巡りくる季節の途中で

佐々森りろ

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第一章 あれから十年

1ー5

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 ガタッと、椅子から立ち上がって、彼が去っていった方へと歩き出す。知らない廊下、突き当たりの部屋のドアは閉まっている。このドアの向こうに、あたしのヒーローが、いる。

「あ、あのっ! あたし、相原梨紅って言います。ずっと、あなたに会いたかったんです。幼稚園の頃、モミの木公園で、いつもみんなに囲まれているあなたがかっこよくて、憧れていて……ようやく、勇気を出した日、とても寂しそうな目をしてお別れしてから、ずっと会えなくて……あなたですよね? あたしがずっと探していた、ヒーローは」

 ようやく会えた。ずっと、ずっと会いたいって、思っていた。だから、だからもし、本当に彼があたしのヒーローだったなら。

「そこ、トイレだけど?」

 スッと、背後から襖の開く音がして、振り返ると、さっきの彼が顔だけ覗かせてこちらを呆れたように見ている。

「は⁉︎ えっ‼︎ あ、やだっ、トイレ⁉︎」

 目の前のドアをよく見ると、「TOILET」と表示されていて、途端に恥ずかしさが湧き上がってくる。嬉しさに興奮して、勢いに任せてズカズカとやってきて、思いの淵を延々と語り、あげく語っていたのは中に誰もいないトイレの前。
 この上なく恥ずかしい! 穴があったら今すぐ深くまで掘り沈みたい。

「なんなの? ヒーローとか、ウケんね」

 鼻で笑われているのが、俯いた状態でも分かった。

「確かに俺、小さいときこっちに住んでたよ。その公園にもよく行ってた。でもさ、あんたのことはよくわかんないし覚えてない。だから、人違いじゃない? ヒーローとか言われても嬉しくないし」

 ピシャンッと閉められた襖。脱力した腕の先、拳を小さく握りしめた。
 あたし、夢でも見ていたのかな。小さい頃に憧れた男の子と、今更再会して思いを伝えて、どうしたかったんだろう。その後のことなんて、何一つ考えていなかった。
 どうなるかなんて、考えようとも思わなかった。自分がずっと思い描いていた心のヒーローは、あたしの単なる妄想と幻想で、実際には、現実にいなかったのかも、しれない。

「ま、まぁ、元気出しなよ」

 真っ黒いオーラをまとっているであろうあたしは、咲子さんと日向子ちゃんのいるリビングへと戻って来て、俯いていた。

「桐先輩、いっつもあんな感じだって。慣れだと思うよ? あたしも未だにイラっとする時あるし」

 日向子ちゃんが必死にあたしを慰めてくれている。穴がないから隠れようがないけれど、こんな惨めな姿を初対面の子に見せてしまったことがなによりもショックだ。もう友達にもなれないんだろうな。心の傷がますます深くなって落ち込んでいく。

「あはははははっ‼︎」

 突然、爆発するように笑い始めた日向子ちゃんに、あたしはびっくりして心臓が飛び跳ねた。顔を上げると、大きな口を開けてお腹を抱えて笑われている。

「ってかさー、梨紅おもしろいって! トイレの前で思い切り愛の告白とか! ヤバいんだけどー、天然? 可愛いすぎるでしょ! あたしが惚れるわ! あはははっ」

 あ……愛の、告白⁉︎

「いや、いやいや、そんなつもりで言ったんじゃなくて……」
「え? 違うのー?」

 目尻の涙を指で拭いながら、日向子ちゃんがまだ笑いながら聞いてくる。

「あたしの、ヒーローだと、ずっと思っていたん、だけど」

 小さくなっていく声とともに俯くと、笑い声がピタリと止まった。不思議に思って顔を上げると、さっきまで泣くくらいに笑っていた日向子ちゃんが、真顔になっている。

「……あの?」
「梨紅、桐先輩かっこいいから惚れるの分かるけど、これだけは言っとくね、やめといた方がいい!」

 真っ直ぐに目を合わせて、真剣に日向子ちゃんが頷く。

「色々噂は聞くんだけど、結局桐先輩って、誰とも付き合わないらしいし、友達にはなれるけど、それ以上を望むと冷たくされるんだよ。だったら、友達のままでいいやって、女子達はそんなミステリアスな雰囲気にもキャーキャー言ってて、まぁ、結局は人気者なんだけどね」

 くっきりと線を描く二重まぶたは、よく見るとアイラインを引いている。より大きくはっきり開いた瞳は、本気を感じた。

「悪いことは言わない、憧れなら憧れのまま、その思い出は綺麗に取っておきなよ。現実は見ない方がいい」

 日向子ちゃんはあたしの肩に両手を置いて首を左右に振ると、椅子に座り直した。

「一体どんな存在なのよ、一葉くんって。やっぱり心配になっちゃうわ」

 咲子さんが頬に手を当てて困ったようにしている。

「あ、大丈夫大丈夫。あたし見張っといてるから」
「……見張ってる?」
「うん、だって面白いじゃーん。入学早々イケメン先輩の噂聞き付けて、見に行ったら桐先輩で、あたしさっそく告白したら見事に玉砕。さっき聞いた? あたしのこと、誰? って。フった子のことくらい覚えてろっつーの!」
「あいっかわらず日向子ちゃんはチャレンジャーよねぇ」

 驚いたと、目を丸くして咲子さんが笑う。
あたしはもはや話について行けずに、呆然としたままだ。

「じゃあ、あとでまた詳しいこと連絡するから。今日は解散」

 笑顔で手帳をパタリと閉じた咲子さんに、「お疲れ様でしたーっ」と日向子ちゃんが言うから、あたしも真似をして「お疲れ様でした」と頭を下げた。
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