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第3話 梅雨の午後
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六月になると、準備室は少し湿った空気になった。梅雨の雨が窓を叩く日、傘を干しながら先輩の隣の椅子に座ると、何だか二人だけの秘密基地みたいだと思った。
その日は他の部員が来ていなかった。先輩と私だけで、雨音の中にいた。
先輩は油絵に取り組んでいた。最近はキャンバスに向かう日が増えていた。十号のキャンバスに、まだ輪郭しか描かれていない何かがあった。
「何、描いてるんですか」
「川」
「川?」
「この近くの。小学校のとき、よく行ってた」
先輩が地元の川を描いているとは知らなかった。私も同じ市内出身だったから、たぶん知っている川だと思った。
「あの、葦原がある川ですか」
「そう」
「私も行ったことあります。夏に蛍が出るやつ」
先輩は少し驚いたように、こちらを見た。
「知ってるの」
「はい。小学生のとき、親に連れてってもらって」
先輩は少しの間、筆を止めた。
「俺も小学生のとき、よく一人で行ってた。あそこ、空気が違うから」
「違いますよね。なんか、時間の流れが遅い感じがする」
「そう」と先輩は言って、また筆を動かし始めた。「そういうとこ、描きたい」
時間の流れが遅い場所を、絵に描く。私はその言葉を噛み締めた。先輩の描こうとしているものが、少しだけ見えた気がした。
雨がまた強くなった。
「灯さんは、何描いてるの最近」
先輩が先に名前を呼んだのは初めてだった。苗字じゃなくて、下の名前で。私は少し動揺しながら、スケッチブックを差し出した。
そこには最近描いていたものが並んでいた。学校の廊下、窓の外の木、図書室の棚。どれも人のいない風景ばかりだった。
「人、描かないね」
「苦手で」
「なんで」
「なんか……ちゃんと見ないといけない気がして。人を描くときって、その人の全部を見るみたいで」
先輩はじっとスケッチブックを見ていた。
「それはいいことだよ」
「え」
「人を描くのが怖いってことは、ちゃんと人を見てる証拠だから。いい加減に描ける人は、最初からちゃんと見てない」
私はその言葉を、頭の中でゆっくり繰り返した。
「じゃあ、先輩は人を描けますか」
「描けるけど、好きじゃない」
「なんで」
「全部見えた気になってしまうから」
先輩は少し苦そうに笑った。その笑い方を、私は初めて見た。
雨はずっと降り続けていた。窓の外で、雨に濡れた葉が揺れていた。私たちは並んで、それぞれの作業を続けた。
その日の帰り際、先輩が「傘、ある?」と聞いてきた。
「あります」
「じゃあ、気をつけて」
それだけだったけれど、私は家に帰ってから、その一言をずっと考えた。気をつけて。ただの言葉なのに、先輩の口から出ると重みが違う気がした。そういう言葉をたくさん持っているのが、先輩という人だと思った。
その日は他の部員が来ていなかった。先輩と私だけで、雨音の中にいた。
先輩は油絵に取り組んでいた。最近はキャンバスに向かう日が増えていた。十号のキャンバスに、まだ輪郭しか描かれていない何かがあった。
「何、描いてるんですか」
「川」
「川?」
「この近くの。小学校のとき、よく行ってた」
先輩が地元の川を描いているとは知らなかった。私も同じ市内出身だったから、たぶん知っている川だと思った。
「あの、葦原がある川ですか」
「そう」
「私も行ったことあります。夏に蛍が出るやつ」
先輩は少し驚いたように、こちらを見た。
「知ってるの」
「はい。小学生のとき、親に連れてってもらって」
先輩は少しの間、筆を止めた。
「俺も小学生のとき、よく一人で行ってた。あそこ、空気が違うから」
「違いますよね。なんか、時間の流れが遅い感じがする」
「そう」と先輩は言って、また筆を動かし始めた。「そういうとこ、描きたい」
時間の流れが遅い場所を、絵に描く。私はその言葉を噛み締めた。先輩の描こうとしているものが、少しだけ見えた気がした。
雨がまた強くなった。
「灯さんは、何描いてるの最近」
先輩が先に名前を呼んだのは初めてだった。苗字じゃなくて、下の名前で。私は少し動揺しながら、スケッチブックを差し出した。
そこには最近描いていたものが並んでいた。学校の廊下、窓の外の木、図書室の棚。どれも人のいない風景ばかりだった。
「人、描かないね」
「苦手で」
「なんで」
「なんか……ちゃんと見ないといけない気がして。人を描くときって、その人の全部を見るみたいで」
先輩はじっとスケッチブックを見ていた。
「それはいいことだよ」
「え」
「人を描くのが怖いってことは、ちゃんと人を見てる証拠だから。いい加減に描ける人は、最初からちゃんと見てない」
私はその言葉を、頭の中でゆっくり繰り返した。
「じゃあ、先輩は人を描けますか」
「描けるけど、好きじゃない」
「なんで」
「全部見えた気になってしまうから」
先輩は少し苦そうに笑った。その笑い方を、私は初めて見た。
雨はずっと降り続けていた。窓の外で、雨に濡れた葉が揺れていた。私たちは並んで、それぞれの作業を続けた。
その日の帰り際、先輩が「傘、ある?」と聞いてきた。
「あります」
「じゃあ、気をつけて」
それだけだったけれど、私は家に帰ってから、その一言をずっと考えた。気をつけて。ただの言葉なのに、先輩の口から出ると重みが違う気がした。そういう言葉をたくさん持っているのが、先輩という人だと思った。
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