調香師・フェオドーラの事件簿 ~香りのパレット~

鶯埜 餡

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1.少女のハンドクリーム

そして

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「どういうこと?」

 ドーラは言われた意味が理解できなかったのではない。
 彼女の知るゲオルグという人物とあまりにかけ離れていたため、彼の身に何があったのかが、気になってしまったのだ。

「俺にも分からん。
 あちらの調香師部屋には三人いた。主任調香師としてゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナ。二人目はヤツのおとうと弟子と言ったか、フリードリヒ・ゼーレン=フォン=バルブスクという名前の若手の第一級調香師。そして、もう一人、ディアーナ・メルゼント=フォン=アイゼルワーレという見習いの女がいたな。

 だが、主任調香師であるゲオルグ調香師は一切、動かずにただひたすら書類仕事や発注業務を行っていたんだ」

 ミールの言葉にドーラは、それはただ仕事が溜まっていたからなのではないか、と言おうとしたが、彼に手で制された。

「もちろん、ただ、そちらの仕事が溜まっているからそちらを優先させているのかと俺も思ったが、そうではなかった。バルブスク調香師は第一級認定調香師だから、自分で好き勝手に調香作業を行えるから、別に僕のことは気にせずにフリードリヒ君の好きなように調香してくれればいい、という事かとも思ったが、そうではないらしい」

 ミールは一旦、そこで区切って、ハーブティーを飲んだ。一方のドーラは、ハーブティーを飲むのも忘れて、前のめりでミールの話を聞いていた。


「だが、アイゼルワーレ嬢の場合でも、同じようにしたんだ」


 その言葉に、息をのむフェオドーラ。
 疑っているわけではないが、本当にミールの言葉が正しいのならば、調香師としては失格だ。それに何より『調香典範』に違反することになる。

「――――ねぇ、ミール」

 それを確かめたい。
 ドーラは店をほったらかしにしていくな、と言われる覚悟をして彼にそれを言おうとしたが、ミールの方が先に彼女に言った。


「ドーラ。明日の営業が終わったら、アンゼリム殿下のところに行け。殿下からの召喚状が届いている」

 その言葉は淡々としたものだったが、ドーラにとっては吉報以外、何物でもなかった。もちろん、ミールはそのままが正しい言葉ではないだろう。彼は『大公殿下から召喚状が届いている』と言ったが、その真実は『大公殿下にアイゼル=ワード大公国での事実を話して、召喚状を書かせた』というところだろう。

 だが、ドーラはそれを深く追及せず、彼の言葉に大きく頷いた。


 その晩、久しぶりに二人で食事をした。
 アイゼル=ワード大公国にはわずか十日ばかりの滞在だったが、そこでの食事をミールが振舞ってくれた。

 食事をしながら、アイゼル=ワード大公国の様子を楽しそうに話すミールを見て、ドーラは一足先に行ったミールに少しだけ嫉妬してしまった。
 それだけアイゼル=ワード大公国は魅力的で、摩訶不思議なところだった。


 久しぶりに過ごした二人の時間はあっという間だった。
 食事が終わった後、今度はドーラが出かける準備をするために、作業室へ戻った。



 先日のミールと同じように、自前のビーカーやガラス製器具、予備の白衣、処方箋レシピ伝票、自前の素地、そして『調香典範』を鞄の中に入れた。

「あと、これも使うかもしれない――ううん。これは必ず使う」

 そう呟いて手にしたのは、先日、テレーゼから借り受けた小瓶に入ったハンドオイルと、自分で調製してみたハンドオイルもどき。
 もし、ゲオルグと本当に会えるのであれば、彼に一度試してみたいことがあった。

 そして、支度が終わった後、本当はしたいことが少しあったが、明日に備えて早く寝ることにした。



 翌朝、いつもはバラバラなはずのミールとドーラは、ほぼ同時刻に食事をとった。
 しかし、昨晩と打って変わり、二人とも無言だった。

 食事後、フェオドーラは『明日より臨時休業』と外の看板に記して、開店の準備をした。
 今日は午前中だけの営業の予定で、ハンドマッサージの常連客である子爵夫人と香水の商談に訪れる予定の侯爵夫人の二人だけが予約客だった。
 当然、いつも通り接しなければならないが、アンゼリム大公殿下からの呼び出し、しかもおおよその用件が分かってしまっていると、心が浮き足だっているようで、妙に落ち着きを欠いてしまった。それに気づいたのか、二人ともから、今日は何か嬉しい事でもあったようねぇと、苦笑いしながら言われてしまった。

 決して、嬉しいか嬉しいかで問われれば嬉しくはない。
 だけれど、自分の願いが叶えられて、かなり嬉しかったのだろう。少しだけ気を引き締めて接客した。



 お昼過ぎ、営業時間を終えたドーラは、大公邸に向かった。

 普段、大公邸に行く用事といえば、貴族たちとの商談の場にしている夜会や『ステルラ』の製品を愛用してくれている大公妃殿下の茶会くらいだ。だけど、「匂い・香りに関わる事件を解決するため」に「外国での調査権を持っている《調香師》」の立場ではない。
 だから、調香師としての立場を示すものは、ポローシェ侯爵がパトロンについているというものだけで良く、正式な意味で調香師を示す白衣ではなくて良かった。

 だが、今回は違った。「外国での調査権を持っている《第一級認定調香師》」としての彼女が呼ばれている。だから、調香師としての正装――白衣とその胸元に着けた黄色いアザミのピンバッチ――を着用していた。


 そして、いつもなら、何気なくくぐっている大公邸の門でさえも、今までとは違った緊張感が一気に彼女の全身を駆け巡った。

 何人もの下働きの者たちに召喚状を見せ、声を掛けて行き、メイドらしき人物に案内されたのは大公の執務室だった。初めて訪れたその場所の外観は、ごく普通の商店の事務室、と言われてもおかしくないような質素さを感じさせた。さすがに普段参加する夜会や茶会は、質素という雰囲気はなかったので、思わず驚いてしまったドーラだった。



 メイドがノックすると、中からどうぞと柔らかい声が聞こえてきた。

 彼女が扉を開けると、シックな雰囲気の室内がドーラの目に飛び込んできた。正面に座っていたのは、本当に言われなければごく一般の平民のようなたたずまいの男性――エルスオング大公アンゼリム、そして、ドーラたちから見て右手に、少しやつれた顔をしていた美青年――ではなく、男装のアイゼル=ワード大公、テレーゼが座っていた。彼女はいつもとは違い、貴族らしい姿だったが、雰囲気はいつもと変わらないものだった。
 しかし、ドーラの姿を認めると、すっと目を逸らした。


 エルスオング大公はドーラを手招きして中に入らせると、メイドに下がっていて、と言って、部屋から追い出した。


「久しぶりだね、ラススヴェーテ嬢。そこに座って」
 紅茶を注ぎながら柔らかい声でそう言う、エルスオング大公。以前、ドーラに紅茶の淹れ方をひたすら習わされた彼は、彼女の目から見てもかなり上達したと思われた。

「ええ、お久しぶりです」
 ドーラは一つ頭を下げ、テレーゼの目の前に座った。

「アイゼル=ワード大公殿下、昨日はどうも」
 さすがに面識があるのに、無視をするのはまずいと、少しどう挨拶すればよいのか迷いながら、テレーゼに挨拶をしたが、彼女の呼称を『テレーゼさん』と軽々しく呼ぶわけにはいかなかった。
 その些細な変化に気付いたテレーゼだったが、場所が場所だけあって、少し苦い顔をしただけで何も言えなかったようだった。
 二人がやり取りをしている間、何も言わなく、何も気づいていないような雰囲気を出しているエルスオング大公だが、実際は気づいているだろうと、ドーラは思った。そういう性格をしていなければ、他の四大公とやり合うことはできないだろう、そう不覚にも思えてしまった。

 
「はい、ラススヴェーテ嬢」
 そう紅茶をフェオドーラの目の前に置いたエルスオング大公。茶葉は帝国産のものだよ、とにっこり笑う姿は、街中のお茶屋さんのような笑みだった。
 ドーラは早速、ありがとうございます、と言って一口飲んだ。苦みも少なく、のどに引っかかることもない味はまさしく帝国産の茶葉だろうとドーラにも分かった。

「お待たせ、テレーゼ君」
 給仕のまねごとをし終わったエルスオング大公は、少し手持ち無沙汰にしていたテレーゼに声を掛けた。


「今日、第一級認定調香師であるラススヴェーテ嬢を呼んだのは紛れもない、君のためだ、アイゼル=ワード大公」
 先ほどまでの柔らかさとは一転して、かなり真面目な口調になったエルスオング大公。テレーゼはドーラがここに呼ばれた理由を知っていたのか、少しだけ肩を震わせただけだった。


「フェオドーラ・ラススヴェーテ調香師を連れて、アイゼル=ワードへ戻り、至急、そちらのお抱え癒身師であるゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナについて、調査させなさい」

 エルスオング大公の言葉に唇を震わせたテレーゼ。
 彼女とゲオルグとの関係を知っているドーラは、その気持ちも理解できなくはなかったが、彼女にかける言葉を見つけらなかった。

「そして、ラススヴェーテ嬢。あなたはミールからすでに聞いていると思うが、アイゼル=ワード大公家、お抱え癒身師であるゲオルグについて調査せよ。これは『調香典範』第二十五条による命令だ。
 本来ならば、エルスオング家の調香師たちを向かわせるべきなんだろうけれど、彼らよりも君の方がテレーゼ君のことを見ているわけだから、適任だろうって思ってね」

 エルスオング大公の言葉に、大きく頷いたドーラ。
 そして、今まで言葉を発しなかったテレーゼがとうとう、口を開いた。



「その提案を受け入れる。彼女が明かすことならば、どんなことであっても、受け入れよう」
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