巻き戻す。
『お前の覚悟をみせろ。彼女を護り抜くという、揺るぎない覚悟を』
ふたたび再生された、片桐の、冷たい声。
もう誰ひとりとして失いたくないのだ、と。
自分を救ってくれたひとを、失いたくないのだ、と。
生命のヒカリが、伸ばした手のひらから、指の隙間から零れ落ちていく、と。絶望するような。
心も身体も感情も、何もかもが焼け落ちて……悠久の時の彼方へ散り散りに消えていくような。
(……この、言葉は)
片桐の。魂の叫び、だ。
何度再生しても。その言葉に、その声に。
生死の狭間を揺蕩っているような。
片桐が俺に、縋っているような。
そんな感情が、この言葉の裏に、潜んでいる。滲みでて、いる。
それは、彌月さんが用意してくれた、あのまっさらなバスタオルの上に落とされたシミのようだった。
叩いても、擦っても落ちない。俺の中から、消えてくれない。
音声アプリを操作し再生を停止させ、ふたたび重たい腕を自分を覆い隠すように乗せた。
片桐は。諜報機関に属していた、と、口にした。
それはきっと、俺が知らない宵闇の世界だ。
生も死もすべてが曖昧で、生きる事も死ぬ事も、さほど大差がないような、そんな宵闇のなかを。
明日をも知らぬ、砂塵の日々を、生きてきたのだろう。
『闇』の世界を生きてきた片桐。
そんな片桐の。
この世の哀しみを全て凝縮した悲惨な感情を、激しい感情を。
あのヘーゼル色の瞳の向こうに抱える闇を。
色も無いそれらを、表現できる言葉を。
情けないことに。
『光』の世界を生きてきた俺は。
(持ちあわせてなんか、いやしない)
自分の顔を隠すように置いていた左腕を動かして。天井の豆電球に向かって手を伸ばし、手のひらを翳す。オレンジ色の淡い光が、広げた指の間から差し込んでゆく。
俺の足元に放りなげられた、薄紅色の封筒。あの封筒に封入されていた、複数の証拠と呼べる資料。あれになんの思惑もないと思えるほど、俺が片桐に向ける警戒心は、正直なところ薄くは無かった。
嫌な想像は、精神を蝕み、削る。心をすり鉢のなかにつっこまれ、容赦なく削られていく。
あの狡猾な男が、なんの思惑もなく、なんの抵抗もなく。あの資料を、憎むべきはずの俺に渡すだろうか。知香をあの場で救ったのも、俺を陥れるために黒川と仕組んだ行為なのでは、と。
そんな考えが、昨晩。知香を自宅に連れ帰っている最中に思い浮かんだ。
知香をベッドに寝かせ、リビングのソファに沈み込んで、ただただあの資料と睨みあった。この……今聞いている音声を、聞きながら。
『人間関係は鏡。他人を見下せば、他人からも見下される。他人を嫌えば、他人からも嫌われる。今回に関してはあなたが悪というわけではないとわかっているけれど、あなた自身が変わらないと状況は変わらないわ』
池野課長に、突き付けられたあの言葉。
そして―――この、音声。
(人間関係は……鏡)
この音声に吹き込まれた、揺れ動く片桐の感情。
なにものにも代えられない、片桐柾臣という、ただひとりの人間の―――全て。
ぼんやりとした豆電球に翳した手のひらを、ぐっと握りしめる。
(……俺は、信じる。片桐を)
あのような出来事を経て、片桐を赦すことは到底難しい。けれど。
(もう、誰も失いたくねぇって感情だけは……きっと、真実、だ)
この音声は、決して消さない。スマホの容量をどれほど圧迫しようとも……この音声は一生、消さない。
自分を奮い立たせるために。自分を戒めるために。
小林の気持ちを、片桐の想いを、背負うために。
「…………」
池野課長に、証拠が揃った、と、連絡を取った時。連休明けに黒川と対峙して、全てを押えて来い、と……指示された。
片桐から渡された封筒の中に入っていた書類が示す事実。
巻き込んでいたのは極東商社だけではなかった。巧妙な手口で通謀した行為が垣間見えた。
片桐からもたらされた情報は非常に有益だった。しかし、有益だからこそ、その信憑性を慎重に検証しなければならなかった。
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俺が行った虚偽の理由によるオフィスビルの鍵の賃借。これを相殺させる意味も含め……極東商社だけではなく、その他に関わっている商社を全て暴け、と。そう指示されたのだ。
だから。俺は今度こそ。自分の手で。
(……黒川を…潰してみせる。そして、知香を…護って、みせる)
俺のこの手に託された……あいつらの、願いとともに。
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