虹色の季節

りん

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20、苦悩――己の心

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―――

「え…?」
兄の話を聞いた春香は頭が真っ白になった。
足元がぐらついて、まるで地面が無くなってしまったかのようだ。春香はふらつく体に叱咤しながら目の前の兄に向かって言った。

「何で…?私には会いに来てくれなかったの?お父さんにとって私って何だったの?何で…?」
無言で下を向いた兄に詰め寄る。

「ねぇ!何で?何で黙ってるの?」
「…お前が大事だからだよ。」
「…え?」
「それとお前に対して申し訳ないって思っているから。春香が一番大切に思っていた家族を、壊してしまったから。」
「そんな…。お父さんは何も悪くないじゃない。お母さんだって……。家族を壊したと、私に悪いと思っているなら…会いに来て欲しかった……」
「春香……」

『何で…?』と何度も訴える妹に対して、透は何も言えなかった。そしてそんな自分が情けなくなって密かにため息をつく。

自分だって春香に会ってやってくれと頼んだし、この足が思うように動かせたら追いかけて行って、何が何でも会ってくれと懇願しただろう。だけど……

「ごめんな……」
「…何でお兄ちゃんが謝るの?」
「俺がこんな足じゃなかったら、父さんを追いかけて行って説得できたのにって思ってな。」
「そんな…お兄ちゃんのせいじゃないよ。それに足はぜっっったいに治るから!」
「春香……」
春香は一瞬目を瞑ると、パッと目を開けて殊更明るく言った。

「私にとって救いだったのは、お父さんがずっと私たちを見守ってくれてた事。だからもうその事だけで充分だよ。まぁホントは会いたいけど…しょうがないよ。お父さんが決めた事だから。」
「そっか……」
「てっきりストーカーだと思っちゃって、お父さんに悪い事したなぁ~。あ、でも紛らわしい事したのはお父さんなんだから仕方ないよね。ね?」
顔を近づけてウインクしてみせる春香がどう見ても空元気なのがわかったが、透は敢えて何も言わずに微笑んだ。そしたら春香も笑顔になるのがわかっていたから。

「あ、そうだ。父さんが言ってたぞ。彼氏ができたんだって?」
「えっ!」
突然の透の言葉に春香は飛び上がった。

「べ、別に。彼氏なんかいないし。」
「でも父さんが一緒にいるところを見たって。」
わざとからかうような口調で言う。そしたら赤い顔をしながらも口を開いた。

「彼氏じゃないよ。ただの友達。」
「友達か…。でも好きなんだろ?そいつの事。」
透の指摘に少し黙った後、春香は小さく頷いた。

「…うん。」
「そっか。うまくいくといいな。」
「うまくなんかいかないよ。福島さんは私なんか興味ないし。」
「何だよ…。よし!俺がお前らの仲を取り持ってやろう。そうだ、今度連れてこい。」
「えっ!ちょっと…。勝手に盛り上がんないでよ。そもそも彼氏でもないのにお兄ちゃんに会えだなんて言えないし……」
ついさっき本人に実際に言った事を自分で否定しながら悲しくなる。春香は暗い顔を隠す為に窓に近寄った。

「私の事なんていいから、お兄ちゃんこそどうなのよ?葉菜とは進展あり?」
「まさか…。葉菜ちゃんはお前と違って美人だから俺なんか相手にしなくても他にいい奴がいるよ、きっと。」
「他にって…それでいいの?お兄ちゃんは。本当は好きなんでしょ?」
呆れた顔でそう言うと、透は苦笑いしながら頷いた。

「だったら……!」
「こんな足で何が出来る?葉菜ちゃんは明るくて子ども好きで活発で…。一緒に歩く事も出来ない、遊びに行ってやる事も出来ない、そんな奴に葉菜ちゃんを守れるか?幸せに出来るか?俺にはもう、そんな自信はない……」
「お兄ちゃん……葉菜はそんなとこも含めてっ……」

『お兄ちゃんが好きなんだよ?守りたいって思ってんだよ?』

そう、喉まで出かかったけれど春香は自制した。

佐伯透っていう一人の人を心の底から愛している。そんな葉菜の想いまで否定しないで欲しい。ちゃんと向き合って欲しい。
だけど兄の気持ちも痛い程わかっている。さっきまでのジョークみたいな雰囲気などとっくに消えていた。

想い合っているのにすれ違っている二人がもどかしくて、まるで自分の事のように胸が苦しい。春香は窓に手をついて外を見ているフリをして、そこに映る兄の横顔を見つめた。

眉間に皺を寄せ苦悩する兄の姿が、自分の姿と重なる。
兄が事件に巻き込まれて大怪我をしたあの日から、傍から見た自分はきっとこんな風だっただろう。
内に籠って何でも自分一人で抱え込んで、誰にも相談できずに悩んでいた。
兄に直接言える訳もないし、葉菜にだって心の奥深くにある思いは吐き出せなかった。

ずっと兄を救えるのは自分だけだと、傍にいてあげられるのは自分一人だけなんだと思っていた。だからその為に苦手な血を克服し、看護師になった。
あの日から今までずっと、兄の為に生きてきたのだ。
その代わりに自分の事は二の次にしてしまっていて、人を好きになる事など忘れていた。
そんな暇なんてないとも思っていた。だけど……

あれから十年経った今でも、あの時と変わらずに兄を愛してくれている葉菜がいる。そして兄の方も葉菜を愛している。
もう自分はお役御免だ。

そして今度こそ自分の幸せを探そうと思っていたのに……
春香は研次の事を思い出してため息をついた。

「春香?どうした?」
「ううん、何でもない。じゃあ私帰るね。」
「帰るのか。」
「もう話終わったでしょ。」
ちょっと冷たかったかなと後悔したけど、春香はそのままドアへと向かった。

その時背中から声をかけられた。『何?』と振り向かないで答える。

「あのさ、その彼氏…じゃなかった、友達の事なんだが…」
「何よ。」
「…いや、何でもない。仕事頑張れよ。」
「…?じゃあ行くね。」
「あぁ、気をつけてな。」
誤魔化すように首を振った兄を不思議に思ったが、一度こういう風になった兄は何度問い質しても絶対に口を割らないと知っていた春香は諦めてドアを開けた。
そしてもう一度『じゃあ』と言うと、今度こそ廊下に出た。

「言えないよな……」
一方残された透は、ベッドに横になりながらため息をつく。
父から言われて気になっていた事が頭をよぎった。

――『あの男、何か裏があるような気がするんだ。過去に後ろめたい事でもしたような顔をしてる。』――

あれはどういう意味だったんだろう。ただの父親の勘ならそれでもいい。外れている事を願うだけだ。
だけど本当にその男に何か過去があるのなら、妹はどうなる?
今まで自分の幸せを後回しにしてきた春香が、やっと幸せになれるかも知れないのに……

「中々うまくいかないもんだな…」
自分と妹の性分を思って苦笑いが出る。

それは自分の余命を理由に父と別れた母の性格に似ていると気づいて、透は一人微笑ったのだった……


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