神様のあったかご飯。

にのまえ

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はじまり

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「あの、お腹、空いていませんか?」

 ――そのひと言が、僕の本来の姿を思い出させてくれた。


 ⭐︎


 ああ、自分のことが何も思い出せない。

 僕は、どこから来たのか。
 僕は何者なのか。
 ただ、ぼんやり、変わりのない日々を。
 長い世を、ただ生きているだけの何者でもない存在。

 さみしいという言葉は、とうの昔に忘れていた。
 信仰を失い、誰も訪れなくなった古びた神社。
 はぐれ妖怪の僕は、この神社から離れちゃいけないような気がして、その寂れた社をねぐらにしていた。

「ふわぁ……今日もよく寝た。ん? んん、いい匂いがする」

 めずらしく感じた匂いに興味が惹かれる。

 僕は気付けば、その香りに釣られて石段の上から覗くと、下にある通りに提灯のあかりが灯っていた。

「いままで気付かなかった。あれは食べ物屋かな? それにしても人間は笑顔で店に入って、何を食べているんだろう?」

 気にはなるが僕には食事が要らず、人に見えない存在。どうせ話しかけても、誰も答えてくれないだろうな。

 でも、この日の僕は提灯ちょうちんの明かりが消えるまで、石段の上に座って見ていた。


 ⭐︎

 
 次の日の夕暮れ。
 また、あの美味そうな匂いに、鼻がぴくりと動いた。

「あの匂いだ! 今日も、いい匂いがしてきた……」

 我慢できず、僕は神社の境内から飛び出し、昨日と同じく石段から覗けば、昨日と同じく灯る提灯。その提灯ちょうちんの灯りに誘われた、人間が店の中に消えていく。

「すごく気になる。下に行ってみようか、どうしようかな? よし決めた、今日は見に行ってみよう」

 石段を降りて店の、のれんの隙間から覗くと、店内は大勢の人間がいた。数日観察していてわかった。あの店は年老いた夫婦が営む、小さなご飯処。

(いつから、あの店があるのか分からないけど)

 店から香る、温かな匂いにごくりと喉が動く。
 店前にかかる、のれんにはお花の刺繍ししゅうがされていて、その隙間から見える人間の弾む声、笑い声――この中は人間の温もりが溢れていた。

「おっ開いてる。この店、どの料理も美味いんだよなぁ」

「だよなぁ」

 楽しげな人間の声は、店の中を覗く僕の横を、通り過ぎ、のれんをくぐっていった。

(多くの人間、楽しげな声……あれ? 僕も昔に聞いていたような。ないような)

 その、僕の目に何か写ろうとしたが、すぐ消えていった。僕は何かを忘れている。それが何かはわからない。


 ⭐︎


 それからいい匂いがしたら、僕は店の前に行くのが日課になった。

「いやぁ、お腹すいた~! おばちゃん、今日のおすすめはなに?」

「おばあちゃん、おじちゃん来たよ~!」
「大将、熱燗あつかんとエビとナス、レンコンの天ぷらを頼む」

「かしこまりました、少しお待ちください」

 まただ。人間の、楽しげな店の中に何か思い出しそうで、何も思い出せない。何もない日々を生きてきた僕はその記憶を、とうの昔に忘れてしまったのだろう。

「美味しかった、ごちそうさま」
「ごちそうさま。また来るね」
「ごちそうさまでした」

 中にいた人間が帰っていく。
 どうやら店が終わる時間。
 僕は店の開店から、閉店の時間まで店の外にいたようだ。

 今日も、楽しかったな。
 また明日も来よう。


 ⭐︎


 一週間経つ頃には、僕はあの店について詳しくなった。あの店を営むのはシゲさんとお花さん。店の名前は「花しげ」。店に来た人間がそう呼んでいた。

 まぁ妖怪である僕は、食べずとも生きていける。けれど、人間が笑って頬張る“ご飯”というものに、ずっと興味がでてきた。

(食べたらどんな味がするのかな? 甘いのかな? 塩っぱいのかな?)

「美味しかったよ、ごちそうさま」
「ごちそうさま、また来ます」

 食事を終えた客が次々と帰っていく。僕はそれを眺めていた。今日も店が終わったことに気付き、ねぐらの神社に帰ろうとした。

 いきなり店の扉が開き、帰ろうとして僕を呼ぶ、優しい声が聞こえた。

「あの、お腹、空いていませんか?」

(え? なに? 今、声をかけられたぁ? おかしいなぁ。人間に僕の姿は見えないはずなのに?)
 
「あなた。最近ずっと、いらしていますよね」
「あ、その、すみません……」

 つい、謝ってしまった。だって、僕の姿は汚れた髪、ボサボサな耳と尻尾。すすれた着物……見るに耐えない姿。

 だけど、花柄の模様が入った薄緑色の着物を着た、おばあさんは優しく微笑んだ。

「そのお姿は……もしかして、階段の先にいらっしゃる狐の神様ですか?」

 お姿? 僕はボロボロだよ。
 それに神様だなんて、恐れ多くて、僕は首を横にブンブン振った。

「いや、違う。ただの妖怪。あ、でも、勘違いしないで、僕は人間を食べたりしないから……ただ、いい匂いに惹かれて見ていただけ」

「まあまあ、そうですか。もしよかったら、うちのまかないを食べていきませんか?」

「……うちのまかない? 僕、人間のお金ないけど、いいの?」

 おばあさんは嫌な顔ひとつせず、僕を店の中へ招き入れてくれた。

 ああ、この香りだ。店の空気すべてが、温かい匂いで満ちていた。

「さあ、こちらに座ってください」
「ありがとう」

 すすめられた席に着くと、白い調理服を着た、厨房のおじいさんが湯気の立つ一椀をそっと僕の前に置いた。

「すまんね。余りものの刺身で作った茶漬けだ。だが、店自慢の出汁を利かせてある。美味いぞ」

「ええ、おじいさんの作る、お出汁は本当に美味しいのよ。きっと気に入るはず」

「いただきます……。ズッ、ズッ。……うわっ、美味しい。……とても、あったかい味がする」

 気づけば、夢中で茶漬けをかき込んでいた。
 その食べっぷりに、老夫婦は嬉しそうに目を細めている。

 もう一度、人間のお金を持っていないというと、二人はいいよと笑ってくれた。

「お金なんていいの。賄いでよかったら、また食べに来てください」

「ああ、食べにおいで」

 社へ帰る僕の後ろ姿を見て、おばあさんは「お店をはじめると伝えにきた時に見た。神様に違いないわ」と話す。おじいさんも「そうだな。私達の力ではあの社を、神様に何もできない」悲しい声は風に乗って、僕の耳には届かなかった。


 ⭐︎


 それから僕はたびたび店を訪れ、温かいご飯を分けてもらうようになった。

 けれど、その幸せな時間は長くは続かなかった。

 ある日の食後。
 食器を片付けながら、シゲさんとお花さんの老夫婦は寂しげな顔をした。

「……すまんね。今月いっぱいで、この店を畳むことにしたよ」

「ごめんね。足腰が弱ってしまってねぇ。もう続けるのが難しくて」

 店を閉めて遠く離れた、娘さんのところに行くと話した。さみしいけど、僕に彼らを止めることはできない。

「……そう、なんですか。さみしくなるけど……今まで、温かいご飯をありがとう。僕は大丈夫だよ」

 その僕の言葉に、二人は微笑んだ。

 そして月末が来て、小さなご飯処はみんなに見守られながら、のれんをたたんだ。
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