俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第三部

244 罅割れた仮面を、つけた。

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「ねぇ、--ちゃん。痛いのなくなる英語、--ちゃんに教えてあげよっか」

 まっさらな太陽の光が燦々と降り注ぐ中。生えかけのふわふわした黒髪を揺らす少女を膝に抱えて、俺がその子を諭すように声を上げていた。



(……また、この夢)



 最近、よく見るこの夢。いい加減うんざりだ。

 まだ……髪色も、瞳も、声すらもが生まれたときのままの、金髪碧眼の……少年の俺を。空から、時に真横から、時に真正面で。俯瞰したように見せられる。

 最近よく見る、この夢。この夢に出てくるこの子は、以前にも見たことがある。あの―――加藤という女に、流暢な英語で語り掛けられた日。帰りの電車内でうたた寝をしていた時だ。


 そうして。今見せられているこの夢を見るのは、特定の条件がある。


 あの女が―――俺が一番嫌いな、日本の量産型アイドルのような幼い見た目をして。艶のある黒髪をなびかせながら、二重のぱっちりとした瞳で、真っ直ぐに俺を見つめてきた、あの女が。

 あの女が……帰り際の知香ちゃんの隣にいた日の夜に必ず見るのだ、と。そう気がついたのは、前回この光景を見せられた時だった。

 昨日も。知香ちゃんの隣にあの女がいた。そうして、再来週の懇談会の装いについて楽しげに会話をしていた。



「明けない夜はないんだよ、--ちゃん」

「あけない?よる?」

「そう。The night is long that never finds the day.」



(……明けない夜は、あるんだよ…)

 この時代の俺は、光の世界に生きていた。無垢で、無邪気で。

 俺が声変わりをする直前に母を蝕んでいた病魔が過ぎ去った。だからこそ、その純粋さに拍車がかかっていた時期だ。



 俺は、愛したものは、全部全部。失う。



 それを知る前の俺を、何度も見せられる。気が狂いそうになる。



 夜は明けなくてもいい。

 遠回りしたけれど、の大切なものを護りきれた、と。俺が死ぬときにそう思えれば、それでいい。


(……俺の夜は、明けなくて、いいんだ)


 世界は光に満ち溢れていると信じ込んで。
 幸せだった過去の俺を、無感動に見つめながら。







 狂いそうになる己の心を守るように。
 ただただ、自分に言い聞かせて―――――夢から醒めるのを、待っていた。







「……っ、は、……」

 止まっていた呼吸が戻る。と同時に、パチリと目を開く。

 夢が、醒めた。その事に大きく息を吐く。身体にかけていたタオルケットを無造作に退けて、緩慢な動作で上半身をベッドから起こす。


(……)


 人間は普段の生活で起きた出来事や、脳に蓄積したあらゆる情報を整理するために夢を見る。それらが睡眠時に処理されていき、映像となって映し出される、それが『夢』だ。

 だから、『夢』は単なる脳の処理の一環でしかない。それなのに……この夢は、俺の正常かつ異常な精神をジクジクと蝕んでいくような、そんな夢だ。

 この夢を見るのは、もう何度目だろう。数えるのすら億劫だ。今は他に、考えなければならないことが多すぎるというのに。

「………」

 くしゃりと丸めた紙屑で溢れかえったゴミ箱。寝起きだというのにはっきりと醒めた双眸でそれを見つめて、ガシガシと頭を掻いた。



 これまでの人生で培った伝手や情報網を駆使して黒川の動向を探るも、ヤツは馬鹿の一つ覚えのように帰り際を狙っているようだった。



 それを裏付けたのが、智くんとの商談で彼に投げ掛けた問いかけ。

「黒川。今、どうやって過ごしているか知ってる?」

「…………………は?」

 俺の質問に、唖然とした表情を浮かべていた、彼。想定外の質問であることがありありとわかるその表情に、あれ以降、黒川は智くんや知香ちゃんには接触していないのだと察した。


 現段階で。黒川の思惑は、俺しか知らない。
 ただし。黒川が、『俺』を知香ちゃんの恋人だと誤認していることは―――智くんも、知っている。


(………ミスリードを誘う会話に持っていく)

 俺と近い思考回路をしている智くんに、黒川のことを勘付かせるわけにはいかない。だって、これは。

(俺が、この世界を赦さないために……俺の意思で、行動していることだから)


 これは、俺からすべてを奪った神に対する反逆。俺からすべてを奪った、不条理で、理不尽な世界を―――赦さない、ためなのだから。


「……お前は、それを知ってどうするつもりだ」

 智くんの探るような声に、鼻で嗤うような表情を作ってみせた。

「決まってる。黒川は俺を新人だと思い込んで俺のことを下に見ていた。…………お前も俺と同族ならわかるでしょ?」

 そう。同族だからこそ、彼には勘付かれる可能性がある。だからありもしない動機を、それこそ真実味溢れるような声でつらつらと述べていく。


 こうして自分を取り繕うのなんか簡単だ。俺はずっとずっと、無意識下で、こうして道化を演じてきていたのだから。


「黒川は。社長に援助されて、無為徒食の日々を送っている」

「……」

 彼の沈黙だけで、俺は黒川の現在に確信を抱いた。それこそ、日中もこのオフィスビル周辺を彷徨いている可能性も否めないことは明白だった。

 だからあの日。知香ちゃんが早退したあの日も、日中も帰りを見送るという選択をした。





 お盆直前。俺が部下のミスの尻拭いのために社用車を使い外回りに出た時。帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれ、オフィスビルに戻る時間が予定よりも大幅に遅れた。

(だから課長代理になんかなりたくなかったんだ……)

 居ても立っても居られない思いで帰路を急ぎ、オフィスビルの地下にある駐車場に社用車を滑り込ませようとした時に、運転席から見た光景。


 ………黒川が。知香ちゃんに手を伸ばしている、その瞬間で。


 血の気が引いた。俺が居ないと察するや否や行動に出るあたり、やはり黒川は彼女がひとりになる瞬間をずっと付け狙っていたのだ。気がつけば駐車場の入り口に社用車を乗り捨てるようして運転席から飛び降りていた。

 ドアも閉めぬままに地面を蹴り、走り出そうとした刹那、耳まではっきりと見えるほどの短い髪をした、落ち着いた髪色の女性が知香ちゃんを黒川から庇うように割り込んだ。


 彼女は―――何者だ。敵か、味方か。瞬時に判断がつかなかった。


 黒川は狼狽を隠せていない引き攣った笑みを浮かべてその場から立ち去り、知香ちゃんと彼女が楽しそうに笑みを浮かべて歩き出した。きっと知香ちゃんの友人か何かなのだろう。そう察したが、俺はそれを素直に受け入れることは難しかった。


 黒川は陰湿だ。一目見ればわかる。智くんを引き摺り下ろすために知香ちゃんを不正事件に巻き込もうと画策するくらいだ。

 知香ちゃんを確実に害するために彼女の『友人』を囲い込んでいるだとか、『友人』を雇い5月以降の3ヶ月で近づき知香ちゃんに心を許させ、油断させるという手段を取っている可能性も否めなかった。


 トゥスチールの音をさせぬよう細心の注意を払い、気配を消す。諜報機関に在籍していた時に身につけた……すべ

 それらを駆使してそっと彼女らを尾行つけると、思わぬ展開が待ち受けていた。

 智くんそっくりの瞳の色をした男と、先ほどの彼女と親しげに話す知香ちゃんの様子を認め、己の考えが真っ向から否定されたように思えた。

 そうしてそのふたりが、知香ちゃんが帰る方向とは逆の―――俺が帰る方向と同じ方向の電車に乗り込んだ。

 知香ちゃんもいつもの電車に乗り込んだ。それを見届けて、安堵のため息をついた。

 けれど、あのふたりのことを真っ直ぐに信じられるわけもなく。放置していた社用車に戻り車を所定の位置に停車させ、退勤手続きをし。

 帰宅後に己が持つ全ての伝手を使い、彼らのことを調べた。


「……弟、と…同郷の友人、ね………」


 杞憂だった。彼等の身元が割れ、ほっとしたのも束の間。





「……先輩ならとっくの昔に定時で上がられましたよ」

 ブラックのアイライナーに囲まれた勝気な瞳に、明らかな侮蔑と嫌悪を宿し、椅子に腰かけたままの真梨ちゃんが下から俺に言葉を投げつけた。その言葉に強く動揺するも、表面上は必死に平静を保った。

 金曜日は、農産販売部として通関部へ通関依頼をしている案件についての必要書類の原本を取り纏めて渡す日でもある。本来ならば一般職の木村さんの役目でもあるが、昨日の黒川の件もあり、今日は絶対に彼女の帰りを見届けたかった。だから、その役目を木村さんから半ば強引ともいえる話術で彼女から書類の束を奪い取った。

 そうして、その書類を通関部に持って行った際に彼女のデスクに視線を向けると、俺の視線が向く先、そうしてその意図を真梨ちゃんが感じ取ったのか、彼女のふっくらした唇からその言葉が放たれた。

 知香ちゃんは基本的に定時では帰らない。いつだって、10分とか、15分とか、少しばかり残業をして帰っている。だから、そんな日に限って狙い定めたように定時ぴったりで退勤していたなんて思いもしなかった。


 俺や智くんだったら。一度失敗した手法は使わない。何故なら対象者に警戒されるから。

 けれども黒川は。俺への復讐目的達成のためならば、一度失敗した手段だとしても同様の行動を起こすだろうことは容易に想像できた。


「あ~らら、残念。じゃ、俺も帰るね」

 逸る心臓を抑えながら、芝居掛かったように肩を竦めた。そうしてゆっくりと踵を返す。優雅な、紳士的な立ち振る舞いを意識して、緩やかに歩く。



 通関部のフロアを退出し、エレベーターホールに出て。最悪の想像にぐらりと眩暈がした。

 彼女は。もしかすると―――光の届かない、昏く穢れた場所に連れ去れたかもしれない。自由もなく拘束され、殴られ、犯され、穢され、そうして。

 あいつ片桐への復讐のためにお前をこの世界から消してやる、という、黒川の理不尽な狂気逆恨みを突き付けられ、絶望のままに……生命を落としてしまうのかも、しれない。

「ッ……!」

 彼女の絶望に泣き叫ぶ顔を想像するだけで、耐え難かった。



 あの人が大切に想う人間を、もうこの世界から奪わせやしない、そう決めたのに。結局俺は、また何もかもを失うのか。

 やっと見つけた『生きる指針』すら、自らの安易で安直な考えで、自分の足で踏み躙りかけていることに強い吐き気を催した。



 ほんの少し前の退勤。昨日と同じ場所で黒川が彼女に接触しているのならば、まだ間に合うはずだ。

 焦ったようにエレベーターの『下』ボタンを幾度も押し、到着したエレベーターに勢いよく滑り込んだ。


 今日に限って……エレベーターの駆動音が緩やかに聞こえる。下っていく速度がいつもよりも遅く感じる。

(くそっ……)

 こんな時に。こんな時に限って。
 強い焦燥感に、ワイシャツの胸元を強く握り締めた。


 独特の浮遊感に身体が包まれた瞬間、逸る心のままに、やけにゆっくりと開く扉に手をかけた。こじ開けるようにした扉から強引に身体を捻じ込ませると、視界に飛び込んできたのは驚いたような焦げ茶色の瞳。


 一瞬。何が起こっているのか、理解できなかった。
 最悪の想像しか、していなかったから。


 彼女は何かの理由があって俺を待っていた、だから定時ぴったりで退勤したのだ、と気がついた時には、ひどく安堵した。

「………やぁ、知香ちゃん。今日もお疲れさま。俺を待っててくれたの?やっと俺のこと好きになってくれた?嬉しいなぁ」

 へにゃりとしたいつもの笑みを意識して、平静を保った。流れる汗も気にしていない風を装って、そのままに。

「……珍しいね~ぇ?知香ちゃんが俺に用だなんて。生憎、愛の告白以外は受け付ける気はないけど、わかってる?」

 いつも俺が待っている定位置に立つ彼女に歩み寄りながら、俺の行動に辟易しているはずの彼女が、俺に一体何の用だろうか、と……そう考えていると。本当に、唐突に。


 ―――――勘付かれた。


 ただ、その単語だけが脳裏を駆け巡った。


 少し考えればわかることだった。彼女が黒川に接触されたことを、智くんに報告しないわけがない。

 彼は、黒川が『俺』を知香ちゃんの恋人だと誤認していることを、知っている。同族だからこそ、思考回路がほぼ同じだからこそ。彼は勘付いたはずだ。


 俺が―――道化を演じていることに。


「彼からの伝言です。……連絡が欲しい、と。話したいことがある、とのことでした」

「……」

 俺の予想を外さないその言葉。その言葉に、一瞬だけ。ほんの数秒だけ、迷った。道化を演じる、という意思が、揺らいだ。


 勘付かれたのならば、それすらも利用すべきではないのか。智くんに全てを明かし、彼の協力を得て彼女を護り切る。そうすることで―――あの人の大切なものを、この世界から奪わせない。


 ……でも。


「………どうして俺がそんな手間をかけなきゃいけないんだろうね~ぇ?俺と彼は知香ちゃんを奪い合っているライバル同士だよ?俺に話したいことがあるなら自分から会いに来るのが筋ってもんでしょ?」


 それは、やってはいけないことだ。智くんは、あの人が大切に想う人間のひとり。それら全てを護り切ると、自分で自分に約束したではないか。

 何よりも。彼は『光』の世界に生きる人間だ。知香ちゃんの隣に立つ彼に、この事実を詳らかにするわけにはいかない。


 智くんは勘付いた。ならば、普段は驚くほど鈍感なくせに、妙なところで聡い知香ちゃんが勘付くのも時間の問題。

 智くんは勘付いただけで、その推測を知香ちゃんには話していないと察した。確証を得るために俺と話がしたいと申し出てきたのだろう。その誘いに俺が乗るはずもないと、わかっているだろうけれども。


(…………全てを暴かれるわけには、いかない)


 お盆の連休以降。知香ちゃんは常に、誰かと一緒に帰るようになった。そうするように促したのは、智くんしかいない。

 ……その目的はふたつ。

 ひとつ目。黒川は陰湿だけれど、彼女の同郷の友人が介入したあのタイミングでひどく狼狽していた。恐らく、彼女が誰かと一緒にいる時は行動に移さないであろうと踏んでのことだろう。

 ふたつ目。

『黒川は、不正を暴くきっかけとなった片桐お前への逆恨み復讐で知香を狙っているのでは?』

 ……という。俺へ、言外の疑問を投げかけている、のだろう。


(今……気付かれるわけには、いかないんだ……)


 妙なところで、妙に勘が鋭い彼女。俺がMaisieメイジーを失ったことははっきりと見抜いた。

 そうして、俺が黒川の狂気から彼女を護ろうとして隠していることも、彼女はあの時……俺がまだあの人に惹かれていると気がつけていなかったあの瞬間に。

 朧気ながらに、見抜いた。

 ならば、彼女の意識を黒川に、そうして俺の『心』に向けさせないようにしよう。彼女の心を逆撫でするような言葉を繰り返し吐き、俺の『道化』の部分に意識を向けさせる。

 幸か不幸か、彼女は近々で国家資格である通関士の試験を受験する。合格率15%以下のその試験。彼女は受験勉強で忙しく精神的に余裕もあるまい。その心理の逆を突いて、彼女の心を揺さぶり、怒りを、意識を、『道化の俺』に向けさせる。

 その一心で、この1ヶ月……俺はわざと、彼女の怒りを誘う言葉を吐き続けた。





「……大丈夫だ」

 今日。智くんと、商談で顔を合わせる。前回と同じように……ふたりきり。

 恐らく、いや確実に。黒川のことを俺が投げかけたように、その場で彼は、1ヶ月越しの質問を投げかけてくる。

 想定される問いかけをあらかじめいくつもシュミレーションした。彼が投げかけてくる可能性のある言葉を書き出した紙を書いては幾度も捨てた。


 だから―――多少揺さぶられても。俺は大丈夫。


 己にそう言い聞かせ、ベッドから抜け出していつものように身支度を整えた。

 自分の心を守るように、どこからも付け入る隙が無いように。いつものように、長袖のワイシャツを身に纏った。


 そうして。あの日に、さよならを告げてから長らく手にしていなかった、Maisieの写真が入ったロケットペンダントを、手に持った。

 俺はあの時、Maisieと離別した。都合の良いことを言っている、とはわかっている。



「……どうか、道化を演じる俺を…護って、くれ」



 それでも。もう、今は。君に縋るしかないんだ。

 囁くように、声帯を動かして。
 祈るように、手に持ったロケットペンダントに口付けて。

 ゆっくりと、自宅の玄関を押し開いた。










 キィ、と音を立てて、フロアから廊下に繋がる扉を開いた。

「……お世話になります、片桐さん」

 智くんが腰をおろしていた椅子から立ち上がり、爽やかな営業スマイルを浮かべたまま小さく頭を下げた。半袖のワイシャツに深いワインレッドのネクタイ。腕も顔も以前より日焼けしていることから、相当走り回っているのだろうと察した。

「こんにちは、邨上さん」

 強張る喉を叱咤し挨拶を交わす。俺もいつものへにゃりとした人懐っこい笑みを貼り付けて、心の動揺を悟られぬように優雅な仕草で頭を下げた。

 扉を閉め、廊下の反対側に設置されている応接室の扉をゆっくりと開いた。応接室の扉を開けて、智くんが入室するのを待っていると。

「今日も暑いですね。ですが、今夜は相当冷えるらしいですよ。この気温差は正直なところ勘弁してほしいですねぇ」

 智くんが困ったように眉を顰めて、小さく肩を竦めながら応接室に入室してきた。第一声は、クラッチ合わせの雑談。今はビジネスの場である……いうことを強調するようなその話し振りに、一瞬だけ身体が強張った。

(…………お前には、揺さぶられてやらない)

 心の中で小さく呟き、開いたままの扉をパタリと閉めた。

「へぇ、そうなんですか。9月だというのに秋のような気温の乱高下は困ったものですね」

 そう口にしながら、手に持っていた手帳を応接室のローテーブルに置いて、ゆっくりとソファに沈み込んだ。


 そうして、しばらくの間、前回の商談から継続した食用花についての商談が粛々と進められていく。

 智くんとの商談は常にスムーズだ。こちらが何を求めているのか、そうして智くんは何が欲しいのかを瞬時に理解できる提示の仕方をしてくる。裏をかくような姑息な手段は全く見当たらない。彼の真っ直ぐな性格が手に取るように伝わってくる。


 だからこそ。彼に全てを勘付かれてこちらに引き摺り込むことは、赦されない。


「では、今後は注文ベースでのお取り引き、ということでよろしいでしょうか」

 するり、と。智くんが、テーブルに広げた資料を指差し、にこりと笑みを向けてきた。

 ビジネスとして、俺も智くんも納得がいく交渉が出来た。これ以上望むべきことはない。



 さぁ。ここからが―――本番。



「そうですね。そちらでお願いいたします」

 俺も負けじとにこりとした笑みを浮かべる。
 その承諾の声に、智くんの表情から、すっと笑みが消え。

 声のトーンが、ストンと堕ちた。




「………片桐。聞きたいことがある」




 そうして、俺は。
 その声を皮切りに。

 ゆっくりと―――――罅割れた仮面を、つけた。
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