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本編・第三部
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パチャリ、と。音を立てながら湯船に座り込む。
「うう~……思ってたより寒かったなぁ…」
身体を震わせながら小さく呟いた独り言が、お風呂場独特の声の反響とともに響いていく。
お昼からシトシトと降り始めた雨は次第に強まり、オフィスビルを出る頃にはザァザァ振りになっていた。自宅の最寄り駅で電車を降りてからは更に雨足が強くなっており、傘を差していても膝から下はびしょ濡れだった。
もうすぐ7月とはいえ、濡れた足元から寒さが這い上がってくる感覚があって。夕食よりも先にお風呂に浸からないと風邪を引いてしまいそうと考え、夕食を後回しにして即座に湯船にお湯を張った。
(……智、夕食要らないって言ってたけど、あったかいお汁物くらいは作っておこうかな…)
昨日の残業の所為か否かはわからないけれど、ひどく凝り固まった肩をゆっくりと揉みほぐしながら身体を温めていく。ぼうっとお風呂の壁を眺めつつこれからの家事の段取りを組み立てていくと、ふっと。ヘーゼル色の瞳が緩やかに細められた、あの瞬間が脳裏をよぎった。
「……」
あの時。彼はひどく安堵したような表情を浮かべていた。私が電車に乗り込んだ瞬間を見届けて。それが何を意味するのか、私にはさっぱりわからない。
「………交錯、かぁ…」
復唱するように呟いた自分の声が、浴室の壁に反響する。パチャリと音を立てながら肩まで湯船に沈み込む。私のその動作で、湯船に張ったお湯の表面が波を打って大きく揺れ動いていく。
オフィスビルのエレベーターの中で読んだ考察。片桐さんの登場ですっかり脳内から吹っ飛んでしまったけれど、電車内で再度読み返した。
喜劇作品である『十二夜』のストーリーの根幹は『交錯』、という事だった。台詞や行動によって真相を隠し、キャラクター達を勘違いさせて、その様子が観客を笑わせていく、ということ。
池野さんが片桐さんに投げかけた言葉。あの言葉に、片桐さんはひどく動揺しているようだった。
この考察に当てはめるならば。あの瞬間に彼が動揺していたのは、『隠している何かを池野さんに暴かれたから』……なのではないだろうか。
(……彼は…何を。隠しているの?)
『嘘』ばかりの……片桐さんの言動。彼が何を思い、何を隠しているのか。池野さんはどうしてそれに気が付いたのか。そこまで考えて、肩まで浸からせていた身体を起こし、ゆっくりと瞼をおろす。
(日本を発つ、って書いてたけど…池野さん、どこに行ったんだろう…?)
彼女の思惑も、彼の真意も。私には皆目見当もつかない。胸の中に渦巻く言葉にならないたくさんの感情を、ずっと……ひとりで、持て余している。
ぐるぐると。不安、動揺、混乱、悲観、そして―――得体の知れない、何かが。ずうっとこの胸に渦巻いて、いる。
マイナス思考に傾く自分の心を慌てて押し込める。私よりも、池野さんの直属の部下だった智のほうが。そんな言いようのない気持ちをたくさん抱えているのだろうから。
湯船の中で膝を立てて、その膝を抱き込んで。
「………池野さん。せめて、さよなら、くらいは……言いたかった、です…」
ぽつり、と。もう、どこにいるかもわからない彼女に向かって、小さく声を漏らした。
お風呂から上がり、ひとりで取る夕食を終え、家事をあらかた片付けて。玄関の横の物置になっている部屋に置いている、特に着ることもない服を詰め込んだ衣装ケースの奥から畳紙に包まれた浴衣を2枚引っ張り出して、ちらりと表面を確認する。
「あっちゃ~……ちょっと虫喰いあるなぁ…」
衣装ケースには防虫剤も入れていたけれど、長年仕舞い込んでいたから虫喰いの穴があいている。引っ張り出してきた浴衣は、白地にカラフルな水風船の柄に彩られた1枚。
(……これ、お母さんと一緒に手縫いで作った浴衣…)
まだ地元にいた頃。お母さんが入院中に和裁や刺繍をしていたから、お母さんから和裁を少しだけ習っていたのだ。それを応用して、反物から浴衣を手縫いした。この浴衣を着て、高校時代に同級生たちと夏祭りに行った。その時に祖母に着付けを習ったのだ。
加藤さんとの着付けの練習だとしても、さすがに虫喰いの浴衣を着るわけにはいかない。そう考えて、もうひとつの畳紙も開くけれど。
「こっちも……穴開いちゃってるなぁ…」
大学時代に友人たちと色違いのおそろいの柄の買った浴衣。手元にあるのは、白地にピンク色の花がたくさん散らばっている、若々しく可愛らしい柄だ。
「……こっちは…虫喰いがなくても、若すぎる、かな…」
ぺたん、と、フローリングに座ったまま、虫に喰われてしまって穴が空いている部分をそっとなぞりながら小さくひとりごちる。
私ももう25歳。可愛らしいほどのこの派手な柄はさすがに若すぎる気がする。
「ん~~………」
結局、社内恋愛だということを理由に平山さんと夏祭りに行ったことはなかったな、と、ぼんやり思い出しながら、忙しそうだから難しいだろうけど智と一緒に花火を見れたらいいなぁと思考を巡らせて、はたと気が付く。
(あれ、そういえば……智って浴衣持ってるのかな?)
以前、クローゼットの中を掃除した時には見当たらなかった。もしかしたら実家に置いているのかもしれないけれど、もしかすると持っていないのかもしれない。そう結論付けて、パチンと何かがおりてきた。
「そうだ……昇進のお祝い。浴衣を縫うっていうのはどうだろう」
広げた浴衣を前に、頭に浮かんだ考えを小さく呟く。確か、この水風船の柄の浴衣を作った時に使用した市販の型紙も、上京するときにお母さんが持たせてくれた裁縫道具の中に入れっぱなしで残っている気がする。
「や、でも……管理職昇進のお祝いだし…さすがに手作りっていうのはナイかなぁ…」
我ながら名案だ、と思ったけれど……記念すべき管理職昇進のお祝いだ。別のものを考えるべきだろうか。ため息をつきながら、小さく肩を落とす。
(でもなぁ……誕生日のプレゼントだって、具体的に何が欲しいとか言ってくれなかったし)
一昨日迎えた智の誕生日。何が欲しいかを訊ねても『知香の全部』としか返答されず、結局、何を贈るか悩み悩んだ挙句にネクタイにしたのだ。元から物欲があまりない人なのだろう、と察している。
毎月お互いに同額で振り分けているお小遣いも、ほぼ煙草とマスターのお店で購入しているコーヒー豆にしか使っていないことも把握している。時折、ビジネス書等の書籍を購入したり、それと、強いて言うならば避妊具代に消えていったり。というより、アレの消費ペースが早いのだ。……智は物欲がない分、性欲に振り切っているのかもしれない。
(……いやいや、性欲おばけなのは絶対他の理由だ!)
ぶんぶんと頭を振ってその恐ろしい考えを思考から追い出し、膝に乗せた畳紙を指でなぞりながらふたたび考えを巡らせていく。
思い返せば。一昨日の誕生日当日も、あの哀しい記憶を上書きして欲しい、だなんて口にするくらいだ。きっと、既製品よりも記憶や贈り手の気持ちを重視するタイプなのだろうと思う。
(そういえば………今まで、智に手作りって…あげたことないな…)
バレンタインだって。仕事が立て込んでいて時間がなかったこともあるけれど、料理だけでなく製菓も私より上手な智に『手作りチョコ』なんて食べさせられないと感じてチョコレートフォンデュにしたし、お付き合いが始まって半年が経ったけれど、『手作り』をプレゼントしたことは一度もない。
考えれば考えるほど、そちらに転がっていく思考。浮かんだ考えを否定する材料は少ない。
「……うん。手作りにしよう。さすがに帯とか小物は買うとして、反物から選んで……手縫いで浴衣を繕う」
私が縫った浴衣を身に纏ってくれる智はどれほどかっこいいだろうか。目を閉じて、愛おしい人の顔を脳裏に思い浮かべる。
ワイルドで肉食系の見た目。それでいてさらさらの黒髪に切れ長の瞳、背が高いところとか、意外と細マッチョだとか、そういう外面の良さだけではなくて。
結構細かいところに気がつくところとか、私のドジなところを日々さりげなくフォローしてくれているところとか、意地悪だけどなんだかんだ言いながらも優しいところだとか、そんなところも全部全部ひっくるめてかっこいいから。
そんなかっこいい、私の自慢の智を引き立てる浴衣にしよう。今年の花火は観に行けなくても、来年とか、再来年とか……その先でもいい。
(いつか。花火を観に行く約束ができたらいいなぁ)
そんな小さな幸せな想像をしながら、ふふふ、と。口元が少しだけ緩んだ。
そんな小さな幸せを噛み締めていると、エプロンに入れていたスマホが震えた。バイブレーションのパターンから着信だとわかる。智がもう最寄り駅まで帰ってきたのかな、と呑気に考えながらポケットをまさぐってスマホを取り出し、スマホのディスプレイを確認して身体がピシリと固まった。
「……え、お母さん?」
電話なんて滅多にかけてこない母親からの、着信。まさか親戚の誰かに不幸があったとか、と、嫌な想像をしてさぁっと血の気が引いていく。
恐る恐る表示された応答ボタンをタップして、「もしもし?」と震える声を上げた。
『あらぁ、知香、お疲れさま。そっちは雨のひどかごたっけどどがんね?雷は?(ひどいみたいだけど大丈夫?)』
電話口から聞こえてきたのは、いつものおっとりとしたお母さんの声。その穏やかな声に、先ほど想像したような嫌な知らせではないと察して大きく安堵のため息をついた。
スマホを肩に挟んで膝の上に乗せていた畳紙を衣装ケースに仕舞い込み、物置となっているこの部屋を出た。すぐそばにある玄関の扉を少しだけ開けてみる。雨足は変わらずにひどいけれど、雷雨ではない。
「雨の降り方は強いけど、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
全国の天気予報を見て気にかけてくれているのだろう。遠く離れているからこそ、こう言った時に有り難みを感じる。玄関を閉じると、電話口の向こうからチリチリと鈴の音が聞こえた。
(今の……ムギ、かな?)
お母さんの足元にすりすりと纏わり付きながら、明るい茶色の瞳を大きく見開いて。『誰と話してるの?お母さん何してるの?』と、きょとんと目を丸くして、お母さんの足元からお母さんの表情を見上げている様子がまざまざと目の前に浮かんだ。思わずくすりと笑いが込み上げる。
『そぉね、良かった良かった。さっきニュースでそっちが10数年に一度の大雨とか言いよったけん心配かったとよ(言ってたから心配だったの)』
「えっ、そんなこと言ってたの?」
穏やかな声色とは正反対の言葉がスピーカーから響いて思わず目を剥いた。夕食を取っていた時は、行儀が悪いけれど一人きりだからと通関士のテキストを読みながら食べ進めたため、テレビを見ていなかったのだ。そんなことを言っていただなんて、知る由もない。
そんなにひどい雨なのか。智が帰る頃にはもっとひどくなっているんじゃないか、と、何気に心配になる。リビングに戻る足が止まって、廊下に立ち止まったままお母さんと会話を続けていく。
『ん、そがん言いよったばい。智さんは帰ってきとらすとね?(帰ってきてるの?)』
私の不安な気持ちが伝わったのか、お母さんの口から智の名前が飛び出てくる。その心配そうな声に、見えないとわかっていても、力なく頭を振って返答する。
「……ううん、まだ。昨日付けで管理職に昇進して大変みたいで」
『あらぁ、早っさぁ。もう管理職にならしたとね(早いね。もう管理職になったの?)』
お母さんの驚いたような、それでいて感心したような声がスピーカーから響いていく。確かに、お母さんが口にしたように、31歳で管理職だなんて、中小企業だとしても異例の昇進スピードでは無いだろうか。
「うん。智の上司さんが退職なさって空白になった役職に昇進したの。そのタイミングが重なっただけじゃなくて、智が営業成績を残して頑張ってることとか……その辺りもきちんと評価してもらっているみたい」
お休みであるはずの土日も、新部門立ち上げに関わる国際情勢や他社の動向などの情報収集をしたり、ビジネス書を読んだり、はたまた英会話の勉強をしたり、と。人知れず日々努力している智の頑張りが報われたことは本当に嬉しく思う。
『そぉね~……ほんなごて優秀か人ったいね、智さんは。おめでとうって言っといて。週末にお祝いでこっちからも何か贈るけん。送ったらまた連絡するたい』
お母さんの嬉しそうな声にありったけの謝意を伝えて、ゆっくりと電話を切った。
手に持ったスマホのディスプレイを電話画面からメッセージアプリの画面に切り替える。もうすぐ21時になるけれど、智から…そろそろ帰る、という、その連絡は来ていない。
「………何事もなく、無事に帰ってきますように…」
ぎゅうと、と。手にスマホを持ったまま、言いようのない不安な気持ちを押し込めるように。自分の身体を強く抱き締めた。
「うう~……思ってたより寒かったなぁ…」
身体を震わせながら小さく呟いた独り言が、お風呂場独特の声の反響とともに響いていく。
お昼からシトシトと降り始めた雨は次第に強まり、オフィスビルを出る頃にはザァザァ振りになっていた。自宅の最寄り駅で電車を降りてからは更に雨足が強くなっており、傘を差していても膝から下はびしょ濡れだった。
もうすぐ7月とはいえ、濡れた足元から寒さが這い上がってくる感覚があって。夕食よりも先にお風呂に浸からないと風邪を引いてしまいそうと考え、夕食を後回しにして即座に湯船にお湯を張った。
(……智、夕食要らないって言ってたけど、あったかいお汁物くらいは作っておこうかな…)
昨日の残業の所為か否かはわからないけれど、ひどく凝り固まった肩をゆっくりと揉みほぐしながら身体を温めていく。ぼうっとお風呂の壁を眺めつつこれからの家事の段取りを組み立てていくと、ふっと。ヘーゼル色の瞳が緩やかに細められた、あの瞬間が脳裏をよぎった。
「……」
あの時。彼はひどく安堵したような表情を浮かべていた。私が電車に乗り込んだ瞬間を見届けて。それが何を意味するのか、私にはさっぱりわからない。
「………交錯、かぁ…」
復唱するように呟いた自分の声が、浴室の壁に反響する。パチャリと音を立てながら肩まで湯船に沈み込む。私のその動作で、湯船に張ったお湯の表面が波を打って大きく揺れ動いていく。
オフィスビルのエレベーターの中で読んだ考察。片桐さんの登場ですっかり脳内から吹っ飛んでしまったけれど、電車内で再度読み返した。
喜劇作品である『十二夜』のストーリーの根幹は『交錯』、という事だった。台詞や行動によって真相を隠し、キャラクター達を勘違いさせて、その様子が観客を笑わせていく、ということ。
池野さんが片桐さんに投げかけた言葉。あの言葉に、片桐さんはひどく動揺しているようだった。
この考察に当てはめるならば。あの瞬間に彼が動揺していたのは、『隠している何かを池野さんに暴かれたから』……なのではないだろうか。
(……彼は…何を。隠しているの?)
『嘘』ばかりの……片桐さんの言動。彼が何を思い、何を隠しているのか。池野さんはどうしてそれに気が付いたのか。そこまで考えて、肩まで浸からせていた身体を起こし、ゆっくりと瞼をおろす。
(日本を発つ、って書いてたけど…池野さん、どこに行ったんだろう…?)
彼女の思惑も、彼の真意も。私には皆目見当もつかない。胸の中に渦巻く言葉にならないたくさんの感情を、ずっと……ひとりで、持て余している。
ぐるぐると。不安、動揺、混乱、悲観、そして―――得体の知れない、何かが。ずうっとこの胸に渦巻いて、いる。
マイナス思考に傾く自分の心を慌てて押し込める。私よりも、池野さんの直属の部下だった智のほうが。そんな言いようのない気持ちをたくさん抱えているのだろうから。
湯船の中で膝を立てて、その膝を抱き込んで。
「………池野さん。せめて、さよなら、くらいは……言いたかった、です…」
ぽつり、と。もう、どこにいるかもわからない彼女に向かって、小さく声を漏らした。
お風呂から上がり、ひとりで取る夕食を終え、家事をあらかた片付けて。玄関の横の物置になっている部屋に置いている、特に着ることもない服を詰め込んだ衣装ケースの奥から畳紙に包まれた浴衣を2枚引っ張り出して、ちらりと表面を確認する。
「あっちゃ~……ちょっと虫喰いあるなぁ…」
衣装ケースには防虫剤も入れていたけれど、長年仕舞い込んでいたから虫喰いの穴があいている。引っ張り出してきた浴衣は、白地にカラフルな水風船の柄に彩られた1枚。
(……これ、お母さんと一緒に手縫いで作った浴衣…)
まだ地元にいた頃。お母さんが入院中に和裁や刺繍をしていたから、お母さんから和裁を少しだけ習っていたのだ。それを応用して、反物から浴衣を手縫いした。この浴衣を着て、高校時代に同級生たちと夏祭りに行った。その時に祖母に着付けを習ったのだ。
加藤さんとの着付けの練習だとしても、さすがに虫喰いの浴衣を着るわけにはいかない。そう考えて、もうひとつの畳紙も開くけれど。
「こっちも……穴開いちゃってるなぁ…」
大学時代に友人たちと色違いのおそろいの柄の買った浴衣。手元にあるのは、白地にピンク色の花がたくさん散らばっている、若々しく可愛らしい柄だ。
「……こっちは…虫喰いがなくても、若すぎる、かな…」
ぺたん、と、フローリングに座ったまま、虫に喰われてしまって穴が空いている部分をそっとなぞりながら小さくひとりごちる。
私ももう25歳。可愛らしいほどのこの派手な柄はさすがに若すぎる気がする。
「ん~~………」
結局、社内恋愛だということを理由に平山さんと夏祭りに行ったことはなかったな、と、ぼんやり思い出しながら、忙しそうだから難しいだろうけど智と一緒に花火を見れたらいいなぁと思考を巡らせて、はたと気が付く。
(あれ、そういえば……智って浴衣持ってるのかな?)
以前、クローゼットの中を掃除した時には見当たらなかった。もしかしたら実家に置いているのかもしれないけれど、もしかすると持っていないのかもしれない。そう結論付けて、パチンと何かがおりてきた。
「そうだ……昇進のお祝い。浴衣を縫うっていうのはどうだろう」
広げた浴衣を前に、頭に浮かんだ考えを小さく呟く。確か、この水風船の柄の浴衣を作った時に使用した市販の型紙も、上京するときにお母さんが持たせてくれた裁縫道具の中に入れっぱなしで残っている気がする。
「や、でも……管理職昇進のお祝いだし…さすがに手作りっていうのはナイかなぁ…」
我ながら名案だ、と思ったけれど……記念すべき管理職昇進のお祝いだ。別のものを考えるべきだろうか。ため息をつきながら、小さく肩を落とす。
(でもなぁ……誕生日のプレゼントだって、具体的に何が欲しいとか言ってくれなかったし)
一昨日迎えた智の誕生日。何が欲しいかを訊ねても『知香の全部』としか返答されず、結局、何を贈るか悩み悩んだ挙句にネクタイにしたのだ。元から物欲があまりない人なのだろう、と察している。
毎月お互いに同額で振り分けているお小遣いも、ほぼ煙草とマスターのお店で購入しているコーヒー豆にしか使っていないことも把握している。時折、ビジネス書等の書籍を購入したり、それと、強いて言うならば避妊具代に消えていったり。というより、アレの消費ペースが早いのだ。……智は物欲がない分、性欲に振り切っているのかもしれない。
(……いやいや、性欲おばけなのは絶対他の理由だ!)
ぶんぶんと頭を振ってその恐ろしい考えを思考から追い出し、膝に乗せた畳紙を指でなぞりながらふたたび考えを巡らせていく。
思い返せば。一昨日の誕生日当日も、あの哀しい記憶を上書きして欲しい、だなんて口にするくらいだ。きっと、既製品よりも記憶や贈り手の気持ちを重視するタイプなのだろうと思う。
(そういえば………今まで、智に手作りって…あげたことないな…)
バレンタインだって。仕事が立て込んでいて時間がなかったこともあるけれど、料理だけでなく製菓も私より上手な智に『手作りチョコ』なんて食べさせられないと感じてチョコレートフォンデュにしたし、お付き合いが始まって半年が経ったけれど、『手作り』をプレゼントしたことは一度もない。
考えれば考えるほど、そちらに転がっていく思考。浮かんだ考えを否定する材料は少ない。
「……うん。手作りにしよう。さすがに帯とか小物は買うとして、反物から選んで……手縫いで浴衣を繕う」
私が縫った浴衣を身に纏ってくれる智はどれほどかっこいいだろうか。目を閉じて、愛おしい人の顔を脳裏に思い浮かべる。
ワイルドで肉食系の見た目。それでいてさらさらの黒髪に切れ長の瞳、背が高いところとか、意外と細マッチョだとか、そういう外面の良さだけではなくて。
結構細かいところに気がつくところとか、私のドジなところを日々さりげなくフォローしてくれているところとか、意地悪だけどなんだかんだ言いながらも優しいところだとか、そんなところも全部全部ひっくるめてかっこいいから。
そんなかっこいい、私の自慢の智を引き立てる浴衣にしよう。今年の花火は観に行けなくても、来年とか、再来年とか……その先でもいい。
(いつか。花火を観に行く約束ができたらいいなぁ)
そんな小さな幸せな想像をしながら、ふふふ、と。口元が少しだけ緩んだ。
そんな小さな幸せを噛み締めていると、エプロンに入れていたスマホが震えた。バイブレーションのパターンから着信だとわかる。智がもう最寄り駅まで帰ってきたのかな、と呑気に考えながらポケットをまさぐってスマホを取り出し、スマホのディスプレイを確認して身体がピシリと固まった。
「……え、お母さん?」
電話なんて滅多にかけてこない母親からの、着信。まさか親戚の誰かに不幸があったとか、と、嫌な想像をしてさぁっと血の気が引いていく。
恐る恐る表示された応答ボタンをタップして、「もしもし?」と震える声を上げた。
『あらぁ、知香、お疲れさま。そっちは雨のひどかごたっけどどがんね?雷は?(ひどいみたいだけど大丈夫?)』
電話口から聞こえてきたのは、いつものおっとりとしたお母さんの声。その穏やかな声に、先ほど想像したような嫌な知らせではないと察して大きく安堵のため息をついた。
スマホを肩に挟んで膝の上に乗せていた畳紙を衣装ケースに仕舞い込み、物置となっているこの部屋を出た。すぐそばにある玄関の扉を少しだけ開けてみる。雨足は変わらずにひどいけれど、雷雨ではない。
「雨の降り方は強いけど、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
全国の天気予報を見て気にかけてくれているのだろう。遠く離れているからこそ、こう言った時に有り難みを感じる。玄関を閉じると、電話口の向こうからチリチリと鈴の音が聞こえた。
(今の……ムギ、かな?)
お母さんの足元にすりすりと纏わり付きながら、明るい茶色の瞳を大きく見開いて。『誰と話してるの?お母さん何してるの?』と、きょとんと目を丸くして、お母さんの足元からお母さんの表情を見上げている様子がまざまざと目の前に浮かんだ。思わずくすりと笑いが込み上げる。
『そぉね、良かった良かった。さっきニュースでそっちが10数年に一度の大雨とか言いよったけん心配かったとよ(言ってたから心配だったの)』
「えっ、そんなこと言ってたの?」
穏やかな声色とは正反対の言葉がスピーカーから響いて思わず目を剥いた。夕食を取っていた時は、行儀が悪いけれど一人きりだからと通関士のテキストを読みながら食べ進めたため、テレビを見ていなかったのだ。そんなことを言っていただなんて、知る由もない。
そんなにひどい雨なのか。智が帰る頃にはもっとひどくなっているんじゃないか、と、何気に心配になる。リビングに戻る足が止まって、廊下に立ち止まったままお母さんと会話を続けていく。
『ん、そがん言いよったばい。智さんは帰ってきとらすとね?(帰ってきてるの?)』
私の不安な気持ちが伝わったのか、お母さんの口から智の名前が飛び出てくる。その心配そうな声に、見えないとわかっていても、力なく頭を振って返答する。
「……ううん、まだ。昨日付けで管理職に昇進して大変みたいで」
『あらぁ、早っさぁ。もう管理職にならしたとね(早いね。もう管理職になったの?)』
お母さんの驚いたような、それでいて感心したような声がスピーカーから響いていく。確かに、お母さんが口にしたように、31歳で管理職だなんて、中小企業だとしても異例の昇進スピードでは無いだろうか。
「うん。智の上司さんが退職なさって空白になった役職に昇進したの。そのタイミングが重なっただけじゃなくて、智が営業成績を残して頑張ってることとか……その辺りもきちんと評価してもらっているみたい」
お休みであるはずの土日も、新部門立ち上げに関わる国際情勢や他社の動向などの情報収集をしたり、ビジネス書を読んだり、はたまた英会話の勉強をしたり、と。人知れず日々努力している智の頑張りが報われたことは本当に嬉しく思う。
『そぉね~……ほんなごて優秀か人ったいね、智さんは。おめでとうって言っといて。週末にお祝いでこっちからも何か贈るけん。送ったらまた連絡するたい』
お母さんの嬉しそうな声にありったけの謝意を伝えて、ゆっくりと電話を切った。
手に持ったスマホのディスプレイを電話画面からメッセージアプリの画面に切り替える。もうすぐ21時になるけれど、智から…そろそろ帰る、という、その連絡は来ていない。
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