俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

245 胸元を、握り締めた。

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「そうですね。そちらでお願いいたします」

 いつものにこりとした笑みが、目の前に浮かぶ。

 結局、片桐との商談のアポが取れたのは、予想通り9月の連休直前だった。この機会を逃すわけにはいかない。

 片桐の承允の声に商談成立を悟り、営業マンとしての仮面を外し。



「………片桐。聞きたいことがある」



 ストン、と。俺は声を堕とした。








 夏季休暇の直前。若手社員たちとの親睦を深めるための夕食会を終え、知香が用意してくれていた軽食を掻き込んでいる時に告げられた、衝撃の言葉。

「………黒川さん。接触された」

「っ!」

 思わず、口に含んでいたお茶漬けを咽せた。運悪く気道に出汁が入り込み、激しく咳き込む。


 ここで何故。黒川の名前が出るのか。どうして……黒川が知香に接触したのか。

 あいつは己の不正処理を認め、素直に三井商社うちから去っていった。その後は社長の脛を齧って生活していると聞いている。

(なにが、起こっている……?)

 激しい咳き込みに頭がクラクラする。チカチカと明滅する視界の中、誤嚥したものを吐き出そうと前傾姿勢を取った。こうして誤嚥してしまった場合は、頭をなるべく低くして屈ませる。すると、口が喉より下きて重力が味方となり確実に吐き出すことが出来る。

 ソファに沈み込んだまま激しく咳き込みながら、ざわざわと波立つ思考の中で必死に呼吸を整えた。


 俺の呼吸が落ち着いた頃、知香が状況をひとつひとつ説明していく。終業後にオフィスビルを出ると黒川がいたこと。シンポジウムの際に拐かそうと乱暴にしたことへの謝罪。そのお詫びに食事でも、と言われたこと。

 知香の瞳が、ゆっくりと湿っていく。どれだけ恐怖だったろう。己の無力さを突きつけられ、胸の奥が締め付けられる思いだった。

「あれは明らかに本心じゃなかった。また、何か……企んでると思う。私の友達が偶然近くにいて割って入ってくれたから、黒川さんは諦めてくれたけど」

 震えた声で紡がれていく、言葉たち。その文脈の中に、強い違和感を抱いた。

「ん?今日、片桐は?」

 片桐が……三井商社うちのオフィスビルに来て、俺に宣戦布告をして以降。あいつは、毎日知香の帰り際を待ち伏せていたはず、では。

 俺の問いに、知香は震える吐息をゆっくりと吐き出しながら、緩やかに首を振った。

「今日は片桐さんいなかったの。だからほっとして……ぼんやり歩いてたから、黒川さんがいることに気付くのが遅れちゃって」

「……」

 今日に限って……片桐が、いなかった。そうして、黒川が接触してきた。

 何かが、繋がりそうな気がした。ゆっくりと足を組んで、思考を深い場所まで落とす。



(………まさか)



 ふっと。身体を芯から震わせるような悍ましい推測が、脳裏を駆け巡った。

 あの、シンポジウムの時。

 睡眠薬を用いて黒川が知香を拐かそうとした時に……片桐が『俺の女』と割って入った。そうして、その言葉で黒川は知香を標的ターゲットから外し、その場を去った。

 それにより、黒川は知香を片桐の恋人と認識し、俺が横恋慕をしようとしているのだ、と誤認していた。だからこそ、俺はあの断罪の場で時間稼ぎが出来た。



 年齢も社歴も下の俺に役職を抜かれて、俺を逆恨みしていた黒川が。

 己の不正を暴くきっかけとなった片桐のことを―――逆恨み、しないはずがない。



 あいつは俺を引き摺り下ろすために知香を利用しようとするくらいだ。黒川の標的ターゲットは、再度知香に向いている可能性がある。

 片桐は、黒川に知香を片桐自分の恋人だと誤認させた張本人。だからこそ、黒川の思惑に勘付いている。商談の後に、黒川の動向を探られたこともあった。知香に向けられた狂気から、知香をために、毎日……待ち伏せているのでは。

(……いや、そうだったとしても…)

 次々と湧き出てくる数多の疑念と推測。

 この推測が正しいとて、今日に限って待ち伏せていなかった理由がわからない。知香のことを想い、現状が危険だとわかっているのならば、待ち伏せを1日も欠かすことなど出来るはずがないだろう。

 それに、片桐は知香を欲している。事実、あの日……池野課長が退職した日。あの時、同じエレベーターの中で強引に知香に迫っている。知香を手に入れようと、画策している。


 ふわりと。柔和な微笑みが脳裏をよぎった。

『角度を変えてみるのもひとつの手よ』

 昔。といっても、半年ほど前のこと。壁にぶち当たって藻掻いている俺に、さらりと言葉をかけてきた琥珀色の瞳を思い浮かべた。


(……角度を、変える…)


 黒川の言葉が本心でない、ということは知香の直感だ。その直感が外れていたことなんてほとんどない。だから黒川が知香に悪意を持っていることは紛れもない事実。

 黒川の動機も読めない。知香に向ける悪意は、片桐への逆恨みとしてなのか、はたまた己の不正に関った人間だからか。

 片桐の思惑も読めない。ヤツが待ち伏せしているのは、知香を俺から奪い取るためのひとつの手段だと思い込んでいた。黒川の逆恨み、そして誤認。その狂気から知香を守るための、行動なのか。はたまた単に知香を手に入れたいが故の行動なのか。

 片桐が待ち伏せていない日に限って黒川が接触してきたことは、偶然が重なったことの結果である可能性も否めない。

 けれど。


(……角度を変えたとて…この推測にしか、辿りつけねぇ…)


 自分の胸の中に浮かんだ、突拍子もない推測。

 けれど、俺の手の中にあるピースが多すぎて。



 その推測に、確信なんて持てやしなかった。



 確信を持てぬまま一晩を過ごし、知香に片桐へ向けた言伝を頼むも、案の定片桐からの返答は「否」。

 ならば片桐に向かって言外の意思表示をするまで、と、知香に帰り際はひとりになるなと厳命した。指切りまで使い、約束を交わした。


 指切りとは本来は花街界隈で行われていたもの。遊女が本気で愛した男性に変わらぬ愛を誓う証として、自分の小指を切り落として渡したのが始まり。その根底には日本の風土でもある神道の八百万の神の考え方も相まって、指先にはその人の魂が宿っているという考え方があった。その指先を他人に渡す、覚悟を示す、ということだ。その考え方の派生が、印鑑の代用として用いられる拇印に繋がっている。

 俺は、言霊を信じている。言葉は則ち言霊だ。自信がないと口にしてしまえば失敗するし、成功すると口にすれば成功する。

 だからこそ、指切りの根源の考え方となっている『指先に魂が宿る』という考えも俺は信じている。それ故に俺は、滅多なことで、魂をかけた約束―――則ち、指切りという手段を使わない。


 夏季休暇が明け、知香は俺との約束通り、常に通関部の女性陣の誰かと一緒に帰るようになった。もちろん、ひとりにさせないのは黒川対策でもある。あいつは臆病者だ、知香が誰かと一緒にいれば声をかけることはまずもって無いと言っていいだろう。

 知香の行動に含ませた、片桐に向かっての俺の言外の意思表示。同族である片桐だからこそ、俺の疑問はきっと伝わる。

 それは。

『黒川は不正を暴くきっかけとなったお前への逆恨み復讐で知香を狙っているのでは?』

 ……と、いう疑問、だ。




 意図して低くした俺の声が、俺と片桐だけの静かな応接室に溶け込んで消えていく。ここから先は―――ビジネスではなく、プライベートの時間だ。




 俺のその声に、するり、と。正面のソファに沈み込んだままの片桐が腕と足を組んだ。片桐が纏う長袖のワイシャツの衣擦れの音が響き、片桐がゆっくりと口を開いていく。

「俺にお前の話を聞き、疑問に答える義理があるとでも?」

 精悍な顔立ちを不満気に歪め、不愉快だと示すように整えられた眉が動いていく。

 憮然たる面持ちで吐き捨てられた言葉。確かに、前回の商談の場で片桐が俺に疑問を投げかけ答えを求めたのは、俺は片桐に借りがあったから。

 今は互いに、そのような関係ではない。ひとりの女を奪い合うライバル同士であるから、そういった義理は無い……と、言いたいのだろう。

(……甘かったか)

 俺はビジネスの場では、先ほど交わしていた片桐との商談のように、真っ直ぐに己の手の内を明かすようなことは基本的にしない。これまでに得た知識を用いた雑談で相手の心をつかみ、本題のビジネスの場では時に心理学の応用を使い会話の流れを誘導し、時に敷衍を意識した言動を心がけることで、相手は納得しやすくなる。それでも商談が難航する場合は、相手を半ば強引に丸め込むこともある。

 だからこそ、片桐に対しては真っ直ぐな商談を心がけた。この手法は同族である片桐に対しては通用しないと考えていたこともあるが、曲がりなりにも疑問を投げかける側である、俺なりの誠意を示す意味合いもあった。

 片桐は俺の話を聞く気はさらさら無い。もちろん、俺の疑問に答えるという考えも持ち合わせてはいないだろう。……ならば。

「これは俺のだ。聞き流すもそうしないも自由にしてくれ」

 そう口にしながら、テーブルに広げた資料に視線を落として、それらをゆっくりと纏めていく。


 そう。ここから先は俺の独り言。独り言に過ぎないから、片桐が聞き流すも、聞き流さず口を挟むも、自由だ。その選択を俺はわざと片桐に委ねることにした。


 俺の言葉に、視界の端の片桐が小さく身動ぎをしたように感じた。その動作に一瞬疑問を抱いたが、俺は平静を装って資料を纏めながら淡々と言葉を続けていく。

「……黒川が、知香に接触した。あの日乱暴にしたことを謝りたいのだそうだが、知香の話ぶりからするに明らかに害なすつもりだった、ということだ」

 視界の端に捉えたまま片桐は無反応だ。仮面を被っているのか、否か。とにかく俺は冷静に『独り言』を展開していくことに注力した。

「お前からの情報提供が不正を暴かれるきっかけとなったと黒川が考えているならば、お前を逆恨みしている可能性も否めない。そうして、その逆恨みの矛先は知香に向かっている。なぜならば、黒川は知香の恋人をお前だと誤認しているからだ」

 とんとん、と、資料を纏める音がこの空間に響く。己の声に感情を込めないように意識し、ゆっくりと言葉を続けていく。

「お前はそれをわかっているから、毎日欠かさずに知香を待ち伏せて周囲を警戒し、電車に乗り込むまでを見届けている」

 纏め上げた資料を三井商社のロゴが入った水色のクリアファイルに挟んで俺の足元に置いていたビジネスバッグに放り込み、緩慢な動作を意識して視線を上げる。

 眼前に現れた……感情という言葉が消え去った、ヘーゼル色の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「知香を愛しているからこそ。……あの時、知香を俺に託したお前が取りそうな行動だと俺は考えた」

 あの時の会話は録音してある。一生消すこともないと決めている、あの音声。己を戒めるために幾度も聞き返しているあれに吹き込まれた、揺れ動く片桐の感情。それらの全てを勘定して辿り着いた―――俺の、推測。



 俺の言葉に、片桐は無表情のままだ。ただただ、沈黙が続く。



「……ふ」

 静寂を破った片桐が、心底愉しそうに笑みを浮かべ、腕を組んだままニヤリと口角を上げた。

「お前、妄想癖が過ぎるんじゃな~い?やっぱりお前に知香ちゃんは任せられないって改めて実感したよ」

 片桐はそう口にして、するり、と。沈み込んでいたソファから立ち上がる。テーブルに広げた手帳を手に持って、ゆっくりと応接室の扉に向かっていく。

「妄想癖がある人間の特徴って知ってる?……『今を生きていない』から、そういう妄想をするんだってさ」

 片桐は俺に背を向けたまま、愉し気に声を発した。そうして、長袖を纏った腕を伸ばし、応接室の扉をカチャリと開いていく。

「今を生きましょう。ね、邨上さん?」

 こちらを振り返った片桐は、へにゃりとした人懐っこい、ビジネスの笑みを浮かべたまま。くるりと切り替えた丁寧な口調で、ソファに沈み込んでいる俺にヘーゼル色の瞳を向けていた。





 片桐との商談を終え、徒歩で三井商社へ戻る。歩きながら口元に手を当て、ゆっくりと思考を巡らせる。

(……結局……確証は得られなかった)

 片桐は俺の独り言に口を挟むことなく、最後にばっさり『妄想』と切り捨てた。が、先ほどの片桐には確かに違和感があった。

(…………)

 「これは俺の独り言だ」、と俺が口にした瞬間に。片桐は小さく身動ぎをしたように思えた。俺の言葉にそんな反応をする片桐は、初めてではなかっただろうか。

 飄々とした態度を崩さず、人懐っこい笑顔で他人に本心を読ませない片桐。その片桐が、俺の前で動揺したような仕草をした。これは。

(……俺の独り言が…正しい、ということか?)

 天秤に置かれた『傍証』という錘がもうひとつ追加され、更なる確証へと傾いていく。


 だが、油断は出来ない。片桐は頭の回転が速く、狡猾で口八丁手八丁な男。執念深い、蛇のような人間だ。

 黒川の矛先が知香に向かっていると気づいていながら何故待ち伏せしていない日があったのか。それはわざと黒川を接触させ知香の恐怖心を煽り、己の行動は彼女を護るためだと口にし、黒川の行動それすらも知香を俺から奪い取るための材料にするつもりだったのかも知れない。


 緩やかに左右に揺れ動く天秤。俺の手の中にある数多の推測と可能性。

 片桐は―――敵か、味方か。

 今まで通り敵であるならば、俺は片桐の思惑を潰すまでだ。知香は離さない、渡さない。この身が滅びるまで、俺は知香と共にあると決めた。だから……敵のままであれば、片桐を潰す。

 俺の独り言が正しく、味方であるならば。あのヘーゼル色の瞳に冷たい孤独を抱え、黒川や俺の、憎しみも憾みも……全てを独りで背負うと決め、陰の存在として己の意思を貫き通し、誰とも交わることのない正義を抱えた片桐に、何と言葉をかけるべきなのか。

 けれども、味方だった場合。片桐が知香に強引に迫ったあの行動に、辻褄が合わなくなる。


(……くそったれ…)


 黒川の狂気が知香に向かっているということは確かなのに。その動機の根源がわからなければ、俺は今抱える全ての推測に確証を得られやしないのだ。

 黒川は、己の不正に間接的に関与していた知香を単に恨んでいるだけなのか?
 それとも、片桐への復讐として、知香に矛先を向けているのか?



「………角度を、変える…」



 片桐が味方であるならその行動は俺にとって新しい正義の介入だ。正義の敵は悪ではなく別の正義なのだから。


 角度を変えれば―――悪は正義にすり替わる。


 答えの出ない数多の推測。それらを悶々と考えながら歩いて、三井商社が入るビルの出入り口に足を踏み入れると。


 ―――――面長の、細い瞳と。視線が交差した。


「……ッ!」

 先ほどまで脳裏にあった人物と、思わぬタイミングで遭遇した。そのことにひゅっと音を立てて息を飲んだ。

「……久しぶりだな、邨上。元気だったか?」

 髪の脂がてらりと光る。黒川の背後にあるエレベーターの扉が開いていることから察するに、社長に会いに来ていたのだろう。

 黒川はあれから、月に一度……こうして社長に金の無心に来ているらしかった。あの時、黒川が素直に懲戒解雇を受け入れたのは、『再就職が決まるまで社長が黒川とその母親の生活を支援する』という約束が交わされたからでは―――という噂がまことしやかに流れているらしい、というのを、浅田から聞いたような気もする。

 不正取引で損害を出し解雇された元会社になど、俺なら恥ずかしくて足を運べない。が、どこまでも厚顔無恥なこの男のやりそうなことだとは思っていた。

 しかし、まさか。その瞬間に立ち会う時が来るなど……思ってもいなかった。

 以前とは違う、やわらかな黒川の声色が俺に投げかけられていく。

「俺のせいでお前には苦労をかけていた、というのは親父から聞いているよ。歳下のお前に色々と尻拭いをさせて悪かった。今、再就職先を探しているんだが、なかなか良い就職先がなくてな。ま、ほどほどに頑張ることにするさ」

 トン、トンと。黒川のスニーカーの音が近づいてくる。

「あぁ、そうだ。納涼会、極東商社の役員懇談会と同日に同じホテルでやるんだってな。俺のせいで極東商社にも迷惑をかけたから、取引禁止になっていたりしているんじゃないかと思っていた。でも、同日に同じホテルで納涼会を企画できるくらいだから、それは俺の杞憂だったかな。幹事は大変だろうが、頑張れよ」

 黒川は、ラフな格好のジーンズのポケットに左手を突っ込んだまま、こちらに向かって歩いてくる。そうして俺の真横を通り過ぎ、ぽん、と俺の肩を軽く叩いた。


 その瞬間。ニタリ、と。その面長の顔に、薄気味の悪い嗤いを浮かべたような気がした。弾かれたように顔をそちらへ向けても、面長の顔には穏やかな笑みがあるだけ。

 それでも。口元だけは、ひどく歪に笑っているように、思えた。



 黒川の白い背中が遠くなる。やつが最後に口にした言葉の意味を噛み砕いて。
 街の喧騒が、ゆっくりと遠くなっていく。



(………再来週…動く、気だ…!)



 言葉にならない感情が全身を駆け巡った。ドクドクと心臓が鼓動を刻み、強い焦燥感がジクジクと胸を苛んでいく。


 複数名の思惑が交差する。交錯、している。
 その思惑をひとつでも取り違えて解釈してしまえば、俺は―――――



 知香を、永遠に、失う。



 『愛してるよ、智』

 ふわり、と。知香の、鈴を転がすような声がした。



 漠然とした、それでいて言葉では表現出来ない確信と、込み上げてくる不安感。

 津波のように大きく押し寄せてくる数多の感情を処理しきれず、喘ぐように息をしながら、ぎゅう、と。



 知香から贈って貰った、深いワインレッド色のネクタイごと、胸元を握り締めた。
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