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本編・第三部
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終業を迎えて、南里くんと同じタイミングで退勤をした。今日は金曜日。南里くん本人からはっきりとは聞いていないものの、恐らく徳永さんとのデートの約束のために金曜日だけは定時あがりを目標としている彼と一緒に、私も定時であがったのだ。そんな私は今日の目的のために、水曜日から色々と前倒しで仕事をこなしてきた。
今日は、自宅の最寄り駅から歩いて行ける範囲の呉服屋さんに、手縫いする浴衣の反物を買いに行く予定にしていたのだ。定時で上がればその呉服屋さんの閉店時間までに滑り込める。智には昇進のお祝いとして手縫いで浴衣を繕うことは秘密にしたいから、こっそり……だけれど。
三木ちゃんのデスクの後ろに設置してある自分の行動予定表のマグネットを帰社に動かして、「お疲れさまでした」と大きな声で退勤の挨拶をする。
今日はミントグリーンの七分袖のトップスに、オフホワイトのフレアスカートを合わせた。そのスカートのポケットからスマホを取り出しつつ、女性社員用の更衣室に足を向ける。メッセージアプリを起動させると、智からメッセージが届いていた。
『ちょっと熱っぽいから早めに上がらせて貰った。病院に寄って帰る。夕食の準備して知香の帰りを待ってるからな』
表示された文面に目を通して、半ば呆れたような声が自分の喉から転がっていった。
「………もう、だから言ったのに」
言わんこっちゃない。そう口にしながら、思いっきり眉間に皺が寄る。
だから言ったのだ。濡れた服を早く脱がないと風邪をひくよ、と。それを聞き入れなかったのは智だ。そこまで考えると、今度は口の先が尖っていく。
火曜日。10数年に一度の大雨で、雷鳴まで轟いていたあの日。ずぶ濡れで帰ってきた智に早く服を脱ぐように言ったのに、『私が誘った』とかいう訳の分からないことを言い出して、不本意にもキッチンで雪崩れ込まされた、あの日。
翌日、水曜日の夜から。智はくしゃみや咳を連発していた。昨日になるとそれがさらに悪化して。今朝はその様子に、今日はさすがに仕事を休ませてもらったらどうだ、と苦言を呈したけれど。
「熱があるわけじゃねぇから、大丈夫。池野課長も浅田もいねぇんだ。俺が休むわけにはいかねぇ」
と、明らかに赤らんだ顔にマスクをつけてフラフラの身体のまま、態度だけは勇ましく出勤していった。その結果がコレ。
(責任感が強いのはわかる。けど、会社でその風邪菌を撒き散らしてきたらどうするつもり?そういうのだって管理職の心得なんじゃないの?)
ふつふつと滾る感情を押し込めてずんずんと歩みを進め、自分のロッカーから鞄を取り出す。
帰ったらチクチクと小言を言ってやる。私が誘ったと言っていたけれど、絶対に自分がシタかっただけ。もう少し我慢を覚えないと、今後もこんな不甲斐ない事態を巻き起こすぞ、と。そんなことを小さく呟きながら、社員証をタイムカードの機械に翳した。
下りていくエレベーターの中で、メッセージアプリにパタパタと打ち込む。
『お疲れさまです。今日は夕食は要らないので、病院で貰った薬を飲んだらすぐ寝てください。その他の家事はやっておきますから』
怒っている、と主張し、それを智に伝えたくて。ワザと敬語の硬い文章を打ち込んで、送信ボタンを押した。即座に既読がついて、返信が届く。
『今、帰りの電車の中。薬貰った。その……すまない。あの日、調子に乗ったのが原因だと思う……』
私の怒りが伝わったのか、反省したようなメッセージが届いた。智が今浮かべている表情は、私の膝の上で爪を立てて、お母さんに怒られていたムギのしゅんとした表情に似ているのだろうな、と、なんとなく想像した。脳裏に浮かべたその表情がちょっとだけ可愛い、と思ったけれど、首をぶんぶんと振ってその想像を脳内から追い出す。
(ううん、少しは反省してもらわないと!)
今後もこんなことが起こって体調を崩されては堪らない。管理職に昇進したのだから、その辺りだって自覚してもらわないと。普段から智の性欲おばけっぷりは腹に据えかねていたから、この際それも自重していただきたい。
眉間に皺を寄せながら、反省したようなそのメッセージに返信を打つ。
『わかってるなら早く寝て早く治してください。今日は家事はいいですから。着替えてすぐ寝ててください。何かひとつでも家事をやってたら許しませんからね?』
そう打ち込んで送信ボタンを押すと、独特の浮遊感に身体が包まれて1階のエントランスに到着したことを認識した。
目の前のエレベーターの扉が開くと、案の定。
「やぁ、知香ちゃん。お疲れさま」
「…………」
へにゃりとした人懐っこい笑顔。ひょい、とあげられた、季節外れの長袖を纏った右手。いつもと同じ……ヘーゼル色の瞳と、視線がかち合う。
彼が待ち伏せ場所を上のエレベーターホールからこのエントランスに変更して既に4日が経った。いつまでこんな不毛な行動をするつもりでいるのか。智が私の忠告を無視して風邪を引いた、ということに対する怒りも相まって、今の私は生憎虫の居所がすこぶる悪いのだ。彼の労いの言葉に無言のままでエントランスに足を踏み出した。
智に向ける怒りを八つ当たりするように、一度片桐さんを強く睨み上げて、エントランスを歩いていく。すると、ふっと。ヘーゼル色の瞳が、愉しそうに歪んで。
「ん~。怒ってる知香ちゃんも相変わらずカワイー」
へらっと。片桐さんがまた人懐っこい笑みを浮かべた。私はその言葉を無視して、コツコツとヒールの音をさせながら出入り口に向かう。
「商談で用事があってね?三井商社に電話をかけたんだけど、智くん、体調不良で早退してるんだってね~ぇ?」
私の少し後ろを歩く片桐さんが、楽しげに声を発した。
「………それがどうしたんですか?」
待ち伏せ場所を変えた火曜日からは無言で私の隣を歩くだけだった片桐さん。唐突に何を言い出すかと思えば、智のことか。どうせまた私のことを揺さぶろうとしているのだろうと感じて、軽くあしらいながらオフィスビルの出入り口になっている自動ドアをくぐり抜ける。
今日、明日は梅雨の狭間の晴れ、という予報だった。その天気予報の通りに、今日は昨日までの曇天と打って変わって、真夏のような青く澄んだ空が頭上に広がっている。明日から7月、日も随分と長くなり、傾いた西日がアスファルトに差し込んでいた。
いつもの交差点に足を向ける。そうして、片桐さんの声を振り払うように足早に歩みを進めるけれど、結局……背が高く足が長い片桐さんに、あっという間に私の真横に到達されてしまう。
「知香ちゃんが怒っているのは、自分が忠告したのに智くんは無理して風邪引いたから。たぶんそうでしょ?」
図星をつかれて、思わず足を止めた。私の少し前に足を出した彼がふわりと私を振り返る。その動作に合わせて、彼の明るい髪が揺れ動いた。ヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。
「でも、しょうがないと思うよ?農産販売部の中川部長経由で聞いたけど、黒川の件以降、過去の決算訂正の仕事も池野さんと一緒に彼がやっていたんでしょ?新事業も好調だと専門紙に書いてあったし、相当根詰めて仕事してたんじゃないかなぁ。その上に昇進で、池野さんの穴を埋めなくちゃって。体調崩して風邪引いちゃうのも仕方ないと思わない?」
一気に吐き出すように言葉を紡いだ、片桐さん。そのまま、こてん、と。首を傾けた。彼はそうして、じっと。身じろぎひとつせず、私を見ている。
「………」
確かに。冷静になって考えれば、片桐さんの言う通り、だと思う。智は黒川さんの不正事件以降多忙で、土日は泥のように眠る日々が続いていた。その上に、浅田さんの結婚式のスピーチの練習をしたり、新部門のことで情報収集をしたり、極め付けにいきなり池野さんが退職して、その後任を唐突に任された。思い返せば、心身ともに芯から休まる瞬間すらなかったのではないだろうか。
雨に打たれ、そのまま雪崩れ込んだ事が1番の要因だと思っていたけれど。実は、この一件が無くても―――こうして、智が体調を崩す、という結末は変わらなかったかもしれない。
「……それはそうかもしれませんが。どうして片桐さんが彼を庇うような発言をするんですか?」
片桐さんが口にしたのは、正論以外の何物でもない。冷静にその言葉を噛み砕いていけば、徐々に智に対する怒りもおさまってきた。
けれど、私を智から奪い取ろうと虎視眈々と日々過ごしているはずの彼が。どうしてこんな風に……私を宥めて、智を庇うような発言をするのか。全くもって理解不能だ。
「俺が話したことは、間違ってないよね?」と、私に確認するかのように……首を傾けたままの片桐さん。私の怪訝な表情に、明るい髪色と同じ色の眉が困ったように歪められた。
「…………んん~。知香ちゃんが俺の恋人になった後に、同じ状況になって俺が怒られるのが嫌だから」
「っ…!」
不自然な空白の後に続けられた衝撃的なセリフに、瞬時に身体が強張る。
けれど……思い返せば。あのシンポジウムの前の事前の打ち合わせでも、彼は同じようなことを言っていた。
私が智と別れて自分を選ぶのが当然の確定事項なのだ、と……改めて。そう宣言して、私に言い聞かせるように。私を、揺さぶりにきた。そう感じた。
彼の思い通りに……揺さぶられてなるものか。跳ねる心臓を押さえつけるように、ぎゅっと手のひらを握った。落ち着いて、冷静に。高い位置にある彼の瞳を睨めつける。
「………以前も言いましたけれど、片桐さんと私がそういう関係になる、なんて、絶っ対に有り得ませんから。無用なご心配です」
吐き捨てるように言葉を投げつけて、駅に繋がる階段に向かって踵を返す。
「どうかなぁ。人の心は動いていくからね~ぇ?」
くすくす、と。片桐さんが愉しそうに笑いながら、私の背後をついてくる。彼の革靴にはトゥスチールが取り付けられているから、彼の歩くスピードはすぐにわかる。
当たり前のように私の後ろをついてくる片桐さんを振り切ろうと、足早にホームに繋がる階段を下りきった。無言のまま改札を通り抜けると、ちょうど良いタイミングで私が帰る方向の電車のドアが開いていた。帰宅する人々でごった返している電車に乗り込んでいく。
「また月曜日ね、知香ちゃん」
ホームに反響するザワザワとした喧騒に紛れて、片桐さんの声がした。
(……いつまで…こんな『消耗戦』をするつもりなのだろう)
乗り込んだ電車の中から睨みつけるようにホームを振り返れば。片桐さんはいつものように、へにゃり、とした人懐っこい笑みを浮かべて、私を見つめてひらひらと手を振っている。けれど、そのヘーゼル色の瞳は。
―――私を見ているのに、私を見ていない。そんな……瞳、だ。
(………消耗戦、も。『交錯』、の……ひとつ?)
ふっと。そんな突飛な考えが脳裏に浮かんだ。
思い返せば、先ほど。私がどうして智を庇うようなことを言うのか、と、彼に問いただした時。彼の返答の直前には、少しだけ不自然な空白があった。彼の表情には変化はなかったけれど、それはまるで、何かを考え込むような……そんな空白だったように思える。
右手に持った、定期券が入ったパスケースをぎゅっと握りしめた。その瞬間、扉が閉まるというアナウンスがホームに設置されたスピーカーから明るい音楽とともに流れてくる。私は慌てて声を張り上げた。
「片桐さん!」
普段は電車に乗った私から、こうして何かを話しかけることはない。けれど、今、どうしても言わなきゃいけないような、そんな気がした。
私の呼びかけに、片桐さんがぴくりと小さく身動ぎをした。それでもなお、へにゃり、とした笑みは消えないままで。
車両のドアが、プシュ、と。圧縮された空気で閉まっていく軽快な音が響く。
私の声は、ドアに遮られて届かないかもしれない。けれど、諜報機関に在籍していた過去がある彼のことだから。催眠暗示だなんていう特殊な技術を身につけていた彼のことだから、きっと、読唇術だって身につけているだろう。電車のドアの透明な窓越しだとしても、私が言いたいことをわかってくれるはずだ。
パタン、と、音がして。ホームの喧騒が搔き消えた。電車内の静かな空間が私を包んでいく。聞こえてくるのは、声をひそめた周囲の人々の話し声だけ。
急速に回り出す思考に気を取られていたからあっという間にドアが完全に閉まってしまった。間に合わなかった、それでも、車両が動き、私の視界から彼の姿が消えてしまう前ならば―――私の言葉は、彼に届くはず。
車両が進行方向に動き出す。身体が慣性の法則に従ってくんっとつっぱった。それを堪えて、急いで口だけを動かした。
『あなたは、何を隠しているの?』
私が、そう口を動かした、その瞬間。
へにゃり、とした笑みが。
ぺたり、と、何かを貼り付けられたような……そんな微笑みに、変わった。
それはまるで―――くるり、と。コインの裏表が切り替わったような。……そんな変化に、思えた。
今日は、自宅の最寄り駅から歩いて行ける範囲の呉服屋さんに、手縫いする浴衣の反物を買いに行く予定にしていたのだ。定時で上がればその呉服屋さんの閉店時間までに滑り込める。智には昇進のお祝いとして手縫いで浴衣を繕うことは秘密にしたいから、こっそり……だけれど。
三木ちゃんのデスクの後ろに設置してある自分の行動予定表のマグネットを帰社に動かして、「お疲れさまでした」と大きな声で退勤の挨拶をする。
今日はミントグリーンの七分袖のトップスに、オフホワイトのフレアスカートを合わせた。そのスカートのポケットからスマホを取り出しつつ、女性社員用の更衣室に足を向ける。メッセージアプリを起動させると、智からメッセージが届いていた。
『ちょっと熱っぽいから早めに上がらせて貰った。病院に寄って帰る。夕食の準備して知香の帰りを待ってるからな』
表示された文面に目を通して、半ば呆れたような声が自分の喉から転がっていった。
「………もう、だから言ったのに」
言わんこっちゃない。そう口にしながら、思いっきり眉間に皺が寄る。
だから言ったのだ。濡れた服を早く脱がないと風邪をひくよ、と。それを聞き入れなかったのは智だ。そこまで考えると、今度は口の先が尖っていく。
火曜日。10数年に一度の大雨で、雷鳴まで轟いていたあの日。ずぶ濡れで帰ってきた智に早く服を脱ぐように言ったのに、『私が誘った』とかいう訳の分からないことを言い出して、不本意にもキッチンで雪崩れ込まされた、あの日。
翌日、水曜日の夜から。智はくしゃみや咳を連発していた。昨日になるとそれがさらに悪化して。今朝はその様子に、今日はさすがに仕事を休ませてもらったらどうだ、と苦言を呈したけれど。
「熱があるわけじゃねぇから、大丈夫。池野課長も浅田もいねぇんだ。俺が休むわけにはいかねぇ」
と、明らかに赤らんだ顔にマスクをつけてフラフラの身体のまま、態度だけは勇ましく出勤していった。その結果がコレ。
(責任感が強いのはわかる。けど、会社でその風邪菌を撒き散らしてきたらどうするつもり?そういうのだって管理職の心得なんじゃないの?)
ふつふつと滾る感情を押し込めてずんずんと歩みを進め、自分のロッカーから鞄を取り出す。
帰ったらチクチクと小言を言ってやる。私が誘ったと言っていたけれど、絶対に自分がシタかっただけ。もう少し我慢を覚えないと、今後もこんな不甲斐ない事態を巻き起こすぞ、と。そんなことを小さく呟きながら、社員証をタイムカードの機械に翳した。
下りていくエレベーターの中で、メッセージアプリにパタパタと打ち込む。
『お疲れさまです。今日は夕食は要らないので、病院で貰った薬を飲んだらすぐ寝てください。その他の家事はやっておきますから』
怒っている、と主張し、それを智に伝えたくて。ワザと敬語の硬い文章を打ち込んで、送信ボタンを押した。即座に既読がついて、返信が届く。
『今、帰りの電車の中。薬貰った。その……すまない。あの日、調子に乗ったのが原因だと思う……』
私の怒りが伝わったのか、反省したようなメッセージが届いた。智が今浮かべている表情は、私の膝の上で爪を立てて、お母さんに怒られていたムギのしゅんとした表情に似ているのだろうな、と、なんとなく想像した。脳裏に浮かべたその表情がちょっとだけ可愛い、と思ったけれど、首をぶんぶんと振ってその想像を脳内から追い出す。
(ううん、少しは反省してもらわないと!)
今後もこんなことが起こって体調を崩されては堪らない。管理職に昇進したのだから、その辺りだって自覚してもらわないと。普段から智の性欲おばけっぷりは腹に据えかねていたから、この際それも自重していただきたい。
眉間に皺を寄せながら、反省したようなそのメッセージに返信を打つ。
『わかってるなら早く寝て早く治してください。今日は家事はいいですから。着替えてすぐ寝ててください。何かひとつでも家事をやってたら許しませんからね?』
そう打ち込んで送信ボタンを押すと、独特の浮遊感に身体が包まれて1階のエントランスに到着したことを認識した。
目の前のエレベーターの扉が開くと、案の定。
「やぁ、知香ちゃん。お疲れさま」
「…………」
へにゃりとした人懐っこい笑顔。ひょい、とあげられた、季節外れの長袖を纏った右手。いつもと同じ……ヘーゼル色の瞳と、視線がかち合う。
彼が待ち伏せ場所を上のエレベーターホールからこのエントランスに変更して既に4日が経った。いつまでこんな不毛な行動をするつもりでいるのか。智が私の忠告を無視して風邪を引いた、ということに対する怒りも相まって、今の私は生憎虫の居所がすこぶる悪いのだ。彼の労いの言葉に無言のままでエントランスに足を踏み出した。
智に向ける怒りを八つ当たりするように、一度片桐さんを強く睨み上げて、エントランスを歩いていく。すると、ふっと。ヘーゼル色の瞳が、愉しそうに歪んで。
「ん~。怒ってる知香ちゃんも相変わらずカワイー」
へらっと。片桐さんがまた人懐っこい笑みを浮かべた。私はその言葉を無視して、コツコツとヒールの音をさせながら出入り口に向かう。
「商談で用事があってね?三井商社に電話をかけたんだけど、智くん、体調不良で早退してるんだってね~ぇ?」
私の少し後ろを歩く片桐さんが、楽しげに声を発した。
「………それがどうしたんですか?」
待ち伏せ場所を変えた火曜日からは無言で私の隣を歩くだけだった片桐さん。唐突に何を言い出すかと思えば、智のことか。どうせまた私のことを揺さぶろうとしているのだろうと感じて、軽くあしらいながらオフィスビルの出入り口になっている自動ドアをくぐり抜ける。
今日、明日は梅雨の狭間の晴れ、という予報だった。その天気予報の通りに、今日は昨日までの曇天と打って変わって、真夏のような青く澄んだ空が頭上に広がっている。明日から7月、日も随分と長くなり、傾いた西日がアスファルトに差し込んでいた。
いつもの交差点に足を向ける。そうして、片桐さんの声を振り払うように足早に歩みを進めるけれど、結局……背が高く足が長い片桐さんに、あっという間に私の真横に到達されてしまう。
「知香ちゃんが怒っているのは、自分が忠告したのに智くんは無理して風邪引いたから。たぶんそうでしょ?」
図星をつかれて、思わず足を止めた。私の少し前に足を出した彼がふわりと私を振り返る。その動作に合わせて、彼の明るい髪が揺れ動いた。ヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。
「でも、しょうがないと思うよ?農産販売部の中川部長経由で聞いたけど、黒川の件以降、過去の決算訂正の仕事も池野さんと一緒に彼がやっていたんでしょ?新事業も好調だと専門紙に書いてあったし、相当根詰めて仕事してたんじゃないかなぁ。その上に昇進で、池野さんの穴を埋めなくちゃって。体調崩して風邪引いちゃうのも仕方ないと思わない?」
一気に吐き出すように言葉を紡いだ、片桐さん。そのまま、こてん、と。首を傾けた。彼はそうして、じっと。身じろぎひとつせず、私を見ている。
「………」
確かに。冷静になって考えれば、片桐さんの言う通り、だと思う。智は黒川さんの不正事件以降多忙で、土日は泥のように眠る日々が続いていた。その上に、浅田さんの結婚式のスピーチの練習をしたり、新部門のことで情報収集をしたり、極め付けにいきなり池野さんが退職して、その後任を唐突に任された。思い返せば、心身ともに芯から休まる瞬間すらなかったのではないだろうか。
雨に打たれ、そのまま雪崩れ込んだ事が1番の要因だと思っていたけれど。実は、この一件が無くても―――こうして、智が体調を崩す、という結末は変わらなかったかもしれない。
「……それはそうかもしれませんが。どうして片桐さんが彼を庇うような発言をするんですか?」
片桐さんが口にしたのは、正論以外の何物でもない。冷静にその言葉を噛み砕いていけば、徐々に智に対する怒りもおさまってきた。
けれど、私を智から奪い取ろうと虎視眈々と日々過ごしているはずの彼が。どうしてこんな風に……私を宥めて、智を庇うような発言をするのか。全くもって理解不能だ。
「俺が話したことは、間違ってないよね?」と、私に確認するかのように……首を傾けたままの片桐さん。私の怪訝な表情に、明るい髪色と同じ色の眉が困ったように歪められた。
「…………んん~。知香ちゃんが俺の恋人になった後に、同じ状況になって俺が怒られるのが嫌だから」
「っ…!」
不自然な空白の後に続けられた衝撃的なセリフに、瞬時に身体が強張る。
けれど……思い返せば。あのシンポジウムの前の事前の打ち合わせでも、彼は同じようなことを言っていた。
私が智と別れて自分を選ぶのが当然の確定事項なのだ、と……改めて。そう宣言して、私に言い聞かせるように。私を、揺さぶりにきた。そう感じた。
彼の思い通りに……揺さぶられてなるものか。跳ねる心臓を押さえつけるように、ぎゅっと手のひらを握った。落ち着いて、冷静に。高い位置にある彼の瞳を睨めつける。
「………以前も言いましたけれど、片桐さんと私がそういう関係になる、なんて、絶っ対に有り得ませんから。無用なご心配です」
吐き捨てるように言葉を投げつけて、駅に繋がる階段に向かって踵を返す。
「どうかなぁ。人の心は動いていくからね~ぇ?」
くすくす、と。片桐さんが愉しそうに笑いながら、私の背後をついてくる。彼の革靴にはトゥスチールが取り付けられているから、彼の歩くスピードはすぐにわかる。
当たり前のように私の後ろをついてくる片桐さんを振り切ろうと、足早にホームに繋がる階段を下りきった。無言のまま改札を通り抜けると、ちょうど良いタイミングで私が帰る方向の電車のドアが開いていた。帰宅する人々でごった返している電車に乗り込んでいく。
「また月曜日ね、知香ちゃん」
ホームに反響するザワザワとした喧騒に紛れて、片桐さんの声がした。
(……いつまで…こんな『消耗戦』をするつもりなのだろう)
乗り込んだ電車の中から睨みつけるようにホームを振り返れば。片桐さんはいつものように、へにゃり、とした人懐っこい笑みを浮かべて、私を見つめてひらひらと手を振っている。けれど、そのヘーゼル色の瞳は。
―――私を見ているのに、私を見ていない。そんな……瞳、だ。
(………消耗戦、も。『交錯』、の……ひとつ?)
ふっと。そんな突飛な考えが脳裏に浮かんだ。
思い返せば、先ほど。私がどうして智を庇うようなことを言うのか、と、彼に問いただした時。彼の返答の直前には、少しだけ不自然な空白があった。彼の表情には変化はなかったけれど、それはまるで、何かを考え込むような……そんな空白だったように思える。
右手に持った、定期券が入ったパスケースをぎゅっと握りしめた。その瞬間、扉が閉まるというアナウンスがホームに設置されたスピーカーから明るい音楽とともに流れてくる。私は慌てて声を張り上げた。
「片桐さん!」
普段は電車に乗った私から、こうして何かを話しかけることはない。けれど、今、どうしても言わなきゃいけないような、そんな気がした。
私の呼びかけに、片桐さんがぴくりと小さく身動ぎをした。それでもなお、へにゃり、とした笑みは消えないままで。
車両のドアが、プシュ、と。圧縮された空気で閉まっていく軽快な音が響く。
私の声は、ドアに遮られて届かないかもしれない。けれど、諜報機関に在籍していた過去がある彼のことだから。催眠暗示だなんていう特殊な技術を身につけていた彼のことだから、きっと、読唇術だって身につけているだろう。電車のドアの透明な窓越しだとしても、私が言いたいことをわかってくれるはずだ。
パタン、と、音がして。ホームの喧騒が搔き消えた。電車内の静かな空間が私を包んでいく。聞こえてくるのは、声をひそめた周囲の人々の話し声だけ。
急速に回り出す思考に気を取られていたからあっという間にドアが完全に閉まってしまった。間に合わなかった、それでも、車両が動き、私の視界から彼の姿が消えてしまう前ならば―――私の言葉は、彼に届くはず。
車両が進行方向に動き出す。身体が慣性の法則に従ってくんっとつっぱった。それを堪えて、急いで口だけを動かした。
『あなたは、何を隠しているの?』
私が、そう口を動かした、その瞬間。
へにゃり、とした笑みが。
ぺたり、と、何かを貼り付けられたような……そんな微笑みに、変わった。
それはまるで―――くるり、と。コインの裏表が切り替わったような。……そんな変化に、思えた。
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