俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

231 小さく、呟いた。(上)

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 池野課長が退職し、俺が管理職に昇進して以降。これまでより少し早い時間に出社している。

 ガチャリ、と、扉を開けて、未だ誰も出社してきていない営業課のブースに足を踏み入れる。池野課長のデスクだった場所。俺が営業課の長となり、このデスクは俺のデスクとなった。その席に腰をおろし、積み上げられた書類に目を通していく。

 積み上げられていた書類の一番上は、昨日俺が後任の挨拶回りに向かうために直行直帰して以降、営業課の面々が上げて来ていた商売に係る伝票。それらに添付された外部証憑との突き合わせを行い、承認の証である浸透印を捺印し、1課の畜産、2課の農産、3課の水産チームに振り分ける。

 例の件が解決して以降、池野課長の主導で各営業課に定められていた商売の基本ルールが強化された。循環取引や不正取引を防ぐための外部証憑の取得や、定期的なチェックリストの提出等々。

 現在の手順は、営業が記入した伝票に俺が承認印を捺印し、一般職社員がシステムに入力する。その後、俺が入力されたデータの電子承認を行い、取引データが確定される仕組みだ。

(……不正を防ぐためには必要な手続き、だろうが。俺ひとりで回すにはちょっとキリがねぇな…)

 心の中でため息をつきながら席を立ち、振り分けた書類を各課の承認済ボックスに放り込んで企画開発部のブースに足を運ぶ。

 俺の能力を見込んで全てを任されている、ということは承知している。それらの評価は俺にはもったいないほどだ。

 ……けれども。

 俺だけが在籍している企画開発部の業務は、他社に委託加工を行っている性質上、否応なしに外出が増える。加工状況や納品数等の推移等の把握は日々行わなければならないし、加工した製品の新規納品先の開拓もしていかねばならない。
 営業課の長である俺が不在であれば営業課あちらの業務も滞る。どう考えても、この状態が長い期間続けば営業課の業務にも影響が出る。スピーディな商売が出来なければ機会損失も生まれてしまう。何かしらの手を打たなければ。

(………各課に俺の代理者を立てて、俺の手が離せない場合は承認印を代理で捺印してもらう仕組みを作るように進言するか)

 企画開発部のブースの扉を開き、自分のデスクに腰をおろしていく。手帳を開いて今日のスケジュールを一通りチェックして席を立ち、1階上の役員室へ足を向けた。




 役員室のドアをノックしドアを開け、腹筋に力をいれて気合を入れるように少しばかり声を張り上げる。

「おはようございます」

「おう、おはよう。邨上」

 毎朝行われる役員が集まっての定例会議。俺は今週からその会議の補佐をするように命ぜられた。主に会議の進行役を担っている。これは来年行われる株主総会にて、俺を執行役員に推薦するためだろう、と予測している。俺のファシリテーション能力の訓練を兼ねて抜擢されたのだろう。数分後に社長が入室し、定例会議が始まった。

 滞りなく会議の進行を終え、手書きで軽い議事録を纏める。初回の今週月曜日は手間取ったが、今日は難なく纏め終えた。



 その議事録を元に営業課で朝礼を行う。役員の意見伝達も俺の仕事のひとつだ。

 各営業課に所属する営業マンの表情を確認しつつ、大口取引先との商売の進捗状況の報告を受けたり、資金繰りが良くないという噂の取引先との取引について逐一報告を上げるように伝えたり、その他の細々とした連絡を受けていく。そうして、今日の午前中まで俺は取引先へ挨拶回りに出ること、なにか困ったことがあれば休日でも夜間でも構わないから俺に相談するように口にして朝礼を締めくくった。



 朝礼を終えて企画開発部のブースに戻り軽く書類の整理を行っていると、コンコン、と、ドアがノックされる。

「邨上、入るぞ」

「ん」

 廊下からドア越しに浅田の声が響いた。俺は手元の書類から視線を上げずに短く返答する。

 結婚式の翌日から一週間結婚休暇を取得していた浅田。今週の初め月曜日に出社し、池野課長の執行役員退任と退職を知り、その前の週の俺や藤宮と同じように茫然自失としていた。しかし、状況の把握と思考回路の復帰は早かった。俺が慣れない管理業務にひとりで奮闘していると理解するや否や、裏側で俺を密かにサポートするような動きを買って出てくれている。

 齢31歳の若輩者である俺が営業課の長となったことで内心不満を募らせている人間もいる。それを浅田も理解しているからこそ、表立って目立つような動きをしない。彼の営業マンとしての立場を考えるならば、それが俺にとっても浅田にとっても最善の選択だった。

 そうして、表では俺を『部長』と呼ぶが、こうして裏では『邨上』と苗字で呼ぶ。暗黙の了解のように呼び名を使い分けてくれているところも頼もしい。

 浅田には感謝しかない。俺にとってはまさに頼れる参謀のような存在だ。

「2課の桃山ももやま。何か悩みがあるっぽいぞ。土日、本人から何か連絡が来るかもしれねぇ」

 浅田がこのブースと廊下を仕切る扉をカチャリと閉めた瞬間、そう言葉を紡いだ。告げられた言葉に思わず目を瞬かせ、名前があがった人物の顔を脳裏に思い浮かべる。

「桃山?……わかった。いつもすまない、ありがとう」

 彼は確か、藤宮の一期上にあたる。社会人3年目。一般的にこの時期が一番辛いと感じることが多いと言われる。現場の中核となり責任は重くなり、ミスは許されず、後輩の指導も任されるようになっていく。上司の期待に応えたい想いが空回りすることもある。そうして何より、自分の将来を想像し、理想と現実の乖離に悩む時期だ。

 さらに言えば、2課の農産チームは黒川が引き起こした不正事件の影響で取引先が減り、成績不振気味だ。これまでも俺がフォロー出来る範囲でフォローに回っていたが、抜本的にメンバーを入れ替える人事異動を考える時期かもしれない。

 そこまで考えを巡らせると、浅田が「とりあえずお前にそれを伝えたかった。じゃぁな」と、踵を返す。思わず席から立ち上がりながら、遠くなるその背中を呼び止めた。

「浅田。率直にお前の意見を聞きたいことがふたつある」

「ん?」

 俺の呼びかけに、浅田がきょとんとした表情でこちらを振り返った。ぱちりとした二重の瞳を見つめながら、朝から考えていたことを投げかけていく。

「ひとつ目。各営業課に俺の代理者を立てる。組織改革だな。外出が多い俺の今の状態ではスピーディな商売が難しい。だから俺が不在の時はその代理者が代理で承認出来るような仕組みを作る。機会損失を発生させないためだ。もちろん、俺がやれる時は俺がやる。不正防止の目的もあるが、それぞれの営業課の取引を確認することをきっかけに営業マンたちの相談に乗りやすい環境を作りたいからな」

 先ほど伝えられた桃山のような例もある。長とはいえ、話しやすい環境を整えるのも俺の仕事だ。それら全てを代理者に投げるのは俺の能力を見込んで全てを任せてくれた池野課長の想いを放棄することに近い。

 けれど、現状では難しい部分も多々ある。

 上手いように回していけるための組織改編を週明けの定例会議で役員に進言したいが、俺は企画開発部の立ち上げのために営業課を離れて半年近く経っている。より現場に近い浅田の意見も知りたかった。

「あぁ、いいと思う。だが、代理者の人選は気をつけろ。下手な人選にすれば営業課に派閥が出来るきっかけになりかねない。だから1課の代表者には俺は選ぶなよ。やりたくねぇワケじゃねぇけど、俺が動き辛くなる」

 くるり、と、浅田が身体ごとこちらを振り返りつつ真剣な表情で言葉を紡いだ。浅田の意見には賛成だ。派閥が出来れば会社全体の今後に差し障る。ただでさえ不正事件や池野課長の退職で、社員の統率が乱れているのだ。そこに決定打を打ち込みたくはない。浅田の返答にこくりと首を縦に振りながら質問を続けた。

「ふたつ目。納涼会の日程。今のところ先方のホテルの空き状況から、盆休みの前日、もしくは9月の最後の金曜日。このふたつの日程で悩んでいる。どちらがいいと思う?」

 今週の月曜日。納涼会の会場を押さえようと、知香に教えてもらった極東商社が役員懇談会を開催するあのホテルに問い合わせを行った。8、9月の金曜日若しくは三井商社の休業日の前日で空きがある日程がこのふたつ。

 正直なところ俺個人としてはどちらでも構わないと考えているが、盆休み前の方が如何にも納涼会に適した時期に思えている。ただ、独断で日程を押さえるのも気が引けてこの一週間ずっと迷っていた。これも先ほどと同様に浅田の意見を取り入れようと考えていたのだ。

 俺の問いかけに、ぱちりとした二重の瞳が驚いたように瞬いた。そうして、少し逡巡して口を開いていく。

「……俺は9月の最後に一票。盆休み、帰省する人間もいるだろう。中には前日の仕事が終わり次第、旅行に出発する人間もいるかもしれねぇ。かくいう俺も、雛子の母方の実家に向かって夜のうちに出発する予定だからな」

「………なるほど」

 浅田の返答に面を食らった。俺の実家は車で近い距離だからその発想は盲点だった。確かに高速道路などは夜間割引が入るため、浅田のように夜のうちに出発する段取りをつけている人間もいるだろう。やはり独断で日程を決めず良かったと胸を撫でおろす。

 9月の最後。極東商社の役員懇談会と日程が被るが、先方は大宴会場、俺が押さえたいのはその階の下の小宴会場。互いに取引先とはいえ開催される階も違うし、日程が被ったところで特に不都合はないだろう。そう結論づけ、手元の資料を纏めてビジネスバッグに放り込んでいく。

「朝礼でも言ったが、俺は今日も挨拶回りに出る。午後には戻る、何かあれば連絡くれ」

「ん、了解。……色々と頼りにしてますよ、部長」

 浅田が仕事用の硬い表情を和らげ、ふっとその口の端をつり上げた。その声に、俺もふっと笑みが零れる。

 ふたりで一緒に企画開発部のブースを出て廊下を歩き、「じゃぁな」と声を上げて、浅田は営業課のブースに、俺はエレベーターに向かってそれぞれ歩みを進めた。









 今日は1社目に食用花の委託をしている加工業者、その後、極東商社の通関部、そうして農産販売部。それぞれに後任の挨拶で訪問だ。通関部とは依頼料の交渉も兼ねているし、農産販売部とは食用花についての商談も兼ねている。

 通関部との商談。農産物の通関を主に担当している知香も同席することは自宅でのやり取りで確認済み。こうして同じ商談の場に出ることは初めてだ。表現出来ないその不思議な感覚に高揚感が押し寄せてくるが、その後の農産販売部との商談では片桐と相見えることになるだろう。正反対の感情に心が忙しなく揺れ動いていく。

 加工業者に後任の挨拶を終え、徒歩で極東商社に向かう。途中、あのホテルに納涼会日程の連絡をしていない事に気が付き、慌てて電話をかけて9月の最終金曜日の小宴会場を仮押さえする。

『29日、金曜日ですね。三井商社の邨上さまで、小宴会場を15時から。ご予約承りました』

 スピーカーから聞こえてくる承諾の声にほっと安堵の息を吐いた。もしこの一週間で既に予約が入っていたら、また一から探し直しになる。それはさすがに勘弁して欲しい。幸運なことに、午後以降は空いているということだから、納涼会の準備も含めて少し早めの時間から会場を押さえることが出来た。

「料理等の宴会プランについてや、正確な人数等についてはまた後ほどご連絡を入れます。よろしくお願いいたします」

 そう口にして電話を切りスマホをスラックスのポケットに滑り込ませた。ふわり、と、夏の湿った風が何も纏っていない腕に吹き付けていく。

 そうこうしているうちに極東商社が入っているオフィスビルに辿り着いた。エレベーターの『上』ボタンを押してエレベーターを待つ間に、改めて手帳を確認する。9月のスケジュールに『納涼会 会場仮押さえ済』と書き込み、今月のページに戻る。

 今回の商談で同席するのは水産担当の水野さんと、4月から片桐の代わりに異動してきた畜産担当の西浦さん。……それから、知香の3名。西浦さんとは初めて顔を合わせる。

 チン、と軽い音がして、エレベーターの扉が開いた。そのエレベーターに乗り込み、通関部がある階まで登りあがっていく。その階の受付ブースで記帳をしていると。

「あぁ、お世話になります、邨上さん」

 聞き慣れた低い声が背後から聞こえてきた。ふい、と声のする方向に視線を向けると、運良く水野さんがお手洗いから出てきているところだった。記帳するために足元に置いていたビジネスバッグを持ち上げて、軽く頭を下げていく。

「こちらこそ、お世話になります。この度は私の都合にお時間を合わせていただきましてありがとうございました」

 俺のその声に、水野さんも軽く頭を下げてくれる。キラリ、と、銀縁メガネが廊下の照明に煌めいた。

 俺の姿を認めた水野さんが、フロアに繋がる扉横のセキュリティに社員証を翳して扉を開き、フロアに顔を出して何かを伝えている。知香や水野さんが所属する通関部2課はこの扉のすぐ近くに設置してある、と知香から伝え聞いている。恐らく、水野さんは知香ともうひとりの担当である西浦さんを呼び寄せているのだろう。

 しばらくして、知香が扉の奥のフロアから出てきた。知香に続いて歩き、知香の隣に立っている物腰柔らかそうな雰囲気を身に纏った男性と視線がかち合う。こちらの男性が西浦さんなのだろう。

「初めまして、三井商社の邨上です」

「こちらこそ、初めまして。4月に通関部に異動となりました西浦です」

 にこり、と、営業スマイルを顔に貼りつけて、互いに初対面の挨拶を交わす。そうして、西浦さんの隣に立っている知香に、ふい、と視線を合わせた。
 
「いつもお世話になっております。………今日はよろしくお願いいたします」

 知香がそう口にして、ぺこりと頭を下げた。ふわり、と、顔が上げられたその瞬間。一瞬の違和感を抱いた。

(………なんか……顔、赤い、な…?)

 俺と同じ商談の場に出ることに対する緊張での赤さではないことは明らかだった。知香が4年付き合っていた元カレは、同じ極東商社会社。それ故に、知香は恋人とビジネスの場で遭遇することに動揺しないタイプであるはず。それは去年の年末に、藤宮と一緒に水産販売部へ商談兼挨拶に来た時に証明済みだ。

 先週、知香は寝込んでいた俺をつきっきりで看病してくれていた。その時に風邪を移した可能性がある。スラックスに滑り込ませたスマホを、その存在を確かめるように布越しに触る。

(……この商談を終えたら……体調は大丈夫かどうかのメッセージを送ろう…)

 杞憂であるといいが。そう心の中で小さく呟き、知香の先導で案内された応接室に足を踏み入れた。
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