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1巻
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それは、国安会長から受け取ったフィアンセ候補の情報が載った資料だ。顔写真は添付されていないが、彼女たちが何故候補になったのか詳らかに書かれている。
当然ながら詩乃の情報もあり、学歴や趣味、そして現在実家を出て行方不明中という件も明記されていた。
つまりフィアンセ候補の情報は、全て正しいという意味だ。
「最有力候補は、二十四歳の鈴森明里さんね……」
鈴森は鈴森製茶株式会社の社長令嬢で、取引先の倒産で会社が廃業寸前にまで陥ったようだ。しかしKUNIYASUリゾートホテルが毎年茶葉を買い上げることで、会社を救ったとある。
億を超える取引額がもたらしたのは、KUNIYASUリゾートホテルの発展。しかも海外の茶葉人気に伴い、ホテルは莫大な利益を得られるようになったらしい。
国安会長と出会って経営破綻を免れたというのは、詩乃の実家と似たり寄ったりの流れだ。しかし、西條家が鈴森家のように恩を返せたのかと言えば、残念ながら足元にも及ばない。でも西條家には、鈴森家にはないものがある。
それは、慶応元年から続く老舗呉服屋という看板だ。
歴史ある呉服屋の着物を扱っているホテルとして、海外の富裕層から満足の声が上がっているらしい。
利益面では到底鈴森家には敵わないが、質を高める役割を担った西條家もそこそこKUNIYASUリゾートホテルを助けている。今では取引先として胸を張れるまで持ち直した。
そんな鈴森家や西條家とは違うもう一人の候補者が、二十九歳の伊沢麗子だった。
伊沢はフードコーディネーターとしてメディアにも露出しているかなりの有名人で、彼女の父親はKUNIYASUリゾートホテル〝蒼〟の総料理長を務めている。
ハイクラスのホテルとして有名で、海外からの富裕層の旅行者も多かった。しかも創作日本料理が絶品で、国内外問わず幾度となく取材が入っている。
そこの総料理長が、フィアンセ候補二番手の父親なのだ。
伊沢家は国安家に借りがない。料理長とKUNIYASUリゾートホテルの社長が同窓生という理由で選ばれている。
「借りはないのに、候補として選ばれるなんて」
これって凄いことではないのだろうか。
伊沢をフィアンセ候補の一人にしたのは、きっと彼女の父親の存在が大きいに違いない。
評価が高い伊沢総料理長を逃がさないために、彼の娘を取り込もうと思っても不思議ではないからだ。
資料では鈴森が最有力候補だが、実のところ伊沢の方が有利なのでは?
利益は頭を使えば得られるし、箔は別のところで付加価値を探せる。しかし、既にホテルの顔として有名な総料理長の代えは利かない。
国安会長は、そういう人物と強固な絆を結びたいのではないだろうか。
どちらの女性を遥斗に薦めればいいのかわからないが、こうなれば出たとこ勝負で判断しよう。
詩乃が唇を引き結んで軽く頷いた時、執務室から岩井が出てきた。
詩乃はファイルを閉じ、デスクの上に置かれた他の書類の下にそれを隠す。
「大峯さん。部長がお呼びです」
「はい」
詩乃は立ち上がると、膝丈のプリーツスカート、シフォン地のボウタイブラウスを手で撫で付けた。さらに緊張を解くように、ハーフポニーテールにした髪を背中に払う。
遥斗との久しぶりの対峙に不安でいっぱいだったが、気持ちを切り替えて執務室に入った。
「失礼いたします」
大きな窓を背にして置かれた、大きなデスク。
遥斗はそこの椅子に座り、インカムで誰かと話をしていた。詩乃の姿を認めつつ、彼はパソコンの液晶画面に集中している。
「このプレゼンが成功すれば、確実に稼働率も上がりますし、雇用も生まれます。……今夜、先方とネット会議を行う予定なので、そこで要望を詰め、企画に反映させます」
岩井は遥斗に近づき、彼のメモを覗き込んでは手元のタブレットにペンで書き込んでいく。
無駄な動きをしない岩井、そんな彼にペン先で指示する遥斗。その連携は傍から見ていても見事だった。
それにしても、二人が並ぶと余計に目が離せなくなる。
三十歳の岩井は遥斗より細身だが、筋肉質タイプで胸板が厚い。洒落たワイルドアップバングヘアをしているのもあり、男らしい色気を漂わせていた。
社内の女性社員たちは、遥斗らが揃って歩くたびに目を奪われているに違いない。
研修で岩井に教わっている時、詩乃が遥斗と彼の下につくと知るや否や、どれほど女性社員たちに羨ましがられたか。
「では、またのちほど」
そう言って遥斗がインカムを外し、正面に立つ詩乃に目を向けた。
「三週間ぶりだな。研修終了の報告は上がってきてる。祖父に言われたとおり……詩乃は俺の個人秘書として働いてもらう」
前触れもなく名前で呼ばれたせいで、遥斗とベッドで過ごした夜が鮮明に甦る。
あの時に感じた感情を頭の中から消し去るように、詩乃は力強く頷いた。
「いい心掛けだ。とはいえ、実際は岩井の下についてもらう。彼の指示は、俺の指示でもある。岩井に従ってくれ」
「わかりました、遥斗……いえ、国安部長」
「俺たち三人だけの時なら、名前で呼んでくれて構わない。そうすることで、何故君がここにいるのか、お互いにわかるから」
遥斗は鋭く言い放ち、さっと岩井を見る。
「前にも話したが、詩乃は会長が可愛がっている秘書だ。それを頭に入れておいてくれ」
「はい……」
遥斗と岩井のやり取りで、詩乃はようやくは遥斗の真意が読み取れた。
名前で呼んだのは、あの夜のように遥斗の意思でどうとでもできると伝えるため。国安会長の名を出したのは、あくまで部下ではなく詩乃は客人であると線引きするためだ。
そうしてくれた方が有り難いのに、どういうわけか炭酸水を飲んだみたいに胸の奥がざわざわする。
その気持ち悪さに顔をしかめた時、遥斗が「岩井」と名を呼んだ。
遥斗の視線が詩乃から逸れたことで、ようやく緊張から解き放たれた。
「ふぅ……」
詩乃は肩の力を抜くと詰めていた息を吐き出し、気持ちを落ち着かせてからもう一度二人に目をやる。
「今夜のネット会議について、通訳担当の三木さんと詳細を詰めてきてくれないか」
「すぐに行ってきます。大峯さん、研修時に教えた方法で遥斗さんのスケジュールを更新し、同期しておいてほしい。スケジュール管理については、君に一任する」
「わかりました」
「では、のちほど」
岩井は遥斗に頭を下げ、執務室をあとにした。
「詩乃、こっちへ」
遥斗と二人きりになるなり、傍に来いと手招きされる。急いで近寄ると、彼が支給されたタブレットを指した。
「専用のセキュリティナンバーを渡されて以降、まだ一度もアクセスしてないだろう? 岩井に代わって俺が見よう。ここでやってみろ」
「は、はい!」
研修で学んだ手順で内部統制部の相互ファイルにアクセスし、さらに遥斗専用のスケジュール管理ができるよう同期の許可をもらう。
詩乃のタブレットにスケジュールが表示された途端、詩乃の目が点になる。分刻みではないにしろ、ほぼ予定が埋まっていたためだ。
岩井がアシスタントとして有能なのは傍目にもわかるが、このスケジュール管理ではいつ遥斗が身体を壊してもおかしくない。
なんとか遥斗自身の時間をもっと設けなければ……
「これではデートもできない」
「何か言ったか?」
詩乃は今こそ計画に入るべく、朗らかな笑みを浮かべて顔を上げる。
「海外の方との会議があるので、夜も仕事をされるのはわかりますけれど、これでは心が休まらないかと。……国安会長が心配されるのも無理はありません」
「祖父が俺を心配? いったい何を聞いた?」
遥斗はその話に興味があると言わんばかりにデスクに肘を突き、身を乗り出す。
「お忘れですか? 国安会長が、わたしに遥斗さんのフィアンセ候補を見極めるようにとおっしゃったお話です。きっと、忙しく働かれているので会う時間がないとおわかりだったんでしょう。岩井さんにもご相談させていただきますが、よろしければわたしが遥斗さんのスケジュール管理を――」
「私的な部分に立ち入るのは、感心しないな」
遥斗が椅子に凭れて、冷たく言い放つ。ただ怒ったというより、彼にとって興味のない話をした詩乃を咎める風だった。
詩乃がそれを無視して突っ走れば、警戒心を抱かせてしまう可能性がある。今はほどほどが一番いい。
「申し訳ございません」
「部屋に戻っていい」
「失礼します」
執務室をあとにした詩乃は、自分の席に座って再びスケジュールの確認を始めた。
――約二時間後。
ようやく頼まれた仕事を終えた詩乃は、両手を突き上げて伸びをした。
「うーん、慣れないから疲れた」
絶対に動かせないものと、多少融通が利きそうなものを分類し、さらに見ただけでわかるように色付けして工夫を凝らした。
これで岩井のオーケーをもらえたらいいのだが……
もう一度ふーっと息を吐いて肩の力を抜いてから、壁掛け時計を確認する。十六時を少し回っているが、まだ岩井は戻っていない。
これからどうしようか。遥斗に指示を仰いだ方がいいのだろうか。
執務室へ目を向けた時、不意に先ほどの遥斗とのやり取りが詩乃の脳裏に浮かんだ。
そういえば、何故遥斗はフィアンセ候補たちの話に興味を示さないのだろうか。
普通なら自分の妻になるかもしれない人がいれば、詩乃のように気にするものなのに……
詩乃は書類の下に隠したファイルを手元に引き寄せ、それを指で叩きながら理由を探す。しかしいくら考えても、まったく浮かばない。
詩乃は降参するように嘆息したのち、室内をぐるりと眺めた。
その時、背の高い書棚の上に無造作に置かれたファイルが目に入る。
他の書棚は整理整頓されているのに、どうしてあれだけあんな場所に?
岩井からアシスタント室にある資料は好きに手に取っていいと聞いていたが、一応彼が在室中に見せてもらうつもりでいた。
でも、いつ落ちてもおかしくないこの状況は気になる。
とうとう詩乃は席を立ち、コロが付いた回転椅子を書棚の前に持っていった。せめて崩れ落ちないようファイルを置き直そうと思ったためだ。
ヒールを脱いで椅子に乗るが、足場がしっかりしないせいでがちゃがちゃと不安定に揺れる。
それを踏ん張って堪えようとした時、変な方向に力んでしまい椅子が回転しそうになった。
「あっ!」
慌てて書棚に掴まり、椅子の揺れが収まるまで静かに待つ。
動けそうになると、詩乃はふぅーと息を吐いた。
「大丈夫、大丈夫」
そう言って、再び手を伸ばした。ところが、ほんの僅か距離が足らないため、届かない。椅子のスプリングが軋んで揺れる中、詩乃は今度はつま先立ちをした。
指先が震え、腕が攣りそうになる。
「ンっ、もうちょっ……と!」
「何をしてる!」
突然響いた男性の声に驚き、詩乃はさっと振り返る。
それがいけなかった。椅子が一気に回転して身体が後方に投げ出されてしまう。
「きゃあ!」
「危ない!」
周囲の光景がぐるりと回り、天井が視界に入った。電灯が少しずつ遠ざかるような感覚に襲われる。
もしかして、このまま頭を打っちゃうの⁉ ――そう思った直後、身体に強い衝撃が走った。
「……っ!」
息が詰まるほどのインパクトを感じたが、何故かぶつけたはずの頭は痛くない。
ホッと安堵するも、自分を抱く力強さ、唇に触れる柔らかなものに気付き、頭の中が真っ白になる。
これって、何……?
詩乃は恐る恐る瞼を押し開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、黒い影。何がなんだかわからなかったが、次第にそれが誰なのか気付き、一瞬にして緊張が高まった。
遥斗にキスされてる!
詩乃は力強い腕の中から逃げようとするも、あまりに突然のことに混乱して身体が動かない。しかしそれは遥斗も同じらしく、彼は唇を触れ合わせたまま驚きの眼差しで詩乃を見つめている。
詩乃の心臓が早鐘を打ち始めた。耳の傍で鐘を鳴らされているのかと思うぐらい、どんどん大きくなる。
なんとかしなければと思うのに、遥斗の温もりと詩乃を組み敷く体重を感じれば感じるほど、動けなくなった。
ああ、お願い。早く離れて!
詩乃の心の叫びが伝わったのか、遥斗がゆっくりと顔を離す。
唇に触れる柔らかな感触がなくなりホッと安心するも、それは数秒で終わった。遥斗はほんの僅か距離を取っただけで動きを止め、詩乃を見つめてきたからだ。
今もなお、唇をなぶる遥斗の吐息。
この状況に空気がピンッと張り詰める。なのに、相反するように詩乃の体温が上昇し、身体の芯が疼いていく。
「はる――」
思わず口を開くが、それが間違いだと気付いた時にはもう遅かった。
遥斗の目線が意味深に唇に落ちる。詩乃は慌てて言葉を呑み込んだ。だが彼が顔を傾け、悠々とした所作で距離を縮めてきた。
待って、待って! わたしは――言葉にならない声がため息として漏れると、遥斗が優しく口づけた。
「ンっ!」
自然と身体が震える。それを合図に、遥斗がそこをついばみ始めた。ちゅく、ちゅくっと小さな音を立てられて、どんどん下腹部の深奥に熱が集中していく。
「んぅ……ぁ」
誘うような声が漏れたその瞬間を狙ったかのように、急に電話が鳴り響いた。
それを機に、二人の間に漂っていた怪しげな空気が弾ける。遥斗は雷にでも打たれたみたいに目を見開いて、さっと上体を起こした。
詩乃もあたふたと立ち上がり、乱れた髪やスカート、シフォンのブラウスの皺を伸ばしながら電話機に走る。
今起きた行為は、綺麗に忘れなければ……
遥斗が抱きしめたのは、詩乃を助けるため。唇が触れたのは、勢いあまってぶつかったためだ。たったそれだけのことで、何も特別な出来事ではない。
そう自分に言い聞かせるが〝だったら何故、遥斗さんはもう一度わたしに甘いキスを?〟と混乱しそうになる。
遥斗の真意が知りたくなるが、それを必死に堪えて受話器を取り上げた。
「内部統制部・国安の執務室、大峯です」
『フロントの清水です。国安部長はいらっしゃいますか?』
「はい」
『鈴森明里さまが面会を求めていらっしゃいますが、いかがしましょうか?』
その女性って、もしかして遥斗のフィアンセ候補最有力者の⁉
詩乃が振り返ると、何かを考えている様子の遥斗と目が合った。
「面倒ごとか?」
面倒? とんでもない、こんなにいい知らせはない!
先ほど整理した遥斗のスケジュールでは、これから約三十分は空白となっている。会って話すには充分とは言えないが、最初の取っ掛かりとしてはそれぐらいの時間が一番いい。
「わかりました。では、国安を伴って伺います」
「何があった?」
受話器を下ろした詩乃に、遥斗がすかさず訊ねる。
「鈴森さまがフロントにいらっしゃっています」
「鈴森? いったい誰……ああ」
眉間に皺を寄せて記憶を探っていた遥斗が、何かに思い至ったような表情になる。彼の素振りで、鈴森とは既に顔見知りだとわかった。
だったら話は早い。
詩乃はそそくさと荷物を持ち、遥斗を廊下へ出すためにドアを開けた。
「三十分ほどなら時間があるので、どうぞ彼女とお会いしてください。その間、わたしも会長からの指示を実行できますので」
遥斗はまじろぎもせず詩乃を見つめたのち、やにわに頬を緩めた。
初めて見る、遥斗の柔和な笑み。印象を一変させる顔つきに、急に詩乃の下腹部が重くなる。堪らず手にしたタブレットをきつく掴んだ。
「俺の意思に反したフィアンセ候補……ね」
そう言った直後、遥斗の表情が少しずつ崩れていき、頬が引き攣っていった。
「とはいえ、無礼を働いていい相手でもない。礼儀を尽くさないと」
「もちろんです。さあ行きましょう!」
遥斗を廊下へ通そうとする。しかし、彼は詩乃の正面でぴたりと足を止めて〝いったい何を考えてるんだ?〟と言わんばかりに凝視してきた。
思わず身構えてしまうが、遥斗の眼差しに黙って耐えていると、ようやく彼が歩き出した。
問い詰められなくてホッとするものの、すぐに緊張が戻る。遥斗の広い背中から、詩乃に対する苛立ちがひしひしと伝わってきたからだ。
詩乃はこれ以上遥斗を煽らないようにするために、エレベーターが到着するまでの間も口を噤み続けた。しかし、ずっと続く無言の圧力にとうとう胸が苦しくなる。鼓動が弾み、呼吸のリズムも不安定になっていく。
エレベーターに乗り込んだあと、とうとう居たたまれなくなり、詩乃は勢いよく振り返った。
「遥斗さん、あの!」
何を言おうか考えもなしに声をかけたが、そんな詩乃の目に飛び込んできたのは、遥斗の曲がったネクタイだった。
もしかして、詩乃を助けた際に乱れて?
詩乃は遥斗に近づき、彼のネクタイに触れて形を整える。
「わたしを助けてくれた時にネクタイが曲がってしまったんですね。申し訳ありませんでした。奥さまになられるかもしれない方とこれからお会いになるのに……」
ネクタイの結び目が綺麗になる。満足して頬が緩むも、先ほどから遥斗が一切話さないのが気になって、そっと目線を上げた。
「どうされたんです――」
瞬間、詩乃は言葉を失った。詩乃の顔を見つめる遥斗の双眸に強い光が宿っていたからだ。
これまでの遥斗なら、冷たい眼差しを向けたり、言葉で牽制したりするのに……
遥斗を見返せなくなり、詩乃は急いでネクタイに目線を落とす。すると、彼はそこに触れる詩乃の手を掴んだ。
「徹底するんだな」
ハッとして面を上げる詩乃に、遥斗が顔を近づけてくる。
「なるほどね……。これまで詩乃を観察していたが、今回の流れでようやくわかった。祖父が詩乃を俺に預けた、本当の理由がね」
「本当の理由? あの、いったい何を仰っているのでしょう?」
詩乃が眉を顰めると、遥斗がふっと苦笑いした。
「祖父がフィアンセ候補を見定めろと指示を出したあの日、俺が候補の誰かに興味を持つよう動けとも言われたな?」
詩乃の心を覗き込まんばかりの至近距離から、低音の声を響かせてはっきり告げる。
「……意味がよくわかりませんが」
なんとかして誤魔化さなければと思うのに、言葉が出てこない。
すると、遥斗がさらに詰め寄ってきた。彼の体温が伝わってくる距離に少しずつ下がるが、すぐに壁にぶつかってしまう。
「だが、どうしてもわからないことが一つある。最初は反対したのに、何故急に態度を変えた? そこに、どんなメリットがあった?」
「り、理由なんて、な、ないですよ!」
動揺したせいで、何度も舌を噛みそうになる。その振る舞いこそ、隠し事があると証明したようなものだった。
遥斗の目つきが厳しくなり、詩乃は込み上げてきた生唾を呑み込む。
そんな詩乃に遥斗が手を伸ばしたが、すぐに下ろされた。ちょうどエレベーターが到着したと示すランプが点滅したためだ。
「まあ、そのうちわかるだろう。俺に暴かれる日を待っているんだな」
これで話は終わりだと告げるように、遥斗がフロントへ続く廊下を歩き出す。
遥斗なら、きっと真相にたどり着くだろう。だからこそ、その前にフィアンセ候補のどちらかとくっつけて、逃げなければ……
詩乃はそう強く決意すると、静かに遥斗のあとに続いた。
しばらくして、幅二十メートル以上もある豪華な絨毯が敷かれたロビーに到着する。
周囲を見回すと、一人の女性がソファから立ち上がり、咲き誇る花のような笑顔で走り寄って来た。
「遥斗さん、こんにちは!」
「今日はいったいどうされたんですか? 鈴森さんがいらっしゃるとは思いもしませんでした」
「あたし、いつもこちらのネイルサロンを利用しているんです。寄らせてもらった時には、遥斗さんに取り次いでもらおうと思っていたんですが、そのたびに諦めて……。でも今日は、勇気を出してみました」
「秘書に聞きました」
遥斗が少し離れて立つ詩乃を指す。それを受け、鈴森が詩乃に視線を向けた。
「初めてお目にかかる方ね。遥斗さんの傍にいるのは、いつも岩井さんだもの」
「大峯と申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ! これからよく会うと思うので、よろしくお願いしますね」
鈴森がにこりと詩乃に微笑んだ。
詩乃より一歳年上の鈴森は、一五〇センチほどの身長で、セミロングの髪をふんわりさせている。まだ学生みたいに見えるのは、可愛らしい笑みが影響しているかもしれない。
それにしても、なんて素敵な女性なのだろうか。
明るくて可愛いだけでなく、遥斗の部下にまで礼儀正しいとは……
女性の詩乃から見ても、好意を抱かずにはいられないぐらいだ。
遥斗もそう思っているに違いない。鈴森への姿勢や微笑みは、親切以上のものが見え隠れしている。詩乃が初めて彼に会った時とは、比べ物にならないほど対応の差があった。
つまり、遥斗は最初から鈴森を認めているということだ。
その事実に、自然と目線が下がっていく。詩乃はそれを隠すようにして、フロントへ向かった。
「内部統制部・国安の秘書の大峯です」
「大峯さん⁉ 先ほどお電話した清水です」
詩乃はにこやかに会釈し、清水にスカイラウンジの席を取ってもらうようお願いした。
「一緒に、アフタヌーンティーを用意してほしいとお伝え願いますか?」
清水が電話をかけ、予約が取れたと頷く。
詩乃はお礼を言い、タブレットを操作して遥斗のスケジュールを埋める。そして岩井にもスカイラウンジに向かう旨をメッセージで送ると、遥斗たちのところへ戻って席を用意したと告げた。
「あたしとお茶する時間を作ってくれたのね。遥斗さんありがとう。とっても嬉しい!」
そんな風に喜ぶ鈴森に対し、遥斗はただ笑みを投げかけるのみ。エレベーターホールへ向かう際も、エレベーターに乗っている際も、鈴森の話を聞く一方だった。
スカイラウンジに到着すると、詩乃は現れたウェイターに予約の旨を伝える。
「いらっしゃいませ。お席にご案内いたします」
ウェイターが遥斗たちを窓際の席へ案内するのを、出入り口にほど近い壁に立ち見届ける。
ほどなくして、遥斗たちのテーブルに桜をイメージしたアフタヌーンティースタンドが置かれた。一段目には苺のムースケーキや苺を包んだ桜餅などのスイーツ、二段目には桜色のスコーンやパイ、そして最下段にはサンドウィッチが載っている。
二人の前に紅茶が並ぶと、鈴森は満面の笑みで遥斗に感謝を示した。
当然ながら詩乃の情報もあり、学歴や趣味、そして現在実家を出て行方不明中という件も明記されていた。
つまりフィアンセ候補の情報は、全て正しいという意味だ。
「最有力候補は、二十四歳の鈴森明里さんね……」
鈴森は鈴森製茶株式会社の社長令嬢で、取引先の倒産で会社が廃業寸前にまで陥ったようだ。しかしKUNIYASUリゾートホテルが毎年茶葉を買い上げることで、会社を救ったとある。
億を超える取引額がもたらしたのは、KUNIYASUリゾートホテルの発展。しかも海外の茶葉人気に伴い、ホテルは莫大な利益を得られるようになったらしい。
国安会長と出会って経営破綻を免れたというのは、詩乃の実家と似たり寄ったりの流れだ。しかし、西條家が鈴森家のように恩を返せたのかと言えば、残念ながら足元にも及ばない。でも西條家には、鈴森家にはないものがある。
それは、慶応元年から続く老舗呉服屋という看板だ。
歴史ある呉服屋の着物を扱っているホテルとして、海外の富裕層から満足の声が上がっているらしい。
利益面では到底鈴森家には敵わないが、質を高める役割を担った西條家もそこそこKUNIYASUリゾートホテルを助けている。今では取引先として胸を張れるまで持ち直した。
そんな鈴森家や西條家とは違うもう一人の候補者が、二十九歳の伊沢麗子だった。
伊沢はフードコーディネーターとしてメディアにも露出しているかなりの有名人で、彼女の父親はKUNIYASUリゾートホテル〝蒼〟の総料理長を務めている。
ハイクラスのホテルとして有名で、海外からの富裕層の旅行者も多かった。しかも創作日本料理が絶品で、国内外問わず幾度となく取材が入っている。
そこの総料理長が、フィアンセ候補二番手の父親なのだ。
伊沢家は国安家に借りがない。料理長とKUNIYASUリゾートホテルの社長が同窓生という理由で選ばれている。
「借りはないのに、候補として選ばれるなんて」
これって凄いことではないのだろうか。
伊沢をフィアンセ候補の一人にしたのは、きっと彼女の父親の存在が大きいに違いない。
評価が高い伊沢総料理長を逃がさないために、彼の娘を取り込もうと思っても不思議ではないからだ。
資料では鈴森が最有力候補だが、実のところ伊沢の方が有利なのでは?
利益は頭を使えば得られるし、箔は別のところで付加価値を探せる。しかし、既にホテルの顔として有名な総料理長の代えは利かない。
国安会長は、そういう人物と強固な絆を結びたいのではないだろうか。
どちらの女性を遥斗に薦めればいいのかわからないが、こうなれば出たとこ勝負で判断しよう。
詩乃が唇を引き結んで軽く頷いた時、執務室から岩井が出てきた。
詩乃はファイルを閉じ、デスクの上に置かれた他の書類の下にそれを隠す。
「大峯さん。部長がお呼びです」
「はい」
詩乃は立ち上がると、膝丈のプリーツスカート、シフォン地のボウタイブラウスを手で撫で付けた。さらに緊張を解くように、ハーフポニーテールにした髪を背中に払う。
遥斗との久しぶりの対峙に不安でいっぱいだったが、気持ちを切り替えて執務室に入った。
「失礼いたします」
大きな窓を背にして置かれた、大きなデスク。
遥斗はそこの椅子に座り、インカムで誰かと話をしていた。詩乃の姿を認めつつ、彼はパソコンの液晶画面に集中している。
「このプレゼンが成功すれば、確実に稼働率も上がりますし、雇用も生まれます。……今夜、先方とネット会議を行う予定なので、そこで要望を詰め、企画に反映させます」
岩井は遥斗に近づき、彼のメモを覗き込んでは手元のタブレットにペンで書き込んでいく。
無駄な動きをしない岩井、そんな彼にペン先で指示する遥斗。その連携は傍から見ていても見事だった。
それにしても、二人が並ぶと余計に目が離せなくなる。
三十歳の岩井は遥斗より細身だが、筋肉質タイプで胸板が厚い。洒落たワイルドアップバングヘアをしているのもあり、男らしい色気を漂わせていた。
社内の女性社員たちは、遥斗らが揃って歩くたびに目を奪われているに違いない。
研修で岩井に教わっている時、詩乃が遥斗と彼の下につくと知るや否や、どれほど女性社員たちに羨ましがられたか。
「では、またのちほど」
そう言って遥斗がインカムを外し、正面に立つ詩乃に目を向けた。
「三週間ぶりだな。研修終了の報告は上がってきてる。祖父に言われたとおり……詩乃は俺の個人秘書として働いてもらう」
前触れもなく名前で呼ばれたせいで、遥斗とベッドで過ごした夜が鮮明に甦る。
あの時に感じた感情を頭の中から消し去るように、詩乃は力強く頷いた。
「いい心掛けだ。とはいえ、実際は岩井の下についてもらう。彼の指示は、俺の指示でもある。岩井に従ってくれ」
「わかりました、遥斗……いえ、国安部長」
「俺たち三人だけの時なら、名前で呼んでくれて構わない。そうすることで、何故君がここにいるのか、お互いにわかるから」
遥斗は鋭く言い放ち、さっと岩井を見る。
「前にも話したが、詩乃は会長が可愛がっている秘書だ。それを頭に入れておいてくれ」
「はい……」
遥斗と岩井のやり取りで、詩乃はようやくは遥斗の真意が読み取れた。
名前で呼んだのは、あの夜のように遥斗の意思でどうとでもできると伝えるため。国安会長の名を出したのは、あくまで部下ではなく詩乃は客人であると線引きするためだ。
そうしてくれた方が有り難いのに、どういうわけか炭酸水を飲んだみたいに胸の奥がざわざわする。
その気持ち悪さに顔をしかめた時、遥斗が「岩井」と名を呼んだ。
遥斗の視線が詩乃から逸れたことで、ようやく緊張から解き放たれた。
「ふぅ……」
詩乃は肩の力を抜くと詰めていた息を吐き出し、気持ちを落ち着かせてからもう一度二人に目をやる。
「今夜のネット会議について、通訳担当の三木さんと詳細を詰めてきてくれないか」
「すぐに行ってきます。大峯さん、研修時に教えた方法で遥斗さんのスケジュールを更新し、同期しておいてほしい。スケジュール管理については、君に一任する」
「わかりました」
「では、のちほど」
岩井は遥斗に頭を下げ、執務室をあとにした。
「詩乃、こっちへ」
遥斗と二人きりになるなり、傍に来いと手招きされる。急いで近寄ると、彼が支給されたタブレットを指した。
「専用のセキュリティナンバーを渡されて以降、まだ一度もアクセスしてないだろう? 岩井に代わって俺が見よう。ここでやってみろ」
「は、はい!」
研修で学んだ手順で内部統制部の相互ファイルにアクセスし、さらに遥斗専用のスケジュール管理ができるよう同期の許可をもらう。
詩乃のタブレットにスケジュールが表示された途端、詩乃の目が点になる。分刻みではないにしろ、ほぼ予定が埋まっていたためだ。
岩井がアシスタントとして有能なのは傍目にもわかるが、このスケジュール管理ではいつ遥斗が身体を壊してもおかしくない。
なんとか遥斗自身の時間をもっと設けなければ……
「これではデートもできない」
「何か言ったか?」
詩乃は今こそ計画に入るべく、朗らかな笑みを浮かべて顔を上げる。
「海外の方との会議があるので、夜も仕事をされるのはわかりますけれど、これでは心が休まらないかと。……国安会長が心配されるのも無理はありません」
「祖父が俺を心配? いったい何を聞いた?」
遥斗はその話に興味があると言わんばかりにデスクに肘を突き、身を乗り出す。
「お忘れですか? 国安会長が、わたしに遥斗さんのフィアンセ候補を見極めるようにとおっしゃったお話です。きっと、忙しく働かれているので会う時間がないとおわかりだったんでしょう。岩井さんにもご相談させていただきますが、よろしければわたしが遥斗さんのスケジュール管理を――」
「私的な部分に立ち入るのは、感心しないな」
遥斗が椅子に凭れて、冷たく言い放つ。ただ怒ったというより、彼にとって興味のない話をした詩乃を咎める風だった。
詩乃がそれを無視して突っ走れば、警戒心を抱かせてしまう可能性がある。今はほどほどが一番いい。
「申し訳ございません」
「部屋に戻っていい」
「失礼します」
執務室をあとにした詩乃は、自分の席に座って再びスケジュールの確認を始めた。
――約二時間後。
ようやく頼まれた仕事を終えた詩乃は、両手を突き上げて伸びをした。
「うーん、慣れないから疲れた」
絶対に動かせないものと、多少融通が利きそうなものを分類し、さらに見ただけでわかるように色付けして工夫を凝らした。
これで岩井のオーケーをもらえたらいいのだが……
もう一度ふーっと息を吐いて肩の力を抜いてから、壁掛け時計を確認する。十六時を少し回っているが、まだ岩井は戻っていない。
これからどうしようか。遥斗に指示を仰いだ方がいいのだろうか。
執務室へ目を向けた時、不意に先ほどの遥斗とのやり取りが詩乃の脳裏に浮かんだ。
そういえば、何故遥斗はフィアンセ候補たちの話に興味を示さないのだろうか。
普通なら自分の妻になるかもしれない人がいれば、詩乃のように気にするものなのに……
詩乃は書類の下に隠したファイルを手元に引き寄せ、それを指で叩きながら理由を探す。しかしいくら考えても、まったく浮かばない。
詩乃は降参するように嘆息したのち、室内をぐるりと眺めた。
その時、背の高い書棚の上に無造作に置かれたファイルが目に入る。
他の書棚は整理整頓されているのに、どうしてあれだけあんな場所に?
岩井からアシスタント室にある資料は好きに手に取っていいと聞いていたが、一応彼が在室中に見せてもらうつもりでいた。
でも、いつ落ちてもおかしくないこの状況は気になる。
とうとう詩乃は席を立ち、コロが付いた回転椅子を書棚の前に持っていった。せめて崩れ落ちないようファイルを置き直そうと思ったためだ。
ヒールを脱いで椅子に乗るが、足場がしっかりしないせいでがちゃがちゃと不安定に揺れる。
それを踏ん張って堪えようとした時、変な方向に力んでしまい椅子が回転しそうになった。
「あっ!」
慌てて書棚に掴まり、椅子の揺れが収まるまで静かに待つ。
動けそうになると、詩乃はふぅーと息を吐いた。
「大丈夫、大丈夫」
そう言って、再び手を伸ばした。ところが、ほんの僅か距離が足らないため、届かない。椅子のスプリングが軋んで揺れる中、詩乃は今度はつま先立ちをした。
指先が震え、腕が攣りそうになる。
「ンっ、もうちょっ……と!」
「何をしてる!」
突然響いた男性の声に驚き、詩乃はさっと振り返る。
それがいけなかった。椅子が一気に回転して身体が後方に投げ出されてしまう。
「きゃあ!」
「危ない!」
周囲の光景がぐるりと回り、天井が視界に入った。電灯が少しずつ遠ざかるような感覚に襲われる。
もしかして、このまま頭を打っちゃうの⁉ ――そう思った直後、身体に強い衝撃が走った。
「……っ!」
息が詰まるほどのインパクトを感じたが、何故かぶつけたはずの頭は痛くない。
ホッと安堵するも、自分を抱く力強さ、唇に触れる柔らかなものに気付き、頭の中が真っ白になる。
これって、何……?
詩乃は恐る恐る瞼を押し開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、黒い影。何がなんだかわからなかったが、次第にそれが誰なのか気付き、一瞬にして緊張が高まった。
遥斗にキスされてる!
詩乃は力強い腕の中から逃げようとするも、あまりに突然のことに混乱して身体が動かない。しかしそれは遥斗も同じらしく、彼は唇を触れ合わせたまま驚きの眼差しで詩乃を見つめている。
詩乃の心臓が早鐘を打ち始めた。耳の傍で鐘を鳴らされているのかと思うぐらい、どんどん大きくなる。
なんとかしなければと思うのに、遥斗の温もりと詩乃を組み敷く体重を感じれば感じるほど、動けなくなった。
ああ、お願い。早く離れて!
詩乃の心の叫びが伝わったのか、遥斗がゆっくりと顔を離す。
唇に触れる柔らかな感触がなくなりホッと安心するも、それは数秒で終わった。遥斗はほんの僅か距離を取っただけで動きを止め、詩乃を見つめてきたからだ。
今もなお、唇をなぶる遥斗の吐息。
この状況に空気がピンッと張り詰める。なのに、相反するように詩乃の体温が上昇し、身体の芯が疼いていく。
「はる――」
思わず口を開くが、それが間違いだと気付いた時にはもう遅かった。
遥斗の目線が意味深に唇に落ちる。詩乃は慌てて言葉を呑み込んだ。だが彼が顔を傾け、悠々とした所作で距離を縮めてきた。
待って、待って! わたしは――言葉にならない声がため息として漏れると、遥斗が優しく口づけた。
「ンっ!」
自然と身体が震える。それを合図に、遥斗がそこをついばみ始めた。ちゅく、ちゅくっと小さな音を立てられて、どんどん下腹部の深奥に熱が集中していく。
「んぅ……ぁ」
誘うような声が漏れたその瞬間を狙ったかのように、急に電話が鳴り響いた。
それを機に、二人の間に漂っていた怪しげな空気が弾ける。遥斗は雷にでも打たれたみたいに目を見開いて、さっと上体を起こした。
詩乃もあたふたと立ち上がり、乱れた髪やスカート、シフォンのブラウスの皺を伸ばしながら電話機に走る。
今起きた行為は、綺麗に忘れなければ……
遥斗が抱きしめたのは、詩乃を助けるため。唇が触れたのは、勢いあまってぶつかったためだ。たったそれだけのことで、何も特別な出来事ではない。
そう自分に言い聞かせるが〝だったら何故、遥斗さんはもう一度わたしに甘いキスを?〟と混乱しそうになる。
遥斗の真意が知りたくなるが、それを必死に堪えて受話器を取り上げた。
「内部統制部・国安の執務室、大峯です」
『フロントの清水です。国安部長はいらっしゃいますか?』
「はい」
『鈴森明里さまが面会を求めていらっしゃいますが、いかがしましょうか?』
その女性って、もしかして遥斗のフィアンセ候補最有力者の⁉
詩乃が振り返ると、何かを考えている様子の遥斗と目が合った。
「面倒ごとか?」
面倒? とんでもない、こんなにいい知らせはない!
先ほど整理した遥斗のスケジュールでは、これから約三十分は空白となっている。会って話すには充分とは言えないが、最初の取っ掛かりとしてはそれぐらいの時間が一番いい。
「わかりました。では、国安を伴って伺います」
「何があった?」
受話器を下ろした詩乃に、遥斗がすかさず訊ねる。
「鈴森さまがフロントにいらっしゃっています」
「鈴森? いったい誰……ああ」
眉間に皺を寄せて記憶を探っていた遥斗が、何かに思い至ったような表情になる。彼の素振りで、鈴森とは既に顔見知りだとわかった。
だったら話は早い。
詩乃はそそくさと荷物を持ち、遥斗を廊下へ出すためにドアを開けた。
「三十分ほどなら時間があるので、どうぞ彼女とお会いしてください。その間、わたしも会長からの指示を実行できますので」
遥斗はまじろぎもせず詩乃を見つめたのち、やにわに頬を緩めた。
初めて見る、遥斗の柔和な笑み。印象を一変させる顔つきに、急に詩乃の下腹部が重くなる。堪らず手にしたタブレットをきつく掴んだ。
「俺の意思に反したフィアンセ候補……ね」
そう言った直後、遥斗の表情が少しずつ崩れていき、頬が引き攣っていった。
「とはいえ、無礼を働いていい相手でもない。礼儀を尽くさないと」
「もちろんです。さあ行きましょう!」
遥斗を廊下へ通そうとする。しかし、彼は詩乃の正面でぴたりと足を止めて〝いったい何を考えてるんだ?〟と言わんばかりに凝視してきた。
思わず身構えてしまうが、遥斗の眼差しに黙って耐えていると、ようやく彼が歩き出した。
問い詰められなくてホッとするものの、すぐに緊張が戻る。遥斗の広い背中から、詩乃に対する苛立ちがひしひしと伝わってきたからだ。
詩乃はこれ以上遥斗を煽らないようにするために、エレベーターが到着するまでの間も口を噤み続けた。しかし、ずっと続く無言の圧力にとうとう胸が苦しくなる。鼓動が弾み、呼吸のリズムも不安定になっていく。
エレベーターに乗り込んだあと、とうとう居たたまれなくなり、詩乃は勢いよく振り返った。
「遥斗さん、あの!」
何を言おうか考えもなしに声をかけたが、そんな詩乃の目に飛び込んできたのは、遥斗の曲がったネクタイだった。
もしかして、詩乃を助けた際に乱れて?
詩乃は遥斗に近づき、彼のネクタイに触れて形を整える。
「わたしを助けてくれた時にネクタイが曲がってしまったんですね。申し訳ありませんでした。奥さまになられるかもしれない方とこれからお会いになるのに……」
ネクタイの結び目が綺麗になる。満足して頬が緩むも、先ほどから遥斗が一切話さないのが気になって、そっと目線を上げた。
「どうされたんです――」
瞬間、詩乃は言葉を失った。詩乃の顔を見つめる遥斗の双眸に強い光が宿っていたからだ。
これまでの遥斗なら、冷たい眼差しを向けたり、言葉で牽制したりするのに……
遥斗を見返せなくなり、詩乃は急いでネクタイに目線を落とす。すると、彼はそこに触れる詩乃の手を掴んだ。
「徹底するんだな」
ハッとして面を上げる詩乃に、遥斗が顔を近づけてくる。
「なるほどね……。これまで詩乃を観察していたが、今回の流れでようやくわかった。祖父が詩乃を俺に預けた、本当の理由がね」
「本当の理由? あの、いったい何を仰っているのでしょう?」
詩乃が眉を顰めると、遥斗がふっと苦笑いした。
「祖父がフィアンセ候補を見定めろと指示を出したあの日、俺が候補の誰かに興味を持つよう動けとも言われたな?」
詩乃の心を覗き込まんばかりの至近距離から、低音の声を響かせてはっきり告げる。
「……意味がよくわかりませんが」
なんとかして誤魔化さなければと思うのに、言葉が出てこない。
すると、遥斗がさらに詰め寄ってきた。彼の体温が伝わってくる距離に少しずつ下がるが、すぐに壁にぶつかってしまう。
「だが、どうしてもわからないことが一つある。最初は反対したのに、何故急に態度を変えた? そこに、どんなメリットがあった?」
「り、理由なんて、な、ないですよ!」
動揺したせいで、何度も舌を噛みそうになる。その振る舞いこそ、隠し事があると証明したようなものだった。
遥斗の目つきが厳しくなり、詩乃は込み上げてきた生唾を呑み込む。
そんな詩乃に遥斗が手を伸ばしたが、すぐに下ろされた。ちょうどエレベーターが到着したと示すランプが点滅したためだ。
「まあ、そのうちわかるだろう。俺に暴かれる日を待っているんだな」
これで話は終わりだと告げるように、遥斗がフロントへ続く廊下を歩き出す。
遥斗なら、きっと真相にたどり着くだろう。だからこそ、その前にフィアンセ候補のどちらかとくっつけて、逃げなければ……
詩乃はそう強く決意すると、静かに遥斗のあとに続いた。
しばらくして、幅二十メートル以上もある豪華な絨毯が敷かれたロビーに到着する。
周囲を見回すと、一人の女性がソファから立ち上がり、咲き誇る花のような笑顔で走り寄って来た。
「遥斗さん、こんにちは!」
「今日はいったいどうされたんですか? 鈴森さんがいらっしゃるとは思いもしませんでした」
「あたし、いつもこちらのネイルサロンを利用しているんです。寄らせてもらった時には、遥斗さんに取り次いでもらおうと思っていたんですが、そのたびに諦めて……。でも今日は、勇気を出してみました」
「秘書に聞きました」
遥斗が少し離れて立つ詩乃を指す。それを受け、鈴森が詩乃に視線を向けた。
「初めてお目にかかる方ね。遥斗さんの傍にいるのは、いつも岩井さんだもの」
「大峯と申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ! これからよく会うと思うので、よろしくお願いしますね」
鈴森がにこりと詩乃に微笑んだ。
詩乃より一歳年上の鈴森は、一五〇センチほどの身長で、セミロングの髪をふんわりさせている。まだ学生みたいに見えるのは、可愛らしい笑みが影響しているかもしれない。
それにしても、なんて素敵な女性なのだろうか。
明るくて可愛いだけでなく、遥斗の部下にまで礼儀正しいとは……
女性の詩乃から見ても、好意を抱かずにはいられないぐらいだ。
遥斗もそう思っているに違いない。鈴森への姿勢や微笑みは、親切以上のものが見え隠れしている。詩乃が初めて彼に会った時とは、比べ物にならないほど対応の差があった。
つまり、遥斗は最初から鈴森を認めているということだ。
その事実に、自然と目線が下がっていく。詩乃はそれを隠すようにして、フロントへ向かった。
「内部統制部・国安の秘書の大峯です」
「大峯さん⁉ 先ほどお電話した清水です」
詩乃はにこやかに会釈し、清水にスカイラウンジの席を取ってもらうようお願いした。
「一緒に、アフタヌーンティーを用意してほしいとお伝え願いますか?」
清水が電話をかけ、予約が取れたと頷く。
詩乃はお礼を言い、タブレットを操作して遥斗のスケジュールを埋める。そして岩井にもスカイラウンジに向かう旨をメッセージで送ると、遥斗たちのところへ戻って席を用意したと告げた。
「あたしとお茶する時間を作ってくれたのね。遥斗さんありがとう。とっても嬉しい!」
そんな風に喜ぶ鈴森に対し、遥斗はただ笑みを投げかけるのみ。エレベーターホールへ向かう際も、エレベーターに乗っている際も、鈴森の話を聞く一方だった。
スカイラウンジに到着すると、詩乃は現れたウェイターに予約の旨を伝える。
「いらっしゃいませ。お席にご案内いたします」
ウェイターが遥斗たちを窓際の席へ案内するのを、出入り口にほど近い壁に立ち見届ける。
ほどなくして、遥斗たちのテーブルに桜をイメージしたアフタヌーンティースタンドが置かれた。一段目には苺のムースケーキや苺を包んだ桜餅などのスイーツ、二段目には桜色のスコーンやパイ、そして最下段にはサンドウィッチが載っている。
二人の前に紅茶が並ぶと、鈴森は満面の笑みで遥斗に感謝を示した。
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