調香師・フェオドーラの事件簿 ~香りのパレット~

鶯埜 餡

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1.少女のハンドクリーム

覚悟

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 その日は休憩なしで進み、アイゼル=ワード大公国の都、メル・ルーツェに到着したのは、既に日が沈み切った後だった。

「ようやく戻って来たな」
 それまでは全速力で進んでいた馬車が、市街地に入り速度を落としたのを見たテレーゼはしみじみと呟いた。
 いくら平和な時とはいえども、三十日以上も国を空けていたらしいので、気が張っていたのだろう。テレーゼの肩にこもっていた力が抜けていたのにドーラは気づいた。

 メル・ルーツェ――アイゼル=ワード大公国全体にいえることかもしれないが――は冬にかなり冷え込むそうで、大雪になることも多いという。なので、しっかりとしたつくりになっており、家の作りもエルスオング大公国と違ったつくりになっていた。

 市街地に入り、しばらく進んだ馬車がついた先には、エルスオング大公邸よりとほぼ同じくらいの大きさで、あちらの屋敷よりもわずかに装飾が多い外観だった。

「きれい――――」

 それ以上に少しだけ明かりに照らされた白亜の屋敷は、今が夏であることを忘れさせ、まさに雪国の宮殿という感じで、ドーラは思わず見惚れてしまった。

「そう言ってくれるのは嬉しい」

 彼女の視線の先を辿ったテレーゼは誇らしげに言った。

「小さい時から、この屋敷を何度、疎ましく、逃げ出したく思っていたことだか。でも、そのたびにゲオルグも、クルトやルッツも私を立ち直らせてくれた。あいつらと見た夕日に照らされた屋敷は綺麗だったな。
 あいつらが背中を叩いてくれたおかげで、ああ、いつかは大公という地位を継いで、この国に住んでいる人を背負っていかなければならないけど、決して一人じゃない、そう思えたんだ。
 だから、この屋敷そのものを綺麗だと言ってれるのは、少し・・性格が曲がっている私には羨ましくも感じるし、素直に嬉しくも感じるよ」


 テレーゼの言葉に息をするのも忘れていたドーラはふぅ、と息をついた。

「――――さぁ、ちょうど着いたようだ。降りようか」

 馬車が屋敷のエントランスに着いたようだった。テレーゼの表情はあまり変わらなかったが、少しだけ『大公』としてのオーラを感じた。

 テレーゼにエスコートされて馬車を降りたドーラは、夜中にもかかわらず出迎えの多さに腰が引けた。出迎えの多くは下働きの者が多かったが、かなりしっかりとした教育を施されているようで、ドーラの登場を訝しむものはいなかった。
 そうはいっても、手を握ったまま離さないテレーゼに人々の注目が集まってしまい、ドーラはここがエルスオング大公邸とは違うことを思い知らされた。

「あ、あの、テレーゼさん――――」
 ドーラが控えめに声を掛けると、彼女は目を瞬かせた後、ドーラの言いたいことに気付いて、ああ、すまなかったな、と手を離した。


 ドーラはメイドや執事たちの手を借りて、荷物を運びつつ、客室を案内してもらった。本当は今からでも、調香室へ飛んでいきたかったが、さすがに夜も遅く、諦めた。

「こちらになります」

 メイドに案内された部屋はかなり豪華で、当然と言えば当然なんだろうが、昨日泊まった宿よりも調度品の質も良かった。

「あの、ここが私に貸してくださる部屋なのですか?」

 まさかこんなところに案内されるとは想像していなかったドーラは、思わず尋ねてしまった。彼女の様子にメイドも困惑し、はい、大公殿下よりこちらの部屋を、と言われておりますと答えた。
「そうでしたか。では、ありがたくお借りします」
 テレーゼの『頼み』なら仕方ない、そう割り切ったドーラはそれを素直に受け入れることにした。

 彼女が部屋に入った時、既に部屋は整えられていて、メイドたちが慌てて準備する様子も見られない。だから、テレーゼが到着した時にはもう準備が整っていたんだろう。
 テレーゼに感謝するとともに、ドーラの厚遇に何も言わないメイドたちに感謝した。

 大公邸は明るく、まだ起きていられそうだったが、一日で昨日の三倍以上の距離を移動したからか、座っているだけだったはずのドーラもつかれており、軽く身支度を整えると、すぐに寝てしまった。



 翌朝、思ったよりもはやく目覚めたドーラは荷物を整理することにした。
 アイゼル=ワード大公国は大陸の中で最も北に位置しているので、昨日の夜、到着した時にも寒さを覚悟したが、この時期はどうやら温暖な気候なのか、身震いすることはなかった。

 一昨日の宿とは違って、この部屋には何日も泊まることになるだろう。そう考えたドーラは持ってきた服を備え付けられたクローゼットに入れ、今日から必要になる調香道具一式を取り出し机に並べた。

 それらを並べていると、今日から始まる調査のことを考えてしまい、気分が重くなってきた。いくら、この国に来たくてうずうずしていたのにもかかわらず、いざとなれば及び腰になるのを感じた。

 フェオドーラよりもベテランのゲオルグを調査する、ということは、重大なプレッシャーだ。しかも、市井の認定調香師ではなく、大公家お抱えの認定調香師だ。同じ第一級認定調香師であり今回、『調査』を請け負ったドーラは冷静に判断を下さなければならないが、果たして本当にそれが自分にできるのだろうか、という葛藤を抱いていた。

 もちろん、葛藤を抱いているとはいえ、やることには変わらない。気持ちを落ち着かせるために、持参したカモマイル・ローマンの精油を数滴、ハンカチーフに垂らして、その香りを嗅いだ。少し甘さがあるその香りを嗅いだドーラは、先ほど感じた不安が少しだけ落ち着いたような気がした。

 ちょうど小物類を整えた終わった時、扉がノックされた。こんな早い時間帯から誰だろうかと思って扉を開いたら、すでに身支度を整えているテレーゼだった。

「おはようさん」
 そういうテレーゼは今までの装いとは違って、かなり派手とまではいかないが、鮮やかな服装だった。

「本当はキミと一緒に朝食を食べようかと思ったけれど、これ以上、キミを恐縮させるわけにはいかなかったから」
 だから、同じものを用意させたんだ、そう言って、部屋の外にいる誰かに合図をすると、二人のメイドが、蓋がかぶせられたお盆を持って入ってきた。彼女たちは空いているテーブルにお盆をのせて、皿類を広げていった。

「もし、今、時間があるようならば、すぐに食べてほしいな。うちの料理人コッホ自慢の料理だから」
 テレーゼの口調から、本当においしいものだということが分かる。丁度、一息ついたところだったので、素直に頂くことにした。

 紅茶は少し抽出時間が長いのか、茶葉本来のものか分からないが、苦みが強く、ドーラの口に合わなかったので、すぐに砂糖を入れてしまった。しかし、それ以外のものは確かにおいしかった。
「美味しかったです」
 ドーラがそう言うと、彼女が食べている間、ずっとそばにいたテレーゼは破顔して、後ろのメイドたちも喜んでいた。
 嬉々とした様子のメイドたちは手早く盆に皿を戻し、それらを持って退室した。

「口に合ったようで良かったよ――――さて、これから、もう行くかい?」

 テレーゼは少し言いにくそうに尋ねた。ドーラも先ほどまで悩んでいたことだ。だけれど、ここに来た以上はすべて・・・を解決しなければならない。
 彼女の目をしっかりと見たフェオドーラは、はい、と大きく頷いた。

「そうか、分かった――――いや、一度はキミに全てを明らかにしてほしいって頼んだのは私だ。私が恐れていてはだめだ――――」

 テレーゼはふぅと息をついた。


「では、よろしく、フェオドーラ・ラススヴェーテ嬢」


 テレーゼのもう一度、覚悟を決めた呼びかけにドーラももう一度、覚悟を決めてもちろんです、と返事した。



 白衣に着替えて、『第一級』を示す黄色のアザミのバッジを胸に着けたドーラが、テレーゼに連れられてやってきたのは、大公邸の一角――どうやらすれ違う人たちの身なり的に、大公家の私的な空間ではなく、公人として政務を取る場所に近いようだ。

「ここだ」

 テレーゼはそう言いつつ扉をノックして、返事を待たずに開けた。
 そこは、やはり大公家のお抱えの調香室だからか、多くのものが取り揃えられていた。
 壁棚にはざっと見ただけで、三十種類以上の乾燥ハーブが瓶詰めされて置かれており、鍵付きの戸棚には複数の液体が入った大瓶や資料などが揃えられていた。

 二人が入ってきたのに気づいたのだろう、奥からここの所属であると事前に情報を得ていた三人がやってきた。どうやら、朝の打ち合わせか何かしていたのだろうか。三人とも真剣な面持ちだった。


 ドーラはしっかりと彼らの顔を見た。
 一番若い少女――十四、五歳だろうか、金髪を縦ロールにして、いかにも気が強そうなきりっとした顔立ちなのはディアーナ・メルゼント=フォン=アイゼルワーレという見習いの調香師だろう。
 そして、黒色の長い髪を軽く束ねた青年は、フリードリヒ・ゼーレン=フォン=バルブスクという名前の第一級認定調香師だろう。同じ第一級認定調香師だけれど、フリードリヒとはあった記憶はなかった。


 二人とも、名前と姓の間に『フォンvon』が入っていることから、アイゼル=ワード大公国内で貴族の出身なのだろう。



 そして、もう一人。

 蜂蜜色に似ていて、短く切りそろえられた髪、そして、神経質そうな顔に掛けられた黒ぶち眼鏡。

 ドーラはその人に会釈すると、その人も会釈を返してくれた。

 彼は生活面では非常にだらしがないが、調香のことになると一変して厳しくなる人――――ゲオルグ・デリュータ=フォン=ファーメナ、その人だった。
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