君の色で塗りつぶして

月夜

文字の大きさ
2 / 5

第2話 隣の席

しおりを挟む
美術部の正式な活動日は火曜と木曜の放課後だったが、西條先輩はほぼ毎日準備室にいた。一年生の私が毎日のように顔を出すようになったのは、それを知ってからではなく、ただその部屋の空気が好きだったからだ。静かで、木と絵の具のにおいがして、外の騒がしさがどこか遠くなる気がした。

 入部して一週間が経った頃、他の部員に会った。

 二年生の女子が三人と、一年生の男子が二人。みんな気さくで、すぐに打ち解けた。二年の先輩たちは「瑛くん怖くなかった?」と笑いながら聞いてきた。

「怖くはなかったです。ただ、ちょっと……静かで」

「そうそう、あの人しゃべらないよね。でも怒ってるわけじゃないんだよ」

「わかります、なんか」

 二年の先輩が「あれで実は気にかけてるんだよ」と教えてくれた。「あなたが毎日来てるの、ちゃんと気づいてるよ。昨日あたし来たとき、橘ちゃんまだ来てないって珍しそうにしてたもん」

 それを聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。

 その日の放課後、準備室に行くと先輩は珍しく二冊のスケッチブックを広げていた。一冊は自分のもので、もう一冊は新品だった。

「はい」

 差し出された新品のスケッチブックを、私は受け取った。

「部費で買ったやつ。新入部員分」

「ありがとうございます」

 先輩は頷いて、また自分の絵に戻った。私はそのスケッチブックを膝の上に置いて、表紙をしばらく眺めた。白くて、まだ何も描かれていなかった。

「何描けばいいですか」

 思い切って聞くと、先輩は少し考えてから言った。

「好きなもの」

「好きなもの」

「そう。技術は後でいい。最初は、何が好きかを知るほうが大事」

 私はその言葉が気に入った。技術より先に、好きなものを知る。そういうことを言う人だとは思っていなかった。もっと寡黙で、絵だけに向き合っているような人だと思っていたから。

「先輩は、何が好きですか」

 聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも先輩は嫌そうにしなかった。少し間を置いてから、窓の外を見た。

「光の変わり方」

「光の?」

「同じ場所でも、朝と昼と夕方で全部違う。人間も、光の当たり方で全然違う顔になる。それを紙に閉じ込めたい」

 私は先輩の横顔を見た。窓からの光が、眼鏡のレンズにぼんやりと反射していた。

「じゃあ、今の私も違う顔ですか」

 先輩はこちらを向いた。短い間、私の顔を見た。眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ていた。

「……うん、ちょっと違う」

 それだけ言って、また手を動かし始めた。

 私はスケッチブックを開いた。一ページ目の白さが眩しかった。何を描こうかと思って、ふと先輩の横顔を見た。鉛筆を動かす手を、細い指を、窓の光の中にいるその人を。

 描きたい、と思った。でもまだ、それを描く勇気はなかった。

 私は窓の外の銀杏の木を描いた。まだ青くて、葉がたくさんついていた。下手な絵だったけれど、描き終わったとき、先輩が覗き込んできた。

「悪くない」

 それだけだった。でも私は、その一言がとても嬉しかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

処理中です...