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Promise ~誘惑のゆくえ
プロローグ
三十代は目前に迫っているのに、未だ独身。初めての恋人から受けた暴力的なセックス、人格を傷つけるような酷い仕打ちがトラウマとなり、恋をすることに臆病になってしまった。そんな経験をしてきても、やっぱり心のどこかで、人並みの幸せが欲しいといつも思ってる。
幸せ=結婚。
本当は、そうではないと願いたい。結婚が幸せだなんて思いたくもない。
負け惜しみでそう思っているのではない。結婚という選択をしなくても、幸せな生活を送っている女性は、この広い世の中にはたくさんいる。人それぞれの価値観は違うのだから。
それなのに、同じ枠に入れない人に対して、女は妙に線引きをしたがる。
結婚もそう。
三十代で独り身だと、周囲から「まだ独身なんだ」と蔑んだ口調で言われる。弱虫かもしれないが、それがとっても嫌で、苦痛でもあった。
そう思われたくない……。人並みの人生を歩んでいるのだと、普通に思われたい。
だから、結婚できる機会があるのなら、例え愛していない相手とでも、妥協してもいいかなと、気持ちが大きく揺らいでしまう。
愛はなくとも、穏やかな結婚生活で幸せを見つけたら、それでいいのではないかと。
(だって、あたし自身が結婚を望んでいるのだから)
恋に対して、少し冷めたところがあるのは十分わかっている。しかし、それでもやっぱり心の奥底では、素敵な恋がしたい……と、願ってもいる。
そう願うのは、間違っているのだろうか? でも、女だったら、誰でもそう思っているのでは? いつの日か素敵な男性と巡り会い、お互いのことが忘れられないような、運命的な恋がしたいと。身も心も捧げられるような男性と出会いたいと、強く願っている。
(あたしも、まだ愛を切望しているのね)
そんな気持ちを抱いたまま、愛してもいない人からプロポーズされたら、貴方ならどうする?
イエス? それともノー?
第一章 打算的な恋、運命の出会い
――四月 大阪
「俺と結婚して欲しい……」
大阪駅から、少し北東へ行った郊外にあるフランス料理店でのこと。ブルゴーニュ地方の美味しい食事を終え、食後のコーヒーを味わっている時にその言葉は発せられた。
目の前にいる彼……三十二歳の高原秀明が、真剣な眼差しで亜弥にプロポーズをしたのだ。
高原は、亜弥の目の前に、蓋を開けたベルベットの小箱をゆっくりと置いた。そこには、〇・三カラットぐらいの一粒のダイヤモンドの指輪が鎮座していた。
給料の三ヶ月分といわれる婚約指輪。大企業に勤めている高原なら、〇・五カラット以上の指輪を買えないはずはない。
だが、内蓋に印刷された、ウエディング雑誌でもよく紹介されているブランドのロゴと、照明で光り輝くエンゲージリングが、亜弥の注意を削いだのだった。
桜が既に散り始めた四月の初旬、進級した人、社会人になった人たちが胸躍らせるこの月に、やっと亜弥にも春が訪れた。
しかし、亜弥はテーブルの下で思い切り両手を握り締めていた。
いいの? ここで妥協して、彼のプロポーズにイエスと応えてもいいの?
(でも……もしこれを逃したら、あたしは一生結婚できないかもしれない)
亜弥は焦っていた。友達は、皆幸せな結婚をしていて、自分だけがポツンと取り残されたような、そんな気分をずっと味わってきたからだ。
亜弥は、結婚したらすぐにでも子供が欲しいと思っていた。もちろん、自分だけを愛してくれる夫との子供だ。
そのためには本気で結婚相手を探さないと……と思った矢先、目の前にいる高原と出会い、数ヶ月の間デートを繰り返した。
高原と会う度に、彼の気配りや優しい性格を見て、好感を抱くようになった。
だが、彼を愛することだけは、何故かできなかったのだ。
如月亜弥は、つい先日誕生日を迎えて二十九歳になった。仕事は……順調とは言えない。未だにバイトの身分。
大学を卒業して銀行に就職したはいいが、不況からリストラされ、その時に付き合っていた行員の先輩は、さっさと亜弥を捨てた。
別れの言葉は酷く冷たかった。仕事を失う不安を、全く感じ取ってくれなかった男。亜弥を大切にし、慈しんでくれなかった男、そんな男とは別れて正解だった……と思えるほど、亜弥は強くはなかった。
心の中は荒れ狂い、張り裂けそうな痛みを感じながら、日々を過ごした。それは、少なくとも三ヶ月は続いた。
職と恋、両方を一度に失ったからだ。
そんな亜弥をずっと支えてくれたのが、七歳年下の弟、篤史だった。やんちゃで……関西の男だとはっきりわかるぐらい、口が巧い弟。その篤史だけが、亜弥の味方だった。
「姉ちゃん、大丈夫やって。何も心配せんでええから。俺が姉ちゃんを守ったるから」
二十四歳の姉に向かって、十七歳の弟が堂々と胸を張って告げた言葉だった。
思わず涙が溢れそうになったのを、今でもはっきり覚えてる。亜弥は、篤史に頼られる存在であるべきなのに、弟は恥ずかしがる素振りを一切見せず、その腕の中に亜弥を優しく包み込んだのだ。
あの小さかった弟が、姉を思う優しい男性に成長したのを目の当たりにして嬉しく思った。そして、そんな弟の存在をありがたく思った。
「亜弥?」
心配そうに問われ、亜弥は無理やり白昼夢を追い払った。
ずっと望んでいた、プロポーズを受けている最中だった。
……愛してもいない男から。
「俺はもう三十三歳だし、家庭を持ちたいと思ってる。その家庭には、亜弥にいて欲しいんだ」
亜弥は、強く手を握り締めた。
高原は、亜弥を愛してくれてる。付き合い始めてまだ三ヶ月、躯の関係だって未だないのに……プロポーズを!
「返事は急がない……って言えば嘘になる。本当は今すぐにでも返事が欲しい」
どうしよう、どうしよう! と、亜弥は心の中で慌てた。
今を逃せば、もう結婚できないかもしれない。そして、考える時間をもらえば、尻込みしてしまうのは目に見えている……絶対に。
それなら、今、うんと……イエスと言ってしまった方がいい。いつか、高原を愛するようになる日が来るかもしれないから。
亜弥の結婚した友人たちが言っていた言葉が、脳裏に浮かぶ。
『好きな人と結婚するより、好きになってくれた人と結婚する方が、絶対幸せになれるって』
『好きの気持ちが大きすぎると、相手が浮気するんじゃないかって心配ばかりしてしまうんだよね。でも、相手が自分にぞっこんなら、そんな余計な心配しなくてもいいし。ほら、想うより想われろって言うじゃない?』
友達の言葉は、亜弥には全く理解できなかった。
「愛する人と共に生活するから、楽しいことも辛いことも乗り越えられるんじゃない? 一緒に過ごせるんじゃない?」と言うと、バカにしたように鼻で笑われた。
「亜弥?」
無意識に過去の記憶の中を漂っていた亜弥だったが、高原の声で再び我に返った。
世間から取り残されたくないとずっと思っていたから、このプロポーズは喜んでいいはずなのに、何故か戸惑ってしまう。それは……やっぱり、愛しているという感情が持てないから。
でも、この機会を逃したら一生独身かもしれない。
そんなのイヤ! 絶対イヤよ!
亜弥は、面を上げて高原を見つめた。
彼の身長は一八〇センチと高く、肩幅はがっちりしていて、胸板は厚い。
そう、体躯は文句のつけようがないほど引き締まってる。凛々しい眉の下にある目はキリッとした切れ長で、思わず吸い込まれそうになる時もある。鼻は少し大きいが、唇は薄い。でも、その柔らかさは実証済みだ。
さらに、高原は、東京に本社を置く一流企業〝水嶋グループ〟の大阪支社土地開発部で働く、有能な営業マン。将来は安泰だ、玉の輿と言ってもいいと思う。
その彼が、どうして今まで独身で通していたんだろう? 付き合う女性には、ことかかなかったはずなのに。
それに引き換え、亜弥は、駅前の病院で医療事務のバイトとして働く身分。高原の前に付き合った経験といえば、五年も前の話だ。
そういうこともあり、亜弥は何故高原に妻として望まれたのか、さっぱりわからなかった。話をすれば、そこそこ話題が広がるが、盛り上がるというほどでもない。
亜弥の外見が彼の好みだったのだろうか?
亜弥は、身長は一六六センチと標準より少し大きい方だが、躯の線はほっそりと引き締まり、女性として出るところは出ている。化粧をすればそこそこ見られる容姿だが、擦れ違う男性から、ハッと振り返られるような美人ではない。
ましてや、この年齢まで結婚していない、ほんの少しでも見目のいい女は、欲が深い、冷血、情が薄いなどと思われ、男性が敬遠してしまうのが普通だ。だが、高原はそれが亜弥に当てはまらないとわかったから、妻として選んだのだろうか?
「高原さん、本当にあたしでいいの?」
高原の答えに、全てを賭けようと思った。彼が本気でプロポーズをしているのなら、亜弥も一縷の望みに賭けてみようと思ったのだ。
「亜弥と初めて支社の医務室で会った時、俺の奥さんになる女性は、亜弥しかいないってわかったんだ。俺は亜弥を愛してる」
亜弥は、覚悟を決めるように瞼を閉じた。
(決心しよう。これだけ想ってくれているのなら、あたしは愛されて幸せになれる)
激しく情熱的な関係を結ぶことはできないかもしれないが、子供が生まれれば……穏やかな愛で家庭を包み込めるかもしれない。
亜弥は、ゆっくり瞼を開けると高原を直視した。
「あたし、お受けします」
そう答えた瞬間、彼は喜びではなく、安堵の表情を浮かべた。その表情が、思わず亜弥の心にブレーキをかけた。
結婚したいと思った女性にプロポーズし、イエスという返事をもらえたというのに、何故歓喜に包まれず……ホッとしたような安堵の表情を浮かべるのだろう?
その表情の裏に隠された真意を、もっと見極めようとしたが、高原の手が亜弥の手を取ったことで、その思いは一瞬で脇に追いやられた。
高原は、台座から指輪を取ると、亜弥の左手の薬指に、そっと填めた。
一瞬で、亜弥の心は凍りついた。
何か間違ったことをしたような感覚が、亜弥を襲ってくる。ダイヤモンドが冷たく光り、その光が鎖となって、亜弥をがんじがらめに縛ったようにさえ思えた。
「ありがとう、亜弥。これからのこと、ゆっくり話していこうな」
「うん」
そう答えたものの、本当にこれで良かったのかわからなかった。
事実、この婚約を後悔するような、新しい出会いがその身に起こるなんて、この時は思いもしなかった。
◆◇◆
――五月
「ねぇ、この後はどうします? わたし……水嶋さんとなら、一緒の部屋で呑んでもいいですよ」
甘い声で囁いたその女性は、人差し指で軽く腕に触れてくると、そのまま爪を立てておもむろに愛撫をしてきた。その甘い感触が男の欲望を刺激し、躯の芯に火を点ける。
だが、欲望の火を煽られても、今は全くその気になれなかった。
水嶋グループ創立者の孫にして、東京本社々長の息子の一人でもある水嶋康貴は、ホテルのバーで秘書の一人と共に呑んでいた。
だが、秘書が匂わせてきたような関係を求めて、この場所を選んだのではなかった。急ぎの仕事が入ったので、秘書室で帰り支度をしていた彼女に仕事を頼んだ。それを遅くまで快く手伝ってくれた彼女に、せめてものお礼として、食事をごちそうしただけだったのだ。
それを、こんな風に誤解されるとは。
「君を、送ろう」
康貴が素早く立ち上がると、秘書は驚いたように目を大きく開けた。
「でも!」
「君はどうか知らないが、俺にはまだ仕事が残ってるんだ」
きつい言い方かもしれないが、希望を持たせるようなことはしたくない。
彼女を促し、エレベーターでロビーまで下りると、さっさと歩いて玄関ホールを抜けた。
ドアマンに手振りでタクシーのドアを開けさせると、秘書に乗るよう目で告げた。
「彼女が言う住所まで行ってくれ」
タクシーの運転手にそう告げ、秘書の手に金を握らせる。
「今日は土曜日だというのに、遅くまで仕事を手伝ってくれてありがとう。これは、タクシー代に使ってくれ」
何か言いたそうに、上目遣いをしてくる秘書から、離れるように一歩後ろに下がると、ドアがバタンと閉まり、タクシーが走り出す。
康貴は、秘書の誘惑から逃れることに成功した安堵感から、肩の力を一気に抜いた。
先程のタクシー運転手は、何の仕事を手伝わせたんだか……と思ってるに違いない。
顔見知りでもないのだから、別に構わない。
「タクシーに乗られますか?」
ホテルのドアマンが、声をかけてくる。
「いや、いいよ」
片手を上げて拒絶すると、康貴はホテルからすぐ近くの駅には向かわず、ここから十数分離れたところにある、普段から利用している駅の方へ歩き出した。
女が欲しければ、そういう女はたくさんいる。現に今だって、一人はキープをしている。だが、そういう躯だけの関係は、正直もううんざりしていた。
康貴は、女性とは楽しく過ごせたらそれで良かった。付き合うことで、女性に縛られるようになることだけは、絶対嫌だったからだ。
そう思っていたのに、その考えは一瞬でヒビが入った。
つい先日、久しぶりに東京の実家に戻った時、意外な事実を知ったのが原因だった。
康貴には、二歳年上の長兄、一貴と、一卵性双生児として共に生を受けた次兄、優貴の兄弟がいた。三兄弟の末っ子である康貴は、兄たちを尊敬はしていたが、世の常として、出来のいい兄たちの側では劣等感を覚えてしまい、何をしても上手くいかなくなっていた。その環境に我慢ができなくなり、逃げるように仕事場を東京本社から大阪支社へと移したのは、ほんの半年前のこと。大阪で過ごすうちに、初めて家族からの軋轢を感じずに、伸び伸びとした生活を送ることができるようになった。
肩の力も抜け、不安もなくなった頃、康貴は一度実家へ戻ったのだが、その時に仕事一筋で女性との関わりを極力避けていた次兄の優貴が彼女を作ったという事実を知り、言葉を失った。
また、東京本社で経営の英才教育を受けながらも、高校の英語教師として二足の草鞋を履く長兄の一貴が、悪びれることもなく教え子の女子高校生と本気の交際をしていると知り、さらに驚愕した。
しかも、その女子高校生とは、康貴たち三兄弟の父一徳の親友の娘で、三人にとって妹同然であり、〝姫〟のように可愛がっていた、桐谷莉世だったのだ。
信じたくもない事実を知った康貴は、またも兄弟たちから一人取り残されたような気がした。
兄たちは、真剣に人生を歩んでいる。
なのに、末っ子の康貴は、まだ学生気分が抜けきっておらず、女性とは遊び半分で付き合うものだと思ってる。自分がどれほど愚か者なのか思い知らされ、大阪へ戻ってくることになった。
ただ仕事に打ち込むしかできない、ちゃらんぽらんな男。欲望を解き放つには、特別な女性はいらないと思っている男。
……有能な兄たちから逃げたいと思い、大阪出向の話に飛びついた弱虫な男。
康貴は、そんな情けない自分を振り払うように、ただ頭を振った。
◆◇◆
「いらっしゃいませ!」
康貴は大阪支社の近所にある、アットホームを売りにした、行きつけのカフェに立ち寄った。
「あっ、康貴さん! まいど!」
関西弁を話す青年に、康貴は笑いかけた。
「よぉ! 相変わらず働いてるんだな」
黒いギャルソンエプロンをした長身の青年は、さばさばしていて、いつも明るく接してくれる。その明るさが、いつも康貴をリラックスさせてくれていた。
「何言うてんの。康貴さんの方が、めっちゃ働いてるやん。いつものでええ?」
「ああ。それとホットサンドも」
青年の目が曇る。
「ちゃんとご飯食べてるん? 彼女に作ってもらって栄養つけんと」
その言葉に、康貴はただ唇の端をあげて微笑んだ。
このお洒落なカフェを和やかで入りやすい雰囲気にさせているのは、彼だと断言していい。もちろん、ここで入れるコーヒーは美味しいし、オーナー兼マスターの朗らかな性格も影響しているとわかっているが、この青年の人当たりのいい性格が、より一層居心地のいい空間を作り出している。
これが東京なら……こうはいかないだろう。
やはり、大阪という場所が成せる技かもしれない。
青年の名は、如月篤史、二十一歳。就職活動真っ最中の大学四回生だ。
「お待たせしました~」
篤史が持ってきたトレーには、二人分が載せてあった。問いかけるように片眉を上げて、篤史を見上げる。
「いいでしょう? 俺が一緒させてもらっても」
ったく、篤史のヤツは……と思いながらも、康貴は心から笑みを浮かべ、向かいの席を指した。
「どうぞ」
これは、もう二人の間だけの会話となっていた。どちらかが話をしたい時や、何かがおかしいと気付いた時、こうやって同席するのだ。
オーナーは、康貴が安らぎを求めて常連となっているのを知っているようで、バイト中の篤史との会話を、多少は許してくれていた。
「康貴さんて、東京の人とは思われへんわ」
「何故?」
「う~ん、近寄りがたくないから?」
それは、篤史がそういう雰囲気を持っていないからだと、康貴は心の中で呟いた。
「そういえば、今就活だったな。そっちも頑張ってるのか?」
「無理無理。今不況やから募集少ないし。それに俺特にやりたいことってないねんな~。だけど、どこかには必ず就職したい。姉ちゃんのためにも」
(姉のために……か。いいヤツだな篤史は)
「篤史……ダメもとで構わないから、一度ウチを受けてみたらどうだ?」
驚愕したように、篤史は後ろに身を退いた。
「無理やわ。だって、俺が行ってる大学は一流どころか二流でもちゃうし。それに、時期がもう遅い」
「関係ないよ。要はやる気だろ? それにお前は営業に向いてるような気がするな。相手をその気にさせるのが上手いから」
篤史は、ムッとしたように表情を変えた。
「それって、俺の口が上手いってことっすか? 良い方にとったらええのか、悪い方にとったらええのか、わからんわ」
「良い方だよ。確か七月からは二次募集がある思う。帰国子女向けにな。公には一般学生の募集は終わってるが、一般でも申し込んできたガッツのあるヤツは、人事課も考慮するだろう。言っておくが、俺はノータッチだから、自分を表に出して頑張るしかないぞ。まっ、ホームページでしっかり調べておくんだな」
康貴は和やかに受け答えて、ホットサンドを頬張った。
美味しい。バーで飲んだ酒より、よっぽど美味い。
「……はぁ、こんなに親身になってくれる康貴さんが、姉ちゃんの彼氏やったらな。俺、喜んで義弟になるんやけど」
その言葉が、妙に康貴の心を擽った。以前篤史から聞いた、姉情報を思い出す。
「姉さんだって好きな男の一人や二人はいるさ。それに二十八歳だったよな? 俺より三つも上なんだぞ? 姉さんの方が嫌がるさ」
「姉ちゃん、つい最近二十九歳になったんやけど。ううん、そんなことより、それマジで言ってるわけ?」
鋭く睨みつけてくる篤史に、康貴は首をかしげそうになった。
何をそんなに怒ることがあるのだろう?
「言っとくけど、姉ちゃんって年齢のわりに若く見えるし、美人やで。胸だって大きいし。弟の俺から見てもいい女ってわかる。そして、何より優しいねん。その姉ちゃんが、康貴さんを嫌がるなんてことは絶対ない! ……もちろん、年齢は気にするかもしれんけど」
篤史は姉さん思いだなと思いつつも、「悪かった。でもな、付き合うとなるとお互いが決めることだから、な」と、思わず逃げ道を作ってしまう。
未だ、特定の相手を作るという感情が湧いてこないからだ。それに、年上の女となると……きっと康貴自身が躊躇してしまうだろう。だが、そんなことを篤史に言えるわけがない。
「そうやな。姉ちゃんも、結婚の約束した彼氏がおるみたいやし」
そうだろう、そうだろう! と頷くと、康貴は、安堵の笑みを思わず零していた。
篤史との楽しい会話を象徴するように、康貴は笑顔を向けて別れの挨拶をすると、カフェを出て、駅に向かって歩き出した。
だが、独りになった途端、心の奥底に閉じ込めていた〝取り残されていく〟という不安が、否応なしに康貴を包み込んでいく。
女性に対して……どうして本気になれないんだろう?
女嫌い、というのではなかった。むしろ大好きで、兄弟の中で、一番数多くの女性と付き合ってきたのは自分だと自覚もしている。だが、その中の誰一人として……本気で愛しいと思ったことなどなかった。
長兄が、あの莉世を特定の彼女にした理由は何だろうか?
康貴が覚えている莉世は、まだ小学生の女の子だった。だが、長兄の恋人として隣にいた彼女は、とても可愛く、綺麗な女性へと変貌していた。
妹同然の莉世と長兄の激しいキスシーンを目撃した時は、驚くと同時に、強烈なパンチを受けたように胸が痛んだ。まだ幼い妹だと思っていたのに、〝女〟を垣間見てしまったからかもしれない。
だが、莉世はもう〝長兄の女〟。康貴の心を出たり入ったりするガールフレンドとは違って、莉世はずっと心にいる女の子だったが、もう一人の女性として見てあげるべきだ。
そうは思っても、何故か大切にしていた妹にまで、見捨てられたような錯覚に陥る。
同時に、不安に似た感情がまたも渦巻いてきた。
康貴は、胸に巣食う悪い気を追い出すように、長いため息をついた。
ほどなくして、長堀鶴見緑地線の最寄り駅に着くと、康貴は改札を抜け、プラットホームで電車が到着するのを待った。
電車を待つ間、お互いしか見えていないカップルが目に飛び込む。
女性は彼氏を信頼しきっているように微笑み、彼氏は愛しくてたまらないというように、その女性を見下ろし、彼女の柔らかな頬を撫でていた。
以前なら、ニヤッと笑みを浮かべて、面白がって見ていただろう。
だが、今の康貴にとってその光景はとても胸が痛いものだった。
遮断するように目を閉じた時、運良く電車が到着。そのまま電車に乗り込むが、先程のカップルが何故か優貴とその彼女に思えて仕方なかった。
双子の片割れとして、優貴のことをわかってるつもりだった。だが、それは間違いだった。優貴にも、人並みの欲望があるということに気が付かなかった。長兄の背を見て走る優貴しか知らなかったから。
その優貴が、会社の子と……特定の女性と付き合ってるとは、やっぱり信じられない。
どうして、一人の女性と、本気で付き合えるのだろう? 心を曝け出せる相手がその彼女だと、どうして優貴はわかったのだろうか?
(愛が欠落しているこの俺でも……いつの日か、本気で一人の女性を愛することができるんだろうか?)
兄たちと同じ〝水嶋の血〟は、康貴の中にも……きちんと流れているのだろうか?
電車は京橋駅を過ぎ、さらに郊外へと進んでいく。康貴は、一人住まいのマンションがある駅に到着するまで、ずっとそんなことを考えていた。
光り輝くネオンを見つめるその瞳には、将来の希望や夢などは一切映し出されていなかった……
まもなく、運命とも言えるような苦しい恋をしようとは、この時の康貴はまだ知る由もない。
プロローグ
三十代は目前に迫っているのに、未だ独身。初めての恋人から受けた暴力的なセックス、人格を傷つけるような酷い仕打ちがトラウマとなり、恋をすることに臆病になってしまった。そんな経験をしてきても、やっぱり心のどこかで、人並みの幸せが欲しいといつも思ってる。
幸せ=結婚。
本当は、そうではないと願いたい。結婚が幸せだなんて思いたくもない。
負け惜しみでそう思っているのではない。結婚という選択をしなくても、幸せな生活を送っている女性は、この広い世の中にはたくさんいる。人それぞれの価値観は違うのだから。
それなのに、同じ枠に入れない人に対して、女は妙に線引きをしたがる。
結婚もそう。
三十代で独り身だと、周囲から「まだ独身なんだ」と蔑んだ口調で言われる。弱虫かもしれないが、それがとっても嫌で、苦痛でもあった。
そう思われたくない……。人並みの人生を歩んでいるのだと、普通に思われたい。
だから、結婚できる機会があるのなら、例え愛していない相手とでも、妥協してもいいかなと、気持ちが大きく揺らいでしまう。
愛はなくとも、穏やかな結婚生活で幸せを見つけたら、それでいいのではないかと。
(だって、あたし自身が結婚を望んでいるのだから)
恋に対して、少し冷めたところがあるのは十分わかっている。しかし、それでもやっぱり心の奥底では、素敵な恋がしたい……と、願ってもいる。
そう願うのは、間違っているのだろうか? でも、女だったら、誰でもそう思っているのでは? いつの日か素敵な男性と巡り会い、お互いのことが忘れられないような、運命的な恋がしたいと。身も心も捧げられるような男性と出会いたいと、強く願っている。
(あたしも、まだ愛を切望しているのね)
そんな気持ちを抱いたまま、愛してもいない人からプロポーズされたら、貴方ならどうする?
イエス? それともノー?
第一章 打算的な恋、運命の出会い
――四月 大阪
「俺と結婚して欲しい……」
大阪駅から、少し北東へ行った郊外にあるフランス料理店でのこと。ブルゴーニュ地方の美味しい食事を終え、食後のコーヒーを味わっている時にその言葉は発せられた。
目の前にいる彼……三十二歳の高原秀明が、真剣な眼差しで亜弥にプロポーズをしたのだ。
高原は、亜弥の目の前に、蓋を開けたベルベットの小箱をゆっくりと置いた。そこには、〇・三カラットぐらいの一粒のダイヤモンドの指輪が鎮座していた。
給料の三ヶ月分といわれる婚約指輪。大企業に勤めている高原なら、〇・五カラット以上の指輪を買えないはずはない。
だが、内蓋に印刷された、ウエディング雑誌でもよく紹介されているブランドのロゴと、照明で光り輝くエンゲージリングが、亜弥の注意を削いだのだった。
桜が既に散り始めた四月の初旬、進級した人、社会人になった人たちが胸躍らせるこの月に、やっと亜弥にも春が訪れた。
しかし、亜弥はテーブルの下で思い切り両手を握り締めていた。
いいの? ここで妥協して、彼のプロポーズにイエスと応えてもいいの?
(でも……もしこれを逃したら、あたしは一生結婚できないかもしれない)
亜弥は焦っていた。友達は、皆幸せな結婚をしていて、自分だけがポツンと取り残されたような、そんな気分をずっと味わってきたからだ。
亜弥は、結婚したらすぐにでも子供が欲しいと思っていた。もちろん、自分だけを愛してくれる夫との子供だ。
そのためには本気で結婚相手を探さないと……と思った矢先、目の前にいる高原と出会い、数ヶ月の間デートを繰り返した。
高原と会う度に、彼の気配りや優しい性格を見て、好感を抱くようになった。
だが、彼を愛することだけは、何故かできなかったのだ。
如月亜弥は、つい先日誕生日を迎えて二十九歳になった。仕事は……順調とは言えない。未だにバイトの身分。
大学を卒業して銀行に就職したはいいが、不況からリストラされ、その時に付き合っていた行員の先輩は、さっさと亜弥を捨てた。
別れの言葉は酷く冷たかった。仕事を失う不安を、全く感じ取ってくれなかった男。亜弥を大切にし、慈しんでくれなかった男、そんな男とは別れて正解だった……と思えるほど、亜弥は強くはなかった。
心の中は荒れ狂い、張り裂けそうな痛みを感じながら、日々を過ごした。それは、少なくとも三ヶ月は続いた。
職と恋、両方を一度に失ったからだ。
そんな亜弥をずっと支えてくれたのが、七歳年下の弟、篤史だった。やんちゃで……関西の男だとはっきりわかるぐらい、口が巧い弟。その篤史だけが、亜弥の味方だった。
「姉ちゃん、大丈夫やって。何も心配せんでええから。俺が姉ちゃんを守ったるから」
二十四歳の姉に向かって、十七歳の弟が堂々と胸を張って告げた言葉だった。
思わず涙が溢れそうになったのを、今でもはっきり覚えてる。亜弥は、篤史に頼られる存在であるべきなのに、弟は恥ずかしがる素振りを一切見せず、その腕の中に亜弥を優しく包み込んだのだ。
あの小さかった弟が、姉を思う優しい男性に成長したのを目の当たりにして嬉しく思った。そして、そんな弟の存在をありがたく思った。
「亜弥?」
心配そうに問われ、亜弥は無理やり白昼夢を追い払った。
ずっと望んでいた、プロポーズを受けている最中だった。
……愛してもいない男から。
「俺はもう三十三歳だし、家庭を持ちたいと思ってる。その家庭には、亜弥にいて欲しいんだ」
亜弥は、強く手を握り締めた。
高原は、亜弥を愛してくれてる。付き合い始めてまだ三ヶ月、躯の関係だって未だないのに……プロポーズを!
「返事は急がない……って言えば嘘になる。本当は今すぐにでも返事が欲しい」
どうしよう、どうしよう! と、亜弥は心の中で慌てた。
今を逃せば、もう結婚できないかもしれない。そして、考える時間をもらえば、尻込みしてしまうのは目に見えている……絶対に。
それなら、今、うんと……イエスと言ってしまった方がいい。いつか、高原を愛するようになる日が来るかもしれないから。
亜弥の結婚した友人たちが言っていた言葉が、脳裏に浮かぶ。
『好きな人と結婚するより、好きになってくれた人と結婚する方が、絶対幸せになれるって』
『好きの気持ちが大きすぎると、相手が浮気するんじゃないかって心配ばかりしてしまうんだよね。でも、相手が自分にぞっこんなら、そんな余計な心配しなくてもいいし。ほら、想うより想われろって言うじゃない?』
友達の言葉は、亜弥には全く理解できなかった。
「愛する人と共に生活するから、楽しいことも辛いことも乗り越えられるんじゃない? 一緒に過ごせるんじゃない?」と言うと、バカにしたように鼻で笑われた。
「亜弥?」
無意識に過去の記憶の中を漂っていた亜弥だったが、高原の声で再び我に返った。
世間から取り残されたくないとずっと思っていたから、このプロポーズは喜んでいいはずなのに、何故か戸惑ってしまう。それは……やっぱり、愛しているという感情が持てないから。
でも、この機会を逃したら一生独身かもしれない。
そんなのイヤ! 絶対イヤよ!
亜弥は、面を上げて高原を見つめた。
彼の身長は一八〇センチと高く、肩幅はがっちりしていて、胸板は厚い。
そう、体躯は文句のつけようがないほど引き締まってる。凛々しい眉の下にある目はキリッとした切れ長で、思わず吸い込まれそうになる時もある。鼻は少し大きいが、唇は薄い。でも、その柔らかさは実証済みだ。
さらに、高原は、東京に本社を置く一流企業〝水嶋グループ〟の大阪支社土地開発部で働く、有能な営業マン。将来は安泰だ、玉の輿と言ってもいいと思う。
その彼が、どうして今まで独身で通していたんだろう? 付き合う女性には、ことかかなかったはずなのに。
それに引き換え、亜弥は、駅前の病院で医療事務のバイトとして働く身分。高原の前に付き合った経験といえば、五年も前の話だ。
そういうこともあり、亜弥は何故高原に妻として望まれたのか、さっぱりわからなかった。話をすれば、そこそこ話題が広がるが、盛り上がるというほどでもない。
亜弥の外見が彼の好みだったのだろうか?
亜弥は、身長は一六六センチと標準より少し大きい方だが、躯の線はほっそりと引き締まり、女性として出るところは出ている。化粧をすればそこそこ見られる容姿だが、擦れ違う男性から、ハッと振り返られるような美人ではない。
ましてや、この年齢まで結婚していない、ほんの少しでも見目のいい女は、欲が深い、冷血、情が薄いなどと思われ、男性が敬遠してしまうのが普通だ。だが、高原はそれが亜弥に当てはまらないとわかったから、妻として選んだのだろうか?
「高原さん、本当にあたしでいいの?」
高原の答えに、全てを賭けようと思った。彼が本気でプロポーズをしているのなら、亜弥も一縷の望みに賭けてみようと思ったのだ。
「亜弥と初めて支社の医務室で会った時、俺の奥さんになる女性は、亜弥しかいないってわかったんだ。俺は亜弥を愛してる」
亜弥は、覚悟を決めるように瞼を閉じた。
(決心しよう。これだけ想ってくれているのなら、あたしは愛されて幸せになれる)
激しく情熱的な関係を結ぶことはできないかもしれないが、子供が生まれれば……穏やかな愛で家庭を包み込めるかもしれない。
亜弥は、ゆっくり瞼を開けると高原を直視した。
「あたし、お受けします」
そう答えた瞬間、彼は喜びではなく、安堵の表情を浮かべた。その表情が、思わず亜弥の心にブレーキをかけた。
結婚したいと思った女性にプロポーズし、イエスという返事をもらえたというのに、何故歓喜に包まれず……ホッとしたような安堵の表情を浮かべるのだろう?
その表情の裏に隠された真意を、もっと見極めようとしたが、高原の手が亜弥の手を取ったことで、その思いは一瞬で脇に追いやられた。
高原は、台座から指輪を取ると、亜弥の左手の薬指に、そっと填めた。
一瞬で、亜弥の心は凍りついた。
何か間違ったことをしたような感覚が、亜弥を襲ってくる。ダイヤモンドが冷たく光り、その光が鎖となって、亜弥をがんじがらめに縛ったようにさえ思えた。
「ありがとう、亜弥。これからのこと、ゆっくり話していこうな」
「うん」
そう答えたものの、本当にこれで良かったのかわからなかった。
事実、この婚約を後悔するような、新しい出会いがその身に起こるなんて、この時は思いもしなかった。
◆◇◆
――五月
「ねぇ、この後はどうします? わたし……水嶋さんとなら、一緒の部屋で呑んでもいいですよ」
甘い声で囁いたその女性は、人差し指で軽く腕に触れてくると、そのまま爪を立てておもむろに愛撫をしてきた。その甘い感触が男の欲望を刺激し、躯の芯に火を点ける。
だが、欲望の火を煽られても、今は全くその気になれなかった。
水嶋グループ創立者の孫にして、東京本社々長の息子の一人でもある水嶋康貴は、ホテルのバーで秘書の一人と共に呑んでいた。
だが、秘書が匂わせてきたような関係を求めて、この場所を選んだのではなかった。急ぎの仕事が入ったので、秘書室で帰り支度をしていた彼女に仕事を頼んだ。それを遅くまで快く手伝ってくれた彼女に、せめてものお礼として、食事をごちそうしただけだったのだ。
それを、こんな風に誤解されるとは。
「君を、送ろう」
康貴が素早く立ち上がると、秘書は驚いたように目を大きく開けた。
「でも!」
「君はどうか知らないが、俺にはまだ仕事が残ってるんだ」
きつい言い方かもしれないが、希望を持たせるようなことはしたくない。
彼女を促し、エレベーターでロビーまで下りると、さっさと歩いて玄関ホールを抜けた。
ドアマンに手振りでタクシーのドアを開けさせると、秘書に乗るよう目で告げた。
「彼女が言う住所まで行ってくれ」
タクシーの運転手にそう告げ、秘書の手に金を握らせる。
「今日は土曜日だというのに、遅くまで仕事を手伝ってくれてありがとう。これは、タクシー代に使ってくれ」
何か言いたそうに、上目遣いをしてくる秘書から、離れるように一歩後ろに下がると、ドアがバタンと閉まり、タクシーが走り出す。
康貴は、秘書の誘惑から逃れることに成功した安堵感から、肩の力を一気に抜いた。
先程のタクシー運転手は、何の仕事を手伝わせたんだか……と思ってるに違いない。
顔見知りでもないのだから、別に構わない。
「タクシーに乗られますか?」
ホテルのドアマンが、声をかけてくる。
「いや、いいよ」
片手を上げて拒絶すると、康貴はホテルからすぐ近くの駅には向かわず、ここから十数分離れたところにある、普段から利用している駅の方へ歩き出した。
女が欲しければ、そういう女はたくさんいる。現に今だって、一人はキープをしている。だが、そういう躯だけの関係は、正直もううんざりしていた。
康貴は、女性とは楽しく過ごせたらそれで良かった。付き合うことで、女性に縛られるようになることだけは、絶対嫌だったからだ。
そう思っていたのに、その考えは一瞬でヒビが入った。
つい先日、久しぶりに東京の実家に戻った時、意外な事実を知ったのが原因だった。
康貴には、二歳年上の長兄、一貴と、一卵性双生児として共に生を受けた次兄、優貴の兄弟がいた。三兄弟の末っ子である康貴は、兄たちを尊敬はしていたが、世の常として、出来のいい兄たちの側では劣等感を覚えてしまい、何をしても上手くいかなくなっていた。その環境に我慢ができなくなり、逃げるように仕事場を東京本社から大阪支社へと移したのは、ほんの半年前のこと。大阪で過ごすうちに、初めて家族からの軋轢を感じずに、伸び伸びとした生活を送ることができるようになった。
肩の力も抜け、不安もなくなった頃、康貴は一度実家へ戻ったのだが、その時に仕事一筋で女性との関わりを極力避けていた次兄の優貴が彼女を作ったという事実を知り、言葉を失った。
また、東京本社で経営の英才教育を受けながらも、高校の英語教師として二足の草鞋を履く長兄の一貴が、悪びれることもなく教え子の女子高校生と本気の交際をしていると知り、さらに驚愕した。
しかも、その女子高校生とは、康貴たち三兄弟の父一徳の親友の娘で、三人にとって妹同然であり、〝姫〟のように可愛がっていた、桐谷莉世だったのだ。
信じたくもない事実を知った康貴は、またも兄弟たちから一人取り残されたような気がした。
兄たちは、真剣に人生を歩んでいる。
なのに、末っ子の康貴は、まだ学生気分が抜けきっておらず、女性とは遊び半分で付き合うものだと思ってる。自分がどれほど愚か者なのか思い知らされ、大阪へ戻ってくることになった。
ただ仕事に打ち込むしかできない、ちゃらんぽらんな男。欲望を解き放つには、特別な女性はいらないと思っている男。
……有能な兄たちから逃げたいと思い、大阪出向の話に飛びついた弱虫な男。
康貴は、そんな情けない自分を振り払うように、ただ頭を振った。
◆◇◆
「いらっしゃいませ!」
康貴は大阪支社の近所にある、アットホームを売りにした、行きつけのカフェに立ち寄った。
「あっ、康貴さん! まいど!」
関西弁を話す青年に、康貴は笑いかけた。
「よぉ! 相変わらず働いてるんだな」
黒いギャルソンエプロンをした長身の青年は、さばさばしていて、いつも明るく接してくれる。その明るさが、いつも康貴をリラックスさせてくれていた。
「何言うてんの。康貴さんの方が、めっちゃ働いてるやん。いつものでええ?」
「ああ。それとホットサンドも」
青年の目が曇る。
「ちゃんとご飯食べてるん? 彼女に作ってもらって栄養つけんと」
その言葉に、康貴はただ唇の端をあげて微笑んだ。
このお洒落なカフェを和やかで入りやすい雰囲気にさせているのは、彼だと断言していい。もちろん、ここで入れるコーヒーは美味しいし、オーナー兼マスターの朗らかな性格も影響しているとわかっているが、この青年の人当たりのいい性格が、より一層居心地のいい空間を作り出している。
これが東京なら……こうはいかないだろう。
やはり、大阪という場所が成せる技かもしれない。
青年の名は、如月篤史、二十一歳。就職活動真っ最中の大学四回生だ。
「お待たせしました~」
篤史が持ってきたトレーには、二人分が載せてあった。問いかけるように片眉を上げて、篤史を見上げる。
「いいでしょう? 俺が一緒させてもらっても」
ったく、篤史のヤツは……と思いながらも、康貴は心から笑みを浮かべ、向かいの席を指した。
「どうぞ」
これは、もう二人の間だけの会話となっていた。どちらかが話をしたい時や、何かがおかしいと気付いた時、こうやって同席するのだ。
オーナーは、康貴が安らぎを求めて常連となっているのを知っているようで、バイト中の篤史との会話を、多少は許してくれていた。
「康貴さんて、東京の人とは思われへんわ」
「何故?」
「う~ん、近寄りがたくないから?」
それは、篤史がそういう雰囲気を持っていないからだと、康貴は心の中で呟いた。
「そういえば、今就活だったな。そっちも頑張ってるのか?」
「無理無理。今不況やから募集少ないし。それに俺特にやりたいことってないねんな~。だけど、どこかには必ず就職したい。姉ちゃんのためにも」
(姉のために……か。いいヤツだな篤史は)
「篤史……ダメもとで構わないから、一度ウチを受けてみたらどうだ?」
驚愕したように、篤史は後ろに身を退いた。
「無理やわ。だって、俺が行ってる大学は一流どころか二流でもちゃうし。それに、時期がもう遅い」
「関係ないよ。要はやる気だろ? それにお前は営業に向いてるような気がするな。相手をその気にさせるのが上手いから」
篤史は、ムッとしたように表情を変えた。
「それって、俺の口が上手いってことっすか? 良い方にとったらええのか、悪い方にとったらええのか、わからんわ」
「良い方だよ。確か七月からは二次募集がある思う。帰国子女向けにな。公には一般学生の募集は終わってるが、一般でも申し込んできたガッツのあるヤツは、人事課も考慮するだろう。言っておくが、俺はノータッチだから、自分を表に出して頑張るしかないぞ。まっ、ホームページでしっかり調べておくんだな」
康貴は和やかに受け答えて、ホットサンドを頬張った。
美味しい。バーで飲んだ酒より、よっぽど美味い。
「……はぁ、こんなに親身になってくれる康貴さんが、姉ちゃんの彼氏やったらな。俺、喜んで義弟になるんやけど」
その言葉が、妙に康貴の心を擽った。以前篤史から聞いた、姉情報を思い出す。
「姉さんだって好きな男の一人や二人はいるさ。それに二十八歳だったよな? 俺より三つも上なんだぞ? 姉さんの方が嫌がるさ」
「姉ちゃん、つい最近二十九歳になったんやけど。ううん、そんなことより、それマジで言ってるわけ?」
鋭く睨みつけてくる篤史に、康貴は首をかしげそうになった。
何をそんなに怒ることがあるのだろう?
「言っとくけど、姉ちゃんって年齢のわりに若く見えるし、美人やで。胸だって大きいし。弟の俺から見てもいい女ってわかる。そして、何より優しいねん。その姉ちゃんが、康貴さんを嫌がるなんてことは絶対ない! ……もちろん、年齢は気にするかもしれんけど」
篤史は姉さん思いだなと思いつつも、「悪かった。でもな、付き合うとなるとお互いが決めることだから、な」と、思わず逃げ道を作ってしまう。
未だ、特定の相手を作るという感情が湧いてこないからだ。それに、年上の女となると……きっと康貴自身が躊躇してしまうだろう。だが、そんなことを篤史に言えるわけがない。
「そうやな。姉ちゃんも、結婚の約束した彼氏がおるみたいやし」
そうだろう、そうだろう! と頷くと、康貴は、安堵の笑みを思わず零していた。
篤史との楽しい会話を象徴するように、康貴は笑顔を向けて別れの挨拶をすると、カフェを出て、駅に向かって歩き出した。
だが、独りになった途端、心の奥底に閉じ込めていた〝取り残されていく〟という不安が、否応なしに康貴を包み込んでいく。
女性に対して……どうして本気になれないんだろう?
女嫌い、というのではなかった。むしろ大好きで、兄弟の中で、一番数多くの女性と付き合ってきたのは自分だと自覚もしている。だが、その中の誰一人として……本気で愛しいと思ったことなどなかった。
長兄が、あの莉世を特定の彼女にした理由は何だろうか?
康貴が覚えている莉世は、まだ小学生の女の子だった。だが、長兄の恋人として隣にいた彼女は、とても可愛く、綺麗な女性へと変貌していた。
妹同然の莉世と長兄の激しいキスシーンを目撃した時は、驚くと同時に、強烈なパンチを受けたように胸が痛んだ。まだ幼い妹だと思っていたのに、〝女〟を垣間見てしまったからかもしれない。
だが、莉世はもう〝長兄の女〟。康貴の心を出たり入ったりするガールフレンドとは違って、莉世はずっと心にいる女の子だったが、もう一人の女性として見てあげるべきだ。
そうは思っても、何故か大切にしていた妹にまで、見捨てられたような錯覚に陥る。
同時に、不安に似た感情がまたも渦巻いてきた。
康貴は、胸に巣食う悪い気を追い出すように、長いため息をついた。
ほどなくして、長堀鶴見緑地線の最寄り駅に着くと、康貴は改札を抜け、プラットホームで電車が到着するのを待った。
電車を待つ間、お互いしか見えていないカップルが目に飛び込む。
女性は彼氏を信頼しきっているように微笑み、彼氏は愛しくてたまらないというように、その女性を見下ろし、彼女の柔らかな頬を撫でていた。
以前なら、ニヤッと笑みを浮かべて、面白がって見ていただろう。
だが、今の康貴にとってその光景はとても胸が痛いものだった。
遮断するように目を閉じた時、運良く電車が到着。そのまま電車に乗り込むが、先程のカップルが何故か優貴とその彼女に思えて仕方なかった。
双子の片割れとして、優貴のことをわかってるつもりだった。だが、それは間違いだった。優貴にも、人並みの欲望があるということに気が付かなかった。長兄の背を見て走る優貴しか知らなかったから。
その優貴が、会社の子と……特定の女性と付き合ってるとは、やっぱり信じられない。
どうして、一人の女性と、本気で付き合えるのだろう? 心を曝け出せる相手がその彼女だと、どうして優貴はわかったのだろうか?
(愛が欠落しているこの俺でも……いつの日か、本気で一人の女性を愛することができるんだろうか?)
兄たちと同じ〝水嶋の血〟は、康貴の中にも……きちんと流れているのだろうか?
電車は京橋駅を過ぎ、さらに郊外へと進んでいく。康貴は、一人住まいのマンションがある駅に到着するまで、ずっとそんなことを考えていた。
光り輝くネオンを見つめるその瞳には、将来の希望や夢などは一切映し出されていなかった……
まもなく、運命とも言えるような苦しい恋をしようとは、この時の康貴はまだ知る由もない。
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