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第1話 入部
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四月の空は、どこまでも薄くて青かった。
桜はもうほとんど散っていて、グラウンドの隅にある桜の木の下だけ、うっすらと花びらのじゅうたんが残っていた。新入生の私は、その桜の木の前で立ち止まった。どこのクラブに入るか、まだ決めていなかった。
陸上部のビラ、吹奏楽部のビラ、茶道部のビラ。両手がいっぱいになるほど受け取っていたのに、どれもどこかしっくりこなかった。強くなりたいとか、うまくなりたいとか、そういう気持ちが湧いてこなかった。
ただ、何かを作りたい、という気持ちだけがあった。
美術部の部室は、旧校舎の二階にあった。新校舎の明るい廊下とは違って、古い木の床が軋む、薄暗い通路を歩いていくと、突き当たりに「美術準備室」と書かれた札が貼られたドアがあった。
ノックしようとして、躊躇した。
中から、微かに鉛筆の音がした。さらさらと、規則正しく。
私はそっとドアを開けた。
部屋の中には一人だけいた。窓際の一番奥、イーゼルの前に座って、スケッチブックに向かっている男子だった。制服の袖をまくり上げて、右手に鉛筆を持ち、左肘を膝の上に置いている。横顔しか見えなかったけれど、なんとなく静かな人だと思った。
「あの」と声をかけようとして、言葉が出なかった。
なぜかはわからない。ただ、その人の鉛筆の音が、空気に溶けていくみたいで、邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
私は入口の近くに立ったまま、しばらくそこにいた。部屋には西向きの窓があって、午後の光が斜めに差し込んでいた。古い木の棚には、スケッチブックや絵の具のチューブが雑然と積まれていて、乾いた筆の束が缶の中に突き刺さっていた。油絵の具と、木材のにおいがした。
その人は振り向かなかった。ただ、鉛筆の動きが少しだけ止まって、またさらさらと続いた。
「美術部、入りたいの?」
低い、穏やかな声だった。
私は驚いて「はい」と返した。声が裏返った気がした。
「じゃあ、そこ座ってて」
イーゼルの前から離れることなく、その人はそう言った。こちらを見もしなかった。それが冷たいとは思わなかった。むしろ、なぜかほっとした。緊張して何か言わなければという焦りが、ふっと消えた。
私は窓から二番目の椅子に座った。テーブルの上には、誰かが途中で置いていったらしいデッサン用の木炭が、折れたまま転がっていた。
しばらく、鉛筆の音だけが続いた。
「一年生?」
「はい」
「名前は」
「橘 灯(たちばな あかり)です」
その人はそこで初めて顔を上げた。私のほうを見た。眼鏡をかけていた。フレームが細くて、光の加減で瞳の色がよく見えなかった。
「西條 瑛(さいじょう えい)。三年。一応、部長」
「…………よろしくお願いします」
「うん」
それだけだった。西條先輩はまたスケッチブックに目を落として、鉛筆を動かし始めた。
私はその部屋で、一時間近く座っていた。何をするでもなく、ただそこにいた。先輩は一度も手を止めなかった。窓の外で風が吹いて、桜の花びらが一枚、ガラスに張りついた。
帰るとき、「また来ます」と言ったら、先輩は「うん」とだけ答えた。
翌日も、私はあの部屋に行った。今度はスケッチブックを持って。
桜はもうほとんど散っていて、グラウンドの隅にある桜の木の下だけ、うっすらと花びらのじゅうたんが残っていた。新入生の私は、その桜の木の前で立ち止まった。どこのクラブに入るか、まだ決めていなかった。
陸上部のビラ、吹奏楽部のビラ、茶道部のビラ。両手がいっぱいになるほど受け取っていたのに、どれもどこかしっくりこなかった。強くなりたいとか、うまくなりたいとか、そういう気持ちが湧いてこなかった。
ただ、何かを作りたい、という気持ちだけがあった。
美術部の部室は、旧校舎の二階にあった。新校舎の明るい廊下とは違って、古い木の床が軋む、薄暗い通路を歩いていくと、突き当たりに「美術準備室」と書かれた札が貼られたドアがあった。
ノックしようとして、躊躇した。
中から、微かに鉛筆の音がした。さらさらと、規則正しく。
私はそっとドアを開けた。
部屋の中には一人だけいた。窓際の一番奥、イーゼルの前に座って、スケッチブックに向かっている男子だった。制服の袖をまくり上げて、右手に鉛筆を持ち、左肘を膝の上に置いている。横顔しか見えなかったけれど、なんとなく静かな人だと思った。
「あの」と声をかけようとして、言葉が出なかった。
なぜかはわからない。ただ、その人の鉛筆の音が、空気に溶けていくみたいで、邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
私は入口の近くに立ったまま、しばらくそこにいた。部屋には西向きの窓があって、午後の光が斜めに差し込んでいた。古い木の棚には、スケッチブックや絵の具のチューブが雑然と積まれていて、乾いた筆の束が缶の中に突き刺さっていた。油絵の具と、木材のにおいがした。
その人は振り向かなかった。ただ、鉛筆の動きが少しだけ止まって、またさらさらと続いた。
「美術部、入りたいの?」
低い、穏やかな声だった。
私は驚いて「はい」と返した。声が裏返った気がした。
「じゃあ、そこ座ってて」
イーゼルの前から離れることなく、その人はそう言った。こちらを見もしなかった。それが冷たいとは思わなかった。むしろ、なぜかほっとした。緊張して何か言わなければという焦りが、ふっと消えた。
私は窓から二番目の椅子に座った。テーブルの上には、誰かが途中で置いていったらしいデッサン用の木炭が、折れたまま転がっていた。
しばらく、鉛筆の音だけが続いた。
「一年生?」
「はい」
「名前は」
「橘 灯(たちばな あかり)です」
その人はそこで初めて顔を上げた。私のほうを見た。眼鏡をかけていた。フレームが細くて、光の加減で瞳の色がよく見えなかった。
「西條 瑛(さいじょう えい)。三年。一応、部長」
「…………よろしくお願いします」
「うん」
それだけだった。西條先輩はまたスケッチブックに目を落として、鉛筆を動かし始めた。
私はその部屋で、一時間近く座っていた。何をするでもなく、ただそこにいた。先輩は一度も手を止めなかった。窓の外で風が吹いて、桜の花びらが一枚、ガラスに張りついた。
帰るとき、「また来ます」と言ったら、先輩は「うん」とだけ答えた。
翌日も、私はあの部屋に行った。今度はスケッチブックを持って。
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