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本編・第三部

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 シックな色の壁紙の廊下。普段は雪が降りしきる空間のようにシンと静かだけれど、今は昼休み特有のザワザワとした喧騒が聞こえてくる。時折、会話に混じって楽しそうな笑い声が響くその中を、背中を丸めてしょんぼりとしながら女性社員用の更衣室に足を運び、自分のロッカーを開いて鞄を手に持った。

 智に午前中で仕事を切り上げ早退する旨のメッセージを送ろうと、鞄からスマホを取り出す。電源ボタンを押してロック画面を表示すると。

『さっき、顔、赤かったぞ。大丈夫か?』

 智からそんな内容のメッセージが届いている、という通知がディスプレイに表示されていた。届いている時間は遡ること1時間半ほど前。あの商談を終えた直後の時間帯だ。

(……田邉部長も水野課長も、私の顔が赤らんでるって気付くくらいだから、そりゃぁ智も気付く、よね……)

 移らないように気をつけていたはずなのに。なんとも情けない。

『風邪移ったかも。熱はそう高くもなさそうなんだけど、上司にも早退するように言われたから帰るね。病院に寄ってくる』

 そう打ち込んでメッセージを送信し、社員証を手に持って更衣室を退出する。スマホに視線を落としたままエレベーターホールに向かうと、ふわり、とシトラスの香りが漂って。ぎくりと足が止まった。

「……あれ、知香ちゃん?どうしたの?」

 彼の声に緩慢な動作でスマホから顔を上げる。昼休み特有の喧騒が響くエレベーターホールで、ヘーゼル色の瞳が今にも零れ落ちそうに見開かれて私を見つめていた。

 7月に入って本格的に真夏の太陽に変わっていっているというのに、相変わらず長袖を身に纏っている。その視線が、すい、と私の手元に移動した。私の肩にかかっている鞄、手に持った社員証。これから帰宅します、というのがバレバレだ。

(………タイミングが悪すぎる…)

 今週も変わらず終業後は下のエントランスで待ち伏せされている。今日は早退するから一日だけは解放されるとほっとしていたのに。半ばげんなりしながら突き放すように声を上げた。

「………片桐こそ、どうされたんですか。農産販売部のブースはこの階ではなくて1階下ですよ。まさかいい大人が迷子ですか」

 片桐さんは今月から課長代理に昇進した。今の時間は昼休みだけれど、プライベートで接しているつもりはないという意志を込めて役職名をつけ意識した低い声で返答する。

 私の声に、片桐さんは驚いたような表情から、一瞬でへにゃりと人懐っこい笑みに変わる。

「んん~、、広報部に呼ばれたんだ。中途キャリア採用者インタビューで」

 商談の後、という言葉が私だけにわかるように、僅かに強調された。ということは、やはり通関部うちとの商談を終えて、智と片桐さんは下の応接室で顔を合わせたのだ。それを遠回しに伝えてくるあたり、やはり何かしら智を挑発するような言動をしたということに違いない。

(……本当、狡猾で頭は回るタイプの人、よね…)

 心の中でそう呟き盛大にため息をつきながら、社員証をタイムカードの機械に翳していく。

「俺、写真撮られるの苦手だから、一度は断ったんだけどさ?農産販売部うちの上司の中川部長からどうしてもっていわれてね~ぇ……」

 片桐さんが困ったように肩を竦めながら、私が聞いてもいない話を滔々と語っていく。

 このオフィスビルの中で極東商社が借りているフロアはどの階も1mくらいのパーティションで仕切っているだけの空間。通関部があるこの階には、通関部の他に畜産販売部、広報部が入っている。要するに、この階にある広報部のブースで極東商社の公式ホームページだか会社案内のパンフレットだかに載せるインタビューを受けていたのだろうと察する。

 片桐さんは見目も抜群イケメンだし、仕事も出来る、英語も出来る。その上、帰国子女、ハーフ。格好の広告塔だ。更に言えば彼は槻山取締役の縁戚だし、納得の人選と言えよう。

 片桐さんが私を毎日待ち伏せしているのは極東商社内では有名な話。今、エレベーターホールには昼休みで昼食を取りに行こうとする人がたくさんいる。彼が私に声をかけた時点で、周囲の空気が一瞬固まったことには気が付いている。

 理由は考えるまでもない、噂の中心人物がふたり揃っているから。なんとなく探るような視線を周囲から感じる。

 この異様な空気感に、普段から察しの良い片桐さんが気が付いていないはずもないのに。彼は唐突に腰を曲げて私の顔を覗き込んだ。思わぬ行動にぎょっとして身体が固まる。

「……あ、もしかして熱?大丈夫?」

「っ………」

 この人にさえも、私が体調を崩しているのではと勘付かれてしまうのか。図星を突かれて思わず押し黙る。

 私の顔を覗き込んでいる、ヘーゼル色の瞳。一目でわかる憂色が濃いその視線。思わずその宝石のような瞳を二度見する。

(あ、れ……?)

 今週も毎日待ち伏せされていたけれど、彼とこうしてじっくりと視線を合わせることはなかった。ヘーゼル色の瞳に浮かぶ、妙な違和感。


 いるのに、。それでも、どことなくいる、ような気がする。


(…………なんだか、よくわからない、瞳になってる…)

 彼の瞳がふたたび変化している。その理由まではさっぱりわからない。

 けれど、彼に私の体調を心配されていることもなんだか癪に触る。肯定も否定もしたくなくて無言のままでいると、チン、と軽い音がして、エレベーターが到着する。昼食を取りに行く人たちに紛れて、そのエレベーターに吸い込まれるように乗り込んだ。

 しばらくその場で立ったまま考え込んでいる様子だった片桐さんだけれど、彼も同じエレベーターに乗って来た。昼食時だ、彼もどこかで食事をするつもりなのだろう。

 下に向かうこのエレベーターを使うということは1階のカフェにでも行くつもりなのだろうか。私には関係ないけれど、と、同じエレベーターに乗っている社員さん達の少しだけ声を抑えたような会話が聞こえてくるのを聞き流しつつそんなことを考えていた。

 ……の、だけれど。エントランスに到着して、エレベーターを降りても。出入り口の自動ドアをくぐり抜けて、その先の、このオフィスビルに併設されているカフェを通り過ぎても。最寄り駅に向かう私に、片桐さんは着いてきていた。

「彼の風邪、移っちゃったのかな?」

 片桐さんが困ったように言葉を発していく。

 先週、智が早退した日。私を待ち伏せしていた片桐さんは、仕事のことで三井商社に電話をかけたけれど、用があった智は体調不良で不在だったよ、と口にしていた。その前提があったから、私が早退する理由はしかないだろうという結論に辿り着いたのか。それさえわかれば、私が体調を崩しているのではと勘付かれてしまったことにも納得がいく。

 カンカンと、彼の革靴に取り付けられたトゥースチールから生まれる音で、彼が私の少し後ろを歩いているのを認識した。

(……まさか)

 私の帰り際であればいつだろうと付き纏うつもりなのか。あからさますぎるその行動に内心呆れ果てながらも、彼の言葉を無視してホームに向かう階段を降りていく。

 階段の最後の一段を降り切ると、大きく風が吹き付ける。その風のせいか、はたまた智から移ってしまった風邪のせいか、なんだか悪寒が走る。思わず身震いをしながら視線を前に向けると、私が乗り込む方向の電車が滑り込んで来てその風を生み出しているようだった。

 後ろを着いてきている片桐さんを振り切るように、無言のまま早足で改札を抜けてドアが開いている目の前の車両に乗り込んでいく。

 乗り込んだ車両をさっと見回すも、平日の昼間だというのに座席は満席だ。結局、いつもの帰宅時のように出入り口の近くのポールを握りしめてバランスを取ることにした。

「今日は金曜日だし、ちゃんと病院に行って明日明後日はゆっくりするんだよ?」

 ホームから投げかけられた声にふい、と視線を上げた。

 軽いウインクを飛ばしながら、戯けたように発せられた片桐さんのその言葉。

(片桐さんに言われなくても、きちんと病院に行きますけど?)

 急遽決まった早退にも関わらず、こうやっていつものように付き纏われて。ムカムカする。

 込み上げる怒りのような感情を押さえつけながら、ぎゅっとヘーゼル色の瞳を睨めつけた。その瞬間、乗り込んだ電車のドアがプシュ、と軽快な音を立てて閉まって。

 彼の姿が、ゆっくりと見えなくなっていった。







 自宅の最寄り駅で電車を降りて、近くの病院に立ち寄る。受付で測った体温は微熱だった。待合室でぼうっとしながら名前が呼ばれるのを待ってみる。診察を終えると、風邪だろうとのことで智が飲んでいた薬と同様の薬を処方された。

 そのまま素直に家に帰り、のろのろと薬を飲んで、寝間着に着替えてベッドに潜り込む。

(……ん~…やっぱり移った、んだろうな…)

 横になっている身体が少しばかり怠く感じる。こうなってくると智の風邪が移ったのは火を見るよりも明らかだ。智にあれだけ無理をするな、無茶をするな、と口を酸っぱくしておいて、自分がダウンしてしまったのはひどく間抜けすぎるけれど。

(私に移って智が治ったんだから、それはそれでよかったのかも……)

 月曜日はまだ咳も出ていたけれど、昨日には咳一つせず完全回復しているようだった。池野さんの後任として管理職になったわけだから、これ以上仕事に穴を開けるわけにはいかないだろうし。特に今週は挨拶回りに出ていたみたいだし、風邪菌を社外にも撒き散らすことなく早期に治ってよかった。そう考えて、そっと目を閉じた。

 けれど、マスターでさえ身体の丈夫さにはお墨付きを出していたあの智がダウンしたほどの風邪。時間が経つにつれ、ベッドに横になっていても悪寒と頭痛が纏めて襲ってくるようになった。

 背筋を這い上がってくるような不快な感覚と、息苦しさ、それに時を追うごとに上昇していくような身体の熱さによって、うとうとと落ちかけていた眠りから幾度となく引き戻されていく。

 目を開くと吐き気が襲ってくるから、ぎゅっと強引に目を瞑って視界を遮断する。けれど、肌感覚が敏感になっているのか、掛け布団が擦れる感覚ですらとても不快に感じる。お手洗いに立ち上がろうとすると眩暈に襲われた。

(あ……これ、まずい、やつ、かも…)

 強い眩暈でグラグラする感覚を堪えてお手洗いに行くと、胃からせり上がるものを堪えきれず、そのまま嘔吐してしまった。

(………くる、しい…)

 胃酸のせいで口の中が気持ち悪い。でも、お手洗いまで我慢出来てよかった。こんな身体の状態で吐瀉物の片付けなんて到底無理に決まっている。仕事でクタクタになって帰ってきた智にそんなことをさせたくなかったから、この場所まで我慢できた自分を少しばかり褒めてあげたい。

(くすり、まで…もどしちゃった、かな……)

 嘔吐した拍子に、さっき飲んだ薬まで出ていったような気がする。こういう時はもう一度薬を飲んだ方が良いのか判断がつかない。ベッドに戻ったらスマホで軽く調べよう、と、思考の片隅にそんな考えが浮かぶけれど。

(……くち、の、なか…きもちわるい…)

 今はそれしか考えられない。脳内を大きく支配する気持ち悪さを解消しようと、這うように洗面所を目指した。

「は、ぁ……っ、……」

 口をゆすいで吐き出し、浄水でなくてもいいから水を、と、一口飲み下す。

 冷たい液体が喉を滑り落ちていった感覚にほぅっと息をついて―――



 そこで、ふつりと意識が途切れてしまった。
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