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本編・第三部
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硝子天板のテーブルに広げた、通関士試験の過去の出題集を記憶するように眺めながら、智が淹れてくれたコーヒーに口をつける。視界の端で智が洗濯物籠を腕に下げてリビングに戻ってきている様子を捉え、マグカップから口を外した。
「……本当にごめんね、家事を全部請け負って貰って…」
私はそう口にしながら、智に小さく頭を下げた。
通関士試験が行われる日が迫る中、智が「家事は俺が引き受けるから今はとにかく勉強を優先しろ」と言ってくれ、先週からほどんどの家事を智が捌いてくれている。
元々、料理は智、それ以外は私、という風に分担していたからお互いに仕事と生活のバランスが取れていたように思えるけれども、今は智ばかりに負担が行っているようで……本当に申し訳なく思っている。
「いや、いーんだって。俺が部長に昇進した頃は知香に負担かけてたし。それに知香が受ける試験、受験料は会社負担、おまけに合格率は低いんだ。だったら受かるしかねぇだろう?今は勉強が最優先」
智はふうわりとやわらかい笑みを浮かべながら、ダークブラウンの瞳を困ったように細めた。そのまま、ぱんぱんとバスタオルの皺を伸ばしつつ、ピンチハンガーにかけていく。
確かに、部長に昇進した直後の6月からお盆直前までは私が家事全般を一手に請け負っていた。だからおあいこだ、と、智は言いたいのだと思う。
(……協力、してくれてるんだから…絶対、受からないと)
水野課長も、休日を割いて座学の指導をしてくださっていた。田邉部長だって、時折私の勉強の進捗状況を気にかけてくださっている。三木ちゃんや南里くん、加藤さんにも応援して貰っている。今年一緒に受験する西浦係長も、休憩時間中に問題の出しあいなどをしてお互いに切磋琢磨しあっている。
なにより。私の一番身近にいる智にも、こうして協力して貰っているのだ。
たくさんの人たちのその気持ちに報いるには、合格するしかない。それが何よりの恩返し。こうして家事を引き受けて貰っていることを申し訳なく思う時間があるならば、今は少しでも過去問を頭に叩き込まなければ。
ぎゅっと唇を引き締めて、洗濯物を干している智に「ありがとう」と小さく声をかけ、ふたたびテーブルの上の問題集に視線を落としていった。
智が洗濯物を干し終えて、寝室に向かって歩いて行く気配がした。衣擦れの音が耳に届いたから、きっとクローゼットを開いて出社のための身支度を整え始めているのだろうと察する。
しばらくその衣擦れの音をBGMにしながら頭の中でテキストに羅列された問題の文章を復唱していると、智がビジネスバッグを持ってリビングに戻ってきた。
「……そう言えば。明後日で、俺たち出会って丸1年なんだな」
智はそう口にしながら、とす、と。私が腰掛けているソファに沈み込んだ。
「あ、そっか」
私と智が出会った合コン。あれは昨年の10月1日の出来事だった。あれから丸1年が経つのか。あっという間のような、短かったような。
(……お祝いとか…した方がいいのかな?)
智がこういう風に口にする、ということは、智は明後日を記念日のようなものだと認識しているのだろう。何かお祝いを考えた方がいいだろうか、と思考を飛ばしていると、するり、と。智が私の髪を撫でた。
急にどうしたのか。その仕草に、きょとん、としながら右隣の切れ長の瞳を見上げる。
視線が絡まった、智の瞳が。言いようのない感情を湛えて、ふるふると揺れ動いている。智もきっと、この1年の出来事を思い返して感慨深く思っているのだろうか。
「……そろそろ、行ってくる」
智が、ぽつ、と声を発した。そうして、するりとソファから立ち上がっていく。カウンターキッチンの笠木に置いてあるお弁当用のミニバッグの片方を手に持って、玄関に向かっていく。
「今日のお昼はサンドイッチにしてるから。包み紙だけだから帰りは荷物にならねぇだろ?」
玄関に向かって歩く智の背中から声が響く。
今夜は極東商社の役員懇談会と三井商社の納涼会が同じホテルの違う会場で開催される。私は終業後に正装に着替え、荷物を持って徒歩でホテルに向かう手筈になっているから、食べ終えたお弁当箱が余計な荷物にならないようにと気を遣ってくれたのだろう。
「うん、ありがとう。助かる」
智はいつだって、こうして小さなことでも気を遣ってくれる。どれだけ愛されているかを実感して、口元が盛大に緩んでいく。
ビジネスバッグを置いたまま玄関先に座り込んで革靴を履いている智の背中を眺めていると、智がすっと立ち上がってくるりとこちらを向いた。その様子に、いつものように「行ってらっしゃい」と声をあげようとした、その瞬間。
智の大きくて熱い手のひらに、引っ張られて。鍛えられた胸の中に吸い込まれた。
「……知香」
ぎゅう、と。後頭部に添えられた智の左手。痛いほどの力で、強く、強く抱き締められていく。
「っ、さ、とし……?」
こんなに、痛みを感じるほど。容赦のないと言えるほどの力で抱き締められたのは初めてだ。圧迫されるようなその感覚に次第に息が出来なくなっていく。
「く、るし…」
苦しさから声を上げつつ身を捩ると、智がハッと我に返ったように腕の力を抜いた。
「あ……すまん」
腕の力が抜け、ゆっくりと息を吸いながら頭上の智を見上げた。
「ううん……どうしたの?」
出掛けに軽いキスを交わすことはあっても、こんな風に抱き締められたことは初めてのような気がする。一体どうしたのだろう。
私を見つめるダークブラウンの瞳が、大きく揺れ動いている。
「……知香。今日の懇談会、絶対にひとりにならないように」
その揺れ動く瞳が、智が抱える不安から来るものなのだ、と察した。その瞳を真っ直ぐに見つめて、やわらかく笑みを返した。
「……ん、わかってるよ。気の置けない通関部のメンバーが一緒だから、大丈夫」
智はきっと、私が平山さんと懇談会の場で会ってしまうことを不安がっているのだと思う。年始に……二年詣りに行ったあの神社で、あんなことをされたのだ。社内恋愛からの破局。どちらも退職しておらず、こうして会社のイベントで顔を合わせてしまうのは仕方ない事とはいえ、智もきっと不安だろう。
その上に、片桐さんも同じ懇談会に出席するのだ。一度、あのシンポジウムの場で助けて貰ったとはいえ、過去には私に暗示をかけようとしていたし、直近で言えばエレベーターの中で強引に唇を奪われそうになった。相変わらず毎日待ち伏せもされている。
過去の男の人と、今現在で私を奪おうとしている人と、同じ宴会の席に出席する。智が今日の懇談会のことを不安に思っていたとしても、当然の感情。
黒川さんについては、智もあの人を臆病な人だと言っていた。ホテルに向かうのは徒歩だけれども、道中は通関部のメンバーと一緒に歩く。私が誰かと一緒の時は手を出して来ないだろうと智も言っていたし、智が今抱える不安は、彼の襲来に対するものではないのだと思う。
智はそっと私の頬に手のひらを当てて、ゆっくりと腰を曲げた。小さく、触れるだけのキスが落とされていく。
「愛してる」
唇が離れて、小さく囁かれる。私も智の声に、心からの気持ちを返した。
「………私も、愛してるよ。大丈夫。何も起こらないから」
そうして、小さく背伸びをして。私からも、智の唇に触れた。
触れた唇が離れる時の名残惜しさが、ズキンと胸をひどく苛んだけれど。
「ほら、遅刻しちゃうよ。気をつけて行ってらっしゃい」
智の胸の中から精一杯の笑顔を向けて。智の背中を、見送った。
「ええっと、今日の月次処理に関してですが。ご存知かと思いますが、加藤さんが役員懇談会の実行委員になっているので、2課の皆さまには我々畜産チームの分の書類作成のお手伝いをお願いしたいです」
大迫係長が進行を務める朝礼。「なにかある方」という問いかけに、西浦係長がおずおずと手を挙げて声を上げた。
月次処理は手順が多岐に渡る。売上額や必要経費の集計、債権の回収確認、債務の支払確認、社内取引額の相殺処理などあげればキリがなく、さらに言えばいついつまでに経理部にこの書類を提出して……という細かい締切日がたくさん設定されている。
そのため、月末月初は怒涛のように時間が流れていく。正直、ひとり欠けただけでもかなりの痛手なのだ。
月次処理が始まる、今日。今夜開催される役員懇談会の実行委員に選出された加藤さんは、今日は朝から業務の引き継ぎをした後に会場のホテルにて準備に奔走することになる。2課畜産チームは西浦係長のみになってしまい、月次処理をこなしながら通常の通関手続きもこなさなければならないという、非常にハードなスケジュールが待っているのだ。そんな状況であるからこそ、協力してほしい、という申し出は至極当然だ。
水野課長と私、それから南里くんで「承知しました」と声を上げると、西浦係長は強張らせていた顔をほっとしたように緩め、加藤さんは艶のある黒髪をさらりと揺らしながら、申し訳なさそうに縮こまって小さく頭を下げていく。
「一瀬が春先にシンポジウムに出席したときは、農産チームの通関処理と月次処理を俺と三木で分担した。あの時よりは厳しい状況じゃないから気にせず頼るといい」
水野課長が、下がってきた銀縁メガネを右手でずり上げながら淡々と言葉を紡いでいく。
あのシンポジウムの時。開催された日が月次処理の真っ只中だった。入社してすぐの南里くんに全てを任せることもできず、かといって西浦係長も異動してきたばかり。結局、水野課長と三木ちゃんにほとんどの処理を振ってしまい、ふたりは連休直前だというのに深夜残業がつく時間帯まで勤務していたらしい。
私も私用で不在だったわけではなく業務で不在だったのだけれども、それでも彼らの負担を思うとなんとなく申し訳ない気持ちが込み上げてくる。仕事はひとりで回しているわけではないとはいえ、誰かに大きな負担が行くことは忍びないものだ。
そんな西浦係長の気持ちも理解できるけれども、あの時よりは南里くんも成長したし、西浦係長本人だって業務はほとんど飲み込んでしまっている。水野課長が口にしたように、あの時よりは厳しい状況ではない。
今日は忙しいことには変わりないだろうけれども、分担すればきっとスムーズに行くはずだ。そんな風に考えながら、朝礼の締めの言葉を発していく田邉部長の穏やかな表情を、じっと眺めていた。
朝礼を終え、加藤さんから引き継いだ通関依頼も含めてバタバタと業務をこなし、あっという間に夕方の時間帯となった。
先週、各取引先に『9月29日は社内行事のため17時までの営業となります。何卒ご容赦ください』という臨時営業時間変更のFAXを送っていたことが功を奏したのか、夕方になると外線の数も減り、多少ゆっくりとした時間が流れていく。
「一瀬、三木。そろそろお前ら着替えに行け」
水野課長がペンを持ったままの右手で銀縁メガネを押し上げながら声をかけてくれる。男性陣はジャケットを羽織るだけで良いだろうけれど、女性陣は正装への着替えとヘアセットがある。女性陣は毎年、男性陣よりも早めに仕事を切り上げさせて貰っているのだ。
斜め右の席の三木ちゃんに視線を向けてアイコンタクトを交わし、水野課長に謝意を述べていく。
「ありがとうございます。では、私たちはお先に」
小さく頭を下げながら席を立ち、三木ちゃんと揃って女性社員の更衣室に滑り込んでいく。手早く着替えて、鞄の中から充電式のヘアアイロンを取り出した。
「わ、先輩……そのお色、すっごくお似合い…!素敵ですぅ……!」
私の隣で着替えていた三木ちゃんが、ほう、と感嘆のため息を漏らした。その声にものすごくこそばゆい感覚が込み上げてくる。
智に選んで貰ったパーティドレス。色はグレーがかった、スモーキーブルー。袖とミモレ丈の裾がレースになっていて、エレガントな雰囲気の装いを演出できている気がする。
「……ありがとう。三木ちゃんのそのドレスも素敵よ?」
そんな三木ちゃんは、目が覚めるような鮮やかな赤い膝丈ドレス。背中の方が長くなっているアシンメトリーのフィッシュテールスカートになっていて、派手に見えそうな原色のドレスにフェミニンさを纏わせている。その鮮やかな赤が、三木ちゃんのはっきりした顔立ちを引き立てているように思えた。
お互いに他愛のない会話をしながら、ヘアアイロンをあてていく。去年までの懇談会は髪が長かったから夜会巻き一択だったけれど、今はショートヘア。どうするか悩んだ結果、全体をゆるっと巻いて束感を作ってから、スワロフスキーの華奢なバックカチューシャをつけることにした。
そっと横目で見ると、三木ちゃんはセミロングの髪を、ドレスに合わせた緩いフィッシュボーンに編んでいるようだった。
忍足で彼女に近付き、三木ちゃんの耳元に口を近づけて、小さく問いかける。
「……ドレス。彼のチョイスなの?」
浅田さんの結婚式の時。三木ちゃんは赤い振袖を身に纏っていた。その時にも思ったのだけれど、彼女は赤い色が特に似合う。私が思ったくらいだから、小林くんだってそう思っただろう。だから、そうだろうな、と思っているけれど。
「……っ!!」
ロッカーの内鏡を眺めながら髪を編んでいる三木ちゃんが、かぁっと。耳まで勢いよく赤くなっていく。その様子に、私の問いかけの返答を貰ったような気がして。
(……かぁわいい…)
くす、と。可愛い後輩の幸せそうな様子に、小さく笑みが溢れた。
「……本当にごめんね、家事を全部請け負って貰って…」
私はそう口にしながら、智に小さく頭を下げた。
通関士試験が行われる日が迫る中、智が「家事は俺が引き受けるから今はとにかく勉強を優先しろ」と言ってくれ、先週からほどんどの家事を智が捌いてくれている。
元々、料理は智、それ以外は私、という風に分担していたからお互いに仕事と生活のバランスが取れていたように思えるけれども、今は智ばかりに負担が行っているようで……本当に申し訳なく思っている。
「いや、いーんだって。俺が部長に昇進した頃は知香に負担かけてたし。それに知香が受ける試験、受験料は会社負担、おまけに合格率は低いんだ。だったら受かるしかねぇだろう?今は勉強が最優先」
智はふうわりとやわらかい笑みを浮かべながら、ダークブラウンの瞳を困ったように細めた。そのまま、ぱんぱんとバスタオルの皺を伸ばしつつ、ピンチハンガーにかけていく。
確かに、部長に昇進した直後の6月からお盆直前までは私が家事全般を一手に請け負っていた。だからおあいこだ、と、智は言いたいのだと思う。
(……協力、してくれてるんだから…絶対、受からないと)
水野課長も、休日を割いて座学の指導をしてくださっていた。田邉部長だって、時折私の勉強の進捗状況を気にかけてくださっている。三木ちゃんや南里くん、加藤さんにも応援して貰っている。今年一緒に受験する西浦係長も、休憩時間中に問題の出しあいなどをしてお互いに切磋琢磨しあっている。
なにより。私の一番身近にいる智にも、こうして協力して貰っているのだ。
たくさんの人たちのその気持ちに報いるには、合格するしかない。それが何よりの恩返し。こうして家事を引き受けて貰っていることを申し訳なく思う時間があるならば、今は少しでも過去問を頭に叩き込まなければ。
ぎゅっと唇を引き締めて、洗濯物を干している智に「ありがとう」と小さく声をかけ、ふたたびテーブルの上の問題集に視線を落としていった。
智が洗濯物を干し終えて、寝室に向かって歩いて行く気配がした。衣擦れの音が耳に届いたから、きっとクローゼットを開いて出社のための身支度を整え始めているのだろうと察する。
しばらくその衣擦れの音をBGMにしながら頭の中でテキストに羅列された問題の文章を復唱していると、智がビジネスバッグを持ってリビングに戻ってきた。
「……そう言えば。明後日で、俺たち出会って丸1年なんだな」
智はそう口にしながら、とす、と。私が腰掛けているソファに沈み込んだ。
「あ、そっか」
私と智が出会った合コン。あれは昨年の10月1日の出来事だった。あれから丸1年が経つのか。あっという間のような、短かったような。
(……お祝いとか…した方がいいのかな?)
智がこういう風に口にする、ということは、智は明後日を記念日のようなものだと認識しているのだろう。何かお祝いを考えた方がいいだろうか、と思考を飛ばしていると、するり、と。智が私の髪を撫でた。
急にどうしたのか。その仕草に、きょとん、としながら右隣の切れ長の瞳を見上げる。
視線が絡まった、智の瞳が。言いようのない感情を湛えて、ふるふると揺れ動いている。智もきっと、この1年の出来事を思い返して感慨深く思っているのだろうか。
「……そろそろ、行ってくる」
智が、ぽつ、と声を発した。そうして、するりとソファから立ち上がっていく。カウンターキッチンの笠木に置いてあるお弁当用のミニバッグの片方を手に持って、玄関に向かっていく。
「今日のお昼はサンドイッチにしてるから。包み紙だけだから帰りは荷物にならねぇだろ?」
玄関に向かって歩く智の背中から声が響く。
今夜は極東商社の役員懇談会と三井商社の納涼会が同じホテルの違う会場で開催される。私は終業後に正装に着替え、荷物を持って徒歩でホテルに向かう手筈になっているから、食べ終えたお弁当箱が余計な荷物にならないようにと気を遣ってくれたのだろう。
「うん、ありがとう。助かる」
智はいつだって、こうして小さなことでも気を遣ってくれる。どれだけ愛されているかを実感して、口元が盛大に緩んでいく。
ビジネスバッグを置いたまま玄関先に座り込んで革靴を履いている智の背中を眺めていると、智がすっと立ち上がってくるりとこちらを向いた。その様子に、いつものように「行ってらっしゃい」と声をあげようとした、その瞬間。
智の大きくて熱い手のひらに、引っ張られて。鍛えられた胸の中に吸い込まれた。
「……知香」
ぎゅう、と。後頭部に添えられた智の左手。痛いほどの力で、強く、強く抱き締められていく。
「っ、さ、とし……?」
こんなに、痛みを感じるほど。容赦のないと言えるほどの力で抱き締められたのは初めてだ。圧迫されるようなその感覚に次第に息が出来なくなっていく。
「く、るし…」
苦しさから声を上げつつ身を捩ると、智がハッと我に返ったように腕の力を抜いた。
「あ……すまん」
腕の力が抜け、ゆっくりと息を吸いながら頭上の智を見上げた。
「ううん……どうしたの?」
出掛けに軽いキスを交わすことはあっても、こんな風に抱き締められたことは初めてのような気がする。一体どうしたのだろう。
私を見つめるダークブラウンの瞳が、大きく揺れ動いている。
「……知香。今日の懇談会、絶対にひとりにならないように」
その揺れ動く瞳が、智が抱える不安から来るものなのだ、と察した。その瞳を真っ直ぐに見つめて、やわらかく笑みを返した。
「……ん、わかってるよ。気の置けない通関部のメンバーが一緒だから、大丈夫」
智はきっと、私が平山さんと懇談会の場で会ってしまうことを不安がっているのだと思う。年始に……二年詣りに行ったあの神社で、あんなことをされたのだ。社内恋愛からの破局。どちらも退職しておらず、こうして会社のイベントで顔を合わせてしまうのは仕方ない事とはいえ、智もきっと不安だろう。
その上に、片桐さんも同じ懇談会に出席するのだ。一度、あのシンポジウムの場で助けて貰ったとはいえ、過去には私に暗示をかけようとしていたし、直近で言えばエレベーターの中で強引に唇を奪われそうになった。相変わらず毎日待ち伏せもされている。
過去の男の人と、今現在で私を奪おうとしている人と、同じ宴会の席に出席する。智が今日の懇談会のことを不安に思っていたとしても、当然の感情。
黒川さんについては、智もあの人を臆病な人だと言っていた。ホテルに向かうのは徒歩だけれども、道中は通関部のメンバーと一緒に歩く。私が誰かと一緒の時は手を出して来ないだろうと智も言っていたし、智が今抱える不安は、彼の襲来に対するものではないのだと思う。
智はそっと私の頬に手のひらを当てて、ゆっくりと腰を曲げた。小さく、触れるだけのキスが落とされていく。
「愛してる」
唇が離れて、小さく囁かれる。私も智の声に、心からの気持ちを返した。
「………私も、愛してるよ。大丈夫。何も起こらないから」
そうして、小さく背伸びをして。私からも、智の唇に触れた。
触れた唇が離れる時の名残惜しさが、ズキンと胸をひどく苛んだけれど。
「ほら、遅刻しちゃうよ。気をつけて行ってらっしゃい」
智の胸の中から精一杯の笑顔を向けて。智の背中を、見送った。
「ええっと、今日の月次処理に関してですが。ご存知かと思いますが、加藤さんが役員懇談会の実行委員になっているので、2課の皆さまには我々畜産チームの分の書類作成のお手伝いをお願いしたいです」
大迫係長が進行を務める朝礼。「なにかある方」という問いかけに、西浦係長がおずおずと手を挙げて声を上げた。
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そのため、月末月初は怒涛のように時間が流れていく。正直、ひとり欠けただけでもかなりの痛手なのだ。
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水野課長と私、それから南里くんで「承知しました」と声を上げると、西浦係長は強張らせていた顔をほっとしたように緩め、加藤さんは艶のある黒髪をさらりと揺らしながら、申し訳なさそうに縮こまって小さく頭を下げていく。
「一瀬が春先にシンポジウムに出席したときは、農産チームの通関処理と月次処理を俺と三木で分担した。あの時よりは厳しい状況じゃないから気にせず頼るといい」
水野課長が、下がってきた銀縁メガネを右手でずり上げながら淡々と言葉を紡いでいく。
あのシンポジウムの時。開催された日が月次処理の真っ只中だった。入社してすぐの南里くんに全てを任せることもできず、かといって西浦係長も異動してきたばかり。結局、水野課長と三木ちゃんにほとんどの処理を振ってしまい、ふたりは連休直前だというのに深夜残業がつく時間帯まで勤務していたらしい。
私も私用で不在だったわけではなく業務で不在だったのだけれども、それでも彼らの負担を思うとなんとなく申し訳ない気持ちが込み上げてくる。仕事はひとりで回しているわけではないとはいえ、誰かに大きな負担が行くことは忍びないものだ。
そんな西浦係長の気持ちも理解できるけれども、あの時よりは南里くんも成長したし、西浦係長本人だって業務はほとんど飲み込んでしまっている。水野課長が口にしたように、あの時よりは厳しい状況ではない。
今日は忙しいことには変わりないだろうけれども、分担すればきっとスムーズに行くはずだ。そんな風に考えながら、朝礼の締めの言葉を発していく田邉部長の穏やかな表情を、じっと眺めていた。
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水野課長がペンを持ったままの右手で銀縁メガネを押し上げながら声をかけてくれる。男性陣はジャケットを羽織るだけで良いだろうけれど、女性陣は正装への着替えとヘアセットがある。女性陣は毎年、男性陣よりも早めに仕事を切り上げさせて貰っているのだ。
斜め右の席の三木ちゃんに視線を向けてアイコンタクトを交わし、水野課長に謝意を述べていく。
「ありがとうございます。では、私たちはお先に」
小さく頭を下げながら席を立ち、三木ちゃんと揃って女性社員の更衣室に滑り込んでいく。手早く着替えて、鞄の中から充電式のヘアアイロンを取り出した。
「わ、先輩……そのお色、すっごくお似合い…!素敵ですぅ……!」
私の隣で着替えていた三木ちゃんが、ほう、と感嘆のため息を漏らした。その声にものすごくこそばゆい感覚が込み上げてくる。
智に選んで貰ったパーティドレス。色はグレーがかった、スモーキーブルー。袖とミモレ丈の裾がレースになっていて、エレガントな雰囲気の装いを演出できている気がする。
「……ありがとう。三木ちゃんのそのドレスも素敵よ?」
そんな三木ちゃんは、目が覚めるような鮮やかな赤い膝丈ドレス。背中の方が長くなっているアシンメトリーのフィッシュテールスカートになっていて、派手に見えそうな原色のドレスにフェミニンさを纏わせている。その鮮やかな赤が、三木ちゃんのはっきりした顔立ちを引き立てているように思えた。
お互いに他愛のない会話をしながら、ヘアアイロンをあてていく。去年までの懇談会は髪が長かったから夜会巻き一択だったけれど、今はショートヘア。どうするか悩んだ結果、全体をゆるっと巻いて束感を作ってから、スワロフスキーの華奢なバックカチューシャをつけることにした。
そっと横目で見ると、三木ちゃんはセミロングの髪を、ドレスに合わせた緩いフィッシュボーンに編んでいるようだった。
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浅田さんの結婚式の時。三木ちゃんは赤い振袖を身に纏っていた。その時にも思ったのだけれど、彼女は赤い色が特に似合う。私が思ったくらいだから、小林くんだってそう思っただろう。だから、そうだろうな、と思っているけれど。
「……っ!!」
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