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挿話
The people who cut out the night. 〜 side 智
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コンコン、と。真っ白な扉をノックする。数拍置いて、中から「どうぞ」という声が上がった。
(……)
ふぅ、と。長く長く息を吐きつつ、銀の光を放つ取っ手を掴み、ゆっくりと引き戸を開いていく。
戸が開かれると、ふわりと風が吹き抜けた。金木犀のなんともいえない甘い香りを乗せた風が、俺の髪を揺らしていく。
病室の中に視線を向けると、窓が大きく開け放たれて、備え付けの白いカーテンが揺らめいている。個室となっているベッドの上。上半身を起こした状態で、病室の入り口に佇む俺に、真っ直ぐに視線を向けている―――ヘーゼル色の、瞳。
「………やぁ、智くん。そろそろかなって思ってたよ」
へにゃり、と。俺の眼前には、いつもの飄々とした笑みを浮かべた、片桐がいた。
あの日、多量の血液を失い文字通り蒼白だったその顔は血色が戻っており、順調に回復しているのだ、と、言外に教えられるようだった。
「……本来なら、知香も連れてくるつもりだった。が、生憎今日が試験日でな」
開け放った扉をゆっくりと閉め、病室内に足を進める。そうして、ベッドのわきに置いてある丸椅子にそっと腰をおろしていく。
俺の言葉に、片桐はくすりと声をあげて笑いながら。いつものように、こてんと首を傾げた。
「うん、知ってる。だから、面会謝絶が解けた今日、お前がこの時間帯にひとりで会いに来るだろうってことも、なんとなくわかってたよ」
「……そうか」
風が吹き込む度に、ムギと同じ、片桐の明るい髪が揺れていく。それを視界の端で捉え、俺は笑顔のままの片桐の顔を真っ直ぐに見つめた。
「まずは、三井商社の邨上として。ご回復されているようで、何よりでした。弊社の元社員が、あなたに危害を加えたことを心からお詫びします」
その言葉を口にして、俺は椅子に座ったまま片桐に向けて深々と頭を下げた。その動作で、自分の髪がふわりと揺れ動くのを感じる。
「……俺は、智くんが謝ることじゃないと思ってるよ?お前がかっとなって黒川の恨みを買ったのが原因と思ってるんだろうけど、俺自身も黒川の恨みを買ったからね~ぇ?」
くすり、と。片桐が小さく笑った。紡ぎ出された後半の一言で、俺の正しかった推測に新たな証左が加わっていく。
ゆっくりと、下げていた頭を上げた。ヘーゼル色の瞳と視線がかち合う。覚悟を決めるかのように小さく息を飲み、ふたたび一気に言葉を吐き出した。
「ここからは。ただの、男として。毒を喰らわば皿までの精神を貫き、俺の大切な女性を護ってくれたこと。心から感謝している」
もう―――否定はさせない。そんな思いで、片桐の微笑を見つめたまま言葉を続けていく。
「……今回の、件。あの時の俺の独り言は、正しかったんだな」
納涼会の2週間前。片桐との商談の終わり際に、俺が独り言として呟いたあの推測。あれは正しかった。
「うん。お前の推測は正しかった。だけど、俺は俺のために情報を隠した」
さらり、と。片桐は、何でもない風に声を発した。
あの不正事件を暴くに至ったのは、片桐の証拠がきっかけだった。
黒川は、片桐を知香の恋人だと誤認していた。
俺を逆恨みしていた黒川が―――片桐を逆恨みしないはずがない。
あの日駆け付けた警察にひとまず銃刀法違反で現行犯逮捕された黒川は、「解雇された直後に片桐に接触し、恨みをのべつまくなしに喋った際に煽られ復讐を決意した」……と。今回の事件の動機をそう供述している、ということを、俺も参考人として受けた警察の事情聴取の際に聞いた。
片桐のこれまでの不可解な行動。それらの全てが、ここに繋がっていた。
俺が辻褄合わせに苦労していた、俺の誕生日の翌日の出来事。知香にエレベーター内で強引に迫った動機については、俺の推測でしかないが……きっと、知香の身の回りに警戒させるように、知香本人にも俺にも伝えたかったのではないか、と。俺はそう解釈した。
この解釈が間違っていようが間違っていまいが。片桐が生命をかけて知香を護ろうとした事実は、決して消えない。
ゆっくりと、自分のチノパンのポケットから。あの時、あの階段で手にしたロケットペンダントを片桐の前に差し出した。
「……あの場所で、これを拾った。これを拾ったからこそ、お前が生命と引き換えに知香を護りに行ったと確信を持った」
「………」
片桐が俺から視線を外し、俺の手のひらの上に乗せられたブロンズの光をじっと見つめている。
しばらくの間。ただただ、沈黙が続いた。
そうして、ゆっくりと……片桐が手を伸ばして、俺の手の中にあった鈍い光が、その伸ばされた手に移っていく。
「……もう死ぬなぁと思った時。Margaretの声がしたんだ。なるほどねぇ……」
片桐は俺から受け取ったロケットペンダントのチェーンを指先で摘んで広げて、納得したように小さく頷いた。
「10年近く身につけていて、チェーンが切れるなんて一度も無かったのに。Margaretが俺の尻を叩いてくれたんだろうねぇ……助けに行け、もう二度と間違えるな、って」
片桐はそう言葉を紡いで、くすくす、と微笑みながら。手に持ったロケットペンダントをベッドサイドの小さなテーブルに、コトリ、と小さな音をさせながら置いていく。
「……俺らは、お前の意識が戻るまで。下でずっと待っていた。知香は夜通し泣き続けていた」
片桐の意識が戻ったのは、事件が起きた翌日の早朝。それまでずっと、俺たちは片桐が運び込まれたこの病院で、待っていた。
知香は俺の胸の中で泣き続けていた。「私のせいで」と、譫言のように繰り返しながら。俺は、ただただ。自分の無力さを噛み締めながら、知香のそばに寄り添うことしかできなかった。
「……知香ちゃんには、本当に心配をかけたと思っているよ。その後は?あんな凄惨な場面を見たんだ。夢にみたり、トラウマになってる様子はない?」
「………」
片桐は、知香のことをしきりに心配する言葉を紡いでいく。真っ直ぐに俺を貫くヘーゼル色の瞳には。もう一点の曇りも、隠し事のようなものも、見当たらない。
ただただ、あの事件に関わった人間を案ずるひとりの人間として……そこにいた。
「とりあえずは、大丈夫そうだ。…………実は今日な、面白いこと言って家を出たんだ」
俺の言葉に、片桐がきょとんとした表情をしていく。その表情に、俺も内心で驚いた。
感情を読ませないための仮面が剥がれた片桐は―――こんなにも表情豊かで、人間味溢れる男だったのか。
(……まぁ、性根がこうでなければ、自分を犠牲にする、なんていう選択肢は出てこねぇよなぁ…)
心の中で苦笑したように独りごちながら。宝石のように澄んだ片桐の瞳を見つめ、ゆっくりと口の端をつり上げた。
「『片桐さんに助けて貰ったんだから、絶対受からないと』って、真顔で言ってたぞ」
俺の一言に、片桐は一瞬、虚を突かれたような表情をした。そうして、やられた、とでもいうように。額に手を当てて、顔を伏せていく。
「………ほんっとに…知香ちゃんらしいや」
片桐は震えるような声で小さく呟いて、ゆっくりと顔をあげた。そのヘーゼル色の瞳は、僅かに湿っているように思えた。
「……俺はもう犯罪者だから。今度こそ本当に、知香ちゃんから身を引くよ」
犯罪者。その言葉に思わず、苦虫を噛み潰したような顔になったのが自分でもわかった。
片桐が知香に襲いかかる黒川を止めるために起こした『肩を無理矢理外す』という行動。あれは擬律判断としては正当防衛にはならなかった。
片桐自身も鈍器で殴られ刃物で刺されていたとはいえ、意図して反撃に近い行動をした。それにより片桐のあの行動は『他人の身体を害する傷害行為』となり、また、それの被害者である黒川自身が被害届を提出していることから、片桐は傷害の疑いで在宅捜査を受けることとなった。
意識が戻った翌日から片桐本人の体調を鑑みての警察の事情聴取が優先され、それ故に昨日まで面会謝絶となっていたのだ。毎日毎日仕事帰りにこの病院に立ち寄り、面会謝絶が解けるのを今か今かと知香とともに待ち侘びて―――ようやく、今日。通関士の試験日である、今日。面会が、叶ったのだった。
苦々しく過ごした日々を思い出していると、するり、と。片桐は緩く握った拳の小指だけを俺の目の前に差し出した。
「知香ちゃんから身を引く。約束する」
それは。指切りの、仕草。片桐の……魂をかけた、誓い。
俺は差し出された小指を一瞥し、あえて芝居がかった不満げな表情を作ってみせた。
「ヤロウと指切りする趣味はねぇよ」
吐き捨てるようにそう呟いて、拳を小さく握り締める。その拳を小指だけが差し出された片桐の拳の横に差し出して、ヘーゼル色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……」
「………」
俺の意図を察したのか。ふっと。片桐が口角を上げた。
「……俺、お前のこと。やっぱ嫌いだ」
片桐はそう口にして、小指だけが差し出された拳をするりと引っ込めた。そうして俺と同じように、小さく拳を握っていく。
そうして。お互いにふっと口の端をつり上げながら、コツン、と。拳を合わせた。
コンコン、と。病室の扉がノックされる。その音に、俺は何も言わずに椅子から立ち上がった。
今日は面会謝絶が解けた初日。面会希望者は山ほどいるだろう。そろそろ行かなければ。
「……また、来る。今度は知香を連れて」
俺の声に、片桐が小さく吐息を漏らして笑った。俺は片桐の返答を待たず踵を返して、ゆっくりと扉に手をかけていく。
扉を開けると、ひとりの男性が立っていた。その男性と視線が絡み合い、お互いに小さく頭を下げる。そうして俺はゆっくりと病室から廊下へ足を踏み出した。
「あ、大迫係長~。お久しぶりです」
病室の中から、へにゃりとした片桐のいつもの声が聞こえてくる。その言葉から察するに、きっと、さっきの男性は極東商社の人間なのだろう。
(…………知香も、早く連れてきてやりてぇな…)
今日は、知香の集大成を見せる日だ。知香は今、この時間。高難度の国家資格に挑戦している。
テレビでも大々的に報道される事件の当事者となって、俺と同じく参考人としての警察の事情聴取もあり気もそぞろかと思いきや、先ほど片桐に話したようにたくさんの人間の想いを背負っているんだ、と、鬼気迫る勢いで数日前から最後の追い込みをしていた。
病院の出入り口をくぐり抜けて、金木犀の香りがする石畳の上を歩いていく。
(明日……連れてこよう)
今日は試験が終わる頃に面会時間が終了する。現実的なのは明日だろう。知香も一刻も早く片桐にお礼が言いたいと言っていたから。
(あ……そうだ、面会出来たって連絡しねぇと)
チノパンからスマホを取り出しながら、そっとメール画面を起動する。
秋風が金木犀の木々を揺らしていく音を聞きながら。
片桐に面会が叶った旨を打ち込んで、ゆっくりと……画面に表示されている、メールの送信ボタンをタップした。
(……)
ふぅ、と。長く長く息を吐きつつ、銀の光を放つ取っ手を掴み、ゆっくりと引き戸を開いていく。
戸が開かれると、ふわりと風が吹き抜けた。金木犀のなんともいえない甘い香りを乗せた風が、俺の髪を揺らしていく。
病室の中に視線を向けると、窓が大きく開け放たれて、備え付けの白いカーテンが揺らめいている。個室となっているベッドの上。上半身を起こした状態で、病室の入り口に佇む俺に、真っ直ぐに視線を向けている―――ヘーゼル色の、瞳。
「………やぁ、智くん。そろそろかなって思ってたよ」
へにゃり、と。俺の眼前には、いつもの飄々とした笑みを浮かべた、片桐がいた。
あの日、多量の血液を失い文字通り蒼白だったその顔は血色が戻っており、順調に回復しているのだ、と、言外に教えられるようだった。
「……本来なら、知香も連れてくるつもりだった。が、生憎今日が試験日でな」
開け放った扉をゆっくりと閉め、病室内に足を進める。そうして、ベッドのわきに置いてある丸椅子にそっと腰をおろしていく。
俺の言葉に、片桐はくすりと声をあげて笑いながら。いつものように、こてんと首を傾げた。
「うん、知ってる。だから、面会謝絶が解けた今日、お前がこの時間帯にひとりで会いに来るだろうってことも、なんとなくわかってたよ」
「……そうか」
風が吹き込む度に、ムギと同じ、片桐の明るい髪が揺れていく。それを視界の端で捉え、俺は笑顔のままの片桐の顔を真っ直ぐに見つめた。
「まずは、三井商社の邨上として。ご回復されているようで、何よりでした。弊社の元社員が、あなたに危害を加えたことを心からお詫びします」
その言葉を口にして、俺は椅子に座ったまま片桐に向けて深々と頭を下げた。その動作で、自分の髪がふわりと揺れ動くのを感じる。
「……俺は、智くんが謝ることじゃないと思ってるよ?お前がかっとなって黒川の恨みを買ったのが原因と思ってるんだろうけど、俺自身も黒川の恨みを買ったからね~ぇ?」
くすり、と。片桐が小さく笑った。紡ぎ出された後半の一言で、俺の正しかった推測に新たな証左が加わっていく。
ゆっくりと、下げていた頭を上げた。ヘーゼル色の瞳と視線がかち合う。覚悟を決めるかのように小さく息を飲み、ふたたび一気に言葉を吐き出した。
「ここからは。ただの、男として。毒を喰らわば皿までの精神を貫き、俺の大切な女性を護ってくれたこと。心から感謝している」
もう―――否定はさせない。そんな思いで、片桐の微笑を見つめたまま言葉を続けていく。
「……今回の、件。あの時の俺の独り言は、正しかったんだな」
納涼会の2週間前。片桐との商談の終わり際に、俺が独り言として呟いたあの推測。あれは正しかった。
「うん。お前の推測は正しかった。だけど、俺は俺のために情報を隠した」
さらり、と。片桐は、何でもない風に声を発した。
あの不正事件を暴くに至ったのは、片桐の証拠がきっかけだった。
黒川は、片桐を知香の恋人だと誤認していた。
俺を逆恨みしていた黒川が―――片桐を逆恨みしないはずがない。
あの日駆け付けた警察にひとまず銃刀法違反で現行犯逮捕された黒川は、「解雇された直後に片桐に接触し、恨みをのべつまくなしに喋った際に煽られ復讐を決意した」……と。今回の事件の動機をそう供述している、ということを、俺も参考人として受けた警察の事情聴取の際に聞いた。
片桐のこれまでの不可解な行動。それらの全てが、ここに繋がっていた。
俺が辻褄合わせに苦労していた、俺の誕生日の翌日の出来事。知香にエレベーター内で強引に迫った動機については、俺の推測でしかないが……きっと、知香の身の回りに警戒させるように、知香本人にも俺にも伝えたかったのではないか、と。俺はそう解釈した。
この解釈が間違っていようが間違っていまいが。片桐が生命をかけて知香を護ろうとした事実は、決して消えない。
ゆっくりと、自分のチノパンのポケットから。あの時、あの階段で手にしたロケットペンダントを片桐の前に差し出した。
「……あの場所で、これを拾った。これを拾ったからこそ、お前が生命と引き換えに知香を護りに行ったと確信を持った」
「………」
片桐が俺から視線を外し、俺の手のひらの上に乗せられたブロンズの光をじっと見つめている。
しばらくの間。ただただ、沈黙が続いた。
そうして、ゆっくりと……片桐が手を伸ばして、俺の手の中にあった鈍い光が、その伸ばされた手に移っていく。
「……もう死ぬなぁと思った時。Margaretの声がしたんだ。なるほどねぇ……」
片桐は俺から受け取ったロケットペンダントのチェーンを指先で摘んで広げて、納得したように小さく頷いた。
「10年近く身につけていて、チェーンが切れるなんて一度も無かったのに。Margaretが俺の尻を叩いてくれたんだろうねぇ……助けに行け、もう二度と間違えるな、って」
片桐はそう言葉を紡いで、くすくす、と微笑みながら。手に持ったロケットペンダントをベッドサイドの小さなテーブルに、コトリ、と小さな音をさせながら置いていく。
「……俺らは、お前の意識が戻るまで。下でずっと待っていた。知香は夜通し泣き続けていた」
片桐の意識が戻ったのは、事件が起きた翌日の早朝。それまでずっと、俺たちは片桐が運び込まれたこの病院で、待っていた。
知香は俺の胸の中で泣き続けていた。「私のせいで」と、譫言のように繰り返しながら。俺は、ただただ。自分の無力さを噛み締めながら、知香のそばに寄り添うことしかできなかった。
「……知香ちゃんには、本当に心配をかけたと思っているよ。その後は?あんな凄惨な場面を見たんだ。夢にみたり、トラウマになってる様子はない?」
「………」
片桐は、知香のことをしきりに心配する言葉を紡いでいく。真っ直ぐに俺を貫くヘーゼル色の瞳には。もう一点の曇りも、隠し事のようなものも、見当たらない。
ただただ、あの事件に関わった人間を案ずるひとりの人間として……そこにいた。
「とりあえずは、大丈夫そうだ。…………実は今日な、面白いこと言って家を出たんだ」
俺の言葉に、片桐がきょとんとした表情をしていく。その表情に、俺も内心で驚いた。
感情を読ませないための仮面が剥がれた片桐は―――こんなにも表情豊かで、人間味溢れる男だったのか。
(……まぁ、性根がこうでなければ、自分を犠牲にする、なんていう選択肢は出てこねぇよなぁ…)
心の中で苦笑したように独りごちながら。宝石のように澄んだ片桐の瞳を見つめ、ゆっくりと口の端をつり上げた。
「『片桐さんに助けて貰ったんだから、絶対受からないと』って、真顔で言ってたぞ」
俺の一言に、片桐は一瞬、虚を突かれたような表情をした。そうして、やられた、とでもいうように。額に手を当てて、顔を伏せていく。
「………ほんっとに…知香ちゃんらしいや」
片桐は震えるような声で小さく呟いて、ゆっくりと顔をあげた。そのヘーゼル色の瞳は、僅かに湿っているように思えた。
「……俺はもう犯罪者だから。今度こそ本当に、知香ちゃんから身を引くよ」
犯罪者。その言葉に思わず、苦虫を噛み潰したような顔になったのが自分でもわかった。
片桐が知香に襲いかかる黒川を止めるために起こした『肩を無理矢理外す』という行動。あれは擬律判断としては正当防衛にはならなかった。
片桐自身も鈍器で殴られ刃物で刺されていたとはいえ、意図して反撃に近い行動をした。それにより片桐のあの行動は『他人の身体を害する傷害行為』となり、また、それの被害者である黒川自身が被害届を提出していることから、片桐は傷害の疑いで在宅捜査を受けることとなった。
意識が戻った翌日から片桐本人の体調を鑑みての警察の事情聴取が優先され、それ故に昨日まで面会謝絶となっていたのだ。毎日毎日仕事帰りにこの病院に立ち寄り、面会謝絶が解けるのを今か今かと知香とともに待ち侘びて―――ようやく、今日。通関士の試験日である、今日。面会が、叶ったのだった。
苦々しく過ごした日々を思い出していると、するり、と。片桐は緩く握った拳の小指だけを俺の目の前に差し出した。
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それは。指切りの、仕草。片桐の……魂をかけた、誓い。
俺は差し出された小指を一瞥し、あえて芝居がかった不満げな表情を作ってみせた。
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吐き捨てるようにそう呟いて、拳を小さく握り締める。その拳を小指だけが差し出された片桐の拳の横に差し出して、ヘーゼル色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……」
「………」
俺の意図を察したのか。ふっと。片桐が口角を上げた。
「……俺、お前のこと。やっぱ嫌いだ」
片桐はそう口にして、小指だけが差し出された拳をするりと引っ込めた。そうして俺と同じように、小さく拳を握っていく。
そうして。お互いにふっと口の端をつり上げながら、コツン、と。拳を合わせた。
コンコン、と。病室の扉がノックされる。その音に、俺は何も言わずに椅子から立ち上がった。
今日は面会謝絶が解けた初日。面会希望者は山ほどいるだろう。そろそろ行かなければ。
「……また、来る。今度は知香を連れて」
俺の声に、片桐が小さく吐息を漏らして笑った。俺は片桐の返答を待たず踵を返して、ゆっくりと扉に手をかけていく。
扉を開けると、ひとりの男性が立っていた。その男性と視線が絡み合い、お互いに小さく頭を下げる。そうして俺はゆっくりと病室から廊下へ足を踏み出した。
「あ、大迫係長~。お久しぶりです」
病室の中から、へにゃりとした片桐のいつもの声が聞こえてくる。その言葉から察するに、きっと、さっきの男性は極東商社の人間なのだろう。
(…………知香も、早く連れてきてやりてぇな…)
今日は、知香の集大成を見せる日だ。知香は今、この時間。高難度の国家資格に挑戦している。
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病院の出入り口をくぐり抜けて、金木犀の香りがする石畳の上を歩いていく。
(明日……連れてこよう)
今日は試験が終わる頃に面会時間が終了する。現実的なのは明日だろう。知香も一刻も早く片桐にお礼が言いたいと言っていたから。
(あ……そうだ、面会出来たって連絡しねぇと)
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