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「おっ、おれっ!」

「……」

「榊くんのこと、す、……すき、かも」

「…………ふうん」


ふうん。――ふうんってなんだ!?

それは、知ってたよのふうん?

 ……それとも、どうでもいいのふうん、なのかな。



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榊 礼二さかき れいじ、H大学の20歳です。今日からよろしくお願いします」

 修行先のアルバイトとして雇われた彼を初めて見たとき、おれは真剣に「エグい色気の王子様が来た」と思った。

 一度も染めたことがなさそうな濃い黒髪を緩くウェーブさせ、サイドをいやらしくない程度に刈り込んだ髪型は、ワイルドだけど清潔感がある。
 彫りが深く整った眉毛は雄々しく、スッと通った高い鼻は小さすぎず大きすぎず、意外と小作りだ。
 鋭い切れ長の奥二重の瞳と大きめな口は、チーターとかそのあたりのシャープな肉食獣を思わせる。キスをしたら、噛みつくように貪られそうだ。

 さらに、注目すべきはその恵まれた体格だ。180……いや、多分もっと高い。服の上からでもわかる張りのある筋肉は、主張しすぎず、でも確かな存在感がある。
 とくに大胸筋が程よく前に張り出していて、抱きしめられたらと考えるとたまらない気分になる。腹筋も大腿筋も引き締まっている。見えないが背中やお尻の筋肉だってすさまじく美しいのだろう。
 極めつけにはセクシーすぎる首筋と、前にグッと突き出た喉仏! 正直、自由にしていいって許されたら舐めたいところだ――

「笹目くん、どうしたの?」
「あっすみません! ……えっと、ぼくは笹目 潤ささめ じゅんです。年齢は25歳で、喫茶かをるではバリスタになるための修行を兼ねてキッチンで勤務してます。気楽に接してもらえると嬉しいな」
 マスターの声で現実に引き戻された。危ない危ない……。
 努めて笑顔で「怪しくないよ」というテンションで返したと思うのだが、大丈夫だっただろうか。それもこれも榊くんがあまりにカッコよすぎというか、タイプど真ん中だからだけど。

 いつもはこんなに思考がトリップすることなんてないんだけど、こと恋愛に関してだけは思考回路をフル回転させてしまうのが、おれの悪い癖だ。しかも、ややエロい方向に走ることが多い。
 ほら今だって、榊くんの喉仏の動きから目が離せない。ああ、舌で転がすようにしゃぶりながら、愛撫したい。そしたら低く甘い声で「おかえしだ」だなんて言って、おれの大した主張のない喉元に噛みついてくるんだ。ちょっと怖いけど、彼の薄めの唇は存外柔らかくて、そんなところもぞくぞくしちゃって、そうなったらもう、彼のすることならなんでも許しちゃいそう―― ああだめだ。仕事、仕事。

「……よろしくお願いします。じゃあ、潤さんって呼んでもいいですか」
「もッ、もちろん!」
 榊くんはおれが何を考えているのかも知らず、唇を少しゆがめたようにして笑った。ぎこちない笑顔、それがまた彼の色気を助長している。
 マスターは挨拶が終わったタイミングで事務所のほうへ榊くんを案内した。
 まさかの潤さん呼び! 榊くん、……れ、礼二…… ああ、名前で呼ぶなんて恐れ多い、榊くんは名前もカッコいい。あんな素敵な男に下の名前を呼ばれるなんて許されるのか。今年の運勢今日で使い果たしたかな、おれ。

 おれはゲイを自覚してからはや10年、2人の恋人に恵まれた。まあ普通の恋愛遍歴だと自負している。
 対して、榊くんの恋愛経験は、なんだかすごそうだ。付き合った人の人数だって2人どころか、10人、20人はザラだろう。彼になら身体だけでもと縋る人がいてもおかしくない。榊くんのためなら破滅してもいい、そんな気持ちにさせる蠱惑的な色気と美貌なのだ。

 正直に言おう、恋愛という意味でもファンという意味でも、おれは榊くん一目惚れしてしまった。
 だけど、彼はおれのような平凡なヤローにはみじんも興味なんてないだろう。だって、ほっといても美男美女が彼を求めてくるだろうから。おれがそんな人たちに太刀打ちできるわけがない。出会って即・失恋かぁ…… 運がいいんだか、悪いんだか。

 ファンとして応援だけはさせてもらおう、それくらいは許されるんじゃないかな。
 成就しない相手に恋したままの気持ちと、推しと働ける喜び。
 胸がぎゅっと苦しくなって、思わず天井を仰ぐ。相変わらずぼろい天井。
 ウサギみたいなシルエットのシミがこちらをじっと見ているような気がした。
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