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第2章 「青のほとり」3
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「静か、って……やっぱり、地味?」
「ううん。違うよ。
“静かに戦ってる色”って、あると思う」
ハルはその言葉に、心のどこかが揺れた。
静かに戦う。
そうだ。
叫ばずに、殴らずに、誰にも頼らずに、
ただ、自分の中の矛盾と折り合いをつけていく――
それが、今の自分だ。
ハルは再びノートを開いた。
〈記録ノート・6月21日〉
自分の色を描くって、想像よりも難しかった。
見えることと、持っていることは、全然違う。
ミズキの絵は、美しかった。
でも、それは“強がっている色”だとも思った。
青って、本当は揺れてる。
凍っているようで、下では流れてる。
僕は、そんな青に似ているグレーを選んだ。
いつかこの色が、誰かにとって“安心”に変わればいい。
まだ、わからないけど――
僕は、何かになりたいと思ってる。
色に、なりたい。
美術の時間が終わっても、ハルの手にはまだ余韻が残っていた。
絵の具のにおい。筆に伝わってくるわずかな紙のざらつき。
そして、自分の中から出てきた“静かなグレー”。
それは華やかではないけれど、今の自分に正直な色だった。
隣のミズキは、自分の描いた絵をじっと見ていた。
深い青に白が重なり、ところどころに柔らかな黄色。
どこか、未来の空のような絵だった。
「それって、ミズキの色?」
そう尋ねたとき、彼女が言った。
「ううん。たぶん……“なりたい色”。
なれたらいいなって思ってる、まだ遠い色」
その言葉が、ずっと耳に残っていた。
夕方の体育は、いつものように喧騒から始まった。
ボールの跳ねる音、笑い声、笛の音。
ハルは、笑っているみんなの“色”をぼんやりと見ながら、
ただ、無心で体を動かしていた。
遠くでミズキの姿が揺れる。
走って、止まって、また走って。
その動きの一つひとつが、まるで“波”のように見えた。
彼女の青は、いつも静かだけど、今日のそれは少し違っていた。
――動いている。
内側で、何かが揺れていた。
強がりでも、我慢でもない、もっと自然な“揺らぎ”。
体育が終わるころ、風が肌を冷やした。
ハルは、彼女の方をそっと見て言った。
「……ベンチ、寄ってく?」
ミズキはほんの少し驚いたような顔をして、
そして、微笑んだ。
「……うん」
グラウンドの端、夕暮れの光が射すベンチにふたり並んだ。
空は、もう青から紫に変わりかけていて、
そのグラデーションが、ミズキの横顔をやさしく包んでいた。
しばらく無言だった。
風の音と、かすかな蝉の鳴き残しだけが、時間を埋めていた。
ミズキが、ふいに言った。
「……ねえ、私ね。あの頃、ほんとは泣きたかったの」
ハルはゆっくりと彼女の方を向いた。
ミズキの目は、どこか遠くを見ていた。
「何か言われても、無視されても、“大丈夫”って言い続けてたけど――
本当は、ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかった」
ハルの心の奥が、きゅっと痛んだ。
「でも、泣くのが怖かったの。泣いたら、自分がもっと弱くなる気がして……
泣いたら、自分がこの世界からいなくなる気がして」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
ミズキは肩を少しだけすくめた。
「だから、黙ってた」
「……ハルくんはさ」
「うん」
「“誰かのために強がってる人”って、どう思う?」
ハルはしばらく黙ってから、ゆっくりと答えた。
「……すごく、がんばってる人だと思う。強がるって、簡単じゃない。
逃げるより、ずっと、しんどいことだと思う」
ミズキは、目を伏せた。
そのまつげに、うっすらと光が滲んでいた。
「そう言ってもらえたの、初めてかも」
沈黙が降りた。けれど、それは重くなかった。
言葉のいらない“安心”が、そこにあった。
「……ねえ」
ハルがふいに言った。
「僕、誰かを“救う”ことはできないと思う。
でも、“そばにいる”ことは、できる気がする」
それは、今の彼の精一杯だった。
「痛みをなくすことはできなくても、誰かが“自分の痛みをわかってくれた”って感じられたら、それだけで、少しだけ、世界が変わる気がして」
ミズキは、ゆっくりと顔を上げた。
「それって、いちばん優しいことだと思うよ」
空は、すっかり夜の色になっていた。
ふたりはベンチを立ち、校舎の影を抜けながら並んで歩く。
足音だけが、帰り道に重なっていく。
そのリズムが、どこか“答え合わせ”のようにも感じられた。
隣にいるだけで、色が少しだけ柔らかくなる。
それは、言葉よりも確かな感覚だった。
誰かの優しさに触れたとき、それが自分の中に残っていく気がした。
それは、次に誰かに向けるための“何か”なのかもしれない。
その夜、ハルはノートを開いた。
〈記録ノート・6月22日〉
青って、冷たくなんかない。
それは、“泣けなかった人の色”だった。
強がるって、すごく孤独なことだ。
でも、その孤独を知ってる人は、きっとやさしい。
僕は、誰かを救えない。
でも、“感じる”ことはできる。
それを“優しさ”と呼ぶなら、僕は、そういう人になりたい。
空には、かすかに星が浮かんでいた。
見えるか見えないか、ぎりぎりの淡い光。
でも、それは確かに、そこに“あった”。
色も、感情も、人の気持ちも、いつも見えるわけじゃない。
でも、信じようとすることが、何より大事なんだと、今は思う。
「ううん。違うよ。
“静かに戦ってる色”って、あると思う」
ハルはその言葉に、心のどこかが揺れた。
静かに戦う。
そうだ。
叫ばずに、殴らずに、誰にも頼らずに、
ただ、自分の中の矛盾と折り合いをつけていく――
それが、今の自分だ。
ハルは再びノートを開いた。
〈記録ノート・6月21日〉
自分の色を描くって、想像よりも難しかった。
見えることと、持っていることは、全然違う。
ミズキの絵は、美しかった。
でも、それは“強がっている色”だとも思った。
青って、本当は揺れてる。
凍っているようで、下では流れてる。
僕は、そんな青に似ているグレーを選んだ。
いつかこの色が、誰かにとって“安心”に変わればいい。
まだ、わからないけど――
僕は、何かになりたいと思ってる。
色に、なりたい。
美術の時間が終わっても、ハルの手にはまだ余韻が残っていた。
絵の具のにおい。筆に伝わってくるわずかな紙のざらつき。
そして、自分の中から出てきた“静かなグレー”。
それは華やかではないけれど、今の自分に正直な色だった。
隣のミズキは、自分の描いた絵をじっと見ていた。
深い青に白が重なり、ところどころに柔らかな黄色。
どこか、未来の空のような絵だった。
「それって、ミズキの色?」
そう尋ねたとき、彼女が言った。
「ううん。たぶん……“なりたい色”。
なれたらいいなって思ってる、まだ遠い色」
その言葉が、ずっと耳に残っていた。
夕方の体育は、いつものように喧騒から始まった。
ボールの跳ねる音、笑い声、笛の音。
ハルは、笑っているみんなの“色”をぼんやりと見ながら、
ただ、無心で体を動かしていた。
遠くでミズキの姿が揺れる。
走って、止まって、また走って。
その動きの一つひとつが、まるで“波”のように見えた。
彼女の青は、いつも静かだけど、今日のそれは少し違っていた。
――動いている。
内側で、何かが揺れていた。
強がりでも、我慢でもない、もっと自然な“揺らぎ”。
体育が終わるころ、風が肌を冷やした。
ハルは、彼女の方をそっと見て言った。
「……ベンチ、寄ってく?」
ミズキはほんの少し驚いたような顔をして、
そして、微笑んだ。
「……うん」
グラウンドの端、夕暮れの光が射すベンチにふたり並んだ。
空は、もう青から紫に変わりかけていて、
そのグラデーションが、ミズキの横顔をやさしく包んでいた。
しばらく無言だった。
風の音と、かすかな蝉の鳴き残しだけが、時間を埋めていた。
ミズキが、ふいに言った。
「……ねえ、私ね。あの頃、ほんとは泣きたかったの」
ハルはゆっくりと彼女の方を向いた。
ミズキの目は、どこか遠くを見ていた。
「何か言われても、無視されても、“大丈夫”って言い続けてたけど――
本当は、ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかった」
ハルの心の奥が、きゅっと痛んだ。
「でも、泣くのが怖かったの。泣いたら、自分がもっと弱くなる気がして……
泣いたら、自分がこの世界からいなくなる気がして」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
ミズキは肩を少しだけすくめた。
「だから、黙ってた」
「……ハルくんはさ」
「うん」
「“誰かのために強がってる人”って、どう思う?」
ハルはしばらく黙ってから、ゆっくりと答えた。
「……すごく、がんばってる人だと思う。強がるって、簡単じゃない。
逃げるより、ずっと、しんどいことだと思う」
ミズキは、目を伏せた。
そのまつげに、うっすらと光が滲んでいた。
「そう言ってもらえたの、初めてかも」
沈黙が降りた。けれど、それは重くなかった。
言葉のいらない“安心”が、そこにあった。
「……ねえ」
ハルがふいに言った。
「僕、誰かを“救う”ことはできないと思う。
でも、“そばにいる”ことは、できる気がする」
それは、今の彼の精一杯だった。
「痛みをなくすことはできなくても、誰かが“自分の痛みをわかってくれた”って感じられたら、それだけで、少しだけ、世界が変わる気がして」
ミズキは、ゆっくりと顔を上げた。
「それって、いちばん優しいことだと思うよ」
空は、すっかり夜の色になっていた。
ふたりはベンチを立ち、校舎の影を抜けながら並んで歩く。
足音だけが、帰り道に重なっていく。
そのリズムが、どこか“答え合わせ”のようにも感じられた。
隣にいるだけで、色が少しだけ柔らかくなる。
それは、言葉よりも確かな感覚だった。
誰かの優しさに触れたとき、それが自分の中に残っていく気がした。
それは、次に誰かに向けるための“何か”なのかもしれない。
その夜、ハルはノートを開いた。
〈記録ノート・6月22日〉
青って、冷たくなんかない。
それは、“泣けなかった人の色”だった。
強がるって、すごく孤独なことだ。
でも、その孤独を知ってる人は、きっとやさしい。
僕は、誰かを救えない。
でも、“感じる”ことはできる。
それを“優しさ”と呼ぶなら、僕は、そういう人になりたい。
空には、かすかに星が浮かんでいた。
見えるか見えないか、ぎりぎりの淡い光。
でも、それは確かに、そこに“あった”。
色も、感情も、人の気持ちも、いつも見えるわけじゃない。
でも、信じようとすることが、何より大事なんだと、今は思う。
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