短編小説集「春を待たずに」

片山行茂

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短編小説集「春を待たずに」片山行茂

【湯けむりの向こうから】

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「夢の湯」は、この地に開業して70年の老舗銭湯。
下町の伝統を受け継ぎながら、子供からお年寄まで、数多くの人達の成長と暮らしを見守って来た。
そして今、こうして番台に座っている私は、矢島妙子25歳。

この銭湯の3代目矢島晋平の娘です。

独身で年頃の娘が銭湯の番台に座ってるなんて、お客さんもかなり抵抗あるんじゃないかって思うんだけど・・・割とそうでも無いみたい。

まぁ、年寄りばっかで、若い人なんていないしね。
子どもの頃から、私もよくここで多くの常連さんに面倒見て貰ったから、私の事を皆んな子供や孫みたいに思ってくれている。

そんな感じで、長年地域の皆さんに愛された「夢の湯」なのです。
だけど、これから先はどうだろう。
もう銭湯なんて流行んないでしょう?
1年前、駅前にメガパチンコ店と併設して温泉テーマパーク「四季彩の湯」がオープンしてから、実際に若い客がほぼそっちに流れたみたいだし。
10年前と比べると町のあちこちにあった銭湯も、もう半分以上が潰れちゃったもんね。
私も後継ぐつもりなんてまるで無いし・・・
そろそろ此処も潮時かなぁ。

「よぉ、妙ちゃん、コーヒー牛乳貰うよ」
そう声を掛けて来たのは近所に住む常連客の大吾郎さん。
「はい、どうも」
私は130円を受け取りレジに仕舞った。
「妙ちゃん、そういえば右側の泡風呂の気流が虫の息だから、ちょっと見てもらった方がいいよ」
「あ、本当ですか、それはすみません。後から父と一緒に確認しておきます」
「あぁ、頼んだよ。この"夢の湯"もワシと同じで年季が入っとるから、あちこちとガタがくるわなぁ」
「えぇ、まぁ・・・いや・・・はい」
「ところで、哲ちゃんが死んで何年になる?」
哲ちゃんとは、私のお爺ちゃん"矢島哲平"の事だ。

「あぁ、もうすぐ4年ですね」
「そうかぁ・・・哲ちゃんは、高等学校の2年先輩でなぁ、それはそれは粋でなぁ、すらっとした男前だったんだよ」

この話は、大吾郎さんから何度も聞いている。
でも私、お爺ちゃんには大変だったという記憶しかない。

80歳近くから急にボケだして、家族に変な事ばっかり言うし、死んだお婆ちゃんに会いに行くって聞かなくて、何度も営業中の大浴槽に飛び込んだり、女風呂から突然現れて大騒ぎになったり、そりゃもう本当に大変だったのよ。
だから粋で男前だったと言われても、まったく想像も出来ない。

「ところで、妙ちゃんはイイ男は、いないのかい?そろそろ結婚とか?」

「え?」
・・・ほら来た。

イイ男がいないから、ボサっとこんな所に座ってるんでしょ・・・
という言葉をぐっと飲み込んで。

「はい、残念ながら・・・会社も辞めちゃったし、出会いも無いんですよ・・・」
「あら、そうかい・・・勿体ない・・・」
そう言い残して大吾郎さんは背を向けた。

はぁ??勿体ない??
それ、どう言う意味?仕事?それとも私?

ここだけの話ね、彼氏というか・・・好きな男はいたのよ。

会社の上司でね。
不倫ってやつ、相手には奥さんも子供もいて・・・
あ、この話はつまんないから、もういいや。

まぁ何にしても意気消沈で、なす術もなくこの場所に座っている訳なの。
もう当分、男はいらない・・・
と言いながらも来週末には友達が企画した合コンの数合わせに無理矢理入れられてるんだけどね。

22時30分の閉店作業に併せて、父の晋平がボイラー室の扉から脱衣場に出て来た。

「あ、お父さん、お疲れさま。大吾郎さんが言ってたんだけどね、またジェットバスの調子が良くないみたい、後で一緒に見てくれない?」
「そうかぁ、またかい。こないだ点検したばっかりなのに、仕方ねぇなぁ・・・」

そう言うと肩を落として入り口の方へ出て行った。
父の背中が侘しい。

銭湯経営は、毎日の燃料費と修繕費が高くて、とにかく大変だと母から聞いた事がある。
その上、銭湯業界には色々な規定があって地域で入浴料の上限が定められている。
現在の入浴料は大人480円。
これで行くと1日平均120人の来客がペイラインらしいけど、夢の湯はだいたい80人前後といった感じ。
大吾郎さんや常連の皆さんには申し訳ないけど、それを考えるともう長くは続けられそうにないんだよね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「どうだ妙子?」
ボイラー室でモーターの調整を済ませ、父が風呂場へと戻って来た。
「うん!左側と比べるとかなり弱いけど・・・さっきより全然マシだよ」
「そうかぁ、オイル挿してモーターは回復したけど、いよいよ限界だなぁ」
「このジェットバス、もう随分古いもんね?」
「・・・そうだな、お前と同い年だ」
「あぁ、そりゃ随分だね・・・」
「うははっ」
父は声を上げて笑った。
「えぇ?なによ!ちょっと腹立つなぁ」
はははと笑いながら父は溜め息混じりに言う
「ジェットバスは25年だが、もう夢の湯自身は70年だからなぁ・・・」
「ひぃお爺ちゃんの代からだもんね」
「あぁ、親子3代よく頑張った」
父も自分の代で終わるつもりでいるようだ。
「そう言えば、今日また大吾郎さんがお爺ちゃんの事を話してたよ」
「そうか、何て?」
「なんか昔はすらっとして粋な男前だったとか」
「へぇ、まぁそうかもな」
「あ。そう言えば、お婆ちゃんはどんな人だったの?」
「そうか、妙子は知らなかったかな?」
「うん、何が?」
「お前のお婆ちゃんはな、俺が生まれて直ぐに死んじまったんだよ」
「え?!そうだったの??」
「まぁ、お爺ちゃんはよく母親の事を話してくれたけど・・・アルバムに写真が何枚かあるくらいで、俺は何にも覚えちゃいねぇなぁ」
「そうなんだ・・・」
父は、ぼんやりと壁の富士山を眺めている。
「逢いたい?」
「はぁ??何、気持ち悪い事言ってんだよ。」
「いや、お爺ちゃんがよくここで会いに行くって騒いでたなぁって・・・」
「あぁ・・・あれは、酷かったなぁ」
「う、う・・・ん」
「さぁ、母ちゃんも家で待ってるし、そろそろ閉めるぞ」
そういって立ち上がる父。
「あ、そうだね」
後に続こうとした私は、濡れたタイルでうっかり足を滑らせた。
「きゃっ!!!」
よろよろとバランスを崩した私は、一番大きく深い大浴槽に背中からダイブしてしまう。
「おぉ、妙子っ!!」
ざっぱーん!!
カナヅチの私は、ゴボッゴボッとお湯を飲み込んだ後に、必死でもがいて水面からプハッと顔を出した。
たくさんのお湯を吐き出すように風呂の淵に捕まってむせる。
「もぉ、嫌だ!!ゲホッ、ゲホッ!ホント最悪!!ゲホッ!ゲホッ!」
全身ずぶ濡れになって苦しんでるというのに、側にいる筈の父は何も言わず助けてもくれない。
「もう!お父さん!ちょっと助けてよぉ!」

なんてドジなんだろう。
恥ずかしいし、熱いし苦しいし、気分は最悪。
「ねぇ!ちょっと!」
そこに立ち尽くす父に向かって私は何度も叫ぶ。
しかし同時に、とてつもない違和感を感じた。
「あれ??」
あんぐりと口を開け、デッキブラシを握り私を見つめているその人は・・・

父じゃない??!!

「えっ?!」
「えぇっっ?!!」
私とその人は後退り気味に互いに声をあげた。

「あれ?あれっ??なんで??あれ?お父さんは??」
「いやいやいや!!あんた、誰ですか?」
「はぁ?!私は、ここの銭湯の者です!あなたこそ一体どこの誰ですか?!」
「え・・いや、俺こそ、ここの銭湯の者だよ!」
「なに??えぇ何??ちょっとお父さん!」
2人の叫び声が風呂場全体にこだまする、そうすると入り口からもう1人誰かが入って来た。
「おい!なんだ!哲?何をやいやい言ってやがんだ?」
「あ!お父さん!」
私がそう声を上げるとその人は、きょとんとした顔で私を見た。
いや・・・似てるけど、ちょっと違う?
「お父さん?って、誰?この女?親父知ってるの?」
「いや知らん!知らん!ちょっと、あんた、何してんの?服着たまんまで!しかもこっちは男湯だよ?」
「わかってますよ!」

ん?いや・・・わかってない。

確かに、ここは"夢の湯"だけど、床や天井やタイルも風呂の作りも、私の知ってる"夢の湯"と少し違う。
壁に大きく描かれた富士山のペンキ絵は同じようだけど、どこか違う?
青々として色鮮やかというか・・・

「え?何、これ?どうなってんの?!」
そう叫んで、私は目眩いを覚え、また浴槽のお湯の中へ倒れ込んでしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目を開けると見慣れない部屋で、私は布団の中にいた。
「え?!」
私は驚いて起き上がる。
「あ、気がつきましたか?」
そう私に声を掛けたのは、色白のとても美しい女の人だった。
台所の方から笑顔でゆっくりと近づいてくる。
「はい、これ冷たいお水ですよ」
「あ、有難うございます」
私はその水を一気に飲み干した。
「紹介所から来られたアルバイトの方ですよね?確か、山岡さん?」
「え?・・・え?わたし?あ・・・いや」
そう言って壁に掛けられたカレンダーを見て私は愕然とした。
「しょっ!昭和41年??」
夢か?え!?夢だよね!?そんな漫画みたいな話?!
「どうしました??」
女の人の声も聞こえないフリをして私は、早く目が覚めたい想いで、自分の頬をバシバシと叩く。
すると、さっきの風呂場の2人が、廊下からドカドカと部屋に入って来た。

「お、気がついたんだな?」
「なんだよ、アルバイトさんならそう言ってくれよ。」
「え?いや、あのだから!」
間に入るようにさっきの色白美人が言う。
「私、紹介所に電話して確認しましたから、山岡さんですよね」
あーもうこれは無理だと思った私は「あ、はい・・」と小さく頷く。
これは、悪い夢だ。
もうこうなったら成り行きに任せるしかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、夢は醒めそうにも無かった。
結局私は"住み込みアルバイトの山岡さん"として働き、もう早いもので5日が経った。

一体何が起こっているのかと最初は戸惑ったが、もう受け入れるしかないというか・・・ 3日もすれば慣れちゃうもので、家族の皆さんも優しいし、考えても仕方ないし、まぁいいかと言う結論に到達する。

私のお爺ちゃん"矢島哲平"は28歳。
私の知っているお爺ちゃんとは、まるで別人ですらっとしたイケメン。
確かに、大吾郎さんの言ってた通りだ。

ひぃお爺ちゃんの"矢島平八"は53歳。
私のお父さんを一回り小さくしたような感じで、私は2回「お父さん」とうっかり呼び間違えた。

そして、色白美人の"矢島美津子"さん26歳は、つまり私のお婆ちゃんという事になる。
美津子さんは、私と1歳しか違わないのに、大人っぽくて、とても綺麗で、女子力がとても高い。

ふと、脱衣場の鏡で自分と美津子さんを見比べてみる。
残念ながら、美津子さんのDNAは、私に全く受け継がれていないようだ。

そして今、美津子さんのお腹の中には赤ちゃんがいて・・・
つまり、それが私のお父さん"矢島晋平"って事になるんだろうな?

さて。

昭和41年の「夢の湯」は、驚くほど繁盛していた。
現代の「夢の湯」の3倍以上のお客さんで溢れている。
私は銭湯全体の清掃とボイラーの温度調整が主な仕事。
ここに来て、この仕事は本当に重労働だと思い知る毎日。
いやぁ、本当にしんどい。

「山岡さん、ちょっとだけ薪を積み直したいから重いけれどちょっと手伝って」
「あ、はーい」

鉄平さんは、手際良くきびきびと仕事を熟し、お客さんにもとても愛想がいい。
その上、イケメンだから、女性の常連客の中では、俗に言う"アイドル的存在"だ。

美津子さんは、妊娠している事もあって、ひぃお婆ちゃんに代わって家事をメインとし、銭湯の仕事はあまりしないようにしている。

そんなこんなで、私は現代で銭湯を手伝っていた頃よりも、ここで多くの仕事を覚え効率的に色々と出来るようになった。
家族の皆もよく褒めてくれる。
そうなってくると、これはこれで、やり甲斐も芽生え中々楽しい。

OL時代にお茶汲みと雑用を繰り返し、上司との不埒な関係に溺れ、腐っていたあの日の自分を、心の底から恥じる。

汗水垂らし、銭湯で働く自分が今では少し好きだったりする。

また、この時代にはまだ無い、回数券の起用や、OL時代に培った伝票や帳票整理のアイデアに、皆唸りをあげて喜んでくれる。

居心地の良い職場とは自分で開拓して行くものかもしれない、重労働ではあるけど「夢の湯」の毎日はとても充実していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝風呂が一段落ついて、お昼が過ぎると順番に食事休憩を取る事になっている。
ひぃお婆ちゃんに声を掛けられ、現代と同様に銭湯に隣接した家に戻る。
「美津子さん、お疲れさまですー」
玄関で中に声を掛けるが返事がない。
「あれ?」

何となく胸騒ぎを感じながら部屋に入ると、台所で美津子さんが苦しそうにうずくまっていた。
私は慌ててそこへ駆け寄る。
「美津子さん!どうしました!?大丈夫ですか?!」
「ごめんなさい、ちょっと、耳鳴りと目眩がして・・・」
美津子さんの顔は青褪めて息も荒く、身体全体に痙攣を起こしはじめた。
「大丈夫ですか!?しっかりして!!すぐ誰か助けを呼んで来ます!!」
私は裸足のまま「夢の湯」に駆け戻り、必死に叫んだ!
「鉄平さん、大変です!美津子さんが!美津子さんが!!」
「え?!美津子が?」
突然の出来事に意識が遠くなるくらい、私は動揺していた。
そこからの事は何も覚えていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目が醒めると、私は病室のベッドに横たわっていた。
隣のベッドには美津子さんが眠っている。
私まで気を失っていたみたいだ。

「気がついたかい?」
「鉄平さん、ごめんなさい、私・・・」
「2人とも救急で運んだんだよ、山岡さんも貧血みたいだね、大丈夫?」
鉄平さんの目は真っ赤だった。
「あの、美津子さんは?!」
「うん・・・高血圧だって。あ、でも、もう大丈夫。母子共に一命は取り留めた・・・今は落ち着いてよく眠ってる」
「・・・そうですか、良かった!!」
「丁度、家に誰も居なかったから、山岡さんが行ってくれて本当に助かったよ。そうじゃなかったら・・・」
鉄平さんは震えながら言葉を詰まらせた。
私は「良かった」と繰り返しながら泣いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

家に戻ってからも美津子さんの体調は芳しく無かった。
美津子さんの病は「妊娠中毒症(現代は、妊娠高血圧症候群)」というものらしい。
白い肌は、青白くなって、顔や首や足やあちこちが酷く浮腫んでいた。
原因が分からない病気で、場合によっては母子共が死に至るらしい。
でも、美津子さんは、頑なに薬の服用を拒んだ。
薬の副作用は母体だけでなく、お腹の子供にも大きく影響する。

だからどんなに辛くても美津子さんは薬を飲もうとしなかった。
家族はそんな美津子さんがとても心配で、特に鉄平さんは仕事も手につかないくらいだった。
私は銭湯の仕事を半分くらいまで減らし、美津子さんのお世話をするようにした。

そんなある日、美津子さんが私に言った。
「もし万が一、私が死んでも・・・この子だけは絶対に元気に産んでみせる」
「え、、死ぬなんて、やめてくださいよ」
そう言いながら、私は父の言葉を思い出して堪らない気持ちになっていた。

ボイラー室で鉄平さんは火を見つめながら言った。
「俺は、もう子供は諦めても良いと思ってる、もし美津子が死んだら、その方が俺には耐えられない・・・」

私の心は複雑だった。
美津子さんに元気になって欲しい。
心からそう思った。
でも、もし赤ちゃんが産まれなかったら・・・私は一体。

何をしていても、心が震える。
もし、これが長い夢ならば、本当に早く醒めて欲しいと願った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その日の朝、美津子さんは体調が良さそうだった。
いつもよりお喋りで、よく笑いとても元気に見えた。

「え?」
私は驚いて振り返る。

「今、なんて?」

「妙子ちゃんでしょ」
美津子さんは笑顔で私にそう言う。

「え?・・・・・えっー??!!」
「私の孫の妙子ちゃんよね?」

「なんでっ?!知ってたんですか?!」
美津子さんはにっこり頷き、話し出した。

「最初は、私も驚いたわ、驚いて腰が抜けるかと思った。だってお爺ちゃんになったあの人が突然お風呂から現れたんだもの」
「じゃあ・・・」
お爺ちゃんは、ボケていたんじゃなくて本当にここに来ていたんだ!

「ふふふ。だから、妙子ちゃんが来てくれた時も、本当に嬉しかった」
「いや、なんで、私って?」
「あなたの時代の鉄平さんがね、何度かあなたの写真を見せてくれたの」
「え、そうなの?」
「何度か逢いに来てくれたのよ。あ、でも鉄平さんがこの時代に居るのは、いつも10分くらいだったけど・・・妙子ちゃんは何故か・・・ねぇ?」

確かに。あの日も気を失ったからだろうか??

「だから、すぐ紹介所に電話して、新しいアルバイトさんをお断りしたのよ」

「あ、それが山岡さん?」
「そう!」
2人は、手を叩いて笑った。

「妙子ちゃん」
「はい」
「あと私・・・実はね」
美津子さんは、私の目を見据えて言った。

「そっちの時代に行ったこともあるのよ」
「え?」
「鉄平さんに連れられて、お風呂の中をざっぶーんと」
「嘘!!??」
「ふふふ。だから、晋平にも1度だけ逢った事があるの・・・」
「え!!お父さんに?!」
「そう。もう立派なオジサンだったけどね。元気そうで・・・本当に、本当に嬉しかった」
そう言って美津子さんは笑顔のまま涙を零した。
「妙子ちゃん、抱きしめてもいい?」
私は大きく頷き、美津子さんと抱きしめあった。
自然と涙が溢れ出る。
「だからね、妙子ちゃん。私はこの命に変えても晋平を生むのよ。こんなに愛しい息子や孫に逢えないなんて考えられないもの」
私は、切なくて、切なくて、涙を止める事が出来なかった。
「お婆ちゃん、大好きだよ」
「有難う、私もよ。逢いに来てくれて本当に有難う」
「うん!逢えて本当に良かった!」
私は声をあげて泣いた。

「でも、妙子ちゃん、あなたもそろそろ、帰らなくちゃね。きっと晋平が心配しているわね」

私は父の顔を思い浮かべた。
そして、部屋のカレンダーに目をやる。
そうだ、今日は父の誕生日だ。

あっちの時代はどうなっているんだろう?
もうここに来て3ヶ月が経とうとしている。
突然消えてしまった、私の事を心配しているだろうか?
確かに、そろそろ帰らなくちゃと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、その日の夕方。
美津子さんの容態は急変した。
美津子さんは救急車で運ばれ緊急帝王切開手術をすることになる。

私は手術の間ずっと病院のソファの上で、目眩を起こし動けずにいた。
「大丈夫!きっと大丈夫!」
そう心で繰り返すが、震えが止まらない。
こんなにも、悲しくて苦しい想いを始めて知った。

そして、気が遠くなるかと思ったその瞬間。
病室から甲高い赤ん坊の泣き声が聞こえた。

「・・・良かった!」
そうして今、父はこの世に生まれたんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

病室のベッドに横たわる美津子さんは、天使のように優しい笑顔を浮かべていた。
そして、もう二度と目覚める事は無かった。

「お前の名前はなぁ、晋平って言うんだ。良い名前だろう?お母さんが付けてくれたんだぞ」
ガラスの向こう沢山の線に繋がれた我が子を見つめ、鉄平さんはぐしゃぐしゃに泣いていた。

私も、ひぃお爺ちゃんも、ひぃお婆ちゃんもその横で嗚咽をあげて泣いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『矢島家の皆様へ

 本当に、大変お世話になりました。
 突然の事で大変申し訳ありませんが、
 今日を持って、ここを退職させて頂きます。
 紹介所から、また新しい方が来るように
 なっております。
 本当に有難うございました。
 ここで働いた毎日を、私は一生忘れません。
 皆さん、どうぞお元気で。
                 山岡』

その夜、一足先に家に戻った私は、テーブルにそう書き置きを残して、臨時休業した「夢の湯」に忍び込んだ。

人気のない女風呂は、水の流れる音だけが響き、湯けむりの向こうに富士山が青々と鮮やかに光っている。

「また、いつか必ず逢いに来ます」

そう言い残して、私は大浴槽に背中からダイブした。
ゴボゴボゴボと、鼻や口からたくさんのお湯が入ってくる。
まるで海にでも溺れるように予想を越えて深い。
気を失ってしまう前にと、私は必死の思いで水面から一気に顔を出した。

ゲホッゲホッ!

「え?妙ちゃん!??」

その呼び声で、私は現代に戻った事を確信した。
「あんた!!何?どうしたの?!!」
数人のおばちゃん達が、服を着たまま浴槽に浸かっている私に驚いて声を上げた。

「わ、ごめんなさい!ホントにごめんなさい!」
事情を知ってか知らずか、1人のお婆ちゃんが風呂場のドアを開けて番台に向かって叫ぶ。
「晋平ちゃん!妙子ちゃんがいたよー」
「何ぃ?妙子が?」
血相を変えて父がこちらに走って来るのが見えた。
「いや!一応女湯だし!」
私は、慌てて浴槽から飛び出したがお構い無しで父は風呂場に駆け寄って来て、びしょ濡れの私を強く抱きしめた。
「妙子!お前!突然居なくなって、どれだけ心配したと思ってんだ!」
「いや、ごめん!本当ごめん!」
周りのお婆ちゃん達は、そそくさと脱衣場の方へ移動して行く。
「あ~皆さんも、ごめんなさい」

「良かった!無事で本当に良かった!」
「うん、心配掛けて、本当にごめん」
暫くの沈黙の後、父が口を開く
「・・・行って来たのか?」
「え?」
その瞬間、父は全てを察しているんだなと思った。
「うん・・・行ってきた」
「そうか、本当にあるんだな・・・」

私は、父の手を解き、改めて周りの景色に目をやり、深呼吸して父に言った。

「お父さん。私ね、頑張ってみようかって思うんだ」

「・・・ん、何をだ?」

「夢の湯」

「はぁ?」

「だってさぁ、矢島家の伝統を私が絶やすなんて勿体無いじゃん」
「え、妙子?お前、それ本気で行ってんのか?」
「ふふふ。うん、本気も本気の大真面目よ!」

「・・・おぉ」

不思議なくらい、私の中で明確な"夢の湯立て直しビジョン"が溢れ出している。

今だからこそ、趣きあるこの場所を活かせる手段が必ずあるはず。

色んなイメージが湧いて胸がワクワクする。

それに「夢の湯」がある限り、いつかまた、大好きなあの人達に逢えるかも知れない。
私は、きょとんとする父に向かって叫ぶように言った。

「私に任せといて!」

その父の後で、湯船からもくもくと立ち上がる湯けむりの向こうから、あの日の美津子さんと鉄平さんの2人が並んで手を振り、微笑む姿が見えた気がした。

<Fin>
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