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序.例えば、■■
光芒
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◇◇◇
────突き刺されるような感覚。
一瞬で覚醒した意識と研ぎ澄まされた知覚が、異質なものを感じ取る。
神性によるものなのだろうが、そのときのヒューゴは、いわば魔力探知のようなことを行っていたのだ。あたりに自分の領域を広げ、そのなかを精査する──もっとも、そのときは無意識にやっていたのだが。
そして。
「トリス様!! 皇帝陛下が……!!」
エレヴィスの魔力を感じ取る。帝城の一画、おそらくエレヴィスの寝室に、彼のつめたくきらめく魔力がある。
ただし、それを覆うからだは、まったき闇に沈んでいた。まるで毒にでも冒されてしまったような。
ああ、でも。これくらいならば。
「トリス様!! すぐに、すぐに私を、陛下のところに連れて行ってくださいませ!!」
部屋に入ってきたトリスに、もはや掴みかからんばかりの勢いでそう叫べば、彼は気圧されながらも頷いた。
後にトリスは、この時のヒューゴの剣幕がいちばん荒々しかった、と回想するのだが、それはさておき。
寝室の扉についた近衛兵はトリスが黙らせ──無論言葉で、だが──、ついにヒューゴは皇帝の寝室に辿り着いた。
「誰だ!」
「……異教の客人殿とお見受けするが、何用か? トリス、そなたもだ」
部屋に入った瞬間、耳に飛び込んできたのは男性の声。そして後を追いかけて、張り詰めた弦のような女性の声が響く。
「皇帝陛下、それからアーレストス卿、姉上。突然申し訳ありません」
トリスが一礼するのにならってヒューゴも礼を取る。ひとつ頷いた彼女が、ちらと自身へ視線を寄越すのを感じた。
「──客人殿、いや、貴殿の名前はたしか……ヒューゴ殿、だったか? 名乗りもせずに失礼した。私はフェン・アテナイヴァ、宰相を仰せつかっているものだ」
「中央騎士団団長。シュヴィト・アーレストス」
後の声の主、すらりと背が高く理知的な面立ちの女性は、フェンと名乗ったままにとなりの男性を指し示す。彼女の言葉の先を奪うように、低い声が名乗りを上げた。
魔性のものの重ねた年は、外見年齢と等しくないことはわかっているが、それでも彼、シュヴィトはもう老年期に入っているのではないかと察せられる容姿である。
その灰色の目と視線があった瞬間、ぞくりとからだに震えが走った。彼の手に握られた長剣が物々しさにさらに拍車をかけていて、高位のものにしか許されない朱の外套が揺れる。
彼が、重々しく口を開く。
「それで? こっちが今どんな状況か分かってんだろうな、客人殿、フェンの弟御よ」
「姉上、説明を願えますか? もし我々に聞く権利があれば、ですが」
トリスがフェンのほうを見やる。彼女は首を縦に振ると、やや動揺を滲ませた声で話しだした。
「海魔と戦闘中、陛下は大魔法を行使された。大魔法自体は発動して、無事に海魔を祓うことができたのだが、そのあと突然お倒れになった、という次第だ」
「目立った負傷もねぇし魔力切れって訳でもねぇからタチが悪いって話だ。……──状況は分かったな? それで、お前さんはなにが出来るってんでここに来た?」
がり、と長剣の鞘で床をなぞりながら、シュヴィトは威圧感を伴って言う。こちらを見つめた灰色は燃えるようで、若干気圧されてしまうのだが、それでも。
「私が、なんとかできると、思うのです」
「なんとか……とは、具体的には?」
フェンが訝しげに眉をひそめて割り入ってくる。すう、と、もう一度深呼吸して、あたりを見回しながら、ヒューゴは告げた。
「……───私の神性を、返還します」
そう言われて意味のわからないものはここにはいないのだろう。皇帝の寝台近くに立つフェンとシュヴィトですら顔を見合わせた。
「それは、まさか」
「正気か? ……あんたは人間なんだろうが」
「それはもう、充分すぎるほどに」
ヒューゴは泰然と微笑む。ちらとエレヴィスのほうへ目を向ければ、そこから伝わってくるのは落ちるような黒さであった。先程よりも範囲を増している。
それで、鳥肌が立つほどの悪意に蝕まれているのだとわかってしまった。全身に満ちる神の祝福が、これはいけないと警告してくる。
ならばその原因も自ずと知れようというものだ。
「陛下を蝕んでいるのは……そう、神域の呪毒、でしょうか?」
「我々もその見立てで進めているところだが。……解毒のための術式が見つからない」
「俺も検分したが、あれは神竜の血だろうな。しかもいっとう呪われた最悪の───陛下があんなもん隠してた訳までは分からんが、ともかくもう冥王の館に片足突っ込んでるくらいの状態ってわけだ」
もはやその憤りと苛立ちを隠しもせずにシュヴィトが吐き捨てる。
「ならば、私の神が手を引きましょう」
まっすぐ、彼の目を見つめてそう言えば。
シュヴィトがその瞳に驚きを揺らして──そして、笑った。
「はは、いいぜ、俺は乗った! そうという覚悟の決まってるやつは誰だろうと祝福する、それがアーレストスの流儀だからな!」
「陛下のお身体に響くでしょう。少しは声を抑えていただきたい、アーレストス卿」
ひとつため息をついてフェンが諌め、ヒューゴに目礼する。
「失礼、見苦しいところを。もし、あなたがほんとうに、それをしてくださるというのであれば……我々としては、それ以上のことはありません」
彼女の口調が、ひとを敬ったものに変わる。
高い位置でまとめ上げた髪を揺らして、トリスによく似た顔立ちに緊張感を漂わせて。その様子を見たトリスが呟く声が聞こえた。
「姉上……」
フェンはなにか思索するように一瞬目を閉じるが、その脳裏でなにを考えたのかなど想像もできず、ヒューゴはただ紡がれる言葉を待つほかない。
そして彼女がひとみをひらく。
「ヒューゴ殿。もし上手くいかなかったとしても、それは貴殿の責ではないのです。本来、他の手段を用意できない──異邦のものに頼らなくてはならない、貴殿の命を賭けてもらわなくてはならない、私たちの無力をこそ、咎められるべきですから。どうぞご存分に」
「はい。どうかおまかせを、皆様がた」
受け入れられた安堵とともに、ヒューゴは笑った。落ち着いているようで焦燥を隠し切れずに立っているフェン、ヒューゴへ寝台横の場所を空けたシュヴィト、そのほか待機している十柱の魔神たち、そして自分の後ろに控えたトリスへ向けて。
かつかつと靴音を鳴らして寝台横へ歩み寄れば、たしかにエレヴィスの整った面立ちには汗が滲んでいて、もともと白い頬は青ざめているようですらあった。
「──皇帝陛下」
「おまえ、は……ヒュー、ゴ?」
ひとつ呼びかければ、エレヴィスは、うすくその瞼を持ち上げる。どうやらまだ意識はあるらしいが、奥の瞳は焦点を失いかけているようでもあり、時間はさほどないと悟る。
どちらにせよ、もう覚悟は決まっているのだが。
「《天に坐す御神よ、陽の貴き父よ。すべてを遍く照らすものよ───」
きらり、灰色の瞳が、強烈な光を帯びる。
かつてなくからだが熱い。自分で決めたことを、自分のやりかたで実行できること、それを貫き通せることの、なんと心地の良いことか。どんな痛みも、恐怖も、それを妨げることはできないのだ。
たとえ自分の価値がそれしかなくても。否、それしかないならばこそ。
自然、唇は神への言葉を紡ぎあげていた。
「それは恩恵、祈りの結実、救世の具現。祝福の証、我が神性。すべてをここに────お返し申し上げる!》」
式句が、結ばれる────神性が、返還される。
本来神性とは恩恵である。ひとの身にはあまりに過ぎた特権である。
ゆえに、それを自ら手放す際に伴う、いわば無欲に対する褒賞は、ひとひとりぶんを救ってなお余りあるものとなるはずのだ。
神域の呪い、神の敵たりうる毒ならば尚更に。
閉じた視界の中、神の声がきこえる。ヒューゴに、自らが愛したものに、問うている。汝、その果てになにを望むか、と。
応えて、希う。
どうか。このかたの命が救われますよう。自らが救われたように。
どうか。これからも、このかたが生きていけますよう。自らがそうできたように。
そして。
神の声が聞こえなくなる。
開いた視界が、ひかりに満ち溢れる。それは己の右手から放たれていて、導かれるようにエレヴィスの胸に触れていた。そこから、神の浄化の力が、彼の身体に流れ込んでいく。
エレヴィスが、その瞳に光を反射させて、かすかに目を見開く。口元が、なにを、という形に動く。
「神の毒が、あなたを蝕むのなら……───それを、神の祝福で打ち消せるも、また道理でしょう」
たとえ冠した名が違うとしても、神という概念としては同じなので───と知ったのはずいぶん後のことだったが。
そのときのヒューゴには、ただ結果があればよく。果たして、自らのからだから、神性が抜け落ちるのを感じた。
「では、……な、ぜ……?」
焦点を取り戻したエレヴィスに、絞り出すように尋ねられる。
「貴方には、恩がございます故に。それに……私の命を賭してすれば、救えるものがあるというのに、それをやらないのは罪でしょう。許されざる悪徳、罰されるべき咎でしょう」
「だれに強制されたわけでも、ないだろう……? なのに、なぜ、」
金色と目を合わせる。
「それはやらない理由にはならないのです、皇帝陛下。私が、そうしたいと、思ったからです」
すべてを捨てて逃げることだってきっとできた。そうしなかったのは、ひとえに、神の祝福が、曲がりなりにも己の力が、あの地の民のためには必要だったからだ。そのためならばどんな暴力も耐えよう、己の心を殺しさえすれば良いだけだから。
己ひとつの命で大勢が救われるならば、それほど良いこともないだろう。多くの幸福のために身を捧げることの、なにがいけないのだろう。
エレヴィスの表情に、明確な驚愕がひらめく。ずっとこちらが驚かされてばかりだったものだから、ヒューゴはすこし笑ってしまう。まるですこし、気が緩んだような。
つい、隠していた弱音を吐いてしまうほどには。
「ふふ、ああ、でも、すこし……もう、へいかとお話できないのは、さみしい、ですね……」
エレヴィスが思わずからだを起こし、その場にくずおれたヒューゴに手を伸ばしてくる。
からだに力が入らない。
「おまえ、は、……ッ」
「あ、ぁ……!!」
びくりと全身が痙攣する。
この地には魔力が満ちすぎているのだ。神性を持っていた頃のヒューゴならば関係のない話ではあったが、ただの人間、しかも神や聖霊の加護のないすがたでは、耐えられるはずもない。
まるで全身が圧し潰されるような痛みである。ばきりと骨が砕ける音さえしている気がして、ヒューゴは歯を食い縛った。
かつて、親に殴られていたとき、これほどの痛みを伴うこともあるまいと思っていたのだが、ずっと、ずっと痛い。耐えられるはずだと思っていたのに、涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。
だめだ、いま泣いたら、エレヴィスに要らぬ心配をかけてしまう。だってひと欠片も後悔などしていないのに、意思に反して視界が潤む。
「う、あ゛……ぐ、」
「ヒューゴ!」
びくん、と全身をはねさせてくずおれたヒューゴを、エレヴィスが受け止める。
腕の中から見る彼の表情はいやに焦っているように見え、やはりそれがおかしかった。
だって彼は皇帝だ、数多の犠牲の上に立つものだ。この部屋にあるものは皆、そうと命じられれば命を捨てるだろう。エレヴィスだって、そうしなくてはならない状況になれば躊躇なく命じるだろう、という確信がある。
なのになぜ、彼は、そんな顔をしているのだろう。
「おまえ、は……」
もう一度、エレヴィスの震えた声が、自分を呼んだ。それを最後に、ヒューゴの記憶は暗転する。
────突き刺されるような感覚。
一瞬で覚醒した意識と研ぎ澄まされた知覚が、異質なものを感じ取る。
神性によるものなのだろうが、そのときのヒューゴは、いわば魔力探知のようなことを行っていたのだ。あたりに自分の領域を広げ、そのなかを精査する──もっとも、そのときは無意識にやっていたのだが。
そして。
「トリス様!! 皇帝陛下が……!!」
エレヴィスの魔力を感じ取る。帝城の一画、おそらくエレヴィスの寝室に、彼のつめたくきらめく魔力がある。
ただし、それを覆うからだは、まったき闇に沈んでいた。まるで毒にでも冒されてしまったような。
ああ、でも。これくらいならば。
「トリス様!! すぐに、すぐに私を、陛下のところに連れて行ってくださいませ!!」
部屋に入ってきたトリスに、もはや掴みかからんばかりの勢いでそう叫べば、彼は気圧されながらも頷いた。
後にトリスは、この時のヒューゴの剣幕がいちばん荒々しかった、と回想するのだが、それはさておき。
寝室の扉についた近衛兵はトリスが黙らせ──無論言葉で、だが──、ついにヒューゴは皇帝の寝室に辿り着いた。
「誰だ!」
「……異教の客人殿とお見受けするが、何用か? トリス、そなたもだ」
部屋に入った瞬間、耳に飛び込んできたのは男性の声。そして後を追いかけて、張り詰めた弦のような女性の声が響く。
「皇帝陛下、それからアーレストス卿、姉上。突然申し訳ありません」
トリスが一礼するのにならってヒューゴも礼を取る。ひとつ頷いた彼女が、ちらと自身へ視線を寄越すのを感じた。
「──客人殿、いや、貴殿の名前はたしか……ヒューゴ殿、だったか? 名乗りもせずに失礼した。私はフェン・アテナイヴァ、宰相を仰せつかっているものだ」
「中央騎士団団長。シュヴィト・アーレストス」
後の声の主、すらりと背が高く理知的な面立ちの女性は、フェンと名乗ったままにとなりの男性を指し示す。彼女の言葉の先を奪うように、低い声が名乗りを上げた。
魔性のものの重ねた年は、外見年齢と等しくないことはわかっているが、それでも彼、シュヴィトはもう老年期に入っているのではないかと察せられる容姿である。
その灰色の目と視線があった瞬間、ぞくりとからだに震えが走った。彼の手に握られた長剣が物々しさにさらに拍車をかけていて、高位のものにしか許されない朱の外套が揺れる。
彼が、重々しく口を開く。
「それで? こっちが今どんな状況か分かってんだろうな、客人殿、フェンの弟御よ」
「姉上、説明を願えますか? もし我々に聞く権利があれば、ですが」
トリスがフェンのほうを見やる。彼女は首を縦に振ると、やや動揺を滲ませた声で話しだした。
「海魔と戦闘中、陛下は大魔法を行使された。大魔法自体は発動して、無事に海魔を祓うことができたのだが、そのあと突然お倒れになった、という次第だ」
「目立った負傷もねぇし魔力切れって訳でもねぇからタチが悪いって話だ。……──状況は分かったな? それで、お前さんはなにが出来るってんでここに来た?」
がり、と長剣の鞘で床をなぞりながら、シュヴィトは威圧感を伴って言う。こちらを見つめた灰色は燃えるようで、若干気圧されてしまうのだが、それでも。
「私が、なんとかできると、思うのです」
「なんとか……とは、具体的には?」
フェンが訝しげに眉をひそめて割り入ってくる。すう、と、もう一度深呼吸して、あたりを見回しながら、ヒューゴは告げた。
「……───私の神性を、返還します」
そう言われて意味のわからないものはここにはいないのだろう。皇帝の寝台近くに立つフェンとシュヴィトですら顔を見合わせた。
「それは、まさか」
「正気か? ……あんたは人間なんだろうが」
「それはもう、充分すぎるほどに」
ヒューゴは泰然と微笑む。ちらとエレヴィスのほうへ目を向ければ、そこから伝わってくるのは落ちるような黒さであった。先程よりも範囲を増している。
それで、鳥肌が立つほどの悪意に蝕まれているのだとわかってしまった。全身に満ちる神の祝福が、これはいけないと警告してくる。
ならばその原因も自ずと知れようというものだ。
「陛下を蝕んでいるのは……そう、神域の呪毒、でしょうか?」
「我々もその見立てで進めているところだが。……解毒のための術式が見つからない」
「俺も検分したが、あれは神竜の血だろうな。しかもいっとう呪われた最悪の───陛下があんなもん隠してた訳までは分からんが、ともかくもう冥王の館に片足突っ込んでるくらいの状態ってわけだ」
もはやその憤りと苛立ちを隠しもせずにシュヴィトが吐き捨てる。
「ならば、私の神が手を引きましょう」
まっすぐ、彼の目を見つめてそう言えば。
シュヴィトがその瞳に驚きを揺らして──そして、笑った。
「はは、いいぜ、俺は乗った! そうという覚悟の決まってるやつは誰だろうと祝福する、それがアーレストスの流儀だからな!」
「陛下のお身体に響くでしょう。少しは声を抑えていただきたい、アーレストス卿」
ひとつため息をついてフェンが諌め、ヒューゴに目礼する。
「失礼、見苦しいところを。もし、あなたがほんとうに、それをしてくださるというのであれば……我々としては、それ以上のことはありません」
彼女の口調が、ひとを敬ったものに変わる。
高い位置でまとめ上げた髪を揺らして、トリスによく似た顔立ちに緊張感を漂わせて。その様子を見たトリスが呟く声が聞こえた。
「姉上……」
フェンはなにか思索するように一瞬目を閉じるが、その脳裏でなにを考えたのかなど想像もできず、ヒューゴはただ紡がれる言葉を待つほかない。
そして彼女がひとみをひらく。
「ヒューゴ殿。もし上手くいかなかったとしても、それは貴殿の責ではないのです。本来、他の手段を用意できない──異邦のものに頼らなくてはならない、貴殿の命を賭けてもらわなくてはならない、私たちの無力をこそ、咎められるべきですから。どうぞご存分に」
「はい。どうかおまかせを、皆様がた」
受け入れられた安堵とともに、ヒューゴは笑った。落ち着いているようで焦燥を隠し切れずに立っているフェン、ヒューゴへ寝台横の場所を空けたシュヴィト、そのほか待機している十柱の魔神たち、そして自分の後ろに控えたトリスへ向けて。
かつかつと靴音を鳴らして寝台横へ歩み寄れば、たしかにエレヴィスの整った面立ちには汗が滲んでいて、もともと白い頬は青ざめているようですらあった。
「──皇帝陛下」
「おまえ、は……ヒュー、ゴ?」
ひとつ呼びかければ、エレヴィスは、うすくその瞼を持ち上げる。どうやらまだ意識はあるらしいが、奥の瞳は焦点を失いかけているようでもあり、時間はさほどないと悟る。
どちらにせよ、もう覚悟は決まっているのだが。
「《天に坐す御神よ、陽の貴き父よ。すべてを遍く照らすものよ───」
きらり、灰色の瞳が、強烈な光を帯びる。
かつてなくからだが熱い。自分で決めたことを、自分のやりかたで実行できること、それを貫き通せることの、なんと心地の良いことか。どんな痛みも、恐怖も、それを妨げることはできないのだ。
たとえ自分の価値がそれしかなくても。否、それしかないならばこそ。
自然、唇は神への言葉を紡ぎあげていた。
「それは恩恵、祈りの結実、救世の具現。祝福の証、我が神性。すべてをここに────お返し申し上げる!》」
式句が、結ばれる────神性が、返還される。
本来神性とは恩恵である。ひとの身にはあまりに過ぎた特権である。
ゆえに、それを自ら手放す際に伴う、いわば無欲に対する褒賞は、ひとひとりぶんを救ってなお余りあるものとなるはずのだ。
神域の呪い、神の敵たりうる毒ならば尚更に。
閉じた視界の中、神の声がきこえる。ヒューゴに、自らが愛したものに、問うている。汝、その果てになにを望むか、と。
応えて、希う。
どうか。このかたの命が救われますよう。自らが救われたように。
どうか。これからも、このかたが生きていけますよう。自らがそうできたように。
そして。
神の声が聞こえなくなる。
開いた視界が、ひかりに満ち溢れる。それは己の右手から放たれていて、導かれるようにエレヴィスの胸に触れていた。そこから、神の浄化の力が、彼の身体に流れ込んでいく。
エレヴィスが、その瞳に光を反射させて、かすかに目を見開く。口元が、なにを、という形に動く。
「神の毒が、あなたを蝕むのなら……───それを、神の祝福で打ち消せるも、また道理でしょう」
たとえ冠した名が違うとしても、神という概念としては同じなので───と知ったのはずいぶん後のことだったが。
そのときのヒューゴには、ただ結果があればよく。果たして、自らのからだから、神性が抜け落ちるのを感じた。
「では、……な、ぜ……?」
焦点を取り戻したエレヴィスに、絞り出すように尋ねられる。
「貴方には、恩がございます故に。それに……私の命を賭してすれば、救えるものがあるというのに、それをやらないのは罪でしょう。許されざる悪徳、罰されるべき咎でしょう」
「だれに強制されたわけでも、ないだろう……? なのに、なぜ、」
金色と目を合わせる。
「それはやらない理由にはならないのです、皇帝陛下。私が、そうしたいと、思ったからです」
すべてを捨てて逃げることだってきっとできた。そうしなかったのは、ひとえに、神の祝福が、曲がりなりにも己の力が、あの地の民のためには必要だったからだ。そのためならばどんな暴力も耐えよう、己の心を殺しさえすれば良いだけだから。
己ひとつの命で大勢が救われるならば、それほど良いこともないだろう。多くの幸福のために身を捧げることの、なにがいけないのだろう。
エレヴィスの表情に、明確な驚愕がひらめく。ずっとこちらが驚かされてばかりだったものだから、ヒューゴはすこし笑ってしまう。まるですこし、気が緩んだような。
つい、隠していた弱音を吐いてしまうほどには。
「ふふ、ああ、でも、すこし……もう、へいかとお話できないのは、さみしい、ですね……」
エレヴィスが思わずからだを起こし、その場にくずおれたヒューゴに手を伸ばしてくる。
からだに力が入らない。
「おまえ、は、……ッ」
「あ、ぁ……!!」
びくりと全身が痙攣する。
この地には魔力が満ちすぎているのだ。神性を持っていた頃のヒューゴならば関係のない話ではあったが、ただの人間、しかも神や聖霊の加護のないすがたでは、耐えられるはずもない。
まるで全身が圧し潰されるような痛みである。ばきりと骨が砕ける音さえしている気がして、ヒューゴは歯を食い縛った。
かつて、親に殴られていたとき、これほどの痛みを伴うこともあるまいと思っていたのだが、ずっと、ずっと痛い。耐えられるはずだと思っていたのに、涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。
だめだ、いま泣いたら、エレヴィスに要らぬ心配をかけてしまう。だってひと欠片も後悔などしていないのに、意思に反して視界が潤む。
「う、あ゛……ぐ、」
「ヒューゴ!」
びくん、と全身をはねさせてくずおれたヒューゴを、エレヴィスが受け止める。
腕の中から見る彼の表情はいやに焦っているように見え、やはりそれがおかしかった。
だって彼は皇帝だ、数多の犠牲の上に立つものだ。この部屋にあるものは皆、そうと命じられれば命を捨てるだろう。エレヴィスだって、そうしなくてはならない状況になれば躊躇なく命じるだろう、という確信がある。
なのになぜ、彼は、そんな顔をしているのだろう。
「おまえ、は……」
もう一度、エレヴィスの震えた声が、自分を呼んだ。それを最後に、ヒューゴの記憶は暗転する。
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