夜薔薇《ナイト・ローズ》~闇夜に咲く薔薇のように

椎名 将也

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序章

3 失意の果て

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 レウルキア王国の王宮は三つの建物からできていた。
 一つは鳳凰宮ほうおうきゅうと呼ばれ、政治や行政が執り行われる主宮であった。二つ目は王や王妃などの王族が居住する麒麟宮きりんきゅうと呼ばれる小宮だった。そして最後は迎賓館である朱雀宮すざくきゅうである。アトロポスはその朱雀宮の一室に軟禁されていた。

 朱雀宮は三階建ての巨大な建物で、外国からの王族や使節団、地方の大貴族が利用することが多く、レウルキア王国の技術の粋と巨額の費用を注ぎ込んで建設された豪華絢爛な宮であった。
 その三階にある奥の一室にアトロポスは軟禁されていた。後ろ手に手枷を嵌められていなければ、大貴族並みの処遇であった。

 アトロポスは広大な部屋の中を探索した。逃げ出すにしても戦うにしても、地の利を知ることは必須だったからだ。
 この部屋は三室に分かれていた。入口を入って突き当たりには居間が広がっていた。居間だけでも広さは百平方メッツェ以上ありそうだった。本革の応接セットやリビングボード、絵画や花瓶などは一見して豪奢で、いずれもかなり値が張る物だと思われた。

 居間の右側には主寝室があり、中央に天蓋付きの寝台が置かれていた。主賓室自体の広さも五十平方メッツェは優にあり、ナイトテーブルやクローゼットなども意匠が凝らされていた。
 居間の反対側は、使用人や護衛などの控え室のようだった。こちらも寝台が二つ並べられ、革張りのソファや御影石のテーブルなどが置かれていた。広さも主賓室と同じくらいあり、五、六人が入っても閉塞感を感じることはなさそうだった。

(使えそうな物は、何もないわね……)
 剣や槍は当然ながら、ナイフ一本置いてなく、武器になりそうな棒状のものさえなかった。後ろ手に嵌められた手枷は革製のため、ナイフでもあれば切れたのにと、アトロポスは残念そうにため息をついた。

 アトロポスは居間の壁に掛けられた鏡に自分の顔を映した。
 絹のように滑らかな漆黒の髪を背中まで伸ばし、それと対照的な陶磁のように白い肌を持つ若い女性が映っていた。黒曜石の煌めきを映す黒瞳は強い意志を秘め、細く高い鼻梁に続く紅唇は女性らしい優しげな印象を見る者に与えていた。
 その整った容貌の中で、左頬に付けられた一筋の刀傷が赤く痛々しかった。流血こそ止まっていたが傷の長さは七セグメッツェほどもあり、傷口は醜く腫れていた。

 王宮で有数の剣士とは言え、アトロポスとて若い女性だ。その顔に生涯残る傷を付けられて、平静ではいられなかった。本音を言えば泣き叫びたいほどのショックだった。だが、その傷心を遥かに超える感情がアトロポスの心を埋め尽くしていた。
 最愛のアルティシアを護り切れなかったという怒りと屈辱である。
(姫様、必ず助け出します!)
 何度目かも分からない誓いを、アトロポスは紅唇を噛みしめながら心に刻んだ。

 その時、ノックもなく突然入口の扉が開かれた。
 驚いて振り向いたアトロポスは、黒曜石の瞳に紛れもない殺意を映しながら、入ってきた男を睨みつけた。その男は背後に二人の護衛を従えながら、笑みを浮かべてアトロポスに告げた。

「下級騎士のお前には過ぎた部屋だろう、アトロポス」
「よくもぬけぬけと私の前に姿を現せますね、シルヴァレート公子」
 目の前に立っていたのは、今回の謀反の首謀者であるアンドロゴラス大公の嫡子シルヴァレート公子だった。アトロポスは両脚を肩幅より少し大きく開き、重心を落としながらシルヴァレートの顔を見据えた。いつでも飛びかかれる態勢だった。

(両腕は使えなくても、いけるわ!)
 細剣レイピアほどの技術はないが、アトロポスは無手による体技もある程度の研鑽を積んでいた。軽薄が服を着ているようなシルヴァレートを蹴り殺すくらいは造作もなかった。

「まるで山猫ミャオのようだな。無駄なことはやめておけ。お前が俺に飛びかかった瞬間、こいつらの剣がお前の体を両断する」
 シルヴァレートの言葉通り、彼の両脇にいる護衛二人がいつでも腰の長剣を抜き放てる姿勢になった。
(伊達に公子の護衛に選ばれていないわね。かなりできる……)
 護衛二人の実力を見抜くと、アトロポスは力を抜いてシルヴァレートに向き直った。

「アルティシア様は無事なの?」
 不利な戦闘を一旦保留にし、アトロポスはシルヴァレートから情報を引き出すことを選択した。
「今のところはな。もっとも、近いうちに国王と王妃とともに処刑することになるのは間違いないがな」
「何ですってッ! そんなこと、絶対に許さないッ!」
 シルヴァレートの言葉にカッとなり、アトロポスは再び戦闘態勢を取った。

「慌てるな。お前がアルティシアの忠臣であることは良く知っている。国王と王妃は無理だが、アルティシアだけでも助けることはできるぞ」
「姫様をッ?」
 シルヴァレートの甘言にアトロポスの心は揺れた。彼女にとって会ったこともないアルカディア王やカトリーナ王妃よりも、アルティシアの生命いのちの方が重要だった。たとえ王と王妃を見殺しにしたことによってアルティシアが深く傷つくとしても、アトロポスはアルティシアを助けたかった。

「俺はお前を気に入っている。あのアルティシアの誕生パーティで一目見て以来、美しく高潔で純真なお前を気に入っている。わかるな?」
 シルヴァレートはゆっくりとアトロポスに近づくと、左手で彼女の下顎を持ち上げた。
「ダリウスめ、この美しい顔に傷をつけやがって……」
 そう告げると、シルヴァレートはアトロポスの唇を奪おうと顔を近づけてきた。

「冗談はやめてください、シルヴァレート公子」
 シルヴァレートから逃れるように顔を背けると、アトロポスは一歩後ずさりながら告げた。アルティシアの誕生パーティでのことを思い出すと、アトロポスは彼に触れられるだけで鳥肌が立った。軽薄でお調子者のシルヴァレートは、アトロポスの好みから正反対の位置にいたのだ。

 シルヴァレートはレウルキア王家の血を引いているだけあり、かなり整った容貌をしていた。アルティシアと同じ金髪碧眼で、彫りも深く目鼻立ちも通っていた。男にしてはやや細身だが、二十歳の割には身長も百七十五セグメッツェくらいあり、貴族の令嬢からも人気があることはアトロポスも知っていた。
 だが、同じ碧眼でも、シルヴァレートの瞳はアルティシアとは別物だった。アルティシアはその美しい碧眼に慈愛と至誠を宿しているのに対し、シルヴァレートの瞳は鷹のような鋭さと何を考えているか分からない不気味さがあった。アトロポスにとって、シルヴァレートは王宮の中でも最も近づきたくない男の一人だった。

「冗談? 仮にもレウルキア王国大公の嫡子であるこの俺が、冗談でこんなことを言えると思っているのか? アトロポス、俺はお前が欲しい。お前が俺の物になるのであれば、アルティシアの生命は助けてやってもいいぞ」
 シルヴァレートは再びアトロポスに近づき、両手で彼女の両肩を掴んだ。アトロポスは思わず彼の股間を蹴り上げようとして、その足を止めた。

(この男の言葉、信じられるの? 姫様の生命に比べれば、この身を穢されることくらい我慢できる。でも、もしそれが嘘だったら……)
 アトロポスは処女だった。十年間脇目も振らずに勉学と剣術に励んできたのであるから、それも当然のことだった。アルティシアに対する忠誠と愛情が強すぎて、恋さえもしたことがなかった。
 アトロポスとて、十六歳の女の子だ。愛する男と女の営みがどのようなものであるかくらいは知っていた。だが、それはあくまで相思相愛の場合だけに許されるものだと思っていた。愛情どころか嫌悪さえしている男に穢されるなど、アトロポスは想像したこともなかった。

「そうおっしゃるのであれば、証拠を見せてください」
「何?」
「私があなたの物になれば、アルティシア様のお命を助けると言う証拠を……」
 黒曜石の瞳に真剣な光を浮かべながら、アトロポスは真っ直ぐにシルヴァレートの顔を見つめた。
「証拠だと? 俺の言葉だけでは信じられないというのか?」
「はい。私が公子に身を任せる代わりに、必ず姫様のお命を助けると公式な文書にしたためてください。そうすれば、私は喜んで公子の物になります」

(公式文書があれば、いかにシルヴァレート公子と言えども反故ほごにすることなどできないはず……)
 それが世間知らずのアトロポスにとって精一杯の抵抗だった。国王と王妃が捕まり、すべての実権をアンドロゴラス大公が握った今、そんな文書は何の価値も持たないことにアトロポスは気づかなかった。仮に後日、アトロポスがその文書を提出しようにも、提出先さえ存在しないのだ。

「おい、紙とペン、それと印章を持ってこい」
 内心の感情をひた隠しながら、シルヴァレートが背後の護衛に命じた。あらかじめこのことを命じられていたかのような周到さで、護衛はすぐさまシルヴァレートに要求された物を渡した。
「今、すぐにしたためてやる。少し待て……」
 そう告げると、シルヴァレートは居間の応接セットに腰を下ろし、紙にペンを走らせた。そして書いた内容を確認するとサインをして押印した。

「我シルヴァレート=フォン=アレキサンドルは、アルティシア=フォン=アレキサンドルの助命をここに約すものとする。その代償として、護衛騎士アトロポスの身を受けるものとする。以降、アトロポスはシルヴァレートの命に従うものとする」
 自ら認めた文章を読み上げると、シルヴァレートはその証文をアトロポスに掲げて見せた。アトロポスはその内容を確認すると、紅唇を噛みしめた。後ろ手に拘束された手が小刻みに震えていた。

「何か不服はあるか、アトロポス?」
 柔和な笑みを唇の端に浮かべながら、シルヴァレートが訊ねた。
「ございません。ありがとうございます……」
 血を吐くような思いでアトロポスは言葉を紡ぎ出した。怒りと屈辱のあまり、涙がこぼれ落ちそうになった。

(泣いてはだめ! これは姫様をお護りできなかった罰よ。この身一つで姫様のお命が助かるならば、躊躇ためらうことなんて何もないじゃない!)
「今からお前の手枷を外す。分かっていると思うが、俺に危害を加えたり逆らったりしたら、この契約は反故にする。お前の一挙一動がアルティシアの生命の綱だと思うがいい」
 アトロポスの内心の葛藤を見抜いたかのように、シルヴァレートが告げた。
「はい……」

「『はい』ではない。『かしこまりました、シルヴァレート様』だ。言い直せ」
「かしこまりました、シルヴァレート様……」
 屈辱のあまり声が震えた。だが、本当の屈辱はこれからであることをアトロポスは知らなかった。
(いつか必ず殺してやるわ! その日を楽しみにしていなさい、シルヴァレート!)

 護衛の一人がアトロポスの後ろに回り、鍵穴に鍵を挿し入れてカチリと手枷を外した。アトロポスは自由になった両手で、代わる代わる痛みの走る手首を擦った。手首には紫色の痣ができていた。
「よし、そのまま俺の方を向いて服を脱げ!」
 シルヴァレートが告げた言葉に、アトロポスは驚愕して彼の顔を見つめた。彼の両隣には二人の護衛の男たちがいるままだった。

「シルヴァレート様……。護衛の方たちがまだ……」
「気にするな。こいつらはあくまで護衛として俺の側にいるだけだ。お前に指一本触れることはない」
 ニヤリと口元に笑みを浮かべながら、シルヴァレートが告げた。その言葉を聞いて、アトロポスは蒼白になった。
(まさか、私を抱くときも彼らはこのままなの……?)
 アルティシアの生命を助けるためにシルヴァレートに抱かれる決心をしたとは言え、その行為を第三者に見られるなどアトロポスは想像さえもしていなかった。

「早くしろ!」
「か……かしこまりました、シルヴァレート様」
 紅唇を噛みしめ涙を堪えながら、アトロポスは第一騎士団の団服を脱ぎ始めた。衣擦れの音を立てながら一枚、また一枚と団服が床に落ちていった。
 それはまさしく、アルティシアが紡いでくれた幸福の糸を断ち切る音に他ならなかった。
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