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本編・第三部
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夏の朝の爽やかな陽射しが、ベランダで智が煙をくゆらせている影と一緒にレースカーテンからリビングに向かってキラキラと差し込んでいる。チャンネルを合わせた天気予報を眺めていると、今日も一日いいお天気のようだ。洗濯物も外に出してよさそうだな、と考えつつ、洗濯物の中のバスタオルをピンチハンガーにかけていく。
天気予報の音声を聞き流していると、今日も猛暑日になるらしい。今差し込んでいる陽射しは緩やかなのに、お昼には凶悪と言えるほどの強さになるそうだ。
冬に生まれたことが関係しているのかはわからないけれど、暑いのはあまり好きではない。敢えて言うなら冬が好きだ。冬のピンと張り詰めた、肌に刺さるほど冷たい空気の中で眺める星空が好きだし、毛布にくるまってアイスを食べるのは最高だと思う。
そんなことを考えつつ、ぱんぱんと洗濯物の皺を伸ばしながら智のワイシャツをハンガーにかけた。
お盆の夏季休暇前の最後の出勤日。いつものように、智が朝食とお弁当を作ってくれた。今日の朝食は目玉焼きとベーコンを乗せたトーストに、冷凍してあった南瓜ペーストで作った冷製スープ、それからトマトと大葉のマリネにヨーグルト。
トマトは智が苦手な食材。独特の酸味が苦手らしい。ペーストになったものは食べられるらしいけれども、トマト本体が入った料理や副菜は智は口にしない。でも、私はトマトが好きだからと気を遣って定期的にトマトを使った料理を作ってくれている。
智は食後、ベランダで一服をつける。その間に私が洗濯物を室内で干していき、智が煙草の火を消すまでを待ってから、洗濯物をベランダに出すようにしている。
健康のためにも禁煙して欲しいとは思っているけれど。智なりの気分転換ということを理解はしているから、禁煙してくれと強要するつもりはない。
けれども煙草を吸い終えた後の、独特のあの苦い匂いがどうしても苦手なのだ。あの匂いを纏ったまま近づかれると、思わず身体が引いてしまう。智もそれをわかっているから、煙草を吸い終えた後、私が洗濯物をベランダに出している間に洗面台で歯磨きを済ませてきてくれる。
お互いにお互いを許容し合い、尊重しあっていけているのだな、と思う瞬間だ。なんとも心がこそばゆくなる。
カラカラと音がして、ベランダに繋がる窓が開かれた。智が煙草を吸い終えたのだろう。ベランダに置いているスリッパを脱いでリビングに上がってきている姿を確認して、私はリビングと寝室を繋ぐドアケーシングに引っ掛けていた洗濯物たちをベランダに出していく。
全ての洗濯物をベランダに出し終えてリビングに戻ると、智はソファに沈み込み硝子天板のテーブルに手帳を広げて、昨晩と同じように……口元に左手をあてて長い脚をするりと組み、広げた手帳を睨めつけるように眺めていた。
レースカーテン越しに差し込む太陽の光が、智の身体を照らしている。鍛えられたその腕は日焼けしており、寝間着代わりの白いTシャツが映えている。本来、智は色白なのに随分と日焼けしてしまっていることから、昨年に比べて今年は外回りの機会が増えているのだろうと察する。
(…………何を…悩んでいるのかなぁ…)
昨晩からずっとこの調子だ。正確には、黒川さんに接触されたと話して以降……だけれども。智はあれから、ずっと。こうして……延々と、何かを考え込んでいる。
(……力になれればいいんだけど)
何を考え込んでいるのか、私にはさっぱり見当がつかない。黒川さんのことについて考えているのかと思っていたけれど、愛用の手帳を広げているからきっと仕事に関係することなのだろう。だから私が不用意に介入すべきではない、とは思っている。
「………早くて9月の連休前、か…」
ぽつり、と、智が小さく呟いて、パタンと手帳を閉じた。そうして沈み込んでいたソファから立ち上がり、寝室のクローゼットの前まで歩いていく。
智がスーツに着替えだしたのを横目に、私も身支度を整えていく。今日は猛暑日ということで、見た目も涼しくネイビーとホワイトのストライプ柄の変形スカートに、さらりとしたシフォン地のトップスを合わせた。そうして、リビングに置いている化粧台で手早くメイクをしていく。
「あ、そう言えば。三井商社の納涼会、極東商社の役員懇談会と同日で会場を押さえることが正式に決まった」
智がクローゼットの内鏡を見つめながらネクタイを結びつつ、離れた場所にいる私に向かって少し大きな声で言葉を発していく。
「えっ、そうなの?」
告げられた思いもよらぬ事実にパチパチと目を瞬かせた。
三井商社で毎年開いている納涼会。今年はいつも使用していた会場が押さえられず、適度な規模の会場を探している、ということは聞いていた。その話の流れから、極東商社の役員懇談会が開かれるあのホテルに小宴会場があるのかということを訊ねられ「あるよ」と返答したところ、「問い合わせてみる」と智が口にしていた記憶から、納涼会の会場もきっとあのホテルになるのだろうなと思っていたけれど。まさか同日の9月29日に開かれることになるとは思ってもみなかった。
智はネクタイを整え終えたのか、パタンとクローゼットを閉じ、PCデスクの上のビジネスバッグを手にしてリビングに戻ってきた。
「そっかぁ。じゃ、その日はお互いに夕食要らないね。ちょっと遠くで待ち合わせて一緒に帰れたらいいねぇ」
智のその動作に身支度が整ったと察して、向き合っていた化粧台から立ち上がる。智は私に視線を合わせてふうわりと笑みを浮かべながら、硝子天板のテーブルに置きっぱなしにしてあった手帳をビジネスバッグに放り込んでいく。
「ん、そうだな。俺は幹事だから、終わった後も色々とやることがあるから知香を待たせてしまうかも知れねぇが、せっかくだし一緒に帰ろう」
智のその言葉に、少しだけ逡巡する。これまで数度訪れたあのホテルのロビーは、記憶にある限り非常に開放的な作りで、ラグジュアリーなソファがたくさん置いてあるのだ。
「じゃ、私……あのホテルのロビーとか、そのあたりで待ってるよ。終わった後も色々あるなら、うちの社員さん達もみんな帰っちゃう時間帯になるだろうし。あのホテルで待ち合わせても問題ないと思う」
私を見つめていた智がパチパチと目を瞬かせた。そうして、納得したようにふたたびやわらかく微笑んでいく。
「あぁ、確かにそっちの方がいいかもしれねぇな。随分と遅い時間になるだろうし、夜道を歩かせるよりは俺も安心だ」
そうしてビジネスバッグのチャックが閉じられる音が響いて、智が玄関へ向かって背中を向けた。私もその後をパタパタと追っていく。
三井商社の始業時間は極東商社よりも30分早いし、智は管理職になったこともあって早めに家を出るようになった。以前に比べて出社時間が1時間ほどズレてしまっている。もちろん、智が先に出て、私が後から出るのだけれど。
……こうして玄関から智を見送るのも。日常のささやかな幸せを感じる瞬間だ。
智が革靴を履き終えたから、いつもの通り笑顔を作って「行ってらっしゃい」と声をかけようとした、のだけれど。
こちらを振り返った智は、ひどく―――真剣な表情をしていて。
「知香。無理を承知で、頼みがあるんだが」
「……え?」
唐突に託された、智からの『依頼』。
目の前にある、ダークブラウンの瞳には。静かな、それでいて何かを決意したような光が宿っていた。
「お疲れ様でした、お先に失礼いたします」
終業時刻を迎え、私は全員に聞こえるように労いの言葉を口にした。明日から夏季休暇。少しの間だけれど、このメンバーとしばし会えなくなる。
行動予定表のマグネットを退勤に動かそうとそちら側に足を向けると、行動予定表の前にデスクがある三木ちゃんが私を呼び止めた。
「先輩、今年はご実家に帰られないんですね?」
三木ちゃんが、こてん、と首を傾げて私に問いかける。さらり、と、肩甲骨の下まで伸びた髪が揺れた。
浅田さんの結婚式以降、彼女の髪は以前の明るい色味とは違い、少し落ち着いた色味に染められている。きっとその髪色を小林くんに褒められたか、もしくはその髪色が小林くんの好みなんだろうな、と、私は思っているけれど。恥ずかしがり屋の彼女は、きっと訊ねたところで本当の理由を教えてはくれないだろう。
あの日。私が小林くんと三木ちゃんの関係を知った日から、彼女は休憩中は恥ずかしそうに私から視線を外すことが多くなった。けれど、何かが吹っ切れたのか最近は以前と同じようにフランクに接してくれている。あれはちょうど……智が後輩たちと花火大会に行った前後だったか。
「そうなの。通関士の試験も近いから、帰るより勉強の方が優先かなって思って」
苦笑しながら三木ちゃんに返答しつつ、行動予定表のマグネットを退勤に動かしていく。
「そうなんですね……お盆中も猛暑日が続くみたいですし、体調にお気をつけて、お勉強も無理せずになさってくださいね?」
三木ちゃんがニコっと満面の笑みを浮かべて言葉を紡いだ。彼女は本当に気配り屋さんだ。
「三木ちゃんも、いいお休みになりますように。それじゃ、連休開けね?」
三木ちゃんの笑顔に私も笑顔で返答する。そうして、田邉部長や水野課長代理、1課の大迫係長や徳永さんにも声をかけ、フロアを退出した。更衣室に滑り込み、カタン、とロッカーを開けながらスマホを手に取る。
『お疲れさま。定時で上がれました。頼まれごと、やってくるね』
メッセージアプリを起動させ智とのやりとりの画面にパタパタと打ち込んで、送信ボタンをタップする。送ったメッセージにすぐに既読が付かないところを見ると、やっぱり智は今日も忙しくて残業なのだろう。
メッセージアプリからGPSアプリに切り替えて、GPSの起動を確認する。昨日、黒川さんに接触されたから……今朝からこのアプリを立ち上げっぱなしにしている。
「……よし」
そのアプリの起動を確認して、昨日相対した黒川さんの禍々しく赤黒い影に怖気付きそうになる自分に小さく気合を入れた。
薫が口にしたように、あの人はもう私には無関係の人だ。今日も遭遇したら即座に大声出すか、近くの交番に駆け込んでやる。
鞄を肩にかけて、ロッカーの内鏡で智に贈ってもらったイヤリングの位置を調整していく。
今朝、出勤する前の智から『依頼』されたこと。それは、『智の携帯に連絡をして欲しい』と、片桐さんに伝えること、だった。
智から片桐さんへの言伝を預かるのは、二度目だ。一度目は、黒川さんの不正事件解決に繋がる証拠を渡されたことに関する感謝と、直接話がしたいから会いにいく、ということだった。
けれどそれ以降、片桐さんの待ち伏せが始まって。以前と同じように、私と片桐さんが接触することすら嫌がっていた智に何の心境の変化があって……二度目の『片桐さんへの言伝』を私に頼んだのかはわからない。けれど、智はどうしても片桐さんとふたりだけで話がしたいのだそう。
ふっと。今朝出勤する智から真っ直ぐに視線を向けられつつ、真剣で、それでいて心配そうな表情のまま言葉が紡がれた光景を思い出す。
『催眠暗示をかけられたこと。毎日待ち伏せされていること。……片桐にあのシンポジウムの時に救われたとて、それらの全てを勘定しても知香には酷なことを頼んでいる、とはわかっている。……だが、俺はどうしても片桐に確認しなければならねぇことがあるんだ』
『確認……?』
何が何だか、さっぱりわからない。そんなきょとんとした私の表情を見つめつつ、智が大きな手のひらを私の頬にそっと伸ばした。
『ごめんな。まだ、俺の中での推測の域を出ない。確信を持たねぇことには、この事実を知香に伝えたところで知香を混乱させるだけだ。間違った推測で間違った行動をして、あの時みたいに……知香を危険に晒すわけにはいかねぇから』
そうして、智は私の額に小さくキスを落として。ゆっくりと……玄関の扉を、押し開いて行った。そんな今朝の光景が、なんだか遥か昔のように思い出される。
恐らく、いや100%の確率で拒否されるだろうけれども、伝えるだけ伝えて欲しい、ということだった。今日はこの『言伝』を達成させるべく、定時で上がれるように業務の順番を組み替え、昼休みも自主的に短縮し業務を捌いた。
この言伝が何を意味するのか、私には全く予想もつかない。けれど。
(……きっと……なにか、とても大事なことのような、気がする)
そんな気がしてならないのだ。覚悟を決めるように小さく息を吐き出して、パタン、と。
妙な感覚に騒めく心を押し込めるように。ゆっくりと、ロッカーの扉を閉じた。
天気予報の音声を聞き流していると、今日も猛暑日になるらしい。今差し込んでいる陽射しは緩やかなのに、お昼には凶悪と言えるほどの強さになるそうだ。
冬に生まれたことが関係しているのかはわからないけれど、暑いのはあまり好きではない。敢えて言うなら冬が好きだ。冬のピンと張り詰めた、肌に刺さるほど冷たい空気の中で眺める星空が好きだし、毛布にくるまってアイスを食べるのは最高だと思う。
そんなことを考えつつ、ぱんぱんと洗濯物の皺を伸ばしながら智のワイシャツをハンガーにかけた。
お盆の夏季休暇前の最後の出勤日。いつものように、智が朝食とお弁当を作ってくれた。今日の朝食は目玉焼きとベーコンを乗せたトーストに、冷凍してあった南瓜ペーストで作った冷製スープ、それからトマトと大葉のマリネにヨーグルト。
トマトは智が苦手な食材。独特の酸味が苦手らしい。ペーストになったものは食べられるらしいけれども、トマト本体が入った料理や副菜は智は口にしない。でも、私はトマトが好きだからと気を遣って定期的にトマトを使った料理を作ってくれている。
智は食後、ベランダで一服をつける。その間に私が洗濯物を室内で干していき、智が煙草の火を消すまでを待ってから、洗濯物をベランダに出すようにしている。
健康のためにも禁煙して欲しいとは思っているけれど。智なりの気分転換ということを理解はしているから、禁煙してくれと強要するつもりはない。
けれども煙草を吸い終えた後の、独特のあの苦い匂いがどうしても苦手なのだ。あの匂いを纏ったまま近づかれると、思わず身体が引いてしまう。智もそれをわかっているから、煙草を吸い終えた後、私が洗濯物をベランダに出している間に洗面台で歯磨きを済ませてきてくれる。
お互いにお互いを許容し合い、尊重しあっていけているのだな、と思う瞬間だ。なんとも心がこそばゆくなる。
カラカラと音がして、ベランダに繋がる窓が開かれた。智が煙草を吸い終えたのだろう。ベランダに置いているスリッパを脱いでリビングに上がってきている姿を確認して、私はリビングと寝室を繋ぐドアケーシングに引っ掛けていた洗濯物たちをベランダに出していく。
全ての洗濯物をベランダに出し終えてリビングに戻ると、智はソファに沈み込み硝子天板のテーブルに手帳を広げて、昨晩と同じように……口元に左手をあてて長い脚をするりと組み、広げた手帳を睨めつけるように眺めていた。
レースカーテン越しに差し込む太陽の光が、智の身体を照らしている。鍛えられたその腕は日焼けしており、寝間着代わりの白いTシャツが映えている。本来、智は色白なのに随分と日焼けしてしまっていることから、昨年に比べて今年は外回りの機会が増えているのだろうと察する。
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昨晩からずっとこの調子だ。正確には、黒川さんに接触されたと話して以降……だけれども。智はあれから、ずっと。こうして……延々と、何かを考え込んでいる。
(……力になれればいいんだけど)
何を考え込んでいるのか、私にはさっぱり見当がつかない。黒川さんのことについて考えているのかと思っていたけれど、愛用の手帳を広げているからきっと仕事に関係することなのだろう。だから私が不用意に介入すべきではない、とは思っている。
「………早くて9月の連休前、か…」
ぽつり、と、智が小さく呟いて、パタンと手帳を閉じた。そうして沈み込んでいたソファから立ち上がり、寝室のクローゼットの前まで歩いていく。
智がスーツに着替えだしたのを横目に、私も身支度を整えていく。今日は猛暑日ということで、見た目も涼しくネイビーとホワイトのストライプ柄の変形スカートに、さらりとしたシフォン地のトップスを合わせた。そうして、リビングに置いている化粧台で手早くメイクをしていく。
「あ、そう言えば。三井商社の納涼会、極東商社の役員懇談会と同日で会場を押さえることが正式に決まった」
智がクローゼットの内鏡を見つめながらネクタイを結びつつ、離れた場所にいる私に向かって少し大きな声で言葉を発していく。
「えっ、そうなの?」
告げられた思いもよらぬ事実にパチパチと目を瞬かせた。
三井商社で毎年開いている納涼会。今年はいつも使用していた会場が押さえられず、適度な規模の会場を探している、ということは聞いていた。その話の流れから、極東商社の役員懇談会が開かれるあのホテルに小宴会場があるのかということを訊ねられ「あるよ」と返答したところ、「問い合わせてみる」と智が口にしていた記憶から、納涼会の会場もきっとあのホテルになるのだろうなと思っていたけれど。まさか同日の9月29日に開かれることになるとは思ってもみなかった。
智はネクタイを整え終えたのか、パタンとクローゼットを閉じ、PCデスクの上のビジネスバッグを手にしてリビングに戻ってきた。
「そっかぁ。じゃ、その日はお互いに夕食要らないね。ちょっと遠くで待ち合わせて一緒に帰れたらいいねぇ」
智のその動作に身支度が整ったと察して、向き合っていた化粧台から立ち上がる。智は私に視線を合わせてふうわりと笑みを浮かべながら、硝子天板のテーブルに置きっぱなしにしてあった手帳をビジネスバッグに放り込んでいく。
「ん、そうだな。俺は幹事だから、終わった後も色々とやることがあるから知香を待たせてしまうかも知れねぇが、せっかくだし一緒に帰ろう」
智のその言葉に、少しだけ逡巡する。これまで数度訪れたあのホテルのロビーは、記憶にある限り非常に開放的な作りで、ラグジュアリーなソファがたくさん置いてあるのだ。
「じゃ、私……あのホテルのロビーとか、そのあたりで待ってるよ。終わった後も色々あるなら、うちの社員さん達もみんな帰っちゃう時間帯になるだろうし。あのホテルで待ち合わせても問題ないと思う」
私を見つめていた智がパチパチと目を瞬かせた。そうして、納得したようにふたたびやわらかく微笑んでいく。
「あぁ、確かにそっちの方がいいかもしれねぇな。随分と遅い時間になるだろうし、夜道を歩かせるよりは俺も安心だ」
そうしてビジネスバッグのチャックが閉じられる音が響いて、智が玄関へ向かって背中を向けた。私もその後をパタパタと追っていく。
三井商社の始業時間は極東商社よりも30分早いし、智は管理職になったこともあって早めに家を出るようになった。以前に比べて出社時間が1時間ほどズレてしまっている。もちろん、智が先に出て、私が後から出るのだけれど。
……こうして玄関から智を見送るのも。日常のささやかな幸せを感じる瞬間だ。
智が革靴を履き終えたから、いつもの通り笑顔を作って「行ってらっしゃい」と声をかけようとした、のだけれど。
こちらを振り返った智は、ひどく―――真剣な表情をしていて。
「知香。無理を承知で、頼みがあるんだが」
「……え?」
唐突に託された、智からの『依頼』。
目の前にある、ダークブラウンの瞳には。静かな、それでいて何かを決意したような光が宿っていた。
「お疲れ様でした、お先に失礼いたします」
終業時刻を迎え、私は全員に聞こえるように労いの言葉を口にした。明日から夏季休暇。少しの間だけれど、このメンバーとしばし会えなくなる。
行動予定表のマグネットを退勤に動かそうとそちら側に足を向けると、行動予定表の前にデスクがある三木ちゃんが私を呼び止めた。
「先輩、今年はご実家に帰られないんですね?」
三木ちゃんが、こてん、と首を傾げて私に問いかける。さらり、と、肩甲骨の下まで伸びた髪が揺れた。
浅田さんの結婚式以降、彼女の髪は以前の明るい色味とは違い、少し落ち着いた色味に染められている。きっとその髪色を小林くんに褒められたか、もしくはその髪色が小林くんの好みなんだろうな、と、私は思っているけれど。恥ずかしがり屋の彼女は、きっと訊ねたところで本当の理由を教えてはくれないだろう。
あの日。私が小林くんと三木ちゃんの関係を知った日から、彼女は休憩中は恥ずかしそうに私から視線を外すことが多くなった。けれど、何かが吹っ切れたのか最近は以前と同じようにフランクに接してくれている。あれはちょうど……智が後輩たちと花火大会に行った前後だったか。
「そうなの。通関士の試験も近いから、帰るより勉強の方が優先かなって思って」
苦笑しながら三木ちゃんに返答しつつ、行動予定表のマグネットを退勤に動かしていく。
「そうなんですね……お盆中も猛暑日が続くみたいですし、体調にお気をつけて、お勉強も無理せずになさってくださいね?」
三木ちゃんがニコっと満面の笑みを浮かべて言葉を紡いだ。彼女は本当に気配り屋さんだ。
「三木ちゃんも、いいお休みになりますように。それじゃ、連休開けね?」
三木ちゃんの笑顔に私も笑顔で返答する。そうして、田邉部長や水野課長代理、1課の大迫係長や徳永さんにも声をかけ、フロアを退出した。更衣室に滑り込み、カタン、とロッカーを開けながらスマホを手に取る。
『お疲れさま。定時で上がれました。頼まれごと、やってくるね』
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メッセージアプリからGPSアプリに切り替えて、GPSの起動を確認する。昨日、黒川さんに接触されたから……今朝からこのアプリを立ち上げっぱなしにしている。
「……よし」
そのアプリの起動を確認して、昨日相対した黒川さんの禍々しく赤黒い影に怖気付きそうになる自分に小さく気合を入れた。
薫が口にしたように、あの人はもう私には無関係の人だ。今日も遭遇したら即座に大声出すか、近くの交番に駆け込んでやる。
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智から片桐さんへの言伝を預かるのは、二度目だ。一度目は、黒川さんの不正事件解決に繋がる証拠を渡されたことに関する感謝と、直接話がしたいから会いにいく、ということだった。
けれどそれ以降、片桐さんの待ち伏せが始まって。以前と同じように、私と片桐さんが接触することすら嫌がっていた智に何の心境の変化があって……二度目の『片桐さんへの言伝』を私に頼んだのかはわからない。けれど、智はどうしても片桐さんとふたりだけで話がしたいのだそう。
ふっと。今朝出勤する智から真っ直ぐに視線を向けられつつ、真剣で、それでいて心配そうな表情のまま言葉が紡がれた光景を思い出す。
『催眠暗示をかけられたこと。毎日待ち伏せされていること。……片桐にあのシンポジウムの時に救われたとて、それらの全てを勘定しても知香には酷なことを頼んでいる、とはわかっている。……だが、俺はどうしても片桐に確認しなければならねぇことがあるんだ』
『確認……?』
何が何だか、さっぱりわからない。そんなきょとんとした私の表情を見つめつつ、智が大きな手のひらを私の頬にそっと伸ばした。
『ごめんな。まだ、俺の中での推測の域を出ない。確信を持たねぇことには、この事実を知香に伝えたところで知香を混乱させるだけだ。間違った推測で間違った行動をして、あの時みたいに……知香を危険に晒すわけにはいかねぇから』
そうして、智は私の額に小さくキスを落として。ゆっくりと……玄関の扉を、押し開いて行った。そんな今朝の光景が、なんだか遥か昔のように思い出される。
恐らく、いや100%の確率で拒否されるだろうけれども、伝えるだけ伝えて欲しい、ということだった。今日はこの『言伝』を達成させるべく、定時で上がれるように業務の順番を組み替え、昼休みも自主的に短縮し業務を捌いた。
この言伝が何を意味するのか、私には全く予想もつかない。けれど。
(……きっと……なにか、とても大事なことのような、気がする)
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2025/02/06始まり~04/28完結
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