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じゃがいもと、わたしの片想いについて
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はじまりはわたしが同僚の男性、サカダチさんのコーヒーカップを割ったことだった。
会社でコーヒーを飲むコーヒーカップ。彼の机の端っこに置いてあって、わたしがそばを通るときに袖がふれて、床に落っこちて、少し欠けた。
気にすることないよ、茶渋が落ちないし、どうせそろそろ買い替えようと思ってたんだとサカダチさんは笑って言った。
わたしは、すみませんすみませんと何度も謝った。申し訳ない気持ちが8割だった。
あとの2割は、こんなに近くで話せて嬉しい、サカダチさんは少なくとも今だけはわたしに気を遣ってくれる。
そんな気持ちだった。
ときどきレジ袋は買う。
大きなビニール袋は、ゴミ袋にとても便利だから。
袋は5.5円。そこに買ったものを入れてわたしは帰る。がさごそがさごそと音がする。昨日から痛み始めた歯にひびく。まいったなあ。
がさごそ、とねぎが袋の中で揺れた。
塀の低い近所の家の庭で、その家のご婦人と三軒先の家のご婦人が楽しそうに笑っていた。
歯が痛んだ。これは知覚過敏ではないだろうな、とわたしはため息をつく。
ああ、面倒だなあ。銀歯になるかなあ。きれいな白い人工の歯になりたいけど、わたしの安月給じゃそれは無理だ。こんな歯では、つきあう男性も離れていくかもしれない。
自分の思いつきに、少し笑う。わたしの年齢の人間が考えることではないだろう。
サカダチさんのカップを割った翌日、わたしは会社を午前で退社してデパートへ行った。そして白と黒がシャープに入り混じったコーヒーカップを買った。
次の日、それをサカダチさんに渡した。
彼の目が一瞬険しくなって、あ、これは断られてしまうやつだなと思ったら、彼はすぐに険しさをぱっと虫を手で払うようによそへやり、にっこり笑った。
「気にしなくてよかったんだよ、申し訳ないね。かえって気を使わせてしまって」
「いいえ」
ご迷惑だったでしょうか、と付け加えようとしてやめた。それは本当によかった。
「うん、ありがとう」
と、サカダチさんはこう続けた。
「会社で使うのはもったいないし、昨日新しく安いカップを買ったから、いただいたものはうちで大切に使わせてもらうね」
まあよかった。
突っ返されたらみじめ度は最高順位だった。そしていまはみじめ度5位くらいかな。うん、1位から4位までに入らなくてよかった。
でも、わたしは夜、2時間くらいは泣いた。
さきほどのご婦人がたのことだけどね。
ほら、塀の低い。あの、おしゃべりをしていたふたりのご婦人たちだよ。見ただろう、もしかしたら向こうもわたしに気づいたかもしれない。挨拶したほうがよかったんじゃないのお?
がさごそがさごそ。
失敗したなあ。
あのご婦人方、明日もう一度会えないかなあ。
そしたら、笑顔で挨拶するのにな。
ふと、レジ袋の中を見ると、買ったはずのじゃがいも4個入り袋がどこにもなかった。
うそだろ?と思いながらがさがさ音を立てて中をさぐる。
わたしの手に引っ掻き回されるネギやほかの野菜、牛乳のパックが痛いと文句を言う。
すべてががさごそと言っている。歯がじくじくと痛んだ。
じゃがいも、じゃがいも。
じゃがいもはレジ袋から、完璧に逃げ出していた。他の星に行ったかもしれないな。
まあ、いいか。
自分の歯が変色し、水分をなくし、きりきりまわりながら縮んでゆく姿が浮かんだ。
なあ、わたしの歯よ、おまえはいつ生まれたんだっけ?
じゃがいもが服を着て口紅を塗り、わたしの代わりに会社に行き、サカグチさんと腕を組んでデートをしていた。
サカダチさんは、ちゃんとわたしの渡したコーヒーカップを使ってコーヒーを飲み、にっこりとじゃがいもに向かって笑った。
「嬉しかったよ。あなたは優しいね。本当はずっとあなたのことが気になっていた。あなたの優しさが、僕に向いていることに気づかないフリをしていたんだ。だって、こんなに好きになっていたから」
わたしの歯が痛いのは、じゃがいもよ、きっと君が幸せなせいだ。
がさごそ、とレジ袋がわたしの歯をすりつぶすのだ。
”こんにちはじゃがいもです。良いデートでしたよ。そうですね、私をブレンダーで細かくしてポタージュどうですか?”
わたしはもう一度レジ袋を確認すると、じゃがいもはあった。
さっきまでなかったはずなのだが。
多分、先ほどは探し方が悪かっただけの話なのだが、それでは人生つまらないので他の惑星から、デートから戻ってきたことにしよう。
そうか、そうだ。
そうだ、じゃがいものポタージュだ。バターも入れよう。こってり味にしよう。
今週は、柔らかいものを食べる特集にしよう。
今レジ袋にあるすべてをすりつぶして、わたしのお腹に入れてやろう。
わたしはポタージュを作ってひとりで食べた。
するとなんだか勇気がわいてきた。
わたしはなんでもできる。
なぜなら、じゃがいもを食べたからだ。
あの、サカダチさんとデートしたじゃがいもだ。
明日、私はサカダチさんに言おう。
そこは空いている会議室だ。
わたしが彼を呼び出すのだ。
そしてこんなふうに切り出そう。
「わたしの家に来てください」
そうすると、サカダチさんはどう言うかな?
そう、こんなふうに言うだろう。
「なにしに?」
ごく当然だ。あたりまえだ。そしたら、わたしはさらにこう言おう。
「わたしと一緒に寝てください」
/////////////////
「なんと」
サカダチさんは、やはりごく当然のことを言った。そして夜、電気に向かって慌てて飛ぶ殻の硬そうな虫を見るような目で、わたしを見た。
「冗談だよね?」
わたしは、ああ今日も2時間泣くだろうと思った。
「もし、冗談じゃないって言ったら、どうします?」
サカダチさんはふっと笑った。今まで入れていた力をすべて抜くような笑みだった。
「寝てもいいよ」
「はっ?」
わたしの涙は一時保留になるかもしれない、と思った。しかしサカダチさんはこう続けた。
「でも、明日から僕はあなたを徹底的に無視するよ。挨拶もしない、会話にあなたが入ってきたら僕は黙る。それくらいはするよ」
ずっと、力を加えないふわふわした笑みを浮かべたまま。
わたしは、逆にぐぅっと顔に力を入れると、にっこり笑った。
「もちろん、冗談です」
サカダチさんは笑みの形を変えずに言った。
「そうだよね、じゃあ」
彼が会議室を去ったあとは、わたしからこぼれたなにかを拾おうとしても、そこにはもはや何もなかった。
まいったな、と思った。
今まで貯めたものがこぼれてしまったのだ。
待てよ。
こぼれたものは、昨日食べたじゃがいもだけかも。
じゃがいもがわたしの中を掃除して、胃から食道から喉から、こぼれていった。
”こんにちはじゃがいもでふー。ふー、おなかいっぱいでふー。じゃがいもはじゃがいもの天国にいきますよふー”
”あなたは、あなたは、元気でいてくださいねえふー”
わたしは「さよならふー」
と言うと、会議室から出ていった。きゅるんと床を蹴る音がした。
/////////////////
わたしはそこで想像を止め、ポタージュを食べた皿を洗うことにした。
どうしてわたしは、想像をするのだろう?
それは、みじめな存在だからだ。
みじめな存在だから、ちょっと泣いてみよう。そう思った。
でも、わたしは思ったほど泣かなかった。
何故だろうな。
さあ泣くぞ、と気合を入れる前にふと、鏡を見たせいかもしれない。
わたしは、さぞかし醜いババア顔の自分が映っているに違いないと想像した。
しかし、そこにいたのは困り顔のただのわたしだった。
昔からそこにいた、ただのわたしだった。
困り顔のわたしは、それほど醜いものでもなかった。
さて、サカダチさんはそのあとどうするのだろうか?
わたしはもう少し想像した。
/////////////////
サカダチさんは見事なものだった。
そのあと、わたしを無視することはなかった。挨拶し、わたしが会話に入っても彼は会話から出ていかなかった。それどころか「あなたはどう思いますか?」と積極的にわたしに話題をふってもきた。
たとえばあのずっと力の抜けた笑みのままで、それで「気持ち悪い告白をした、許さないよ」という意思を表すのかとも思えばそうでもなく、力の抜けた笑みのこともあれば、力の入った笑みのこともあり、疲れた視線のこともあり、機嫌があまり良くない眉毛の向きのこともあった。
つまり、以前とまったく変わらない態度だった。
あの会議室のことは、完全になかったことになったんだな。
そう、あれはただの想像だ。
/////////////////
いまのも、ただの想像だ。
そうだ、わたしは会議室に彼を呼び出したりなんかしていない。
これはとても大切なことだ。
そして、わたしの歯が再び痛み出す。
じくじくじくと。
これは、かなり進んだ虫歯だなと思ったが、翌日の歯医者の見解はまるで違った。
「いや、虫歯はないですね」
と、先生は言った。
「知覚過敏ですね」
と、先生はわたしの歯にすうっと薬をぬった。
「あなた、歯を噛むクセがありますね。それじゃあ痛くなりますよ。歯も悪くなりますよ。噛まないでくださいね」
その日以来、とりあえず歯はしみなくなった。
痛みもない。
サカダチさんは、会社では綺麗な空色のコーヒーカップを使っていた。
彼は、仕事のことでわたしに話しかけたり、昨日のサッカーの試合のことでわたしに話しかけたりした。
そして、わたしは会議室に彼を呼び出さない。
そう、だってあれは想像だ。
これはとても大切なことだ。
もう少ししたら、白と黒のコーヒーカップを買ったことも、想像だったということにできるかもしれない。
わたしに痛みはない。
痛みは、
痛みは、扉の後ろに隠れていることは、わかっているんだけどね。
そうだ、隠れているだけだよな。
わたしは痛みの一部、寝癖のような数本の髪の毛が、風に揺れてわたしの視界のはしっこに入ってくるのを見た。
「で、ハシワケ選手がね」
サカダチさんは、まだサッカーご贔屓チームの選手の話をしていた。
「あ、ハシワケ選手って、この前テレビの試合見ましたけど、サカダチさんが言ったとおり、ボール持ってないときの動きがすごいですよね」
と、わたしは倉庫の奥の方でぬいぐるみを見つけたような声で言った。
わたしは、テレビでサッカーの試合なんて見てないし、ハシワケ選手のボールを持ってないときのどんな動きがすごくて、どんな動きがすごくないのかさっぱりわかっていない。そもそもハシワケ選手の顔がわからない。
それでもサカダチさんは大きく頷いた。
「そうなんだよ、そうそう」
その頷きを思い出すだけで、わたしの中の想像の翼はほんの少しの時間、消えてくれそうだった。
会社でコーヒーを飲むコーヒーカップ。彼の机の端っこに置いてあって、わたしがそばを通るときに袖がふれて、床に落っこちて、少し欠けた。
気にすることないよ、茶渋が落ちないし、どうせそろそろ買い替えようと思ってたんだとサカダチさんは笑って言った。
わたしは、すみませんすみませんと何度も謝った。申し訳ない気持ちが8割だった。
あとの2割は、こんなに近くで話せて嬉しい、サカダチさんは少なくとも今だけはわたしに気を遣ってくれる。
そんな気持ちだった。
ときどきレジ袋は買う。
大きなビニール袋は、ゴミ袋にとても便利だから。
袋は5.5円。そこに買ったものを入れてわたしは帰る。がさごそがさごそと音がする。昨日から痛み始めた歯にひびく。まいったなあ。
がさごそ、とねぎが袋の中で揺れた。
塀の低い近所の家の庭で、その家のご婦人と三軒先の家のご婦人が楽しそうに笑っていた。
歯が痛んだ。これは知覚過敏ではないだろうな、とわたしはため息をつく。
ああ、面倒だなあ。銀歯になるかなあ。きれいな白い人工の歯になりたいけど、わたしの安月給じゃそれは無理だ。こんな歯では、つきあう男性も離れていくかもしれない。
自分の思いつきに、少し笑う。わたしの年齢の人間が考えることではないだろう。
サカダチさんのカップを割った翌日、わたしは会社を午前で退社してデパートへ行った。そして白と黒がシャープに入り混じったコーヒーカップを買った。
次の日、それをサカダチさんに渡した。
彼の目が一瞬険しくなって、あ、これは断られてしまうやつだなと思ったら、彼はすぐに険しさをぱっと虫を手で払うようによそへやり、にっこり笑った。
「気にしなくてよかったんだよ、申し訳ないね。かえって気を使わせてしまって」
「いいえ」
ご迷惑だったでしょうか、と付け加えようとしてやめた。それは本当によかった。
「うん、ありがとう」
と、サカダチさんはこう続けた。
「会社で使うのはもったいないし、昨日新しく安いカップを買ったから、いただいたものはうちで大切に使わせてもらうね」
まあよかった。
突っ返されたらみじめ度は最高順位だった。そしていまはみじめ度5位くらいかな。うん、1位から4位までに入らなくてよかった。
でも、わたしは夜、2時間くらいは泣いた。
さきほどのご婦人がたのことだけどね。
ほら、塀の低い。あの、おしゃべりをしていたふたりのご婦人たちだよ。見ただろう、もしかしたら向こうもわたしに気づいたかもしれない。挨拶したほうがよかったんじゃないのお?
がさごそがさごそ。
失敗したなあ。
あのご婦人方、明日もう一度会えないかなあ。
そしたら、笑顔で挨拶するのにな。
ふと、レジ袋の中を見ると、買ったはずのじゃがいも4個入り袋がどこにもなかった。
うそだろ?と思いながらがさがさ音を立てて中をさぐる。
わたしの手に引っ掻き回されるネギやほかの野菜、牛乳のパックが痛いと文句を言う。
すべてががさごそと言っている。歯がじくじくと痛んだ。
じゃがいも、じゃがいも。
じゃがいもはレジ袋から、完璧に逃げ出していた。他の星に行ったかもしれないな。
まあ、いいか。
自分の歯が変色し、水分をなくし、きりきりまわりながら縮んでゆく姿が浮かんだ。
なあ、わたしの歯よ、おまえはいつ生まれたんだっけ?
じゃがいもが服を着て口紅を塗り、わたしの代わりに会社に行き、サカグチさんと腕を組んでデートをしていた。
サカダチさんは、ちゃんとわたしの渡したコーヒーカップを使ってコーヒーを飲み、にっこりとじゃがいもに向かって笑った。
「嬉しかったよ。あなたは優しいね。本当はずっとあなたのことが気になっていた。あなたの優しさが、僕に向いていることに気づかないフリをしていたんだ。だって、こんなに好きになっていたから」
わたしの歯が痛いのは、じゃがいもよ、きっと君が幸せなせいだ。
がさごそ、とレジ袋がわたしの歯をすりつぶすのだ。
”こんにちはじゃがいもです。良いデートでしたよ。そうですね、私をブレンダーで細かくしてポタージュどうですか?”
わたしはもう一度レジ袋を確認すると、じゃがいもはあった。
さっきまでなかったはずなのだが。
多分、先ほどは探し方が悪かっただけの話なのだが、それでは人生つまらないので他の惑星から、デートから戻ってきたことにしよう。
そうか、そうだ。
そうだ、じゃがいものポタージュだ。バターも入れよう。こってり味にしよう。
今週は、柔らかいものを食べる特集にしよう。
今レジ袋にあるすべてをすりつぶして、わたしのお腹に入れてやろう。
わたしはポタージュを作ってひとりで食べた。
するとなんだか勇気がわいてきた。
わたしはなんでもできる。
なぜなら、じゃがいもを食べたからだ。
あの、サカダチさんとデートしたじゃがいもだ。
明日、私はサカダチさんに言おう。
そこは空いている会議室だ。
わたしが彼を呼び出すのだ。
そしてこんなふうに切り出そう。
「わたしの家に来てください」
そうすると、サカダチさんはどう言うかな?
そう、こんなふうに言うだろう。
「なにしに?」
ごく当然だ。あたりまえだ。そしたら、わたしはさらにこう言おう。
「わたしと一緒に寝てください」
/////////////////
「なんと」
サカダチさんは、やはりごく当然のことを言った。そして夜、電気に向かって慌てて飛ぶ殻の硬そうな虫を見るような目で、わたしを見た。
「冗談だよね?」
わたしは、ああ今日も2時間泣くだろうと思った。
「もし、冗談じゃないって言ったら、どうします?」
サカダチさんはふっと笑った。今まで入れていた力をすべて抜くような笑みだった。
「寝てもいいよ」
「はっ?」
わたしの涙は一時保留になるかもしれない、と思った。しかしサカダチさんはこう続けた。
「でも、明日から僕はあなたを徹底的に無視するよ。挨拶もしない、会話にあなたが入ってきたら僕は黙る。それくらいはするよ」
ずっと、力を加えないふわふわした笑みを浮かべたまま。
わたしは、逆にぐぅっと顔に力を入れると、にっこり笑った。
「もちろん、冗談です」
サカダチさんは笑みの形を変えずに言った。
「そうだよね、じゃあ」
彼が会議室を去ったあとは、わたしからこぼれたなにかを拾おうとしても、そこにはもはや何もなかった。
まいったな、と思った。
今まで貯めたものがこぼれてしまったのだ。
待てよ。
こぼれたものは、昨日食べたじゃがいもだけかも。
じゃがいもがわたしの中を掃除して、胃から食道から喉から、こぼれていった。
”こんにちはじゃがいもでふー。ふー、おなかいっぱいでふー。じゃがいもはじゃがいもの天国にいきますよふー”
”あなたは、あなたは、元気でいてくださいねえふー”
わたしは「さよならふー」
と言うと、会議室から出ていった。きゅるんと床を蹴る音がした。
/////////////////
わたしはそこで想像を止め、ポタージュを食べた皿を洗うことにした。
どうしてわたしは、想像をするのだろう?
それは、みじめな存在だからだ。
みじめな存在だから、ちょっと泣いてみよう。そう思った。
でも、わたしは思ったほど泣かなかった。
何故だろうな。
さあ泣くぞ、と気合を入れる前にふと、鏡を見たせいかもしれない。
わたしは、さぞかし醜いババア顔の自分が映っているに違いないと想像した。
しかし、そこにいたのは困り顔のただのわたしだった。
昔からそこにいた、ただのわたしだった。
困り顔のわたしは、それほど醜いものでもなかった。
さて、サカダチさんはそのあとどうするのだろうか?
わたしはもう少し想像した。
/////////////////
サカダチさんは見事なものだった。
そのあと、わたしを無視することはなかった。挨拶し、わたしが会話に入っても彼は会話から出ていかなかった。それどころか「あなたはどう思いますか?」と積極的にわたしに話題をふってもきた。
たとえばあのずっと力の抜けた笑みのままで、それで「気持ち悪い告白をした、許さないよ」という意思を表すのかとも思えばそうでもなく、力の抜けた笑みのこともあれば、力の入った笑みのこともあり、疲れた視線のこともあり、機嫌があまり良くない眉毛の向きのこともあった。
つまり、以前とまったく変わらない態度だった。
あの会議室のことは、完全になかったことになったんだな。
そう、あれはただの想像だ。
/////////////////
いまのも、ただの想像だ。
そうだ、わたしは会議室に彼を呼び出したりなんかしていない。
これはとても大切なことだ。
そして、わたしの歯が再び痛み出す。
じくじくじくと。
これは、かなり進んだ虫歯だなと思ったが、翌日の歯医者の見解はまるで違った。
「いや、虫歯はないですね」
と、先生は言った。
「知覚過敏ですね」
と、先生はわたしの歯にすうっと薬をぬった。
「あなた、歯を噛むクセがありますね。それじゃあ痛くなりますよ。歯も悪くなりますよ。噛まないでくださいね」
その日以来、とりあえず歯はしみなくなった。
痛みもない。
サカダチさんは、会社では綺麗な空色のコーヒーカップを使っていた。
彼は、仕事のことでわたしに話しかけたり、昨日のサッカーの試合のことでわたしに話しかけたりした。
そして、わたしは会議室に彼を呼び出さない。
そう、だってあれは想像だ。
これはとても大切なことだ。
もう少ししたら、白と黒のコーヒーカップを買ったことも、想像だったということにできるかもしれない。
わたしに痛みはない。
痛みは、
痛みは、扉の後ろに隠れていることは、わかっているんだけどね。
そうだ、隠れているだけだよな。
わたしは痛みの一部、寝癖のような数本の髪の毛が、風に揺れてわたしの視界のはしっこに入ってくるのを見た。
「で、ハシワケ選手がね」
サカダチさんは、まだサッカーご贔屓チームの選手の話をしていた。
「あ、ハシワケ選手って、この前テレビの試合見ましたけど、サカダチさんが言ったとおり、ボール持ってないときの動きがすごいですよね」
と、わたしは倉庫の奥の方でぬいぐるみを見つけたような声で言った。
わたしは、テレビでサッカーの試合なんて見てないし、ハシワケ選手のボールを持ってないときのどんな動きがすごくて、どんな動きがすごくないのかさっぱりわかっていない。そもそもハシワケ選手の顔がわからない。
それでもサカダチさんは大きく頷いた。
「そうなんだよ、そうそう」
その頷きを思い出すだけで、わたしの中の想像の翼はほんの少しの時間、消えてくれそうだった。
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