ステイメタル!

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4月 - Paradise City -

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 通勤ラッシュでもないのに、電車はかなり混んでいた。この前もう4歳になったというのに私の腕に抱かれた娘の莉波がもぞもぞする。
「ねーあついー」
「暑いねー、自分で立ちなよ」
「それはやだ!」
「えーお互い暑いじゃん……」
 窓から見える街並みは驚くほど眩しくてキラキラしていて、これからの不安なんかすべて消えていきそうだった。気分はGuns N' RosesのParadise Cityだ。リナも初めて通る街を、興味津々な様子で見つめている。ここをこれから毎朝通うんだ、新しいことが始まるんだ、そう思うとなんだかわくわくした。
「よーし、そろそろつくよリナ! 」
 最寄り駅ではたくさんの人が降りた。ホームには1人でキョロキョロしている人や、友達同士で賑やかにしゃべっている人、親子で嬉しそうにしている人が溢れている。若いパワーに押し潰れそうだ…………いや、こんなことで負けてはいけない、これから私もこの中でやっていくんだから。改札を出て待ち合わせをしている人の波をくぐり抜けるとすぐに、眩しい光が視界いっぱいに飛び込んできた。横断歩道の向こうに桜並木、そしてその奥にうっすらと見える「入学式」の看板。
 大きく深呼吸をした。
 よし、大丈夫。
 岡本美波、21歳子持ち、今日から大学1年生です。


 リナを産んだのは高校を卒業する直前、18歳のことだった。
 私立の進学校だったが、その校風と女子校の風潮がどうも肌にあわず学校にもほとんど行っていなかったが、大学には行きたかったから、家での勉強はある程度やっていた。今思えば宅浪みたいなものだ。高校3年生の初夏に妊娠しても、子供を産んである程度育てられたら、改めて勉強し直して大学に行きたい、という思いは消えなかった。高校側も、自校の評判を落とすようなクズは直ちに排除しようと言わんばかりに、出席日数を改竄して卒業させてくれた。
 なんでそんなに大学進学にこだわるんだ、と聞かれたことは何度もある。私に言わせれば特に理由なんてない。この歳になってまで、大学を出ていい会社に就職したいわけでもない。残念ながらこれまでも生活費や学費を稼ぐために、風俗やキャバ嬢を初めとしてあらゆるバイトをしてきてしまったせいで、どんなに底辺であろうと生きていけるという謎の自信がついてしまっている。正直なところ大学に行く必要なんてどこにもないのだ。それでも大学に行きたいのは、私が好奇心旺盛だからなのかもしれない。
 昔から、あらゆることに手を出してみたかった私は、リナを妊娠した時も産むことを即決したし、バイトも夜の仕事からビルの清掃までいろいろやった。それなのに、大学で華のキャンパスライフを送ることだけが未達成なのは納得がいかない。ただ、興味のあることを学びながら視野を広げたり、好きな服を着て好きなピアスをつけたり、単位取得や出席日数にあたふたしたり、教授の愚痴を共有したり、サークル活動をしたり、空きコマに学友とご飯を食べたり、そういうことをしたいだけなのだ。
そして、そんな夢のようなキャンパスライフが今日、幕を開けるのだ。


「ねーここでなにするのー」
 膝に乗せたリナがきょろきょろと会場を見渡す。ここは入学式会場だ。とてつもないマンモス校なので、入学式を午前、午後の部に分けた上に、ただでさえ大きい会場にパイプ椅子を限界まで詰め込んでいて、見渡す限り人の海である。
 世界的に有名なこの大学は都内にもいくつかキャンパスを持つが、入学式や卒業式はこの近隣県のキャンパスで行うという。入学後もほとんどの学生がこちらに通うらしく、やはり都内ではないだけあって敷地面積もかなり広い。OBも多いマンモス校ならではである。
「いまは喋ってもいいけど、私がしーって言ったら静かにしなきゃダメだよ」
「なんで? なにがあるの?」
「くそつまんねぇおっさんたちの話を聞くのよ、私もがんばって我慢するからリナも静かにできるよね?」
「んーがんばる!」
 リナはおとなしく、肩から下げたちいさなポシェットの中身を整理し始めた。まもなく壇上にぞろぞろと理事長だかなんだか偉い人たちが出てきたが、まったく興味がないし、いかんせん遠くてあまり見えない。退屈なので、まわりの人たちを観察することにした。
 隣のメガネの男の子はいかにも不安そうに周りを伺っているし、反対隣の女の子は超集中してサークル紹介冊子に印をつけまくっている。斜め前の男女グループはいかにも昨日染めたような鮮やかな金髪茶髪で、ひそひそとまわりの女の子の顔面評価をしているし、二列前には耳にびっしりピアスをつけてラベンダー色のスーツを着た黒髪銀メッシュが新入生代表スピーチを聞いている。まったく、色々な奴がいるもんだ。学歴としては低くはない大学のはずなのに、さながら人生の縮図のようである。
 あまりにも長い式典に皆が飽きだし、心なしかざわついてきた頃、好きなアニメのシールブックに熱中していたリナが顔を上げた。
「……ミナミちゃん、これいつ終わるの?」
「うーん私もわかんないな……早く終わってほしいねえ」
 リナは私のことをミナミちゃんと呼ぶ。生まれてから去年まで保育園にも滅多に預けず、ずっと近くに置いていたためか、お母さんなどと呼ぶ習慣がつかなかったようだ。かわりに周りの大人たちの影響なのか、ミナミちゃんが定着したらしい。私としては、母親という肩書きで呼ばれるよりこっちの方が好きだ。
「おしゃべりしてもいい?」
「……いいよ、ちっちゃい声ならね」
 周りに座っている友達連れなどが退屈さに耐えかねてひそひそ話を始めているのを見て、許可を出すことにした。
「あのね、きのうね、もも組のユウくんがね……」
 リナは先月このへんに引っ越してきてから、週に2日だけ家の近くの保育園に通っている。本当ならいつでも自分の目の届くところに一緒に連れて回りたいのだが、来年度入るであろう年長クラス、引いては再来年の小学校入学を考えると周りの子とも馴染ませてあげたいと思うようになったのである。週2日だけであっても充分に仲良くやっているようだ。リナの話を聞きながら、私も頑張らないとなあ、とぼんやり思った。


 入学式の次の日は、学部別のオリエンテーションだった。これまたリナを連れてキャンパスに向かうと、午前中だというのにまあまあの数の人がキャンパス内にいた。これが噂の新入生歓迎、通称・新歓か。1年生のオリエンテーションが終わり、ぞろぞろ教室から出てきたところを狙って勧誘する準備なのだろう。
 事前に配布されていたパンフレットをなぞるだけの無意味なオリエンテーションが終わると、案の定教室の外が騒がしくなっていた。教室を出ると、他の教室でオリエンテーションをやっていた別学部や、新入生をサークルに勧誘すべく狙う上級者などで、廊下はごった返していた。私は人の多いところが苦手なのだが、リナはまったく平気なようで、私の腕に抱かれた高みから興味津々に周りを見下ろしていた。とりあえず中庭に出て、端の方にひっそりとあった喫煙所へと向かう。
「ミナミちゃん、ひとがいっぱいいるねえ」
「そうだね、みんな私とおなじ学年の人だよ」
「ともだち100人できるかなー?」
「こんなにいっぱいいたらできそうだね!」
 高校のときに初めて吸ったのと同じ、ウィンストンに火をつける。妊娠してからリナが半年くらいになるまでは禁煙していたのだが、少しずつリナの寝ている間なんかに本数が増えていき、最近では一緒にいる時にも吸うようになってしまっている。子供にとっては良くないと世間は言うだろうが、リナは食事やお菓子の一貫だと認識しているらしい。大人になるまではだめだと言い聞かせているのはせめてもの反面教師だ。
 煙草を1本吸う間、リナは近くの芝生で四つ葉のクローバーを探していた。見つけたらユウくんにあげるのだそうだ。
「あんまり遠くにいかないでねー」
 その瞬間、リナが曲がろうとしていた柱の影から人がふっと現れた。その人は煙草を咥えて火をつけようとしているため、背の小さなリナには気づいていない様子だ。危ない、このままぶつかられて、転んだリナの上に煙草を落とされでもしたら……!
「リナ! 前!」
 私の距離では間に合わない、と思いながらも、叫んで煙草をほっぽりだしリナの方へ駆け寄る。
 幸い、先方の反応は早かった。リナと接触する前に煙草を右手に持ち替え、数歩後ずさる。
「お、おう……! 危ねぇなぁびっくりした!」
 ぶつかってもいないのに尻もちをついているリナが、目をぱちくりさせる。相手の姿を見て、リナが驚いた理由もわかった。私よりも長く背中の中ほどまで伸ばした黒の長髪に、高そうなしっかりした素材の黒い革ジャン、迷彩カーゴパンツにこれまた高そうな黒革のブーツ……メタラーの正装じゃねえか。これだからメタラーは……!
 彼をみつめているリナを尻目に私は、だいぶ上背のあるそいつに詰め寄った。私が160センチだから、こいつは190近くはあるだろう。
「てめえの方が危ねえだろ!前見て歩けや!」
「ああ?」
 そいつは見るからに嫌そうな顔をしながら煙草に火をつけた。クセのある香りが鼻先をかすめる。セブンスターかよ。心がざわっとしたが、それどころじゃない。このボンボン大学で高い服を着、のうのうと意味もなく進級して、完全にぬるま湯にふやけているであろうクソ男の根性に、世間の筋ってもんを教えてやらなければならない。このままじゃどうせ怒鳴るなりシカトするなりして、謝罪も心配も何もなく逃げるつもりなのだろう。
「ああ? じゃなくて、もっと先に言うことがあるだろクソガキ……えっ」
 私の言葉が終わらないうちに、そいつはスッと足元にしゃがみこんだ。リナと目線を合わせる。
「悪かった。大丈夫か?」
「え……」
 リナもぽかんとしている。そいつはリナの手を取って立ち上がらせると、咥え煙草でスカートについた土をパンパンと払った。しゃがんだままで尻ポケットから出した財布の中から絆創膏を探し出し、少し擦りむいたらしいリナの左の手のひらにきちんと貼る。最後にリナの頭にぽん、と手を置いて立ち上がった。私の方をじろりと睨む。
「これでなんか文句あっか」
「……やればできんじゃん」
 これ以上怒れない対応に、つい口ごもってしまう。そいつは私をちらっと一瞥してから、リナの方に目をやった。
「てめえんとこのババアうるせえな。苦労してんだろうな、チビのくせに」
「あ!? 誰がババア……あっ」
 そこでやっとやばいことに気がついた。歳でいえば私は確実にこいつよりババアだし、なにより私は今日から1年生なのだった。私は新入生、つまりこいつが先輩である確率は四分の三だ。仮に同じ1年生でも、こんなにガラの悪い奴だ、もう既に強力なコミュニティを持っていて、私は学年全体からハブられて、せっかくのキャンパスライフが台無しになってしまうのかもしれない。とりあえず、顔を覚えられないうちに逃げるのも手か。
「……リナ、帰ろ」
 リナの手を引いてそいつの横を通り過ぎようとすると、そいつは何を思ったか少し笑ってリナに手を振った。笑うと子犬に似ていた。
「あ、そーだ」
 数歩歩いたところで呼び止められたが、振り向くのもしゃくなのでリナを抱き上げて歩き続けてやったら、大声でからかうようにこう言ってきた。
「お前スカート短すぎねー? しゃがんだらパンツ見えたよー」
 …………あのクソガキが!リナを抱いたままキャンパスの出口に向かう。
「……ねぇミナミちゃん」
「なによ」
 新入生と思しき人たちは容赦なくサークルの勧誘やビラ配りの集中砲火にあっているが、子連れには誰も干渉してこない。人混み嫌いにとっては正直楽だが、たしかに新入生には見えないだろうなぁと思うと少し寂しい気もした。
「さっきのおにいさん、かっこよかったねえ……」
「はあ? 何言ってんのよ。そんなことよりリナも、曲がり角では左右見なきゃダメだって言ってるでしょ」
 リナは、はーい、と生返事をした。
「あのひと、ミナミちゃんがすきなやつのTシャツ着てたよ?」
「Tシャツ? どういうの?」
「いちばんよくきいてるCDのやつ、コンポのうえにいまもおいてあるやつの」
 きっと、Guns N' Rosesのファーストアルバムだ。私の一番嫌いで、一番好きなアルバム。
「……あんなん好きな男はろくでもないからやめときな」
「えーなんで」
「そもそもあんた、桃組のユウくんが好きだったんじゃなかったの?」
「うーん、ユウくんもすきだけどぉ~」
 駅に着き、改札を入る。まだまだ駅周辺は人でごった返していた。明日は興味のあるサークルをいくつか見に来ようかな。


 大学の最寄り駅から二駅、そこから徒歩8分のアパートに帰ってきた。大学に入ることが決まって急遽決めたにしては、安くて良いところを取れたと思う。リナと2人なので、部屋は1LDK、ロフトつきだ。冷蔵庫に余っていた野菜で野菜炒めを作り、それと納豆ご飯で夕食を済ませる。
「いただきまーす」
 死ぬほど細かく刻んだので、リナは嫌いなピーマンにも気づかず、美味しそうに食べている。
「サークル、どうしようかなあ……」
「なぁに、サークルって」
 実際のところ、生活費を稼ぎながらサークルなどやる暇があるかはわからなかったが、せっかく大学に入ったからにはサークル活動というものもやってみたかった。思ったより忙しくなりそうだったら、やめるなり幽霊部員になるなりすればいい。
「うーん、おんなじものが好きな人たちが集まる仲間のこと、かな」
「たのしそう! リナのすきなアニメのもある?」
「あるんじゃない? えーっと……あ、ほらほら」
 食事中だが、入学式でもらったサークル紹介冊子をぱらぱらとめくった。マンモス校らしく、大量のサークルの情報がびっしりと書かれている。
「お、に、ご、っ、こ……? みんなでおにごっこするの?」
 リナが目を止めたのはすべてひらがなで書いてあったからだろうか、大学公認サークルのページには、おにごっこサークルから江戸文化研究会なるものまで幅広く載っていた。
「はあ~いろんなのがあるもんだな」
「ミナミちゃん、どれにはいるのー? リナならおにごっこ!」
「うーん、どうしよっかな」
 めくっていくと、軽音サークルがいくつも載っているページがあった。ついうっかり手を止めてしまう。リナが隙を逃さずつっこんだ。
「あ、ミナミちゃんバンドすきじゃん」
「バンドねえ~」
 紹介欄を見ると、「オールジャンルできます!」「HRHM中心!初心者歓迎!」「ニュースクールメタル中心」など様々なジャンルのサークルがあるようだ。新歓期間中の予定も載っており、明日の昼過ぎから色々な軽音サークルが順番に、中庭の野外ステージでライブを行うらしい。
 正直な話、HRHM(ハードロックやヘヴィメタル)は嫌いではない。メタルはあまり詳しくはないが、ハードロックは大好きだ。入ってみて風潮があわなければ、すぐにやめればいいだけだ。楽器ができなくても軽音サークルには入れるのだろうか。どちらにせよ、大学からそんなに遠くないところにアパートを借りたのだから、明日ライブだけ見に来てみてもいいのかもしれない。
 明日、リナは保育園の日だ。一人で行ってライブを見て、その中で自分の趣味にあいそうないくつかのサークルに、話を聞いてこよう。



 次の日、リナを保育園に送ると一度家に戻り、簡単に昼食を済ませると、身支度に取りかかった。BGMはBon JoviのLivin' on a prayerだ。今までやってきたものを大事に、手放さないように、頑張ればきっとうまくいく、大丈夫……なにかが不安になった時なんかによく聴く曲だ。
 ハードロックやメタルが好きになったのは、高校2年生の頃だった。妊娠がわかったころからリナが生まれてしばらくは聴くのをやめていたのだが、リナが1歳になったころ、ふと聴いてしまった1枚のアルバムをきっかけにまた戻ってきてしまったのだ。それがGuns N' Rosesのファーストアルバムだ。それ以来、元気を出したい時や、また頑張りたいときにはこれを聴くようにしている。
「あったあった、これとこれを着て……」
 軽音サークルを見に行くわけだ、自分の好きなジャンルがハードロックだ、とひと目ではっきりわかるような格好をしたほうがいいんじゃないか。そんな大人げない自己正当化の元に取り出したのが、高校時代に買ったガンズのバンドTシャツに、いまや年に数回しか着なくなった革ジャンだ。ハードロックっぽさを出すためにはどうしたらいいだろう。普段履いているデニムのミニスカートでいいかな。こういう服装は今でも大好きだが、母親として保育園に行ったり、バイトをしたりする上では、どうしても制限されてしまう。それでもなかなか趣味は変わらなくて、よくギャルママだの、露出が高いだの言われるが、母親というのはそんなに自由がないものなのだろうか。どちらにしろ、私はもう日中は大学生だ。
 久々に着るほんとうに好きな服は、コスプレにも近いワクワク感を与えてくれた。4年ぶりに網タイツを履き、メイクを心もち濃いめにして全身鏡の前に立つと、高校時代に戻ったような懐かしさを覚えた。当時はよくこんな格好でライブハウスに行ったり、彼と遊んだりしていた…………
 ふと、記憶の彼方に封印したはずの香りが微かにしたような気がして、思わず眉をひそめた。とりあえず、こんな感じでいいだろう。充分ハードロックファンに見える。気分が乗ってきて、アクセサリーボックスを漁った。節目のたびに左耳に一つ、また一つと増やしていったピアスホールはもう7つになる。普段は透明ピアスをした上に髪で隠していたが、いまや大学生、何をしても自由だ。7つすべてのピアスホールに、端からピアスをつけていく。そうだ、大学生になった記念に、帰ってきたらもうひとつ開けようかな。そんなことを考えながら、時計を見ると早いものでもうすぐ12時だった。もう家を出なくちゃ。


 大学までは20分もかからない。今日も構内は目当てのサークルを探して右往左往する新入生と、それを捕まえようとする在校生でお祭り騒ぎだった。正門を通り、銀杏並木を抜け切らないうちに、中庭の方から物凄いデスボイスと怒涛のツーバスが聴こえてきた。メタルサークルだろうか。
 人でごった返す中庭で、ステージの周りだけがぽっかりと空いていた。人をかき分けそこまで行くと、見るからにメタラーのような人たちが空いた空間で殴りあったり走り回ったり、アグレッシブな運動会を繰り広げている。そうそう、これがメタルだった……。過去に連れていかれたメタルのライブハウスでもこんな光景を見たことがある。曲はせっかくかっこいいのに、暴れてる人たちはちゃんと聴いてるんだろうか、あれで楽しいんだろうか。これだからメタラーは、と思いながらふとステージ上を見上げると、見覚えのある憎たらしい顔があった。
「あっ、あいつ……!」
 まったく、漫画や小説のようなベタすぎる展開である。
 そこにいたのは、昨日喫煙所でガン飛ばしあった、例のメタラーだった。昨日とほぼ同じようなメタラーの正装に、SkidrowのバンTを着ている。全身真っ黒な服装に、透き通るようなブルーのギターがよく映えた。右手を信じられない速さで動かしながら、下で殴り合い押し合い歓声を上げている人々を嬉しそうに煽っている。やっぱりあいつはメタルサークルの人間だったんだ。やっぱり、これだからメタラーは……。どちらにしろメタルサークルに入るつもりはない。私はハードロックもできるようなサークルを探しているのだ。
 私の知らないその曲が終わると、転換らしくメンバーが交代した。キーボードがステージ上に上がってくる。ステージ上にいたままのあいつがコーラスマイクを使ってMCを始めた。
「はい、ありがとうございます! Heavy Music Circleこと、HMCです!」
 昨日からは想像もつかないような爽やかなMCだ。きっと新歓用の外面なんだろう、と私は嫌味な解釈をした。MCもそこそこに転換が終わる。
「では残り2曲、さっきのよりオールドめなかっけえバンドから、みなさんご存知のこの曲をやります!」
 メタルなんて知らねえよ……と意地悪なことを思った私の耳に飛び込んできたのは、まさにご存知、なんならさっきまで聴いていた、Bon JoviのLivin' on a prayerだった。ある程度ライブ用にアレンジされているが、その他はまさに忠実なコピー、一寸のズレもない演奏、まったく文句のつけどころがない。後半のギターソロで、あいつが前に出てきた。先ほどのブルータルな音楽とはがらりと違った、優しく明るい音でソロを奏でる。その顔はとにかく楽しそうで、嬉しそうで、昨日の無愛想な顔からは想像つかないほど輝いていた。
 大盛り上がりで曲は終わった。あいつが楽しそうにマイクに向かう。
「……ラストです! HMCのテーマソングの一つ! みんな盛り上がってけよー!」
 印象的なイントロ、SkidrowのYouth gone wildだ。これがテーマソングだなんて、悔しいけれど最高にセンスのいいサークルだ。
 いつの間にか、死ぬほど聴き込んだ曲に身体が乗っていた。キメのところでは条件反射のように拳を振り上げてしまう。久しぶりに聴く生のバンドサウンドは、内臓の隅々まで、血液に乗って体中に巡っていくような感覚を覚えた。CDで散々聴いていても、生でライブを観るのではまったく違う。リナを連れてはライブハウスなんかには行けないので、実に数年ぶりの興奮だった。
 曲の途中くらいで、ふとあいつがこちらを見た。ばっちり目が合う。あいつは一瞬だけ、少し驚いたような顔をしたあと、またすぐにいたずらっぽさの混じった笑顔に戻った。あいつは実に楽しそうにギターを弾く。こちらまでなんだか嬉しくなってしまうほどの笑顔で、昨日のことでイラついていたのも忘れて、気がつくと目が離せなくなっていた。
 無意識に拳を上げ、コーラスパートを一緒に歌い、いつの間にか大盛況のうちにライブは終わって、私は拍手していた。人波が少しずつ引き始めて我に返る。
 私、なにをしてるんだろう。こんなメタルサークルなんかに入るつもりはない。どんなにギターが上手かろうと、あんな第一印象最悪の、態度の悪いメタラーに惹かれたりしない。いったん喫煙所に退避しよう、それでこのサークルの人が引くのを待とう、そう思って喫煙所のほうに身体を向けた瞬間だった。
「おいババア」
 背後から私を呼び止めたのは、聞き覚えのある声に、馴れ馴れしいクソ失礼な態度……紛れもなくあいつだ。こういうのは反応したらいけない、シカトに限る。ナンパもキャッチも一緒だ。私はあいつに背を向けたまま歩き出した。
だが相手はしつこかった。
「なあ! 昨日の奴だろ? ライブ見てくれてたよな? 」
 これじゃ渋谷センター街のナンパと変わらない。逃げようにも人混みが凄くて、あまり距離を開けられないのだ。
「待てってば! 昨日は悪かったよ!話くらい聞けよ!」
 あいつの声がでかいせいで、まわりが少しずつこちらに関心を持ち始めてしまっている。大丈夫、シカトだシカト。耐えろ私、ババアは事実だろ、仕方ない…………あっ。
 そういえばもう一つ大変な事実を思い出して、ついその場に足を止めてしまった。こいつは、先輩なのかもしれなかったのだ。完全に顔は覚えられている。まだ4月も始まったばかりだと言うのに、先輩に目をつけられるのはあまりにリスクが高すぎる。リナだって悪かったんだし、むこうも謝ってくれているし、話くらい聞いてもいいのかもしれない。
そうこうしているうちに、あいつが私に追いついた。仕方ないので振り返って対面する。
「おい……てめえライブで疲れてる奴を走らせるなよ……」
 勝手に走ったのはあんただろ、と思うが黙っておいた。きっと先輩だというのに初対面でタメ口で喋ってしまったし、いまさらどう接すればいいのかもよくわからない。
「なあ、ハードロック好きなの?」
「んーはい、まあ……」
「さっきはライブ見てくれてありがとな! うちのサークル興味あるの?」
「でも私メタルとか知らないし、楽器も弾けない……」
「そんなことはいいんだよ!」
 彼が目をキラキラさせた。
「ハードロックは好きなんでしょ? うちのサークルはHRHM中心だから、メタルだけじゃなくさっきみたいなハードロックもやるし、初心者も大歓迎だよ。せっかく大学に入ったんだし、この機会に楽器をやってみるってのもアリだろ!」
 ライブを思い出すとまだ胸がどきどきする。興味はもちろんある。もしも自分もあんなふうにステージ上に上がれたら。彼や他のメンバーの人のように、観客を見下ろし煽る立場になれたら。それだけでどんな景色が見えてどんなに楽しいのか、私には想像もつかない。ライブを見た今、その世界を知りたくてうずうずしている自分がいる。
「部室来て説明だけでも聞いていかない? 」
「……はい」
「おお! じゃあ、ついてきて!」
 人混みの中、彼はさっさと歩いていってしまうので、舌打ちしながらも見失わないように後ろをついていく。私の前を歩きながら、あいつはすれ違った中でもかなり多くの人と挨拶を交わした。顔の広さにまた萎縮してしまいそうになる。負けるな、年齢と経験値だけなら私のほうがあるんだから……!
「ついたよ、ここだ」
 こうして連れてこられたのは、部室棟の三階、322号室という部屋だった。彼がドアを押すと、部屋の中にいた人たちがバッとこちらを振り向いた。入るとすぐカーペットが敷いてあり、靴を脱いで上がるようになっているらしい。いるのはロン毛や革ジャン、迷彩、ダメージジーンズ、様々なバンドのバンTなどなど、厳つい男ばかりだ。大丈夫、私だって同じような強い格好をしてきている。だいたい、なにを恐れて緊張しているんだ……。
彼らは揃って一瞬驚いたような顔をした後、嬉しそうに口々に声を上げた。
「女の子じゃん!」「リョウヘイさんよくやりましたね!」「ガンズ好きなの?」「ライブ見てくれた?」
 こんなにいっぺんに話されても困る。眉をしかめた私を見て、彼が皆をいさめる。
「まあまあみんな。とりあえず、今から新入生連れてキャンパス裏に食事でもしに行こうと思うんだけど、あんたも来る? ……あ」
 そこで初めて気づいたように声を上げる。
「忘れてた。俺は安田涼平、文学部3年生。HMCの代表だ。よろしく」
 そう言って彼は、子犬のような笑顔を見せた。


 私は部室にいた数人の新入生とともに、食事会とやらに連行されることになった。先頭に私と例の代表、その後ろに新入生の男子が2人、先輩と思しきイケメンな男子が1人。昨日のことを謝らないと、と思い、勇気を振り絞って歩きながら話しかけてみる。
「あの、安田……さん」
「ん?……あ、そういえば名前聞いてなかったな」
「あ、新入生の岡本美波です」
「ミナミちゃんね」
 軽々しく下の名前で呼ぶんじゃねえ、と心の中で毒づいたが、そこは代表だ。ぐっとこらえる。
「あの、昨日は代表とも知らないで、初対面なのにタメ語でしゃべっててごめんなさい……!」
「おっとうとう謝ったな」
 からかうようにニヤニヤされてイラッとくる。
「やっぱ新入生だったか~、昨日も多少きちっとした格好してたし、そうじゃないかとは思ってたんだよな~」
 高い目線から私を見下ろしヘラヘラするのに比例してイライラは募っていく。
「あのチビはなんなの? 妹?」
「娘……です」
「娘ぇ!?」
 まあそういう反応になるよな。今後何度もこの反応にあっていくのかと思うと少し疲れたが、これにも慣れていかなければならない。
「娘? てことは待てよ、あんた何歳なの?」
「レディーに歳聞いていいと思ってんの?」
「てめぇ代表にむかって何だ」
「すいません、に、21です……」
「ふぁっ! 俺20歳だから年上じゃんわろた」
「~~~~~~~~!!」
 声にならない叫びを上げる。許さない……こんなやつがいるサークル入らねえ……!
「……帰ります」
「えっいやちょっと待てよ! ごめん! 俺が悪かったって!!」
 肩を掴んでくる手を振りほどいたが、やっぱりこいつはしつこい。何度も何度も話しかけてくる。
「……なんなの」
「いや、あのね! 俺のが年下でも、うちのサークルは入った順に先輩後輩が決まるの! だからお前は俺に敬語じゃないといけないの!」
「いや私まだ入るって決めてないですし」
「いや入ろうよ! 楽しいよ!」
 もめているうちに、気づけばキャンパス裏のファーストキッチンの前に来ていた。私の気配を察したのか、肩をがしっとホールドされて強制入店。禁煙席に連行される。
「よしみんな! なんか食いたいもんはある? 全部俺らの奢りだから、遠慮しないで言ってくれ!」
 そんなことを言われて遠慮しない新入生がいるわけがない。私を含めた3人の子羊は対面に座った3人の先輩の顔色を伺いながらおそるおそる、安いソフトドリンクを一つずつ頼んだ。
「君はお腹空いてないの?」
 目の前に座った先輩が話しかけてきて、一瞬呼吸が止まった。遠目にもイケメンだとは思っていたが、目の前で見るとこれまたとてつもないイケメンだ。色白で切れ長の目、長い指。髪はミディアムくらいの天然茶髪でふんわりとパーマをあてている。声は落ち着いていて、いい感じの低さだ。タイプすぎる……!
「あ、はい……あんまり空いてないです!」
「そっかー俺ポテト食べたいんだけど、醤油バター味とチーズ味とどっちがいいと思う?」
「先輩の好きな方でいいと思います!!」
 くだらない会話でもなんだか楽しい。安田涼平とは大違いだ。そう思って斜め前に座ったヤツの方を見ると、私たちの会話を見て、ケッといった目をしていた。お返しに睨み返してやる。
「先輩、何年生なんですか?」
 どうせ年下だろうがいちおう聞いてみる。
「俺? 年齢はもうすぐ20だけど一年生だよ。こないだ留年しちゃったからね」
「一年生……!」
 まさかの同学年(※2歳下)だ! 一緒の授業とかあるかなあ、とつい顔が緩んでしまう。
「学部はどこなの?」
「あ、文学部です! 岡本美波と言います! 履修とかいろいろ教えてください!」
「文学部か、リョウヘイさんと一緒だね。詳しいことはリョウヘイさんに聞いたらいいけど、一年次の必修は共通してるから、俺でよければ相談に乗るよ。あ、俺は三ツ矢勇気。よろしく」
「はい! ぜひよろしくお願いします!」
 注文しに行っていた安田涼平が、大量の食べ物やら飲み物をトレーに乗せて戻ってきた。
「よしみんな食え、俺の奢りだ!」
「部費から出てるだけでしょ」
 突っ込むユウキさんの顔は美しすぎて、見ているこっちが和む。新入生たちがそれらに手を伸ばしたころ、代表・安田涼平からサークルの説明が始まった。
「うちのサークルは、いちおうハードロックとメタル中心だけども、まあポップスもやるしプログレもやるし、いろんな人がいるから大丈夫。活動頻度としては月1くらいのペースでライブやるけど、まあ出たい人だけでバンド組むから、個人のペースでやれるし大丈夫。初心者も毎年いるけど、先輩に聞いたりしょっちゅうライブ出たりしてるうちにいつの間にかうまくなるから大丈夫。男女比は8:2くらいだけどまあ女の子も仲良くやってるし大丈夫! なにか質問は?」
 かなりざっくりとした説明だ。最後のは私に向けたメッセージなのだろう。
「あの、イベントとか飲み会の様子とかは?」
 私の隣に座っていた新入生が聞いた。茶髪でいかにもチャラそうな男の子だが、よく見るとギザギザした読みづらいロゴのデスメタルらしいバンTを着ている。
「あー、毎年8月に合宿をやってるよ。あとは有志で花火大会とか、スキー旅行とかかな」
 ユウキさんが答えてくれた。ああ、こんなイケメンと合宿……! スキー旅行……! と考えて、リナのことを思い出した。合宿なんかには確かに行きたい。でもリナを連れていくのはさすがに厳しいだろう。一晩くらいなら友人に預けられるとしても、数日は無理だろう。そしてなにより、そんな心配なことはできない。リナと離れるくらいなら、そんなもの行かない方がよっぽど精神衛生上楽な気がする。
「飲み会は平和だから安心して!」
「コールなし強制なし、みんな個人個人のペースで飲むし、って感じかな」
 安田涼平の雑な説明に、ユウキさんが補足していく。いい先輩だなあ……と思っていると、それを察したのか、照れたように笑ってくれた。
「俺、新歓係なんだ。だからほんとは説明も俺の仕事なんだけど、リョウヘイさん異常に気合い入ってるからさ」
「そうなんですね! あんなクソ先輩にまで気遣いできて優しいです!」
 安田涼平がこっちを睨む。私も睨み返した。なんなんだあいつ。代表なら新入生には優しくしろよ!
「え、リョウヘイさんとミナミさんって知り合いだったんですか?」
「いや、違います! てか、まあ、はい、違います……」
「そうか~よくわかんないけど」
 ユウキさんがくつくつと笑う。それから思い出したように、スマホを取り出した。
「そうだみんな、新入生に業務連絡とかをするためのグループラインを作ってるんだけど、みんなも招待したいから、よかったらライン教えてくれないかな」
 招待されたラインにはもう30人くらいの人がいた。一番奥に座っていた男子が質問する。この子はかなり普通の服装で、メタルなんかを聴くようにはまったく見えないが、見た目では判断出来ない。
「ひと学年で何人くらいいるんですか?」
「新歓の時期に50人くらいがラインに入るけど、最終的に残るのは20人くらいかな」
「ユウキの代は多いよな、23は12人くらいしかいないぞ」
「そうですね~、代によって差はありますね」
 内輪な会話をする2人に、私たち新入生が怪訝な目をすると、ユウキさんが補足してくれた。
「HMCは入った年ごとに代が決まってるんだ。僕ら去年入った代は、創設24年目だから24期。リョウヘイさんたちは23期。君たちが25期だよ」
「留年しようと浪人しようと、入った代が上なら先輩だし代が下なら後輩だ」
 そう言って安田涼平が私をちらっと見る。わかってるわそんなこと! 人をババアみたいな目で見るな! まあ年上だけど……。
「それよりさ、君たちは楽器とか何やってるの?」
 ユウキさんがにこにことこっちを向いて、私は固まった。残りふたりの新入生はそれぞれドラム、ボーカルと答えるものの、私はなにもできない。
「ミナミちゃんは?」
「あ、私、楽器とか何もできなくて……」
「そうなんだ! 初心者も歓迎してるから平気だよ。なにかやりたい楽器はないの?」
「うーん……どれもかっこいいしどれも難しそう……けど強いていうならベースとか、かっこいいかな、って……」
 口ごもるとユウキさんが身を乗り出した。
「いいじゃん! 俺もベースだしリョウヘイさんも弾けるし、教えてあげられるよ」
「え、ほんとですか」
 安田涼平は新入生たちとどこぞのバンドの話を始めたので、ユウキさんにマンツーマンでいろいろ質問することにした。
「初心者でもできますかねえ」
「大丈夫じゃないかな、けっこう上の代の先輩の話だけど、初心者から始めて2年でプロバンドに入った人もいるし、頑張り次第だよ!」
「すごい……」
 正直そこまでじゃなくても良いが、ユウキさんなりに励ましてくれているのだろう。
「ベースっていくらくらいするんですか?」
「そうだね~ピンキリだけど、安いのは5万とかからかな。ただ音は悪いから、ある程度やるなら途中で買い換えたくなっちゃうかもしれない。8万とか10万とか出せれば、音もそこそこよくなるし、15万20万だせば充分だね」
 貯金はまあまあある、10万くらいのものなら余裕で買えるはずだ、なくなったらまた稼げばいい。「あ、ミナミちゃんって中古とか気にしない人?」
「全然大丈夫ですけど……?」
「確かね、リョウヘイさんがベース飽きたから売りたいだかなんだか言ってたような……ね、リョウヘイさん、リョウヘイさん!」
「えっちょっ……!」
 余計なお世話すぎる! でも好意だと思うとなんとも言えなかった。
「リョウヘイさん、ベース売りたいとか言ってませんでしたっけ?」
「あームスタングのジャズベ? まあ、売りたいっちゃ売りたいけど」
「ミナミちゃんに売ってあげる気ないっすか?」
「なるほどね」
 こんな奴に!? とか言うかと思いきや、すんなり納得した様子に少し驚いた。よく見ると、さっきと目の色が違う。人間観察は得意だ。
「初心者なんだっけ? あれならわりと何にでも使えるしまあいいかもな~……ただムスタングは初心者にはちょっとクセがあるかな……」
 茶化す様子もなく、真面目に考え込んでいる。音楽の話になるとこんな目になるのか。
「とりあえず一回見てみてから決めるか? 明日にでも部室持ってくよ」
中古ってどうなんだろう。私にも持てるんだろうか。いろいろ考えていると、ユウキさんが助け舟を出してくれた。
「そうしてもらえば? 見た目とか重さとかも、気に入らなかったら嫌だしね」
「あ、はい、じゃあそれで……!」
 なんだか、まだ現実感がなくて頭がふわふわしていた。リナを育てながらも受験勉強をしよう、と決意したのが一年半前、この大学に合格が決まったのが1ヵ月と少し前。その時にはこんな厳つい先輩だらけのサークルに入るなんて思っていなかったし、まさかベースを始めることになるとも思っていなかった。
 これでいいんだろうか。学校にも毎日通うことになるし、環境がずいぶん変わりすぎる。大学資金として貯めた貯金もあることにはあるが、大学云々の前にリナと私は2人で生きなければならないのだ。なにかあったら親に泣きつけばいい人たちとは違う。不安は尽きない。
「ね、君たち時間ある? 先輩たちが、夜ご飯食べに行かないかだって」
 スマホを見ていたユウキさんが、私たちに話しかけた。夜ご飯……とスマホの時間表示を見てはっとした。もう5時だ、リナのお迎えに行かなきゃ……!
「ごめんなさい、私ちょっと用事あるので帰ります……!」
 私が立ち上がると、安田涼平も立ち上がった。
「俺もバイトー。また明日会おうな! あとは任せたぞ、ユウキ」
「了解です! 君たちは来る?」
 メタルの話で盛り上がっていた残りの新入生2人は、先輩たちとのご飯に行くようだ。食べたぶんのお金を置いていこうと財布を出した私を、安田涼平が止めた。
「あ、いいよ出さなくて」
「それは悪いです……いちおうこの場で一番年上ですし」
 後半は彼にしか聞こえない小さな声で言うと、奴も絞り出すように言った。
「現実がそうでも、悔しいことにうちのサークルじゃてめえが一番後輩なんだよ」
「私のほうが人生の先輩だろ! てめえとか言うなアホ」
「うるせえな、黙って奢られとけこの生意気女。どうせ部費だ」
 数秒睨み合ってハッとする。こんなことしてる暇はない!
「じ、じゃあ、今日はこれで失礼します! ご馳走様です!」
「じゃあね~、新歓期間は毎日誰かしら部室にいるからまた来るといいよ」
 ユウキさんが爽やかな笑顔を見せるので、私まで心が浄化された気分になった。新入生男子たちも手を振ってくれる。今日はユウキさんや安田涼平とばっかり喋っていたけど、同期になるこいつらとも、これから仲良くしなきゃな~、と考えかけて、思考を止める。いかんいかん、まだ入部するかも決めてないんだった。
 店を出て駅へと歩き出す。安田涼平も駅に向かうらしく、仕方なく2人で歩く形になった。
「このあと何かあんの?」
「まあ、ちょっと……」
 言うか迷ったけど、こいつにはもうリナのことはバレている。
「……娘が保育園に行ってるので、お迎えに」
「はぁ~なるほど」
 一瞬顔が曇ったような気がしたのは気のせいだろう。この際、サークルとの兼ね合いのことを聞いてみてもいいかもしれない。
「あの、安田さん」
「リョウヘイでいいよ、みんなリョウヘイさんとかリョウさんとか呼ぶし、あんたは年上なのに新入生なんて、さすがにそれくらいじゃないと俺もやりづらい」
「じゃあ、リョウヘイさん……」
「なんだ」
 やりづらいとか言いつつ偉そうなのは元の性格か。いちいち引っかかっててもくだらないので、諦めることにした。
「リナ、いや娘のことなんですけど」
「リナって言うんだな。お前よくあんなのいるのに大学来たな」
「あんなのって……! いや、まあそうなんですけどね……」
「あいつ、何歳?」
「今4歳で、週2日は保育園に行かせてるんですけど、それ以外の日はまだ一緒にいさせてあげたいなって」
「それ以外の日は学校にも連れてくんの? 旦那とか親は?」
「……いないんです」
「へぇ」
 とことん興味なさそうな声を出す。でも追求してこないのは少し嬉しい。
「それであの、初心者だし楽器の練習も大変なんですけど、それ以上にライブとか合宿とか飲み会とか、イベントには参加できるかどうか……」
「連れてくりゃいいじゃん」
「へっ?」
 食い気味で投げつけるように言われ、間抜けな声を出してしまった。その考えはなかった。
「一回連れてきてみて、チビが嫌がったり、サークル員がめちゃくちゃ疎ましがったりしたら、その時は預け先だのもろもろ考えればいいだろ。まあ、てめえみたいなババアが何を連れてこようと誰も気にしねーよ」
 言葉遣いは酷いが、よく考えれば寛容なことを言ってくれている。授業にはリナを連れていくつもりだった。小教室で行う週二回の語学の授業の日にリナの保育園を合わせれば、あとは人の多い大教室での授業ばかりだ。
「うちの人たちは、よっぽど筋の通らない人間じゃない限り、排除しようとはしない奴らばっかりだ。一度連れてきてみんなに説明してみろよ」
「い、いいんですか……」
 気づくと駅に着いていた。ちょうど快速に乗れたので、最寄りまでは一駅だ。リョウヘイさんも同じ方向らしく、一緒に電車に乗り込む。
「まあいいんじゃね。どうせ入るかまだ迷ってんだろ。不満があったら入らなきゃいいだけの話だ」
「た、確かに……リョウヘイさんたまには良いこと言うんですね……」
「うるせえ。俺は明日もキャンパスいるから、ガキ連れて部室来いよな。俺もベース持ってくるから」
「あ、はい……!」
 最寄り駅のホームに電車が滑り込む。リョウヘイさんは降りない様子だった。どこまで乗っていくのだろうか。バイトと言っていたし、渋谷とか都内の方に出るのかもしれない。
 軽く会釈をして、電車を降りた。


 普段とは少し違う格好で保育園のお迎えに行った私に、誰もがノーコメントだった。触れにくいとでも思っているのか、顔見知りのママたちも先生も、ちょっと作り笑いの混ざったような笑顔で、いつも通り対応してくれた。ただリナだけがびっくりしたように目を見開いて、「ミナミちゃん、きょうかわいいカッコしてるね……!」とキラキラした声で言った。
 晩御飯のおかずを買いにスーパーに立ち寄る。今日はリナの大好きなカレーだ。
「ね、リナ、私バンドサークル入るかもしれない」
 帰り道、片手にスーパーの袋、片手はリナと手を繋ぎながらそう言うと、リナはわかりやすく笑顔になった。
「ほんと? ミナミちゃん、バンドやるの?」
「まだわかんないけどね。やるかもしれないの」
「へえ!」
「明日サークルの人たちに会いに大学に行くけど、リナも来る? 嫌だったらすぐ帰ってくるからお留守番しててもいいけど」
「リナもいくー!」
「よし、じゃあそうしよっか!」
 不安は尽きない。それでも新しいことにわくわくする胸を抑えることはできなかった。


 次の日の昼前。
 新刊期間のまだ続くキャンパスは、例のごとくごった返していた。背の小さなリナを歩かせると手を繋いでいても危なそうなので、おんぶして人混みをかき分けることにした。
 リナは私のロック風(?)な格好が気に入ったようで、かっこいい~と言って今朝も一緒に洋服を選んでくれた。自分も似たようなものが着たい、というので、デニムのショートパンツにニーハイソックス、黒っぽいTシャツを着せてあげたら少し満足したようだった。さすがに足はスニーカーで我慢してもらった。このロックファッションの何がいいかというと、鞄を持たなくてもだいぶ様になるところだ。デニムスカートと革ジャンのポケットに財布とスマホ、煙草とライター、最低限のメイク直しだけ入れれば完了。リナの荷物はお気に入りの赤い小さなリュックに入れて自分で背負わせた。これだけで、人混みの中でもかなり楽だ。
 リナを背負ったまま階段を上るのはきついので、下ろして自分で上ってもらう。昨日一瞬だけ案内された部室に行くと、昼前だというのに3、4人が中にいた。昨日ファーストキッチンで居合わせた新入生男子の顔を見つけて少し安心する。
「君が新入生のミナミちゃん?」
 そのうちの1人、先輩と思しき男の人に声をかけられた。
「あーはい、そうですけど……」
「あ、ごめん、びっくりしたよね。リョウヘイさんから話だけ聞いてたんだけど、うちのサークルは女子が少ないから、会えばだいたい特定できちゃうんだよね。こっち座りなよ」
「あ……」
 リナは私の後ろに隠れている。この子の話をしなきゃ。
「あの、この子も一緒にいいですか」
「え、あ、まあ大丈夫だけど……その子は……?」
 まわりの人も訝しげな顔をしている。大丈夫、話してみよう。
「実は、びっくりしないで聞いてほしいんですけど、……私の娘なんです」
「娘」
 案の定その場にいた全員がびっくりした顔をした。
「今日はちょっとそのことでみなさんに聞きたいことがあって」
 ちょうどいいタイミングで部室の扉が開き、安田涼平が入ってきた。
「あ、リョウヘイさん」
「おっミナミちゃん、とチビも来たか」
 リョウヘイさんはちょっと身をかがめて、リナを見下ろした。
「よっ、こないだは悪かったな。俺のこと覚えてる?」
 緊張しているのか無言でこくん、と頷くリナに、リョウヘイさんは満足そうな顔をした。
「で、みんなに話した?」
「いま話そうとしたとこです」
 なるほど、と部室にいるみんなのほうに顔を向ける。
「というわけで、ミナミちゃんは子連れなんだが勇気を持って我々のテリトリーに踏み込んできてくれた。反対意見はあるか?」
 なんとも雑で、大袈裟な言い方だ。サークル員は皆まだ混乱した顔をしている。
「ほらチビ、お前も仲間になりたかったら挨拶しな」
 リョウヘイさんに押し出されて、リナが気をつけをした。
「おかもとリナです! よんさいです!」
「好きな曲は?」
 リョウヘイさんが酷な質問をする。サークル員と同じように扱う気らしい。
「んー、すきなきょくは、スターホリックのやつです!」
 スターホリックとはリナが最近ハマっている、バンドものの子供向けアニメだ。私の影響もあるのだろうが、もともと音楽は好きらしい。
「お、スターホリック俺も好きだよ!」
 そういってくれたのは、初めに話しかけてくれた先輩だ。これまたダメージ加工だらけのパンクみたいなファッションをしていながらアニメにも造詣が深いとは驚きだが、エアドラムを叩く真似をしながら主題歌のサビを歌う。リナも緊張がほぐれたようで、目を輝かせた。場の雰囲気が少し和む。
 ほっとしていると、リョウヘイさんが冷たい横目で睨んできた。
「4歳児が自己紹介できてお前はどうなんだ」
「あっはい……!」
 無意識にあわてて姿勢を正す。
「あ、あの、美波です! いろいろあって、もうすぐ22ですが、新入生です。好きなバンドは、ガンズとかエアロとかそういうのです」
 少しドキドキしながら自己紹介すると、別の先輩が答えてくれた。
「ハードロック好きなんだねー、とりあえずこっち座りなよ! 俺は2年生、24期の神山だ、よろしく! あ、そのへんに置いてあるお菓子、自由に食っていいよ」
 一気に歓迎ムードになる。さっきまでリナとアニメの話をしていた、水野と名乗る22期の先輩も話しかけてくれた。
「歳なんてへーきだよ、大学入ったらいろんな人いるからな」
「現にこの先輩は浪人に留年を重ねて、22期なのに22歳2年生だし気にしなくて大丈夫だよ!」
「やめろ! ミナミちゃんが気にしなくても俺は気にしてるんだ!」
「じゃあ今年こそ進級しましょうね……」
 新入生の男子は、崎本と名乗った。見た目はチャラそうだわ、好きな音楽はデスメタルらへんだわ、仲良くなれるのか不安だったが、聞けば同じ文学部らしい。履修や授業で助け合う協定をさっそく結び、少しほっとした。リナはリョウヘイさんにお菓子をもらって楽しそうにしているし、先輩同士も仲良さそうにしている。私はといえば、崎本と履修の話をしながらも、先輩たちの顔と名前、スペックを叩き込む作業を繰り返していた。キャバ嬢をやっていた頃の癖で、こういうのは早めに覚えて間違えないようにしている。神山さんは24期であらゆるジャンルが好き、楽器はギターとボーカルらしい。水野さんは22期だけど22歳2年生、アニメも詳しいようだ。話を横耳で聞いている限り、サークル外でパンクバンドのドラムをやっているようだ。
「てか腹減らないすか? 俺、新歓係で、ずっと部室に来た新入生対応しなきゃいけないから外出られなくて……腹減ってる人いたらついでに、なんか買ってきてもらえないですかね?」
 神山さんが言った。
「ああそっか、お前とユウキが新歓係か。なんで24期がここにいるんだって思ってたわ」
 水野さんいわく、HMCでは毎年2年生、今年は24期が運営代になるそうで、新歓もこの代が中心になって行うのだそうだ。私もこのサークルに入ったら来年には新入生を迎える立場になっているのだろうか……。
「よし、生協行こうぜ。ミナミちゃんとリナも来いよ」
 リョウヘイさんが立ち上がる。神山さんを留守番に残して、神山さんとリナを先頭に5人で部室を出た。
「崎本くんは現役なの?」
「はい、浪人するか迷ったけど、そんな元気はなくて」
 チャラそうだとばかり思っていたが、話してみるとしっかりした受け答えをする。さすが、この大学に現役で入るだけのことはある。
「同期なんだしタメで喋ってよ、私も同じ一年生だから」
「あ、うん。でもミナミさん、そんなに気にしなくても一年生に見えるよ」
「え! そうかなあ!」
 崎本の言葉に嬉しくなっていると、前を歩いていたリョウヘイさんが話を聞いていたらしく、こっちを振り返った。
「つまり大人の色気がないってことだよ、残念だな」
「うわ酷っ!」
「言ってない! 俺そんなこと言ってないっすよ!」
 わちゃわちゃと笑い合う。高校にもろくに通っていなかったから、高校時代をすっ飛ばして、10年近く前の中学時代をぼんやりと思い出す。空気があの頃に似ている。
 これが、青春なのか。だとしたらあと4年間もこれが続くなんて物凄い幸せなのかもしれない。


 生協でお弁当とお菓子と、神山さんの分のご飯を買い、またみんなで部室に戻る。各々がご飯を食べていると、リョウヘイさんが思い出したように、部屋の隅に置いていたベースケースを持ってきた。
「そーいやミナミちゃん、これ見せるために呼んだんだったわ」
 食事もそこそこに中身を取り出す。綺麗な真っ黒のベースが出てきた。
「どうこれ? かっけえだろ」
「え……こんなの売ってくれるんですか……」
 ボディーに傷はほとんどない。見るからに高そうに見えた。
「ああ、いいよ。こないだ先輩からもう1本買っちゃってね、そっちメインで使うことにしたから」
 いとも簡単に言うが、いくらくらいしたものなのだろう。大学生がそんなにぽんぽん買えるような値段でもないはずだ。そう思っていたら、水野さんが同じ質問をしてくれた。
「リョウヘイお前それいくらで買ったの」
「これも、とある人に譲ってもらったんだけど、ほぼ新品で買ったから20万でした。定価で25くらいじゃないかな」
 20万……! それを容易く払える大学生はそうそういない。親のすねをかじりまくっているか、夜のバイトでもしているかのどっちかだろうが、リョウヘイさんは見た感じ後者の方に思えた。
「まあ、買ってから何回かライブで使ったし家でも弾いてたし、そうだなあ~、ケースとストラップ付きで、新入生割引もつけて、10万、でどう?」
「えっそんな安くていいんですか!」
「じゃあ12」
「いや、10万で買いますありがとうございます!」
 これが自分のものになるのかと思うと夢みたいだった。リナもポッキーを片手に、目をキラキラさせている。
「よかったな! これで10万とか、かなり良心的だよ」
 落ち着いた声がして振り向くと、見知らぬ先輩らしき女の人が立っていた。ヒラヒラした二の腕むき出しのブラウスにゴシック風なレースのスカートにニーハイ、髪はかろうじて黒に金メッシュだが、それ以外は見事に黒ずくめだ。
「君がミナミちゃんだね! 私は23期の秋山。女の子が入ってくれてよかったよ、よろしくね!」
 サバサバした笑顔で握手を求めてくる。握った手にはゴツゴツした銀の指輪がたくさんついていた。「おっ、君なんかおいしそーなもん食べてるね! 私にもくれるかな?」
 彼女はなにも気にすることなくリナに話しかけていて、内心ほっとした。
「あの、秋山さん」
「アキでいーよ。なんか知らんけどアキとかアキさんとか呼ばれることが多くてね」
 アキさんはリナからポッキーを受け取りながらそう答えた。
「あ、アキ…さん。その子リナって言って、実は私の娘で」
「へーそうなんだ。ポッキーもう1本くれる?」
 あまりにも無関心そうな反応に、また不安になる。察したのか、リョウヘイさんが口を挟んでくれた。
「大丈夫だ、アキはいつもああだから」
「だって、自分に深く関わってこない限りみんな一緒じゃーん」
「お前、そろそろその寂しい性格直せよな……」
 水野さんがため息をつく。かなりドライな人らしい。
 それからしばらくは、受け取ったばかりのベースを少し弾かせてもらった。ギターをやっているというアキさんが向かいに座り、いろいろ教えてくれる。基本的な名称やチューニング方法をさらっと説明したあと、どこを押さえれば何の音が出るかなどを解説してくれた。ただ、アキさんの説明はかなりざっくりしているので、リョウヘイさんや神山さんが、30分に1人くらいの割合で来る新入生の対応の片手間に、ちょいちょい口出ししてくれた。崎本くんは高校生のころからドラムをやっているらしく、同じくドラマーの水野さんと音楽の話をしながら、リナの相手をしてくれている。
 新入生が先輩に連れてこられたり、部室にいる先輩が外勧誘に出ていったり、来た新入生が帰っていったり、外勧誘をしていた先輩が休憩しに来たり、人が散々出入りする中で、新歓係の神山さんとリョウヘイさんは部室から動かなかった。アキさんは1時半頃に、眠いから帰るわーとマイペースに帰り、崎山くんと水野さんは話が盛り上がりすぎて、真っ昼間からキャンパス裏の居酒屋にと出かけていった。なんてフリーダムな人たちだろう。実際部室はけっこう狭かったから、次々と来る新入生にサークルの説明なんかをしていると、あまりスペース的な余裕はなさそうだった。リナは部室の端の目立たないところで昼寝をしていたので、突っ込んでくる人は少なかったが、話をした大半の人は、驚いたあと可愛い、和む~などと言ってくれ、受け入れられたように思えた。私はリナのそばでひたすら、教わった超基礎スケールをたどたどしく弾いていた。全然弾けないのにとても楽しい。弾けるようになったらもっと楽しいんだろうな。
「お、もう3時か。今日の新歓は終わりだな」
 リョウヘイさんがそういった時、部室には私とリナ、リョウヘイさん、神山さん以外に2人の新入生がいた。ふたりともリナの寝顔を見て破顔している。内心どう思われているのかはわからないが、表面上だけでも認められたようで、少し嬉しかった。
「よーし今日は解散! 神山はまだシメとかあるよな?」
「あ、そうでした。24期は毎日新歓後、喫煙所でミニ反省会することになってるんです」
 そういって部室を出ていく。新入生も、また来ます、と名残惜しそうにしながらも立ち上がった。「お前も帰るだろ?」
「帰りますよ。でも、リナを起こすか、ベースを置きっぱなしで帰るかしなきゃ……」
 しかし、リナは揺さぶっても起きる気配がない。たくさんの初めての人と会って疲れたのだろう。今日からベースの練習をしたかったが、置いていくしかないのだろうか。そうなると、明日はリナを保育園に行かせて1日バイトで、そのあとは土日で、取りに来られるのは……などと考えあぐねていると、リョウヘイさんがすっとベースケースを背負った。
「えっ、それ私今日……」
「送るよ、家まで」
「えっ」
 何を言っているんだ、こいつは。
「だって無理だろ。じゃあ俺がチビ背負うか」
「えっそれは絶対嫌だけど」
 あわててリナを背負う。リョウヘイさんはさっさと部室のドアに向かっていて、私はあわてて靴を履いた。外から鍵閉めるぞ早くしろ、と急かされながら、とりあえず部室を出る。
「……なんなんすかほんとに。家突き止めるつもりですか? ストーカーかなんか? ヤる気?」
 だいぶ人の減ったキャンパスを、先を歩くリョウヘイさんの背中を追いながら問うと、リョウヘイさんは馬鹿にしたような声を出した。
「は? 子持ちババアに興味なんかあるかよ」
「おいコラてめえ」
 見上げながら睨むが、リョウヘイさんは気にしない。ともかく、人は信用しちゃいけない。アパートの近くまでベースを持たせて、手前で引き払ってもらおう。
「で、どーすんの。HMC入んの」
「うーん……みんな受け入れてくれるかな……」
「仮入部だけしてみれば」
「そんなに私に入ってほしいんですか」
「アホか、俺だっててめーみたいな後輩はいらないけど、代表として新歓はしなきゃいけねえんだよ。特に女子は貴重だからな」
 意地悪な質問をしてみたら、意地悪に返された。当たり前か。
 改札を入ると、これまた運良く快速が来た。電車も席がいくつか空いていたが、リナをおろすのも面倒だし、どうせ数分で最寄りに着くのでドアの近くに立つことにした。お互い喋ろうとしないので沈黙が続く。気まずいが話題もない。窓の外には桜が少しずつ散りかけながら咲いている。
 幸いなことに、すぐに最寄り駅についた。改札を出て右のロータリーを抜け、リョウヘイさんより半歩先に自宅へと歩く。住宅街に差し掛かり、もうすぐアパートに着く、というところで、リョウヘイさんが考え込むようにしながらやっと口を開いた。
「……俺はガキの扱いはわからないし、ガキ好きじゃないやつだっているだろうけど、うちはいちおう年齢性別経験所属、全て不問だ。合わないやつは結局いつか淘汰されていくし、初めのうちはいろんなやつがいていいんだ」
 たまには代表らしい良いことも言えるじゃないか……。つい顔を見上げると、目を合わせないようにそっぽを向かれた。
 アパートの前に着いた。
「あ、ここの二階なんで。ありがとうございました」
「てめえじゃガキとベース持って上がれないだろ」
「は? ちょ、待てよ!」
 追い払おうとしたのに、先にどんどん外階段を上がられてしまい、慌てて追いかける。
 部屋は階段をあがって正面だ。リョウヘイさんは目敏くすぐに表札を見つけたらしく、ドアの横にベースを下ろした。
「あー重かった。じゃあな」
「えっ」
 本当にこのまま帰るつもりらしい。別に何の不満もない、どころかとてもありがたいが、今までちょいちょい男に騙されてきた私にとっては少しびっくりだった。
「ミナミちゃんと遊んでる暇はないんだ、残念ながら」
 からかうような口調で言う。
「じゃ、仮入部ってことでいいな? 仮入部リストに書いとくわ」
「あ、はい……!」
 私の返事が終わるか終わらないかのうちに、リョウヘイさんは階段に向かっていた。
「あの、ありがとうございました。わざわざ送っていただいて」
 降りていく背中に呼びかけると、リョウヘイさんは真顔で振り返った。
「貸し1な」
「は?」
「タダでてめえなんか送るかよ、世間はそんな甘くねーぞ」
 それだけ言うと、悠々と階段を降りていく。私は少し呆然としていたが、急に怒りが湧いてきた。「……はあ!? こっちだって頼んでねーし!」
 即刻、入部の意志が揺らぐ……が、こんなことに負けてはいられない。所詮私よりガキだ……落ち着けミナミ……!
 リョウヘイさんの背中が遠ざかっていく。
 ふいに暖かい風が吹いて、桜の花びらが舞っていった。


こうして私はいちおう、HMCに入部することになった。
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蔵屋
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漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

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