どうかあなたで満たしてくれ

けい

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序.例えば、■■

感光

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 豪勢だと、ただ単に事実を認識する。黒の石でできた床に紫の模様が散っていて、その奥にぎんいろのきらめきが見えている。顔をずっと俯かせていたから、奥の玉座にだれかが腰掛けていることだけがわかった。
 そして。

「面を上げよ、ヒューゴ・カグラ。異教の神の恩寵厚きものよ」

 冷たい、酷薄なまでに明瞭な、共通語だった。この国の言葉でもなく、母国の言葉でもない。むかし、世界が一つだったときの名残の言語。
 後に、それは気遣いだったのではないか、とヒューゴは思い返したが、それはそれとして。

「お初にお目にかかります、皇帝陛下」

 共通語は話せる。昔教わった記憶を懸命に辿りながら、しかしそれを表に出さず。皇帝の臣下らしき男がかすかに身じろいだのがわかって、通訳しようとしていたのか、と察する。
 遺灰色の瞳でひたと上座を捉え、そこでようやく、ヒューゴは皇帝の姿を視認した。研ぎ澄まされた刃のような冷徹を帯びる瞳に前髪がかかって、その一部を隠している。
 見目からは物理的な圧迫感は覚えない。むしろ普通の人間であるような錯覚すらある。しかし身の竦むほどの、脳髄を凍らせるような、そんな圧力が、真上から降ってくるのだ。
  
「……そなたの奉ずる神は白を好むと聞くが、なるほどそれは真実であるらしい」

 ひとつ瞬いて、肘掛けに頬杖をついた彼はそう言った。存外そこに秘められた理知を感じさせる言葉遣いである。

「ご慧眼、恐れ入ります」

 言葉の一端すらも震えさせず。まっすぐ皇帝のほうを見つめ、そう返した。
 ひとつ彼が頷く。
  
「そなたは神に仕えるものと聞いている。まさか、異教とはいえども神官をこそ無下に扱うわけにもいかない。それがたとえ人間であったとしても、だ」
「それは……」
「のちにそなたを留め置く場所に案内させる。処分が決まり次第伝えるが、しばらくはそこで過ごしてもらうことになろう」
「皇帝陛下の寛大なるお心に感謝いたします」

 帝国は無慈悲で冷酷な国なのだと聞いていたが、異教の徒たる自分を弾圧するつもりはないらしい。たとえここで死んだとて構わないと思っているが、積極的に死にたいわけではないのでそれを甘受する。
 しずかに頭を垂れるヒューゴを一瞥して、皇帝はその動作だけで退出を促した。かつかつと靴音を立てて近づいてきたのは先程の男がひとりだけ、彼についていけということらしい。
 ひとつ礼をして立ち上がろうとしたヒューゴを、「ああ、そうだ」という皇帝の言葉が引き止めた。瞬間顔を上げて、エレヴィスとまっすぐに目線を合わせる。
 ───寒気がした。底冷えがするような、という形容がよく似合う。だが、何故だか他人でないような、親近感を覚えたような、そんな気もした。
 
「そなたが今、問題なく呼吸が出来ているのは、神の加護によるものか?」
「ええ。そのようです。それが、どうかいたしましたか」
「いや。……質問は以上だ」

 なぜ彼がそんなことを問うたのかはわからなかった。言葉に交じる感情を読めない。

「私、トリス・アテナイヴァと申します。ご案内しますので、どうぞよろしくお願いします、ヒューゴ殿」

 トリスと名乗った男性にひとつ会釈でこたえる。

「トリス様。よろしくお願い申し上げます」
「それではこちらへ。しばらく歩きますがご容赦を」

 構いません、と頷けば、トリスが皇帝へ一礼して歩き出す。それにならおうとしたとき、ふと気になって一瞬振り向いた視線の先、エレヴィスの表情に滲んだいろの答えを、ついぞ読み取ることはできなかった。

 先を行くトリスの背を追って、石作りの廊下を歩む。他のものとはあまりすれ違わなかったし、そうであったとしても一礼されて通り過ぎるのみであった。
 等間隔に灯された火の橙が揺れている。
 
「……すみません」
「はい、如何されましたか?」
「皇帝陛下はどのような方なのでしょうか。もしよろしければお聞かせ願えませんか」

 ちらとトリスの視線が振り向いて、しかし歩みは止めずに彼は答える。そういえば彼は当然のように共通語を話していて、そもそもの育ちが上流階級のものなのだろうか、と推察した。
 
「どのようなと言われると難しいものがありますが……支配者、あるいは王と形容するのが相応しいように考える次第でございます」
「支配者、ですか」
「ええ、厳しいように見えますが慈悲深くもあり、かといって裁定をくだすのも厭いません。まさしく王の器の呼ぶべき御方でございましょう」

 成る程、とひとつ呟いて、ヒューゴは目を伏せた。

「ありがとうございます」
「いいえ、構いません。……到着いたしました。こちらです」

 そう言ってトリスが指し示した扉は質素なもので、しかし牢という雰囲気でもないからすこし困ってしまう。
 彼がそこの鍵を開けて、促されるままに中に入る。

「ここは……」

 おそらく寝台らしきもの、机、長椅子、大きな窓。広々とした空間には、それだけの調度が置かれていた。
 
「必要なものがあれば随時お申し付けください。……失礼、ヒューゴ殿。こちら、つけさせていただきます」
「はい、わかりました」

 トリスの手に握られていたのは銀製の手錠で、いっそ装飾品めいた華奢さと緻密な模様が特徴的である。かちゃり、と金属音を立てて左手首に嵌められて、銀の輪につながる鎖が寝台の柱につなげられる。
 鎖の長さは重すぎるほどじゅうぶんにあるから、部屋の中を歩き回る分には困らないだろうが、外に逃げるのは叶わないだろう。
 なるほどどこへ行っても同じというわけだ、と思ったのを覚えている。

 夕食はあとでお持ちしますので、と言われ──要するにしばらく暇ということだが──、漫然と窓の枠へ寄りかかるようにして外を眺める。
 塔の上なのだろう、ずいぶん地面は遠く見え、しかし格子のない景色というのは悪いものではない。硝子越しでこそあるが鮮やかさが違うのだ。
 そんなふうに見入っていた、そのとき。

「……身を投げるつもりか」

 驚いてヒューゴは振り返った。まったく気配に気付けなかったのだ。
 部屋のとびらを背にして立っていたのはエレヴィスで、そのかすかに眉をしかめたような表情に、小さく首を振る。
 
「いいえ、そんな。硝子をやぶることなど、いくら神性をもってしても不可能でしょう。……少し感傷に浸っていただけにございます」

 エレヴィスの眉が上がる。理由を問われたのだとわかったから、その先の言葉を探してみる。
 何故彼はここにいるのか、という疑義はさておいて。

「……どうせ父や兄たちはもういないのだと思うと────なんだか馬鹿らしくなってしまうものですから」

 強烈な自我のきらめきが、ヒューゴの瞳に散る。そう言葉にしてしまえば簡単で、とつぜん激情が込み上げてきた。
  
「私をさんざん縛っておいて、最期は自害で逃げる、と?」

 ひゅっ、と浅く息を吸った。心臓が跳ねる。

「あのひとたちさえいなければ出来たことが、私にはたくさん、たくさんあるはずなのに、なぜ……! なぜ、……ッ」

 慣れない感情に支配されたからか、声が裏返ってしまう。肩を上下させながらそう叫ぶヒューゴに、エレヴィスは目を細めた。
 そこでようやく、恐ろしい無礼をはたらいたことに気付く。早鐘を打って収まらない心臓を隠すように、その場に跪いて冷静の仮面を被った。その動きに追随してくる鎖の音がやけに響いている。

「申し訳ありません。取り乱しました」

 そう言って平伏せば──この国の礼儀を知らないので──、しかしエレヴィスはそれを咎めるつもりはないらしい。
 
「構わない。……ならば、ひとつ問おう。おまえは、私を恨むか」

 え、と声がこぼれた。反射で顔を上げている。金色の、つめたい瞳孔がこちらを見据えていた。
 つまりそれは父と兄の死の原因になった彼を恨むかということであって、それを考えてみれば───いいえ、と返答していた。
 しずかな部屋の中、ヒューゴの声だけがそこに響き渡る。
 
「まったくそうは思いません。むしろ、そのことに関しては清々しさすらあります」

 ああ、きっと。
 
「私を、あなたは解放してくれた。そう言ってもいいかもしれません」

 この感情は罪だ。だってひとが死んでいる。それでも、ただ、目の前のエレヴィスという男が、まるで救世主のように見えたものだから。
 自然そんな言葉を紡いでいて、ヒューゴは気付かぬうちに涙を流していた。すう、とこぼれおちたそれは随分久方振りで、頬を濡らす感覚に動揺する。

「おまえの処遇について、話がある」
「ええ、如何様にでも」

 ひとつ息を吐いたエレヴィスが、そのままに告げる。

「おまえには、私に臣下の礼を取ることを求める。そのうえで自らの土地をよく治めよ」

 ああそうか、とぼんやり理解する。父と兄が死んだから、つぎの正統後継者はヒューゴなのか。エレヴィスはさらに話を進めた。
 
「諸々の処理が済み次第、おまえは島に戻り、」
「それは、……ッ」

 一転縋るような声音で、ヒューゴが遮る。見開いた白瞳を潤ませ、細かく震えながら。エレヴィスはそれを不敬と断ずることもできただろうが、なぜかそれをしなかった。
 ほう、という声とともに、わずか眉を上げられたのがわかる。

「なぜ?」
「いえ、……出過ぎたことを申しました、どうぞお許しを」
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