俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

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 独特の浮遊感に身体が包まれた。1階のエントランスに到着した事を認識すると、無機質な音を立てて扉が開いていく。

 日没間際の茜色の光が差し込むエントランス。そこに足を踏み入れて周囲を見回すも、いつもの姿は見当たらない。今は終業時刻直後の時間帯だし、きっと昨日と同じくお盆前で片桐さんも残業、なのだろう。


 コツコツとヒールの音をさせて歩き、彼がいつも私を待っている場所で私も彼を待つことにした。


 エレベーターが開くたび、退勤する人たちの声の騒めきが耳に届く中をムギと同じ色の明るい髪を探す。連休直前だからか、ほどんどの人たちは浮き足立っているように感じた。

 彼がいつも私を待っている場所に立ったまま15分ほどが経過したところで、彼はこうやって毎日私を待っていたのかと何気なく考えていると、ふたたびエレベーターの到着を知らせる軽い音がした。

 扉が開いた瞬間。自動で開く扉の緩慢さすらもどかしい、というように、誰かの手が扉を無理矢理押し開くように掴んだ。そんなに焦ってどうしたのだろう、と、不思議に思っていると、その扉から、私の待ち人が宿しているはずのヘーゼル色の瞳が飛び出してくる。

(えっ……?)

 予想もしていない事態に身体が一瞬ぴしりと硬直する。彼の瞳と視線が交差した瞬間、その瞳は今にも零れ落ちそうに……心底、驚いたように。ゆっくりと見開かれていった。

「………やぁ、知香ちゃん。今日もお疲れさま。俺を待っててくれたの?やっと俺のこと好きになってくれた?嬉しいなぁ」

 へにゃり、と。人懐っこい笑みが私に向けられた。ひらり、と、いつものように長袖のワイシャツを纏った右手が上げられる。余程急いでいたのか、それとも長袖のシャツが暑いのか。片桐さんの精悍な顔の輪郭を、つぅと汗が伝い落ちていく。

 カン、カン、と。彼の革靴が床を叩く足音が、このエントランスに響いた。ゆっくりと、片桐さんが私の前まで歩いてくる。彼が私に近づくたびに、彼が愛用しているシトラスの香水の香りが強くなっていく。

 彼が口にした言葉の前に存在する、不自然な空白。そこにひどく違和感を抱くけれど、心底嬉しそうに紡がれた後半の言葉に言いようのない苛立ちが募る。そんなこと、絶対にあるわけがないのに。

「片桐課長代理を待っていたのは事実ですが、単に用があっただけです。おひとりで間違った推測を展開するのは止めていただけませんかね」

 ぎゅう、と、高い位置にあるヘーゼル色の瞳を睨みつけながら、淡々とした声色でその言葉を跳ね返した。私の言葉に片桐さんは落胆したように「なぁんだ」と声を上げて、明るい髪色と同じ眉を困ったように下げていく。

 私の目の前まで歩いてきた片桐さんが、くすり、と。小さく笑った。

「……珍しいね~ぇ?知香ちゃんが俺に用だなんて。生憎、愛の告白以外は受け付ける気はないけど、わかってる?」

 片桐さんが落とした肩を小さく竦めながら、戯けたような声色で言葉が発せられていく。その様子をじっと眺めつつ、私に向けられているヘーゼル色の瞳を見つめ続けた。

(……なん、だろう…)


 やっぱり。私を見つめている、彼の瞳は―――、いる。

 はずだった、片桐さん。それが、いつからかいて、ふたたびようになって……また、いるように思える。


 どうしてかはわからない。きっと、これは考えても今は答えが出ないはずだ。今は―――智からの『言伝』を伝えることに集中しなければ。

 自分にそう言い聞かせて、ふぅ、と、軽く深呼吸をする。覚悟を決めるように、斜め上の彼の瞳を見据えて……智からの言伝を、ゆっくりと口にした。

「彼からの伝言です。……連絡が欲しい、と。話したいことがある、とのことでした」

「……」

 片桐さんは、私から視線を外さずに……目の前に佇む私を、じっと。無感情に、見つめている。

 ゆっくりと、鞄から名刺ケースを取り出して。智から預かった、一枚の名刺を片桐さんの目の前に差し出した。彼の視線が、つぃ、と私の手元に落ちる。

「……新しくなったこの名刺に、携帯番号が記してあります。こちらにお願いしたい、とのことです」

 片桐さんは私が差し出した名刺に視線を落としたまま、微動だにしない。
 細くなった西日が片桐さんの感情の読めない顔を照らしている。



 ただただ………長い、沈黙が続いた。



 しばらくすると。視線を下に落としていた彼の口元が、ゆっくりと弧を描いていく。それはさながら、白塗りの面に目と口だけが吸い込まれるような漆黒で描かれている、そんな不気味な仮面を貼り付けたような表情で。

 真夏だというのに、一瞬、すっと背筋が冷えた。

「………どうして俺がそんな手間をかけなきゃいけないんだろうね~ぇ?俺と彼は知香ちゃんを奪い合っているライバル同士だよ?俺に話したいことがあるなら自分から会いに来るのが筋ってもんでしょ?」

 片桐さんは緩く握り込んだ拳の人差し指だけを口元に当て、くすりと小さく吐息を漏らして嗤った。

 嘲笑うかのような表情で放たれた言葉は、やはり私たちが予想していた言葉とほぼ同等の『否』の言葉だ。

「ね、知香ちゃん。お願いする立場のくせにその人間を呼び出そうとするような、こんな失礼なことを頼む彼は君に相応しくないよ。やっぱり俺にしない?」

 くすくす、と。片桐さんは心底愉しそうに笑みを浮かべたまま、智を貶すようなセリフを口にした。神経が逆撫でされるようなその言葉に、冷えた背筋が瞬時にかっと熱くなる。

「……お断りします」

 智も恐らく100%で拒否されるとは思うけれども、これは思い切った賭けなのだ……と言っていた。だからこの答えが返ってくるのも、ある種、想定の範囲内だ。

 交渉決裂。それを悟り、私は身体の前に差し出していた名刺を引っ込めて身体を反転させ、出入り口に向かってエントランスを歩き出した。





 当然……いつものように。片桐さんは、私の少し後ろを歩いて着いてくる。いつものように背後から「今日も暑いね」だとか「お盆の予定は?俺と出かけない?」だとか、そんな口説き文句を並べ立てている。それらの全てを無視して、コツコツと歩みを進めていく。

 結局、片桐さんはいつものように。最寄り駅で私が電車に乗るまでを見届けて。


「あ~あ、やっと俺を見てくれたのかなって期待してたのに。……また連休明けね、知香ちゃん」


 いつものように、ホームに立って。
 いつものように、私の視界から消えてしまうまで。


 いつものように。へにゃりとした笑みを浮かべていた。












 夕食の下準備を終えフローリングワイパーで軽くリビングを掃除をしていると、エプロンのポケットに入れているスマホが震えた。リビングの壁掛け時計を見遣ると、そろそろ、という時間。耳に引っ掛けていたイヤホンのボタンを押して、着信に応答する。

「はーい」

『ん。すまねぇ、今日も遅くなった』

 イヤホンの奥で、ピッと、改札を通り過ぎる甲高い音が聞こえてきた。ざわざわとした喧騒とともに、階段を登る智の足音が耳に届く。

 私が先に帰宅していると、智は最寄り駅で電車を降りてすぐに電話をかけてきてくれることがほとんどだ。仕事が立て込んでいたりしていると『今日は電話無理そう』とメッセージアプリで連絡があったりする。

 最寄り駅から自宅までは5分もかからない。すぐ顔を合わせるのに、そんな僅かな時間でさえも電話をかけてきてくれる。智の声が少しばかり早く聞ける、というのはいつだって嬉しくて。口元が自然とにやけていく。

「お疲れさま。汗かいてるだろうから先にお風呂がいいかな?」

 今日も猛暑日だった。冷房の効いたオフィス内で働いている私ですらじっとりと暑かったのに、外回りをしているはずの智はきっと私の何倍も汗をかいただろう。電話の向こう側の智に労いの言葉をかけながら、帰宅後の行動を確認する言葉を投げかけた。

『すまん、そうしてくれると助かる』

 智のその声に、私は追い焚きボタンを押して、見えないとはわかっていても、首を横に振りながらゆっくりと口を開いた。

「片桐さん。やっぱり、ダメだった」

『…………そう、か…』

 私の声に、はぁ、と大きなため息が聞こえてくる。きっと電話の向こう側の智は肩を大きく落としているのだろうな、と予想出来た。

「話があるなら自分から会いに来い、って……片桐さんは言ってた」


 西日が差し込む中。智の名刺を差し出した私の手元をじっと見つめたまま紡がれた、片桐さんの言葉。それを思い出しながら、彼の言葉を反芻するように紡いでいく。


『……ま、そうだろうな。それが1ヶ月先になりそうだから電話してくれっつう話しなんだがなぁ…』

 はぁ、と。智がふたたび大きくため息をついた。ガザガサと不思議な音が聞こえてくる。きっと、困ったように髪を掻いているのだろう。

 不思議な音とともに紡がれた言葉に、今朝、リビングのテーブルに手帳を開いて『9月の連休前』と呟いていたあれが、片桐さんとの商談を兼ねた話し合いが出来そうな日程のことを指している、と……なんとなく理解した。

 智の力になりたかったのに、全く力になれなかった。なんとも言えない不甲斐なさから、感情に比例するように足元に視線が落ちていく。

「……ごめん……」

 電話越しでも、きっと私が落ち込んだことがありありと伝わったのだろう。ふっと苦笑したように吐息を吐き出して、智が言葉を続けた。

『いや、断られるとわかっていた。知香のせいじゃない。だから気にすんな』

「……ん…」

 小さく返事を返すと、電話口の向こうからエレベーターの軽い到着音が聞こえてきた。もう帰ってくる、と感じて玄関に向かい、カチャリと鍵を解錠して扉を開ける。

 むわり、と真夏の空気が肌に纏わりつく。少しだけ不快なその感覚に眉を顰めると、距離にして数歩先程度の位置に現れた細く切れ長の瞳と視線が交差した。

「おかえり」

「ん、ただいま」

 電話越しでない、智の甘い声。耳からイヤホンを外し通話を切って、手を伸ばし智からビジネスバッグを受け取った。

 智の額から、つぅ、と、雫が落ちていく。やっぱりかなり汗をかいたのだろう、と察して、智をそのまま脱衣所に促した。



 智がお風呂に入っている間。私は玄関先の物置になっている部屋に入り、ほぼ完成した浴衣を手に持って。ドキドキと跳ねる心臓を抑えながら、リビングから死角になる寝室のドアの影に隠した。



 しばらくすると、ガチャリと音を立てて智がリビングに入ってきた。ソファに沈み込んでバスタオルを肩にかけたままいささか乱暴に髪を拭きあげている。

 私は汗を流したばかりの智に、おずおずと声を投げかけた。

「夕食の前に、ちょっといい?」

「ん?」

 パチパチと。ソファに座り込んだままのダークブラウンの瞳が瞬いた。

 逸る心臓を抑えながら、ゆっくりと足を動かして。リビングと寝室を繋ぐドアの後ろ側に隠していた、あの手縫いの浴衣を。

 綺麗に畳んだ、紺色と白色のコントラストが眩い雪花絞りの浴衣を……そっと、硝子天板のテーブルの上に差し出した。

「えっと……遅くなったけど。昇進、おめでとう。お祝い何にしようか迷ったんだけど、全然決まらなくて。結局、手作りする方向にしてみたの」

 ソファに沈みこんでいる切れ長の瞳が、大きく見開かれている。本当に驚いていると一目でわかる、智のその表情。

 昨日の夕方にも、章さんがこんな表情をしていた。やっぱり兄弟、顔は似てなくても、こういうところはそっくりだ。

「今年は後輩さんたちと花火観に行ってたでしょ?だから、来年とか、再来年とか……これを着て一緒に見にいけたらって」

 私の思惑通り、驚いてくれた。そのことに嬉しさが込み上げて、口元が盛大に緩んでいくけれど。智のその驚いたような表情を見つめていると、後からゆっくりと込み上げてくる恥ずかしさがなんだかこそばゆい。

 最早遅いだろうけれども、智直伝のポーカーフェイスを意識し顔に張り付けて。何でもない風を装って淡々と言葉を続けていく。

「それで、一度着てみて欲しいの。今着てる寝間着の上からでいいから……裾のところを微調整したくて」

 女性の浴衣はお端折りを作るから裾が長くても問題ないが、男性の浴衣はお端折りを作らない。だから裾が背丈ぴったりにならない格好が悪いのだ。それ故に実際に着てもらわないことには『完成』とは言えない。

 この最後の微調整があるからこそ、しっかり時間が取れて、ゆっくりと話せる時に……この浴衣を披露したいと思っていたのだった。

「俺……明日の予定、知香に言ったことあったか?」

「へ?」

 智が、珍しく。放心したような、なんとも言えない表情で言葉を続けていく。決して短いとは言い難い、8ヶ月という月日を一緒に過ごしてきたけれど……こんな表情は初めて見た気がする。

 明日の予定。明後日は智の実家に行くと聞いてはいたが、記憶の海を辿っても明日の予定を聞いた覚えは全くない。きょとん、としたまま智の表情を眺めていると、思わぬ言葉がゆっくりと投げかけられて。私は思わず、絶句した。


「……明日。隣の県まで足を運んで、向こうの花火大会に連れて行こうと思ってた。あんな遠くまで足を伸ばす人間はきっといねぇはずだから。誰かに見られる心配もないだろうと思って……」


 ぽつ、と。智が、ほんの少しだけ顔を赤らめて。観念したような、それでいてなんだかバツが悪そうな表情で……私から、思いっきり視線を外していった。
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