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本編
魔王さま、今日も天然嫁に翻弄されてます
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世界は今、恐怖に包まれていた。
遥か東の果てに君臨する魔王ヴィルド。
その名は、恐怖と絶望の代名詞だった。
彼は冷酷無慈悲に敵を叩き潰し、数多の国々を滅ぼしてきた。
「魔王の軍勢がまた北の村を襲ったらしい。生き残った者はわずかだ」
噂は絶えず、世界中を駆け巡った。
ある国の城では緊急会議が開かれていた。
集ったのは、王国の重鎮と勇者一行。
宰相が重い空気を纏いながら口を開いた。
「状況は極めて深刻だ。情報によれば魔王軍の侵略による被害は過去最大だ」
周囲は静まり返っている。
「そしてやつは人間を人質として妻にしているという噂がある。表に現れる時は見せしめとしていつもその妻を連れているようだ」
側近の魔導士が声を潜めて続ける。
「彼女の姿を見たものは皆口を揃えて、あまりにも可哀想だと言うのだ。」
「何だと? そんなことが……」
会議室のざわめきが広がった時、国王がついに口を開いた。
「よもや看過できぬ。勇者一行よ、其方たちに魔王討伐を命じる───────」
勇者ライルは眉をひそめ、決意を固める。
「我々が行かなければ、この世界は彼の暴虐に飲み込まれてしまう。必ずや我らが打ち倒しましょう...!」
討伐の決意が固まった瞬間だった。
その日から、勇者一行は魔王の城へ向かう旅を開始した。
その噂の大半が大きく間違っているということも知らずに──────
**************************************************
黒雲が空を覆い、稲妻が夜空を裂いた。
「……いよいよか」
ライルは、聖剣を握る手に力を込め、深く息を吐いた。
その刃は淡く光を帯び、まるで彼の覚悟に呼応するかのように脈打っていた。
共に立つのは、聖女ミレーヌ、騎士バルド、魔導師クレハ。
いずれも名の知れた英雄たちであり、幾多の戦いを潜り抜け、ついにこの地に辿り着いた。
「この奥に……魔王がいるのね」
ミレーヌが祈るように呟く。
その声に、誰もが無言でうなずいた。
「……やっと終わる。俺たちの、長い旅が」
ライルが聖剣を構え、黒曜石でできた巨大な扉を押し開くと、重たい空気が四人を包み込んだ。
玉座の間へと続く長い回廊。
青白い炎の灯る燭台が、石の壁にゆらゆらと影を落としている。
そして最奥の扉を開く─────
「ようこそ、勇者ども」
低く、威厳に満ちた声が、静寂を破った。
玉座の上に座すは、全身を漆黒の鎧に包んだ男。
艶やかな黒髪と、闇夜のように深紅の瞳。
整いすぎた顔立ちは、この世の物とは思えない美しさを宿していたが、全身から放たれる魔の気配が彼を“魔王”として確固たる存在にしていた。
「貴様が……魔王ヴィルド!」
「いかにも」
ヴィルドは静かに立ち上がると、重たい足音と共に階段を下りてくる。
その一歩一歩に、勇者たちの喉が自然と鳴った。
言葉にできぬ威圧感。まさに、“魔王”。
「ここに来るとは、無謀なことだな。命知らずの勇者ども」
「貴様の暴虐は、これで終わりだ!」
ライルが聖剣を構えた、まさにその瞬間――
「ヴィル~~~~っ! ご飯できたって~~~!」
場違いなほど高く、明るい声が、玉座の間に響き渡った。
「……え?」
ライルたちが反射的に振り返る。
そこから現れたのは、ふわふわとした白金の髪を揺らしながら小走りで駆けてくる、少女だった。
白いワンピースに包まれた華奢な体。
ぱちくりと大きな瞳。透き通るような肌。
全身から漂う儚げな雰囲気――しかし、その行動はあまりに無邪気であった。
「あっ、ねえねえ! 今日お庭でこんなお花見つけたの!」
少女は、両手いっぱいの花を差し出す。
魔王はため息をひとつ吐くと、それを無言で受け取り、少女の頭を撫でた。
「アーリィ、危ないから来るなと言っただろう」
「だって、おなかすいたし……ヴィルが来てくれないと、ごはん食べられない……」
「……すぐ戻る。部屋で待っていろ」
その光景に、勇者一行の思考が停止する。
“冷酷無慈悲”、“血に飢えた化け物”――
すべてのイメージが、音を立てて崩れていく。
「じゃあぎゅーしてくれたら戻るね?」
「……ここで?」
「うんっ♪」
「…………」
沈黙の後、ヴィルドは諦めたようにアーリィの頭を抱き寄せ、そっと額に口づけた。
ミレーヌが顔を真っ赤に染める。
そのままアーリィは満足げに「待ってるね~」と手を振って、軽やかに去っていった。
残されたのは、勇者と魔王のみ。だが――
「……今のは、どういうことだ?」
バルドがつぶやくように言った。
魔王ヴィルドは剣を引き抜きながら、表情一つ変えずに告げる。
「戦いの時間を、少しずらしてもいい。食事のあとなら、あの子も落ち着いている」
「…………」
全く納得がいかず勇者ライルは、聖剣を構えたまま、更に質問をする。
「今のは誰なんだ......」
勇者が低く問うと、魔王はわずかに眉をひそめた。
「私の妻だが」
その言葉に、一行が一斉にざわついた。
「無理やり娶ったと聞いている!」
「洗脳か? 術を使って……」
「馬鹿な」
魔王は唇の端をわずかに吊り上げた。冷たい笑みではない。どこか、諦めにも似た優しさを帯びたものだった。
「……あれが、私の言うことを聞く術があるなら、私が教えて欲しいくらいだ」
言葉に皮肉が混じる。けれど、嘘ではなかった。むしろ魔王のほうが、彼女に振り回されているのだと、すぐに察する。
それでも勇者は、剣を抜いた。
「いや、関係ない!......俺たちは、おまえを倒すためにここに来た」
「そうか」
魔王が漆黒のマントを翻すと重い力が、空間を圧迫する。
「ならば――死ぬ覚悟で来たのだろうな?」
魔王の手がわずかに動いた瞬間、城の床が低く唸るように震えた。
魔力が集まり、空気が震える。
圧倒的な力に、勇者ライルたちは身を引き締めた。
「くるぞ……!」
ライルが構えた聖剣の刃が、魔力の圧に呼応して光を放つ。
聖女ミレーヌが祈りの構えをとり、魔導師クレハが詠唱を始める。
騎士バルドも盾を掲げ、構えを崩さない。
――それは、正真正銘の、決戦の幕開けだった。
……はずだった。
「ヴィールーーーーっ! やっぱり今すぐ来てぇぇぇぇぇぇ!」
扉が勢いよく開かれた。先ほどと同じ、いや、それ以上に元気な声。
パタパタと駆け込んできたのは、やはり、魔王の妻――アーリィであった。
ぴたり。
魔王の手が止まる。
渦巻いていた魔力が、ふっと静まった。
「……今度は、何だ」
「だって……! お腹がぺこぺこなの……! それにね!玉ねぎ炒めるの焦がしちゃって、なんか煙出てきてどうしたらいいかわからないのぉ~!」
目に涙を浮かべながら、両手をぶんぶん振るアーリィ
魔王は額を押さえ、深く、深く息を吐いた。
「……今の一瞬でどうしてそうなるんだ。というか使用人は何をしている。」
「細かいことは置いといて!早く来てどうにかしてよぉ!お腹も空いたし!」
「……戻るからとりあえず先に玉ねぎに水かけときなさい」
「はぁい、わかった!」
にこにこと満面の笑みを浮かべて、彼女は再び玉座の間を去っていった。
扉が閉まる音だけが、場に残る。
……数秒の沈黙。
その間、ライルたちは一言も発せず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……なあ」
ついに、バルドが静かに口を開く。
「俺たち、本当に戦うのか?」
それに答えたのは、魔導師クレハの、ぽつりとした一言だった。
「むしろ、あの奥様の機嫌を損ねないようにするべきなのでは……?」
ライルは、聖剣を握ったまま呆然とした表情をしていたが、ふと我に返る。
「いや……! 惑わされるな! これもきっと魔王の策略だ! 我々の精神を揺さぶって……油断させようと!」
「油断どころか、ご飯に呼ばれてただけじゃ……?」
ミレーヌも小さく首をかしげる。
その視線の先では、魔王ヴィルドが無言のまま出ていこうとしていた。
「……おい、待て、魔王! 」
「食事が先だ。……あの子の空腹は、色々と厄介なんだ」
静かにそう告げた魔王は、すぐに踵を返し、奥の扉に向かって歩き出す。
魔王が扉の前でぴたりと止まる。
「……一晩、客人として泊めてやろう」
「え?」
「夜明けと共に戦いの続きをする。それまでに、覚悟を固めておけ」
その言葉と共に、魔王は扉の奥へと消えていった。
残された勇者たち。
「……これ、本当に“討伐”できるのか...?」
ライルは小声で呟いた。
「ねえ、ミレーヌ。今、私たち……どうするべき?」
クレハが小声で訊く。
ミレーヌはしばらく黙っていたが、やがて目を伏せて囁いた。
「……カレーの匂い、してたわね」
**************************************************
……その夜、勇者一行は魔王夫妻と同じテーブルで夕食を囲んでいた。
誰も戦う気配はなかった。
「旅の疲れもあるだろう。今日はゆっくり休むといい」
魔王がすっかり穏やかな声で言う。アーリィはその隣でにこにこしながら、「この後温泉に入りに行けばいいよ!魔王城の裏に露天風呂があるの!」と無邪気に笑っていた。
翌日も戦いは始まらなかった。
その次の日も。
勇者は魔王と将棋めいた盤ゲームで真剣勝負を繰り広げ、ほかのメンバーはお喋りなアーリィの相手をしていた。
「……俺たち、何しに来たんだっけ?」
「魔王を倒しに……来たはずだったんだけど……」
「これじゃ、ただの休暇じゃねえか」
「ていうか、魔王城のごはんが美味すぎるのよ」
誰も“戦う理由”を思い出せなくなっていた。
国の危機も、目の前のほかほかごはんと笑顔の奥さまの前では、あまりにも遠い話だった。
そして――
1週間後、勇者一行は城門の前で魔王夫妻に手を振りながら、のんびりと帰路についた。
「また来てね~! 今度は私が唐揚げを作るから!」
「気をつけて帰れよ。」
「……本当に、“魔王”って何なんだろうな……」
勇者は馬に乗りながら、ぽつりと呟いた。
だが、その横顔はどこか穏やかだった。
――こうして、勇者一行による魔王討伐は、戦うこともなく、胃袋とぬくもりに包まれながら、まさかの「平和的撤退」という形で幕を下ろしたのであった。
世界は、今日も平和である。
-----------------------------
お読みいただき、ありがとうございます。
魔王の評判は壮大にねじ曲がった噂によるものです。
2人の会話が少なかったので今後いくつか番外編を上げる予定です。
遥か東の果てに君臨する魔王ヴィルド。
その名は、恐怖と絶望の代名詞だった。
彼は冷酷無慈悲に敵を叩き潰し、数多の国々を滅ぼしてきた。
「魔王の軍勢がまた北の村を襲ったらしい。生き残った者はわずかだ」
噂は絶えず、世界中を駆け巡った。
ある国の城では緊急会議が開かれていた。
集ったのは、王国の重鎮と勇者一行。
宰相が重い空気を纏いながら口を開いた。
「状況は極めて深刻だ。情報によれば魔王軍の侵略による被害は過去最大だ」
周囲は静まり返っている。
「そしてやつは人間を人質として妻にしているという噂がある。表に現れる時は見せしめとしていつもその妻を連れているようだ」
側近の魔導士が声を潜めて続ける。
「彼女の姿を見たものは皆口を揃えて、あまりにも可哀想だと言うのだ。」
「何だと? そんなことが……」
会議室のざわめきが広がった時、国王がついに口を開いた。
「よもや看過できぬ。勇者一行よ、其方たちに魔王討伐を命じる───────」
勇者ライルは眉をひそめ、決意を固める。
「我々が行かなければ、この世界は彼の暴虐に飲み込まれてしまう。必ずや我らが打ち倒しましょう...!」
討伐の決意が固まった瞬間だった。
その日から、勇者一行は魔王の城へ向かう旅を開始した。
その噂の大半が大きく間違っているということも知らずに──────
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黒雲が空を覆い、稲妻が夜空を裂いた。
「……いよいよか」
ライルは、聖剣を握る手に力を込め、深く息を吐いた。
その刃は淡く光を帯び、まるで彼の覚悟に呼応するかのように脈打っていた。
共に立つのは、聖女ミレーヌ、騎士バルド、魔導師クレハ。
いずれも名の知れた英雄たちであり、幾多の戦いを潜り抜け、ついにこの地に辿り着いた。
「この奥に……魔王がいるのね」
ミレーヌが祈るように呟く。
その声に、誰もが無言でうなずいた。
「……やっと終わる。俺たちの、長い旅が」
ライルが聖剣を構え、黒曜石でできた巨大な扉を押し開くと、重たい空気が四人を包み込んだ。
玉座の間へと続く長い回廊。
青白い炎の灯る燭台が、石の壁にゆらゆらと影を落としている。
そして最奥の扉を開く─────
「ようこそ、勇者ども」
低く、威厳に満ちた声が、静寂を破った。
玉座の上に座すは、全身を漆黒の鎧に包んだ男。
艶やかな黒髪と、闇夜のように深紅の瞳。
整いすぎた顔立ちは、この世の物とは思えない美しさを宿していたが、全身から放たれる魔の気配が彼を“魔王”として確固たる存在にしていた。
「貴様が……魔王ヴィルド!」
「いかにも」
ヴィルドは静かに立ち上がると、重たい足音と共に階段を下りてくる。
その一歩一歩に、勇者たちの喉が自然と鳴った。
言葉にできぬ威圧感。まさに、“魔王”。
「ここに来るとは、無謀なことだな。命知らずの勇者ども」
「貴様の暴虐は、これで終わりだ!」
ライルが聖剣を構えた、まさにその瞬間――
「ヴィル~~~~っ! ご飯できたって~~~!」
場違いなほど高く、明るい声が、玉座の間に響き渡った。
「……え?」
ライルたちが反射的に振り返る。
そこから現れたのは、ふわふわとした白金の髪を揺らしながら小走りで駆けてくる、少女だった。
白いワンピースに包まれた華奢な体。
ぱちくりと大きな瞳。透き通るような肌。
全身から漂う儚げな雰囲気――しかし、その行動はあまりに無邪気であった。
「あっ、ねえねえ! 今日お庭でこんなお花見つけたの!」
少女は、両手いっぱいの花を差し出す。
魔王はため息をひとつ吐くと、それを無言で受け取り、少女の頭を撫でた。
「アーリィ、危ないから来るなと言っただろう」
「だって、おなかすいたし……ヴィルが来てくれないと、ごはん食べられない……」
「……すぐ戻る。部屋で待っていろ」
その光景に、勇者一行の思考が停止する。
“冷酷無慈悲”、“血に飢えた化け物”――
すべてのイメージが、音を立てて崩れていく。
「じゃあぎゅーしてくれたら戻るね?」
「……ここで?」
「うんっ♪」
「…………」
沈黙の後、ヴィルドは諦めたようにアーリィの頭を抱き寄せ、そっと額に口づけた。
ミレーヌが顔を真っ赤に染める。
そのままアーリィは満足げに「待ってるね~」と手を振って、軽やかに去っていった。
残されたのは、勇者と魔王のみ。だが――
「……今のは、どういうことだ?」
バルドがつぶやくように言った。
魔王ヴィルドは剣を引き抜きながら、表情一つ変えずに告げる。
「戦いの時間を、少しずらしてもいい。食事のあとなら、あの子も落ち着いている」
「…………」
全く納得がいかず勇者ライルは、聖剣を構えたまま、更に質問をする。
「今のは誰なんだ......」
勇者が低く問うと、魔王はわずかに眉をひそめた。
「私の妻だが」
その言葉に、一行が一斉にざわついた。
「無理やり娶ったと聞いている!」
「洗脳か? 術を使って……」
「馬鹿な」
魔王は唇の端をわずかに吊り上げた。冷たい笑みではない。どこか、諦めにも似た優しさを帯びたものだった。
「……あれが、私の言うことを聞く術があるなら、私が教えて欲しいくらいだ」
言葉に皮肉が混じる。けれど、嘘ではなかった。むしろ魔王のほうが、彼女に振り回されているのだと、すぐに察する。
それでも勇者は、剣を抜いた。
「いや、関係ない!......俺たちは、おまえを倒すためにここに来た」
「そうか」
魔王が漆黒のマントを翻すと重い力が、空間を圧迫する。
「ならば――死ぬ覚悟で来たのだろうな?」
魔王の手がわずかに動いた瞬間、城の床が低く唸るように震えた。
魔力が集まり、空気が震える。
圧倒的な力に、勇者ライルたちは身を引き締めた。
「くるぞ……!」
ライルが構えた聖剣の刃が、魔力の圧に呼応して光を放つ。
聖女ミレーヌが祈りの構えをとり、魔導師クレハが詠唱を始める。
騎士バルドも盾を掲げ、構えを崩さない。
――それは、正真正銘の、決戦の幕開けだった。
……はずだった。
「ヴィールーーーーっ! やっぱり今すぐ来てぇぇぇぇぇぇ!」
扉が勢いよく開かれた。先ほどと同じ、いや、それ以上に元気な声。
パタパタと駆け込んできたのは、やはり、魔王の妻――アーリィであった。
ぴたり。
魔王の手が止まる。
渦巻いていた魔力が、ふっと静まった。
「……今度は、何だ」
「だって……! お腹がぺこぺこなの……! それにね!玉ねぎ炒めるの焦がしちゃって、なんか煙出てきてどうしたらいいかわからないのぉ~!」
目に涙を浮かべながら、両手をぶんぶん振るアーリィ
魔王は額を押さえ、深く、深く息を吐いた。
「……今の一瞬でどうしてそうなるんだ。というか使用人は何をしている。」
「細かいことは置いといて!早く来てどうにかしてよぉ!お腹も空いたし!」
「……戻るからとりあえず先に玉ねぎに水かけときなさい」
「はぁい、わかった!」
にこにこと満面の笑みを浮かべて、彼女は再び玉座の間を去っていった。
扉が閉まる音だけが、場に残る。
……数秒の沈黙。
その間、ライルたちは一言も発せず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……なあ」
ついに、バルドが静かに口を開く。
「俺たち、本当に戦うのか?」
それに答えたのは、魔導師クレハの、ぽつりとした一言だった。
「むしろ、あの奥様の機嫌を損ねないようにするべきなのでは……?」
ライルは、聖剣を握ったまま呆然とした表情をしていたが、ふと我に返る。
「いや……! 惑わされるな! これもきっと魔王の策略だ! 我々の精神を揺さぶって……油断させようと!」
「油断どころか、ご飯に呼ばれてただけじゃ……?」
ミレーヌも小さく首をかしげる。
その視線の先では、魔王ヴィルドが無言のまま出ていこうとしていた。
「……おい、待て、魔王! 」
「食事が先だ。……あの子の空腹は、色々と厄介なんだ」
静かにそう告げた魔王は、すぐに踵を返し、奥の扉に向かって歩き出す。
魔王が扉の前でぴたりと止まる。
「……一晩、客人として泊めてやろう」
「え?」
「夜明けと共に戦いの続きをする。それまでに、覚悟を固めておけ」
その言葉と共に、魔王は扉の奥へと消えていった。
残された勇者たち。
「……これ、本当に“討伐”できるのか...?」
ライルは小声で呟いた。
「ねえ、ミレーヌ。今、私たち……どうするべき?」
クレハが小声で訊く。
ミレーヌはしばらく黙っていたが、やがて目を伏せて囁いた。
「……カレーの匂い、してたわね」
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……その夜、勇者一行は魔王夫妻と同じテーブルで夕食を囲んでいた。
誰も戦う気配はなかった。
「旅の疲れもあるだろう。今日はゆっくり休むといい」
魔王がすっかり穏やかな声で言う。アーリィはその隣でにこにこしながら、「この後温泉に入りに行けばいいよ!魔王城の裏に露天風呂があるの!」と無邪気に笑っていた。
翌日も戦いは始まらなかった。
その次の日も。
勇者は魔王と将棋めいた盤ゲームで真剣勝負を繰り広げ、ほかのメンバーはお喋りなアーリィの相手をしていた。
「……俺たち、何しに来たんだっけ?」
「魔王を倒しに……来たはずだったんだけど……」
「これじゃ、ただの休暇じゃねえか」
「ていうか、魔王城のごはんが美味すぎるのよ」
誰も“戦う理由”を思い出せなくなっていた。
国の危機も、目の前のほかほかごはんと笑顔の奥さまの前では、あまりにも遠い話だった。
そして――
1週間後、勇者一行は城門の前で魔王夫妻に手を振りながら、のんびりと帰路についた。
「また来てね~! 今度は私が唐揚げを作るから!」
「気をつけて帰れよ。」
「……本当に、“魔王”って何なんだろうな……」
勇者は馬に乗りながら、ぽつりと呟いた。
だが、その横顔はどこか穏やかだった。
――こうして、勇者一行による魔王討伐は、戦うこともなく、胃袋とぬくもりに包まれながら、まさかの「平和的撤退」という形で幕を下ろしたのであった。
世界は、今日も平和である。
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お読みいただき、ありがとうございます。
魔王の評判は壮大にねじ曲がった噂によるものです。
2人の会話が少なかったので今後いくつか番外編を上げる予定です。
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