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本編・第三部
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ムスッと。口の先を尖らせたまま、お母さんとキッチンに横並びになって、朝食の準備を進める。
リビングのソファにお父さんと智が並んで座り、テレビから流れてくるニュースに色々と談義を交わしている。
精密機器の研究職として働くお父さんの知識量にも、智は負けていない。私と出会った夜のように、経済の話しや、気象の知識、社会現象などの話題も次々と出てくる。話が尽きず、会話が全く途切れない。
(智……ホントに努力家、だもんなぁ……)
お母さんがお味噌汁の味付けをしているのを横目で確認して、4人分の汁椀を食器棚から取り出しキッチンのワークトップに並べていく。
営業マンに必要なのは商品の知識だけでなく、商談を進めるための世間話……要は、あらゆる方面への豊富な知識と話術で相手の信頼を勝ち取ること。
智は営業として、業績を上げるために。血の滲むような……相当な努力をしてきたのだろう、と、改めて実感する。
お父さんは自分の子供世代の智のその博学さに、対抗心を燃やすというよりも、単純に感心しているようだった。
「知香、よか人ば捕まえたたいね(いい人を捕まえたね)」
お母さんがお味噌を鍋から引き上げながら、小さく囁くような声で私に話しかけた。にこにこと、穏やかな笑みが私に向けられる。その言葉に、「そうでしょ」と誇らしげに口にしようとして、ハッと我に返った。
(……いや、そこはね!本当にいい人を捕まえたと思っているけども!)
昨晩、2階に上がってからの出来事を思い返すと、ふたたび口の先が尖っていく。
あの後。『お仕置き』と称されて、所有痕を……それはもう、自分で見える範囲の胸元ですら、見るも無残なほど。たくさん付けられた。背中はもう、確認したくもない。
しかも、玄関先で膝に乗ってきたムギくんを床におろそうとして抵抗された時にできた、ムギくんの爪の引っ掻き傷。その傷痕を上書きするかのように、太ももにまで!それはもう、数えるのも嫌になるくらいたっくさん散らばっているのだ。
もとから独占欲・所有欲が強いひとだとは思っていた。けれどまさか、なんの罪もない動物にまでヤキモチを妬くような見境のないひとだとは思わなかった。たとえそれが、片桐さんの髪の色に似ているムギくんがきっかけだったとしても、だ。
むぅ、と。考えれば考えるほど、眉間に皺が寄っていく。
今日は日帰り温泉に行くつもりだったけれど、こんなにも所有痕が散らばっている状態で、温泉なんてとても行けるわけがない。せっかく立てた予定が狂った、ということにも、私は怒っている。
「なんね、昨日喧嘩でもしたとね(喧嘩でもしたの?)」
お母さんが楽しそうに笑いながら、完成したお味噌汁をお玉で汁椀に注いでいく。その様子を確認した私は、炊飯器の蓋を開けてお茶碗に白米をよそっていく。
「……喧嘩、ってほどでもないけど。ちょっと智に怒ってるだけ」
ムスッとしたまま、お母さんに返事をする。私のその返事に、お母さんがまた、にこにこと。私にとっては衝撃的な言葉を紡いだ。
「智さん、ムギにヤキモチば妬いとらしたとやろ?(ヤキモチを妬いていたんでしょう?)」
「ッ!?」
思わぬ言葉に、しゃもじを持つ右手ごとぴしりと全身が固まる。お母さん、どうしてわかったのだろう。
猫相手に訳の分からないヤキモチを妬かれて、すったもんだあって怒っている、だなんて。恥ずかしくて両親には絶っ対に言えない、なんて思っていたのに!
「ムギはオスやけんねぇ。智さんはよっぽど知香ば好いとらすとたいねぇ………(好きでいるのね)」
私がよそったお茶碗を、お母さんがお盆の上に次々と載せていく。紡がれたその言葉に、思わずパチパチと目を瞬かせた。
「喧嘩するほど仲のよかって言うたい(仲がいいというよね)」
そして、ふたたびにこりと穏やかな笑顔を私に向けて、くるりと踵を返す。ワークトップに置いている汁椀を見つめ、先ほどから変わらない小さな声で言葉を続けた。
「前の人とは違って、ちゃーんと思っとる事ばお互いに言い合える相手と知香が出会えた。……そいから、昨日の晩御飯の時もヒシヒシと伝わってきたたいね、智さんは知香の事ば心から好いとんしゃる(知香のことを心から好きでいる)」
お母さんが、汁椀に手を伸ばして、途中でその手を止めた。そして、小さく、身動ぎして。穏やかな声色が、少しだけ震える。
「………お母さんはそれだけで嬉しかとばい(それだけで嬉しいよ)」
「……」
お母さんの表情は見えないけれど。きっと、昨年私に起きたあの出来事を思い出して、泣き出しそうなんだろう。目の前のお母さんの背中が小さく見えて、思わずハッと息を飲んだ。
(……心配…かけた、もんな……)
婚約間近で、捨てられ。その相手は即座に結婚した。親から見てみれば言葉にならないくらい悔しかっただろうし、遠く離れた場所に住む一人娘のことを考えると、居ても立っても居られないくらい私のことが心配だっただろう。
『あの頃は智が幸子のもとに行こうとするんじゃないかと気が気でなかったんだよ、私たちは』
不意に。年末に、智の実家に帰った時に。徹さんが智を見て、強い口調で話していたあの声が、脳裏に響いた。
(きっと……お母さん、も。徹さんと、同じ気持ちだったんだろう、な……)
お母さんの心の内を想像するだけで、胸が痛い。鼻の奥がツンとする。滲む視界を堪えて、ぎゅ、と。身につけたエプロンを握りしめる。そのままゆっくりと、お母さんの横に歩み寄った。
「……うん。今、幸せよ、私。こうして喧嘩っぽいこともするけど……お互いに欠けたところを補って日々を過ごして。言いたいこともちゃんと言い合って……毎日が楽しくて、幸せ」
口にしたのは、嘘偽りのない、私の正直な気持ち。
おはようと声を掛け合って、行ってらっしゃいと言い合って、ただいまと言い合って。
一緒にご飯を食べて、仕事の愚痴をお互いに言い合って。抱き枕にされながら、おやすみと言い合う。
なんの変哲もない、そんな毎日が。
途方もなく―――幸せだ、と。感じている。
私のその言葉に、お母さんが目尻に光る雫を拭いながら、安心したように微笑んだ。
「そうやろう。そしたら、少しくらいのヤキモチは許してやらんね(許してあげなさい)」
私だって、智と職場で日々を過ごしている池野さんに、ヤキモチ妬いた時だってあった。そう考えるなら、いつまでも私だけが怒っているこの状態は、全くフェアじゃない。
お母さんの諭すようなその声色に、私は汁椀をお盆に移しながら。
「……ん。そうする」
そう口にして、小さく笑みを返した。
「知香。智さんと薔薇祭りは行かんと?(行かないの?)」
「へ?」
朝食の準備が出来て、いただきます、と全員で声を上げたあとの、お父さんの第一声。お味噌汁のお椀を手に持ったまま、お父さんの突拍子もない質問に目を瞬かせた。私の斜め前の席で、リビングに差し込むやわらかい朝日のように、お父さんが穏やかに笑っている。
薔薇祭り。隣の県にある、大型テーマパークで毎年この時期に開催されている大型催事のことだ。テーマパーク全体が2,000品種以上の薔薇に包まれるイベントで、毎年大人気なのだそうだ。
「入場チケットのあるとよ(チケットがあるんだよ)」
お父さんがそう続けながら一度箸を置いて、首に下げていた老眼鏡をかけて席を立った。真後ろのカウンターキッチンの笠木に手を伸ばして、茶色の細長い封筒を手に持っている。お父さんの焦げ茶色と視線がかち合った。
「お母さんは長かこと歩かれんけん、知香たちにやろうかねと思っとったと(お母さんは長く歩けないから、知香たちにあげようと思っていたんだ)」
するり、と。朝食が並ぶテーブルの上に、お父さんが細長い封筒からチケットを取り出してそっと置いた。そこには、『薔薇祭り・特別優待チケット』という文字と、大型テーマパークのロゴであるライオンが向き合っているようなマークが記載されていた。
お母さんは昔から心臓が悪い。故に、一瀬家では長時間歩くような、そういったところには基本的に出向かないという選択をしている。お父さんのその言葉を受けて、隣に座る智に「どうする?」と投げかけた。
「博之さんがせっかく取っていてくれたチケットだし、今日行ってみるか」
ふっと。智がやわらかく微笑んだ。今日は、以前智が本場のものを食べたいと言っていた、温泉湯豆腐が売りの旅館に日帰り温泉もかねて立ち寄ることにしていた。まぁ、温泉は智の昨晩の行いのせいで行けないだろうけれど。
薔薇祭りが開かれている大型テーマパークとは反対方向にあたるその旅館。本当にいいのかな、お父さんの前でその提案を無碍にも出来ず、無理していないだろうか。少しばかり不安になる。
私の考えを読んだのか、智が苦笑したように眉を下げ頬を掻いた。
「ほら、ホワイトデーの後、花の本を買ってただろう?だから花に興味があるんだろうなと思って、その薔薇祭りはチェックしてた。時間的に余裕があればそっちにも行けたらとは思ってたんだ。だから、博之さんの提案は渡りに船」
「え、そうだったんだ」
その言葉に、思わず驚いて隣に座っている智を二度見する。
智がそんな下調べをしていたなんて、知らなかった。ノルウェー出張に出る前、今回の帰省のスケジュールに関してはすべて私に任せる、と、智は言っていたから。
結局のところ、智は自分のことをそっちのけで、私のことを一番に考えて……いろいろと情報を集めてくれていたんだと思うと、お母さんが言うように、私は本当に智に愛されているなぁと実感して口元が緩んでいく。
「……じゃ、決まりだな。博之さん、お言葉に甘えて、そのチケット頂いてよろしいでしょうか」
私の表情を見て満足そうに笑った智が、お父さんに視線を向けて爽やかに声をかける。お父さんが、ふふ、と。楽しそうな笑顔を浮かべて、智を見つめている。
「智さんはあの電話の時と変わらず、知香を逃がす気はなさそうだね」
「!?」
お父さんの口から飛び出してきた衝撃的な言葉に、思わず箸が止まる。
お父さんと智は、年始の……同棲を許してもらうための電話口でしか話したことは無かったはずだ。あの時にベランダで何を話していたのだろう、と思っていたけど、智はあの場でお父さんにも私を逃す気はない、と宣言していたのか。
(ちょっ……そんなこと、親にまで言わなくても!)
かぁっと顔が赤くなるのを自覚した。思わず、じとっとした視線で右隣の智を見つめる。
智がゆっくりと箸をテーブルの上に置いて、背筋を伸ばし、お父さんを見つめた。その声に強い意志を込めて、言葉を紡いでいく。
「そう、ですね。知香さんを僕から逃がす気はありません。……知香さんに言い寄っている知香さんの同僚にも、知香さんを渡す気は更々ありませんので」
智は、ほんの少し顔を赤らめながら、ダークブラウンの瞳をお父さんを真っ直ぐに向けた。
お父さんも……智のその表情を、じっと見つめている。
「……その言葉が聞けて、私も安心だよ。智さん、これからも知香をよろしく頼むね」
少しばかり震えているような、お父さんの声。それでも、お父さんは、お母さんが先ほど見せたような……安心したような笑顔を、穏やかに浮かべていた。
リビングのソファにお父さんと智が並んで座り、テレビから流れてくるニュースに色々と談義を交わしている。
精密機器の研究職として働くお父さんの知識量にも、智は負けていない。私と出会った夜のように、経済の話しや、気象の知識、社会現象などの話題も次々と出てくる。話が尽きず、会話が全く途切れない。
(智……ホントに努力家、だもんなぁ……)
お母さんがお味噌汁の味付けをしているのを横目で確認して、4人分の汁椀を食器棚から取り出しキッチンのワークトップに並べていく。
営業マンに必要なのは商品の知識だけでなく、商談を進めるための世間話……要は、あらゆる方面への豊富な知識と話術で相手の信頼を勝ち取ること。
智は営業として、業績を上げるために。血の滲むような……相当な努力をしてきたのだろう、と、改めて実感する。
お父さんは自分の子供世代の智のその博学さに、対抗心を燃やすというよりも、単純に感心しているようだった。
「知香、よか人ば捕まえたたいね(いい人を捕まえたね)」
お母さんがお味噌を鍋から引き上げながら、小さく囁くような声で私に話しかけた。にこにこと、穏やかな笑みが私に向けられる。その言葉に、「そうでしょ」と誇らしげに口にしようとして、ハッと我に返った。
(……いや、そこはね!本当にいい人を捕まえたと思っているけども!)
昨晩、2階に上がってからの出来事を思い返すと、ふたたび口の先が尖っていく。
あの後。『お仕置き』と称されて、所有痕を……それはもう、自分で見える範囲の胸元ですら、見るも無残なほど。たくさん付けられた。背中はもう、確認したくもない。
しかも、玄関先で膝に乗ってきたムギくんを床におろそうとして抵抗された時にできた、ムギくんの爪の引っ掻き傷。その傷痕を上書きするかのように、太ももにまで!それはもう、数えるのも嫌になるくらいたっくさん散らばっているのだ。
もとから独占欲・所有欲が強いひとだとは思っていた。けれどまさか、なんの罪もない動物にまでヤキモチを妬くような見境のないひとだとは思わなかった。たとえそれが、片桐さんの髪の色に似ているムギくんがきっかけだったとしても、だ。
むぅ、と。考えれば考えるほど、眉間に皺が寄っていく。
今日は日帰り温泉に行くつもりだったけれど、こんなにも所有痕が散らばっている状態で、温泉なんてとても行けるわけがない。せっかく立てた予定が狂った、ということにも、私は怒っている。
「なんね、昨日喧嘩でもしたとね(喧嘩でもしたの?)」
お母さんが楽しそうに笑いながら、完成したお味噌汁をお玉で汁椀に注いでいく。その様子を確認した私は、炊飯器の蓋を開けてお茶碗に白米をよそっていく。
「……喧嘩、ってほどでもないけど。ちょっと智に怒ってるだけ」
ムスッとしたまま、お母さんに返事をする。私のその返事に、お母さんがまた、にこにこと。私にとっては衝撃的な言葉を紡いだ。
「智さん、ムギにヤキモチば妬いとらしたとやろ?(ヤキモチを妬いていたんでしょう?)」
「ッ!?」
思わぬ言葉に、しゃもじを持つ右手ごとぴしりと全身が固まる。お母さん、どうしてわかったのだろう。
猫相手に訳の分からないヤキモチを妬かれて、すったもんだあって怒っている、だなんて。恥ずかしくて両親には絶っ対に言えない、なんて思っていたのに!
「ムギはオスやけんねぇ。智さんはよっぽど知香ば好いとらすとたいねぇ………(好きでいるのね)」
私がよそったお茶碗を、お母さんがお盆の上に次々と載せていく。紡がれたその言葉に、思わずパチパチと目を瞬かせた。
「喧嘩するほど仲のよかって言うたい(仲がいいというよね)」
そして、ふたたびにこりと穏やかな笑顔を私に向けて、くるりと踵を返す。ワークトップに置いている汁椀を見つめ、先ほどから変わらない小さな声で言葉を続けた。
「前の人とは違って、ちゃーんと思っとる事ばお互いに言い合える相手と知香が出会えた。……そいから、昨日の晩御飯の時もヒシヒシと伝わってきたたいね、智さんは知香の事ば心から好いとんしゃる(知香のことを心から好きでいる)」
お母さんが、汁椀に手を伸ばして、途中でその手を止めた。そして、小さく、身動ぎして。穏やかな声色が、少しだけ震える。
「………お母さんはそれだけで嬉しかとばい(それだけで嬉しいよ)」
「……」
お母さんの表情は見えないけれど。きっと、昨年私に起きたあの出来事を思い出して、泣き出しそうなんだろう。目の前のお母さんの背中が小さく見えて、思わずハッと息を飲んだ。
(……心配…かけた、もんな……)
婚約間近で、捨てられ。その相手は即座に結婚した。親から見てみれば言葉にならないくらい悔しかっただろうし、遠く離れた場所に住む一人娘のことを考えると、居ても立っても居られないくらい私のことが心配だっただろう。
『あの頃は智が幸子のもとに行こうとするんじゃないかと気が気でなかったんだよ、私たちは』
不意に。年末に、智の実家に帰った時に。徹さんが智を見て、強い口調で話していたあの声が、脳裏に響いた。
(きっと……お母さん、も。徹さんと、同じ気持ちだったんだろう、な……)
お母さんの心の内を想像するだけで、胸が痛い。鼻の奥がツンとする。滲む視界を堪えて、ぎゅ、と。身につけたエプロンを握りしめる。そのままゆっくりと、お母さんの横に歩み寄った。
「……うん。今、幸せよ、私。こうして喧嘩っぽいこともするけど……お互いに欠けたところを補って日々を過ごして。言いたいこともちゃんと言い合って……毎日が楽しくて、幸せ」
口にしたのは、嘘偽りのない、私の正直な気持ち。
おはようと声を掛け合って、行ってらっしゃいと言い合って、ただいまと言い合って。
一緒にご飯を食べて、仕事の愚痴をお互いに言い合って。抱き枕にされながら、おやすみと言い合う。
なんの変哲もない、そんな毎日が。
途方もなく―――幸せだ、と。感じている。
私のその言葉に、お母さんが目尻に光る雫を拭いながら、安心したように微笑んだ。
「そうやろう。そしたら、少しくらいのヤキモチは許してやらんね(許してあげなさい)」
私だって、智と職場で日々を過ごしている池野さんに、ヤキモチ妬いた時だってあった。そう考えるなら、いつまでも私だけが怒っているこの状態は、全くフェアじゃない。
お母さんの諭すようなその声色に、私は汁椀をお盆に移しながら。
「……ん。そうする」
そう口にして、小さく笑みを返した。
「知香。智さんと薔薇祭りは行かんと?(行かないの?)」
「へ?」
朝食の準備が出来て、いただきます、と全員で声を上げたあとの、お父さんの第一声。お味噌汁のお椀を手に持ったまま、お父さんの突拍子もない質問に目を瞬かせた。私の斜め前の席で、リビングに差し込むやわらかい朝日のように、お父さんが穏やかに笑っている。
薔薇祭り。隣の県にある、大型テーマパークで毎年この時期に開催されている大型催事のことだ。テーマパーク全体が2,000品種以上の薔薇に包まれるイベントで、毎年大人気なのだそうだ。
「入場チケットのあるとよ(チケットがあるんだよ)」
お父さんがそう続けながら一度箸を置いて、首に下げていた老眼鏡をかけて席を立った。真後ろのカウンターキッチンの笠木に手を伸ばして、茶色の細長い封筒を手に持っている。お父さんの焦げ茶色と視線がかち合った。
「お母さんは長かこと歩かれんけん、知香たちにやろうかねと思っとったと(お母さんは長く歩けないから、知香たちにあげようと思っていたんだ)」
するり、と。朝食が並ぶテーブルの上に、お父さんが細長い封筒からチケットを取り出してそっと置いた。そこには、『薔薇祭り・特別優待チケット』という文字と、大型テーマパークのロゴであるライオンが向き合っているようなマークが記載されていた。
お母さんは昔から心臓が悪い。故に、一瀬家では長時間歩くような、そういったところには基本的に出向かないという選択をしている。お父さんのその言葉を受けて、隣に座る智に「どうする?」と投げかけた。
「博之さんがせっかく取っていてくれたチケットだし、今日行ってみるか」
ふっと。智がやわらかく微笑んだ。今日は、以前智が本場のものを食べたいと言っていた、温泉湯豆腐が売りの旅館に日帰り温泉もかねて立ち寄ることにしていた。まぁ、温泉は智の昨晩の行いのせいで行けないだろうけれど。
薔薇祭りが開かれている大型テーマパークとは反対方向にあたるその旅館。本当にいいのかな、お父さんの前でその提案を無碍にも出来ず、無理していないだろうか。少しばかり不安になる。
私の考えを読んだのか、智が苦笑したように眉を下げ頬を掻いた。
「ほら、ホワイトデーの後、花の本を買ってただろう?だから花に興味があるんだろうなと思って、その薔薇祭りはチェックしてた。時間的に余裕があればそっちにも行けたらとは思ってたんだ。だから、博之さんの提案は渡りに船」
「え、そうだったんだ」
その言葉に、思わず驚いて隣に座っている智を二度見する。
智がそんな下調べをしていたなんて、知らなかった。ノルウェー出張に出る前、今回の帰省のスケジュールに関してはすべて私に任せる、と、智は言っていたから。
結局のところ、智は自分のことをそっちのけで、私のことを一番に考えて……いろいろと情報を集めてくれていたんだと思うと、お母さんが言うように、私は本当に智に愛されているなぁと実感して口元が緩んでいく。
「……じゃ、決まりだな。博之さん、お言葉に甘えて、そのチケット頂いてよろしいでしょうか」
私の表情を見て満足そうに笑った智が、お父さんに視線を向けて爽やかに声をかける。お父さんが、ふふ、と。楽しそうな笑顔を浮かべて、智を見つめている。
「智さんはあの電話の時と変わらず、知香を逃がす気はなさそうだね」
「!?」
お父さんの口から飛び出してきた衝撃的な言葉に、思わず箸が止まる。
お父さんと智は、年始の……同棲を許してもらうための電話口でしか話したことは無かったはずだ。あの時にベランダで何を話していたのだろう、と思っていたけど、智はあの場でお父さんにも私を逃す気はない、と宣言していたのか。
(ちょっ……そんなこと、親にまで言わなくても!)
かぁっと顔が赤くなるのを自覚した。思わず、じとっとした視線で右隣の智を見つめる。
智がゆっくりと箸をテーブルの上に置いて、背筋を伸ばし、お父さんを見つめた。その声に強い意志を込めて、言葉を紡いでいく。
「そう、ですね。知香さんを僕から逃がす気はありません。……知香さんに言い寄っている知香さんの同僚にも、知香さんを渡す気は更々ありませんので」
智は、ほんの少し顔を赤らめながら、ダークブラウンの瞳をお父さんを真っ直ぐに向けた。
お父さんも……智のその表情を、じっと見つめている。
「……その言葉が聞けて、私も安心だよ。智さん、これからも知香をよろしく頼むね」
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