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1巻
1-3
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苦悩を秘めながら、亜弥は遠慮深く高原の腕に手を絡ませていた。
出会ってから三ヶ月後にはプロポーズされ……それから四ヶ月も経とうとしているのに、どうして二人はキスと愛撫までなんだろう?
このことが、亜弥を苦しめている。
もし、求めてくれたら……躯ぐらい彼のモノになれば、少しでも楽になれるというのに。高原の欲望が薄いのだろうか?
亜弥は、心の中で頭を振った。
違う……亜弥に触れる時、高原は確かに欲望を秘めている。
秘めているのに、彼はその荒々しい欲望を無理やり押さえ込んで、途中で止めてしまう。
どうして? どうしてなの?
本当は、訊きたい。訊きたいが、上手く訊けない自分がいる。もし、高原を心から愛していたのなら、問い詰めることもできるのに。
もしかして……彼を問い詰めないのは、逃げ場を作ってるからだろうか? 彼が、プロポーズを撤回するのを、両手を広げて待っているからだろうか?
亜弥は、隣にいる高原をそっと見上げた。
「うん? どうした、亜弥?」
見下ろしてくる彼の瞳は、とても優しい。
亜弥は、高原を心配させないように、口角を上げて笑みを浮かべた。
「ううん、何でもない」
そう言って、視線を正面に戻す。
高原のことだけを考えなければいけないのに、こうして孤独を感じると、いつも忍び寄ってくる男の影があった。その影を振り払うように、思わずギュッと瞼を閉じた。
やだ、やめて! 勝手に現れないで。
たった一度だけしか会ったことのない、どこの誰だかわからない……康貴という人を、求めてなんかいない。
亜弥は、康貴の存在を、ずっと否定し続けていた。しかし、あれから既に二ヶ月近く経つというのに、彼の存在は消えようとはせず、逆に強くなっていく。その理由はもうわかっているのに、亜弥は強く自分に言い聞かせて、ずっと否定し続けていた。
イタリアンレストランで食事をしている最中、高原が口を開いた。
「あのさ、今月の末に、会社の創設五十周年パーティがあるんだ」
パーティ?
高原が何を言いたいのかわからず、亜弥はただ素直に相槌を打った。
「もちろん、本社のパーティとは別に支社でも開かれるんだが……良かったら俺のパートナーとして、一緒に出てくれないか?」
思わず口の中に入っていたサラダを、ゴクッと飲み込んでしまった。素早くミネラルウォーターを飲み、喉の痛みを和らげる。
「……っどうして、あたしを?」
高原の同僚たちに、正式に紹介されるかもしれないと思うと、急に胸が痛くなった。
もし、紹介されてしまえば……もう後戻りできなくなる!
「亜弥と俺は、婚約してるも同然だろう? 亜弥を誘うのが筋だと思うけど?」
懇願するように、ひたむきな表情で亜弥を見つめてくる。その視線を受け止めなければいけないのに、思わず下を向いてしまう。曇っていく表情を見られたくなかったのだ。
「だけど……あたしは、」
「いいんだよ、そのままの亜弥でいてくれれば」
高原の大きな手が伸びてきたかと思ったら、亜弥の細い指を愛撫するように、指を絡ませてきた。
「俺だって、そろそろ亜弥を紹介したい」
そう言われて嬉しいはずなのに、激しい痛みが胸を突いてくる。
「……うん」
うん? 本当にそれを望んでいるの? これでいいと思ってるの?
亜弥は、もう考えることに疲れていた。
疲れていたから……このまま流れに身を任すほかないのだと、無理やり自分に言い聞かせるようにして、納得させてしまったのだった。
レストランから出た後、亜弥と高原は隣に並んで、遊歩道を歩いていた。
恋人同士なのに、特に手を繋ぐでもなく、腕も組むわけでもなく、二人は何も話さずに歩き続けた。
だが、それは突然起こった。
「亜弥……」
亜弥の名を囁いたかと思ったら、高原は亜弥の手首を掴み、暗い路地へと引っ張ったのだ。
何が起こったのかわからないまま、いつの間にか、亜弥は彼の腕の中にすっぽり包まれていた。高原の息が頬を撫でていくと同時に、アルコールの臭いが亜弥の鼻腔を刺激する。
いつも冷静な彼が、こんな風に欲望を表したのは、初めてのことだった。お酒を呑んだことで、少し心地良くなっているのかもしれない。
「高原、さん。ダメ、こんな場所じゃ」
周囲に誰もいないか、亜弥は視線をキョロキョロ動かした。その間にも、高原の手は亜弥のキャミソールの裾を捲り上げ、中へ滑り込ませてきた。そのまま下から掬い上げるように、柔らかな乳房をブラの上から包み込んでくる。
「高原さんっ! ここじゃイヤ……やめ、」
抗おうと手を動かすが、それを抑えるように、高原が激しくキスをしてきた。
「っんん」
時刻は間もなく二十二時になろうとしているのに、外はまだ三十度を超す熱気に包まれている。そんな中で求められたため、亜弥の躯は湿気と熱気で、じんわりと汗ばんできた。
「俺たちは、俺たちは……」
婚約してる?
その言葉で、亜弥の硬直した躯が一瞬だけ緩んだ。
婚約しているから……だから、彼が望むことを、どこにいても、受け入れなければならないのかな?
ゆっくりとブラのカップを押し下げると、高原はその柔らかい乳房を優しく揉み始めた。高原の愛撫に、亜弥は吐息を漏らした。
そして「っぁん」と、感じたフリの声を漏らす。
いくら愛撫を受けても、躯の芯が疼くような兆しは感じられず、彼が欲しい……という気持ちは湧き起こらなかった。
だが、それを彼に知られたくはなかった。亜弥は、気付かれないよう……必死に微かな喘ぎ声を発して、感じているフリをし続けた。
「亜弥……俺は、」
俺は、何?
亜弥は、自然と顎を突き出すようにして、白い喉元を彼の前に晒した。すると、高原の唇はそこから鎖骨、鎖骨から衣服を飛び越して乳房へと移動した。いつの間にか、キャミソールが胸の上まで捲れていたのだ。
高原が、まだ柔らかい乳首を舌で愛撫した時、亜弥の口から本当の喘ぎが漏れた。
(考えてはダメ……あたしに愛撫の手を伸ばしてくるのは、婚約者の高原さんよ。決して、一度見ただけのあの人じゃない!)
しかし、愛撫を受ける亜弥の脳裏に浮かぶのは……高原ではなかった。そのことがさらに亜弥を興奮させ、身悶えさせる。
「やぁ」
瞼をギュッと閉じ、その快感に身を任せそうになった時、高原の愛撫が止まった。
「すまない、亜弥」
息を荒くしながら、高原は亜弥のキャミソールを無造作に下へ引っ張った。いつの間にか硬く尖っていた乳首が布に擦れ、薄い生地を押し上げている。
亜弥はそのまま身を引くと、素早く衣服を整えた。
まただ……また同じことの繰り返し。彼に触れられて感じているフリをし、その後、想像しながら本気で感じ始めた亜弥を……彼は拒否するのだ。
直感でわかってるの? 婚約者ではない男性を想像しながら、感じてしまったってことを。
申し訳なく思いながら、亜弥は恐る恐る視線を高原に向けた。しかし、高原の方が自己嫌悪をしたように顔を背けていた。
「高原さん?」
「すまない、呑みすぎたようだ」
それはどういう意味? お酒の力を借りないと、亜弥には触れられないということだろうか?
◆◇◆
八月最後の土曜日。
亜弥は、この日のために新しく買ったドレスを着ていた。高原の恥にならないよう、清楚さを感じさせるクリーム色のドレス。
ホルダートップで背中は大きく開いてるが、胸元のドレープが上品さを窺わせる。また、躯に沿うような生地は、その下に隠された肢体を魅惑的にも見せた。裾は斜めにカットされ、引き締まった膝頭がチラチラと見え隠れする。
そして左の薬指には、婚約指輪が光ってる。
素敵なドレスを着て、素晴らしい婚約者と一緒にパーティに出席する。何も考えずに堂々としていればいいのに、亜弥は不安でいっぱいだった。
高原のプロポーズを受けて、承諾したのは亜弥自身。なのに、この不安はいつまでたっても解消されない。
もちろん高原から求められない、求められても寸止め……ということが原因と言ってもいいが、もう一つ理由があった。脳裏に潜んでいるあの男性、康貴という存在。
「バカね。たった一度会っただけの人なのに、まだ忘れられないなんて」
――コンコンッ。
「はい」
「姉ちゃん? 高原さんが来たで」
弟の篤史が、ドアを開けて部屋に入ってくるとそう言った。
「ありがとう」
亜弥は、ショールをふんわりと肩にかけてから、小型のクラッチバッグを手に持った。
「姉ちゃん」
「うん?」
背の高い弟を、亜弥は見上げた。
「……幸せ? 高原さんと一緒におれて幸せなん?」
探るような視線に、亜弥は思わず顔を歪めた。
「何言って、」
「だって、姉ちゃんの顔、全然幸せそうに見えへんねん。まるであの時と一緒や」
篤史が何を指しているのか、亜弥にはすぐにわかった。亜弥が、職と恋人を両方失った時のことだ。
「大丈夫、きっとマリッジブルーよ」
亜弥は、篤史の鋭い眼から逃れるように側を通り抜けると、玄関へ向かった。
「何嘘ばっかり言うてんねん。マリッジブルー言うても、式の日取りすら決まってないやんか」
吐き捨てるような篤史の言葉は、亜弥の耳には届かなかった。
大阪駅周辺に立つ一流ホテルの玄関口に、タクシーが止まった。
躯を強ばらせた亜弥の肩を、高原は優しく抱く。
「そんなに心配しなくても大丈夫。亜弥の知ってる人たちも大勢来てるんだから。もし、立派そうに立っている彼らに怖じ気づいたりしたら、医務室で唸っていたことを思い出せばいい」
亜弥の心配事とは全く関係なかったが、こうして気遣ってくれるのも、高原の優しさだった。
「ありがとう。大丈夫よ」
「よし。それじゃ、出陣だ!」
おどけて言う高原に、亜弥は無理やり笑みを作った。そして、覚悟を決めたようにお腹に力を入れると、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。
まるで、映画で見るような豪華なパーティに、亜弥は一瞬で緊張を覚えた。クリーム色と金色でまとめられた会場内は、華やかなムードを醸し出している。
素敵なドレスを着こなす女性たちに、髪を綺麗に撫でつけて佇む男性たち。皆、堂々と談笑していた。
場違いな所へ迷いこんでしまったと、当然の如く亜弥は思った。だが、周囲の人からそう思われないように、何とか平常心を保とうとする。
おどおどしたり、キョロキョロ周囲を見回すような無様なことだけはすまいと、口元に笑みを張り付けて、高原に寄り添う。
「創設者の会長は来られないんだが、本社の社長夫妻は出席されるそうだ」
高原が胸を張って誇らしげに言う言葉に、亜弥は、ただ相槌を打つことしかできなかった。
「俺もさ、いつの日か……本社のパーティに出られるようになりたいよ。そうすれば、雲の上の存在の会長や、役員たちの目に留まるかもしれないしな」
亜弥は、高原の新しい一面を見た気がした。
でも、それも頷ける。水嶋グループの入社試験を受けるぐらいだから、野心を持っていてもおかしくない。
それに、いくらトップが有能であっても部下にやる気がなかったら、ここまで会社が急成長するはずはないのだから。
高原は、ウェイターからグラスを受け取ると亜弥に渡した。
「何も気にしなくていい。楽しめばいいんだ。呑んで食べて……な」
見下ろすように微笑みかけられ、亜弥は肯定するように笑みを返した。
その瞬間!
亜弥の躯が、いきなりブルッと震えた。
(何? 今の。急に産毛が総毛立ったみたい)
亜弥は、思わす腕を摩った。気泡を見ながらシャンパンを一口呑み、リラックスしようと試みてみたが、全く効き目はなかった。
(何かが、あたしの全てを飲み込もうと……襲いかかろうと、タイミングを計っているような気がするのはどうして?)
気持ちを落ち着けるためだけに、高原に擦り寄り……視線を上げた。だが、彼は亜弥ではなく、遠くに視線を向け、ある一点ばかり見つめていた。しかも、驚愕したように目を大きく開けて。
「どうかしたの?」
そう言いながら、亜弥も同じように、高原が見つめる先へと視線を向けた。そこには、赤いドレスを身につけた、妖艶でスレンダーな美女がいた。
まるで、モデルのようなその肢体に驚きを隠せなかったが、それよりももっと驚いたことがあった。
「えっ? あれは、渡辺女史!?」
そう、いつも医務室で一緒に働いているく女医の渡辺都だった。白衣に身を包んだ普段の渡辺女史と全く違うその姿に、驚かされた。
「すごい綺麗! ねっ、高原さん」
「あっ……ああ」
亜弥は、クスッと笑った。
彼も、普通の男性だったのだ。あんな風に美しく変身されたら、釘付けになるのは当然のことだ。
「あたし、挨拶してこなくっちゃ。高原さんも行く?」
「ああ」
そっと、高原の腕に触れた。
異様に躯を強ばらせているのが、亜弥の手を通して伝わった。少し訝しく思ったが、渡辺女史の変身に戸惑っているだけだろうと納得した。
特別に気にすることもなく、亜弥は高原と共に、渡辺女史の元へ歩き出す。
「渡辺女史」
亜弥が微笑みながら声をかけると、彼女も笑みを浮かべて迎えてくれた。
「如月さん、とっても綺麗ね」
「そんな。女史に比べたら、霞んでしまいます」
渡辺女史は、隣にいる高原に視線を向けた。
「貴方も、今日は素敵よ」
「……どうも」
「ほら、ネクタイが歪んでるわ」
細くて綺麗な手が高原の胸に伸びる。咄嗟に、高原がその手を掴んだ。
「都……」
渡辺女史は、両手を上げて一歩下がった。
「はいはい、こういうことは婚約者の如月さんに任せるわ」
亜弥は、渡辺女史の口から突然漏れた〝婚約者〟という言葉に驚いた。
「えっ!?」
そんな亜弥を見て渡辺女史は微笑んだが、その微笑みは少し強ばってるように見えた。
「その指輪と、隣に高原さんがいたら、誰だってわかるわよ」
亜弥は、ショックを受けたように俯いた。
そうなのだろうか? 側にいると紹介されなくてもわかるものだろうか?
この時、亜弥は下を向いていたのと自分の気持ちで手一杯だったため、その場の雰囲気がとても張り詰めたものなっていることに、全く気付くことができなかった。
「すいません。あたしちょっと……失礼します」
亜弥は、高原の側から逃げるように会場から出ていった。
化粧室に入ると、亜弥は洗面台で立ち止まった。綺麗に磨かれた鏡に映った顔は青ざめ、まるで病人のように見える。側の椅子に座り込むと、自然と光り輝くダイヤモンドの指輪を見下ろした。
確かにプロポーズは受けた。でも周囲の人には、誰にも教えてないし、相手が誰なのかも言ってない。
ただ、薬指に指輪が鎮座していただけなのに、渡辺女史は知っていたなんて!
ということは、他の人も自然とわかっているということ?
亜弥は、思わず額に手をあてた。
もう戻れないってこと? この不安を克服するしかないってことなの?
勢いよく立ち上がると、亜弥は鏡に映る自分を睨みつけた。
「どうして、彼が断ってくるのをただジッと待つだけなの? どうして自分の不安を、彼に一言伝えないの? どうして……彼を愛せないの!?」
亜弥は、情けない自分自身に腹を立てながらも、思い切った行動に移せないのは、〝結婚〟という制度にこだわっているからとわかっていた。
だから、何度自分に問いかけても、結局は堂々巡りで、答えが全く出ないのだ。
本当に、最低な女ね。
亜弥は、全てを忘れようとでもするように小さく頭を振ると、化粧室を後にした。
化粧室を出ると、周囲を輝かせている、きらびやかなシャンデリアが目に入った。実生活で何かあっても、このインテリアを見ただけで、誰でも魔法をかけられたように幸せな気分に浸れるだろう。
だが、幸せにはほど遠い表情を、亜弥は浮かべていた。ショックから立ち直れず、頬にはまだ血の気が戻っていない。
どんどん顔が強ばるのがわかったが、亜弥はどうすることもできなかった。
そろそろ、高原が心配しているかもしれない……と思った亜弥は、俯くように下を見ながら、会場へと足を進めた。
「やあ」
静寂に包まれたフロアに、男性の声が響き渡った。低くて心を揺さぶる……忘れもしない声音に、亜弥の躯はビクッと震えた。
まさか……そんなはずない。ずっと聞きたいと思っていた声ではない。これは幻聴よ!
だが意思とは裏腹に、視線がその声の主を求めてゆっくり動く。誰もいないフロアだと思っていたが、いくつかある柱の一つに、男性が腕を組んで凭れていた。
まるで魔法をかけられたように、亜弥の意識は、全てその男性の視線に捕われてしまった。
「俺を、覚えている? ……と訊くまでもないかな?」
亜弥の、喉の筋肉がピクピクと脈打つ。
彼の視線が亜弥の躯を舐めるように動くと、躯の奥底から熱いものが込み上げてきた。まるで触れられたかのような錯覚を覚える。
亜弥の口から、喘ぎともとれる声が、小さく漏れた。
その声を聞き逃さなかった彼は、素早く視線を上げて、柱から身を起こすと、ゆっくり亜弥の側に近寄った。
自然と亜弥の顎も上を向いていき、目も大きく見開いていく。
どうして、どうして貴方がココにいるの?
亜弥の心臓は、激しく高鳴っていた。
なぜなら……たった一度会っただけのあの時の男性、〝康貴〟が、目の前に立っていたからだった。
◆◇◆
「もう一度……君に会いたいと思っていたんだ」
その言葉に驚いて、鋭く息を吸い込んだと同時に、亜弥の唇が軽く開いた。康貴の視線が、すぐその唇へ落ちる。
亜弥は、この激しく揺さぶられる情熱から逃れるように瞼を閉じたが、それは却ってふらつく結果をもたらしただけだった。
「危ない!」
ハッと気付いた時には、亜弥は康貴の腕に支えられていた。たったそれだけなのに、躯が熱を帯びたように興奮したのがわかった。ドレスの下にある乳房は痛いほど張り詰め、乳首がキュッと硬くなって、ブラに擦れる。
「もう一度訊くよ? 俺のこと、覚えているよね?」
「……はい」
喘いだとも掠れたとも取れる声が、亜弥の口から微かに漏れた。それは、亜弥が激情にのみ込まれていることを示していた。
どうして? どうしてこの人がココにいるの? どうして拒否もせず、彼の腕に抱かれたままになってるの? 彼には、妻子がいるというのに。
そこで初めて、彼が既に売約済みの人だということを思い出した。
離れなければ、彼から早く離れなければ!
「離して、下さい」
亜弥は身を捩って彼の胸元に手を置き、少しでも離れようと努力した。しかし、スーツ越しに逞しい躯に触れ、温もりを感じた瞬間、躯が異様に火照り身動きできなくなった。
最低……最低だ! 一人で欲望に身悶えするなんて。しかも、あの美しい女性の旦那さまに。
康貴は、ゆっくり手を離した。亜弥の言葉どおりにしただけなのに、何故か泣きたくなるほどの焦燥感に駆られてしまった。
亜弥が縋るように視線を上げると、康貴は何かを探るように、こちらを見つめていた。
「あの日以来、君を忘れたことは一度としてなかった」
その言葉に、亜弥は「あたしも!」と思わず言いそうになった。
だが、そう言ったところでどうにかなるわけでもない。
「……お子さんから目を離してはいけないわ。あのぐらいの坊やって、何にでも興味を持っているから、ご両親がしっかり見ていてあげないと」
亜弥の言葉を受けて、康貴が片眉を大きく動かした。
「そうだな、しっかり両親が見ているべきだ。だが、母親しかいなかったら?」
何? 何が言いたいの?
亜弥は、彼の視線から逃れるように、パーティ会場の方向へ視線を向けた。自分には行くべきところがあると、暗に告げたのだ。
だが、その意味が上手く伝わらなかったのか、彼はその場を動こうとはしなかった。
仮に、亜弥が何を匂わせたのか気付いていたとしても、彼が見逃してくれたかどうかはわからない。
彼の力強い目が、全て話し終わるまで絶対に離さない……そう告げていたから。
逃げられないと悟った亜弥は、康貴が問いかけてきたことに対して、やっと口を開いた。
「貴方に、それは当てはまらないと思います」
「何故?」
貴方が、どうして問いかけてくるの?
亜弥は、視線を戻して康貴を見上げた。
「康汰くんには、素敵なママと……パパがいるから」
もうこんな話したくない。
張り裂けそうな胸の痛みを抱えて、亜弥は彼から離れ……それで終わりにしようとした。だが、一歩踏み出しただけで、彼に腕を取られてしまった。
「康汰にはママしかいないよ」
「……そんなこと、どうでもいいです。あたし、パーティに戻らないと」
「どうでもいい、か。だが、俺にしてみれば、この件ははっきりさせておきたい」
今まで愛想の良かった声に、急に冷たい響きが加わったため、亜弥はびっくりして振り返った。
「俺に子供はいない。そして妻も」
「でも! 名前が……」
そこまで言うと、康貴がフッと表情を和ませた。
「気付いていたか。だが、それで親子というわけではないよ? 君は、せっかちなんだね。俺は、物事をよく見極めてから行動を起こす。だから、勝手に解釈はしない。きちんと、相手に問いただすようにしているんだ」
二の腕を掴んでいた手が緩められると、彼は亜弥の素肌を指で軽く撫でた。
そして、そのまま触れるか触れないかという状態のまま、下へ下へと愛撫をし……亜弥の手首を握ると、二人の視界に入るように、素早く手を持ち上げた。
「これは、どういう意味だい? ……つまり世間一般でいう証なのか?」
亜弥の目に、シャンデリアの光できらめくダイヤモンドの指輪が飛び込む。しばらく指輪に見入っていたが、視線を康貴へと向けた。彼の目には、怒りが燻っているような気がした。
バカね。彼がどうして怒ってるって思うの?
亜弥とは過去にたった一度だけ会い、そして今日再会しただけだというのに。
「どうなんだ?」
「……はい」
一瞬、握られていた手首に、強い力が加わった。締め付けられるその痛みに、亜弥は顔を顰めたが、康貴はそれに気付くことなく手を乱暴に離した。
「俺と初めて会った時、君はそれをしてなかったね? その時なら、まだ君は誰のものでもなかったのか?」
「……いいえ」
何故、彼にそんなことを問いただされなければならないのか……と疑うこともなく、亜弥は、痛んだ手首を摩りながら従順な態度で答えていた。
「くそっ! 初めから知っていたら、こんな風には……」
康貴の吐き捨てるような口ぶりに、亜弥は驚いた。
「康貴、さん?」
初めて彼の名を口にした自分に亜弥は驚いたが、同時に康貴もビックリしたようだった。
しばらくジッと亜弥を見つめていた康貴は、ゆっくり口を開いた。
「君の名前は? 君は、俺の名を既に知っている。それなら、俺も君の名を知っていてもいいはずだ」
一度会っただけなのに、何故康貴の名を覚えていたのかということを、彼に問われているような気がして、亜弥は恥ずかしさから頬を染めた。
出会ってから三ヶ月後にはプロポーズされ……それから四ヶ月も経とうとしているのに、どうして二人はキスと愛撫までなんだろう?
このことが、亜弥を苦しめている。
もし、求めてくれたら……躯ぐらい彼のモノになれば、少しでも楽になれるというのに。高原の欲望が薄いのだろうか?
亜弥は、心の中で頭を振った。
違う……亜弥に触れる時、高原は確かに欲望を秘めている。
秘めているのに、彼はその荒々しい欲望を無理やり押さえ込んで、途中で止めてしまう。
どうして? どうしてなの?
本当は、訊きたい。訊きたいが、上手く訊けない自分がいる。もし、高原を心から愛していたのなら、問い詰めることもできるのに。
もしかして……彼を問い詰めないのは、逃げ場を作ってるからだろうか? 彼が、プロポーズを撤回するのを、両手を広げて待っているからだろうか?
亜弥は、隣にいる高原をそっと見上げた。
「うん? どうした、亜弥?」
見下ろしてくる彼の瞳は、とても優しい。
亜弥は、高原を心配させないように、口角を上げて笑みを浮かべた。
「ううん、何でもない」
そう言って、視線を正面に戻す。
高原のことだけを考えなければいけないのに、こうして孤独を感じると、いつも忍び寄ってくる男の影があった。その影を振り払うように、思わずギュッと瞼を閉じた。
やだ、やめて! 勝手に現れないで。
たった一度だけしか会ったことのない、どこの誰だかわからない……康貴という人を、求めてなんかいない。
亜弥は、康貴の存在を、ずっと否定し続けていた。しかし、あれから既に二ヶ月近く経つというのに、彼の存在は消えようとはせず、逆に強くなっていく。その理由はもうわかっているのに、亜弥は強く自分に言い聞かせて、ずっと否定し続けていた。
イタリアンレストランで食事をしている最中、高原が口を開いた。
「あのさ、今月の末に、会社の創設五十周年パーティがあるんだ」
パーティ?
高原が何を言いたいのかわからず、亜弥はただ素直に相槌を打った。
「もちろん、本社のパーティとは別に支社でも開かれるんだが……良かったら俺のパートナーとして、一緒に出てくれないか?」
思わず口の中に入っていたサラダを、ゴクッと飲み込んでしまった。素早くミネラルウォーターを飲み、喉の痛みを和らげる。
「……っどうして、あたしを?」
高原の同僚たちに、正式に紹介されるかもしれないと思うと、急に胸が痛くなった。
もし、紹介されてしまえば……もう後戻りできなくなる!
「亜弥と俺は、婚約してるも同然だろう? 亜弥を誘うのが筋だと思うけど?」
懇願するように、ひたむきな表情で亜弥を見つめてくる。その視線を受け止めなければいけないのに、思わず下を向いてしまう。曇っていく表情を見られたくなかったのだ。
「だけど……あたしは、」
「いいんだよ、そのままの亜弥でいてくれれば」
高原の大きな手が伸びてきたかと思ったら、亜弥の細い指を愛撫するように、指を絡ませてきた。
「俺だって、そろそろ亜弥を紹介したい」
そう言われて嬉しいはずなのに、激しい痛みが胸を突いてくる。
「……うん」
うん? 本当にそれを望んでいるの? これでいいと思ってるの?
亜弥は、もう考えることに疲れていた。
疲れていたから……このまま流れに身を任すほかないのだと、無理やり自分に言い聞かせるようにして、納得させてしまったのだった。
レストランから出た後、亜弥と高原は隣に並んで、遊歩道を歩いていた。
恋人同士なのに、特に手を繋ぐでもなく、腕も組むわけでもなく、二人は何も話さずに歩き続けた。
だが、それは突然起こった。
「亜弥……」
亜弥の名を囁いたかと思ったら、高原は亜弥の手首を掴み、暗い路地へと引っ張ったのだ。
何が起こったのかわからないまま、いつの間にか、亜弥は彼の腕の中にすっぽり包まれていた。高原の息が頬を撫でていくと同時に、アルコールの臭いが亜弥の鼻腔を刺激する。
いつも冷静な彼が、こんな風に欲望を表したのは、初めてのことだった。お酒を呑んだことで、少し心地良くなっているのかもしれない。
「高原、さん。ダメ、こんな場所じゃ」
周囲に誰もいないか、亜弥は視線をキョロキョロ動かした。その間にも、高原の手は亜弥のキャミソールの裾を捲り上げ、中へ滑り込ませてきた。そのまま下から掬い上げるように、柔らかな乳房をブラの上から包み込んでくる。
「高原さんっ! ここじゃイヤ……やめ、」
抗おうと手を動かすが、それを抑えるように、高原が激しくキスをしてきた。
「っんん」
時刻は間もなく二十二時になろうとしているのに、外はまだ三十度を超す熱気に包まれている。そんな中で求められたため、亜弥の躯は湿気と熱気で、じんわりと汗ばんできた。
「俺たちは、俺たちは……」
婚約してる?
その言葉で、亜弥の硬直した躯が一瞬だけ緩んだ。
婚約しているから……だから、彼が望むことを、どこにいても、受け入れなければならないのかな?
ゆっくりとブラのカップを押し下げると、高原はその柔らかい乳房を優しく揉み始めた。高原の愛撫に、亜弥は吐息を漏らした。
そして「っぁん」と、感じたフリの声を漏らす。
いくら愛撫を受けても、躯の芯が疼くような兆しは感じられず、彼が欲しい……という気持ちは湧き起こらなかった。
だが、それを彼に知られたくはなかった。亜弥は、気付かれないよう……必死に微かな喘ぎ声を発して、感じているフリをし続けた。
「亜弥……俺は、」
俺は、何?
亜弥は、自然と顎を突き出すようにして、白い喉元を彼の前に晒した。すると、高原の唇はそこから鎖骨、鎖骨から衣服を飛び越して乳房へと移動した。いつの間にか、キャミソールが胸の上まで捲れていたのだ。
高原が、まだ柔らかい乳首を舌で愛撫した時、亜弥の口から本当の喘ぎが漏れた。
(考えてはダメ……あたしに愛撫の手を伸ばしてくるのは、婚約者の高原さんよ。決して、一度見ただけのあの人じゃない!)
しかし、愛撫を受ける亜弥の脳裏に浮かぶのは……高原ではなかった。そのことがさらに亜弥を興奮させ、身悶えさせる。
「やぁ」
瞼をギュッと閉じ、その快感に身を任せそうになった時、高原の愛撫が止まった。
「すまない、亜弥」
息を荒くしながら、高原は亜弥のキャミソールを無造作に下へ引っ張った。いつの間にか硬く尖っていた乳首が布に擦れ、薄い生地を押し上げている。
亜弥はそのまま身を引くと、素早く衣服を整えた。
まただ……また同じことの繰り返し。彼に触れられて感じているフリをし、その後、想像しながら本気で感じ始めた亜弥を……彼は拒否するのだ。
直感でわかってるの? 婚約者ではない男性を想像しながら、感じてしまったってことを。
申し訳なく思いながら、亜弥は恐る恐る視線を高原に向けた。しかし、高原の方が自己嫌悪をしたように顔を背けていた。
「高原さん?」
「すまない、呑みすぎたようだ」
それはどういう意味? お酒の力を借りないと、亜弥には触れられないということだろうか?
◆◇◆
八月最後の土曜日。
亜弥は、この日のために新しく買ったドレスを着ていた。高原の恥にならないよう、清楚さを感じさせるクリーム色のドレス。
ホルダートップで背中は大きく開いてるが、胸元のドレープが上品さを窺わせる。また、躯に沿うような生地は、その下に隠された肢体を魅惑的にも見せた。裾は斜めにカットされ、引き締まった膝頭がチラチラと見え隠れする。
そして左の薬指には、婚約指輪が光ってる。
素敵なドレスを着て、素晴らしい婚約者と一緒にパーティに出席する。何も考えずに堂々としていればいいのに、亜弥は不安でいっぱいだった。
高原のプロポーズを受けて、承諾したのは亜弥自身。なのに、この不安はいつまでたっても解消されない。
もちろん高原から求められない、求められても寸止め……ということが原因と言ってもいいが、もう一つ理由があった。脳裏に潜んでいるあの男性、康貴という存在。
「バカね。たった一度会っただけの人なのに、まだ忘れられないなんて」
――コンコンッ。
「はい」
「姉ちゃん? 高原さんが来たで」
弟の篤史が、ドアを開けて部屋に入ってくるとそう言った。
「ありがとう」
亜弥は、ショールをふんわりと肩にかけてから、小型のクラッチバッグを手に持った。
「姉ちゃん」
「うん?」
背の高い弟を、亜弥は見上げた。
「……幸せ? 高原さんと一緒におれて幸せなん?」
探るような視線に、亜弥は思わず顔を歪めた。
「何言って、」
「だって、姉ちゃんの顔、全然幸せそうに見えへんねん。まるであの時と一緒や」
篤史が何を指しているのか、亜弥にはすぐにわかった。亜弥が、職と恋人を両方失った時のことだ。
「大丈夫、きっとマリッジブルーよ」
亜弥は、篤史の鋭い眼から逃れるように側を通り抜けると、玄関へ向かった。
「何嘘ばっかり言うてんねん。マリッジブルー言うても、式の日取りすら決まってないやんか」
吐き捨てるような篤史の言葉は、亜弥の耳には届かなかった。
大阪駅周辺に立つ一流ホテルの玄関口に、タクシーが止まった。
躯を強ばらせた亜弥の肩を、高原は優しく抱く。
「そんなに心配しなくても大丈夫。亜弥の知ってる人たちも大勢来てるんだから。もし、立派そうに立っている彼らに怖じ気づいたりしたら、医務室で唸っていたことを思い出せばいい」
亜弥の心配事とは全く関係なかったが、こうして気遣ってくれるのも、高原の優しさだった。
「ありがとう。大丈夫よ」
「よし。それじゃ、出陣だ!」
おどけて言う高原に、亜弥は無理やり笑みを作った。そして、覚悟を決めたようにお腹に力を入れると、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。
まるで、映画で見るような豪華なパーティに、亜弥は一瞬で緊張を覚えた。クリーム色と金色でまとめられた会場内は、華やかなムードを醸し出している。
素敵なドレスを着こなす女性たちに、髪を綺麗に撫でつけて佇む男性たち。皆、堂々と談笑していた。
場違いな所へ迷いこんでしまったと、当然の如く亜弥は思った。だが、周囲の人からそう思われないように、何とか平常心を保とうとする。
おどおどしたり、キョロキョロ周囲を見回すような無様なことだけはすまいと、口元に笑みを張り付けて、高原に寄り添う。
「創設者の会長は来られないんだが、本社の社長夫妻は出席されるそうだ」
高原が胸を張って誇らしげに言う言葉に、亜弥は、ただ相槌を打つことしかできなかった。
「俺もさ、いつの日か……本社のパーティに出られるようになりたいよ。そうすれば、雲の上の存在の会長や、役員たちの目に留まるかもしれないしな」
亜弥は、高原の新しい一面を見た気がした。
でも、それも頷ける。水嶋グループの入社試験を受けるぐらいだから、野心を持っていてもおかしくない。
それに、いくらトップが有能であっても部下にやる気がなかったら、ここまで会社が急成長するはずはないのだから。
高原は、ウェイターからグラスを受け取ると亜弥に渡した。
「何も気にしなくていい。楽しめばいいんだ。呑んで食べて……な」
見下ろすように微笑みかけられ、亜弥は肯定するように笑みを返した。
その瞬間!
亜弥の躯が、いきなりブルッと震えた。
(何? 今の。急に産毛が総毛立ったみたい)
亜弥は、思わす腕を摩った。気泡を見ながらシャンパンを一口呑み、リラックスしようと試みてみたが、全く効き目はなかった。
(何かが、あたしの全てを飲み込もうと……襲いかかろうと、タイミングを計っているような気がするのはどうして?)
気持ちを落ち着けるためだけに、高原に擦り寄り……視線を上げた。だが、彼は亜弥ではなく、遠くに視線を向け、ある一点ばかり見つめていた。しかも、驚愕したように目を大きく開けて。
「どうかしたの?」
そう言いながら、亜弥も同じように、高原が見つめる先へと視線を向けた。そこには、赤いドレスを身につけた、妖艶でスレンダーな美女がいた。
まるで、モデルのようなその肢体に驚きを隠せなかったが、それよりももっと驚いたことがあった。
「えっ? あれは、渡辺女史!?」
そう、いつも医務室で一緒に働いているく女医の渡辺都だった。白衣に身を包んだ普段の渡辺女史と全く違うその姿に、驚かされた。
「すごい綺麗! ねっ、高原さん」
「あっ……ああ」
亜弥は、クスッと笑った。
彼も、普通の男性だったのだ。あんな風に美しく変身されたら、釘付けになるのは当然のことだ。
「あたし、挨拶してこなくっちゃ。高原さんも行く?」
「ああ」
そっと、高原の腕に触れた。
異様に躯を強ばらせているのが、亜弥の手を通して伝わった。少し訝しく思ったが、渡辺女史の変身に戸惑っているだけだろうと納得した。
特別に気にすることもなく、亜弥は高原と共に、渡辺女史の元へ歩き出す。
「渡辺女史」
亜弥が微笑みながら声をかけると、彼女も笑みを浮かべて迎えてくれた。
「如月さん、とっても綺麗ね」
「そんな。女史に比べたら、霞んでしまいます」
渡辺女史は、隣にいる高原に視線を向けた。
「貴方も、今日は素敵よ」
「……どうも」
「ほら、ネクタイが歪んでるわ」
細くて綺麗な手が高原の胸に伸びる。咄嗟に、高原がその手を掴んだ。
「都……」
渡辺女史は、両手を上げて一歩下がった。
「はいはい、こういうことは婚約者の如月さんに任せるわ」
亜弥は、渡辺女史の口から突然漏れた〝婚約者〟という言葉に驚いた。
「えっ!?」
そんな亜弥を見て渡辺女史は微笑んだが、その微笑みは少し強ばってるように見えた。
「その指輪と、隣に高原さんがいたら、誰だってわかるわよ」
亜弥は、ショックを受けたように俯いた。
そうなのだろうか? 側にいると紹介されなくてもわかるものだろうか?
この時、亜弥は下を向いていたのと自分の気持ちで手一杯だったため、その場の雰囲気がとても張り詰めたものなっていることに、全く気付くことができなかった。
「すいません。あたしちょっと……失礼します」
亜弥は、高原の側から逃げるように会場から出ていった。
化粧室に入ると、亜弥は洗面台で立ち止まった。綺麗に磨かれた鏡に映った顔は青ざめ、まるで病人のように見える。側の椅子に座り込むと、自然と光り輝くダイヤモンドの指輪を見下ろした。
確かにプロポーズは受けた。でも周囲の人には、誰にも教えてないし、相手が誰なのかも言ってない。
ただ、薬指に指輪が鎮座していただけなのに、渡辺女史は知っていたなんて!
ということは、他の人も自然とわかっているということ?
亜弥は、思わず額に手をあてた。
もう戻れないってこと? この不安を克服するしかないってことなの?
勢いよく立ち上がると、亜弥は鏡に映る自分を睨みつけた。
「どうして、彼が断ってくるのをただジッと待つだけなの? どうして自分の不安を、彼に一言伝えないの? どうして……彼を愛せないの!?」
亜弥は、情けない自分自身に腹を立てながらも、思い切った行動に移せないのは、〝結婚〟という制度にこだわっているからとわかっていた。
だから、何度自分に問いかけても、結局は堂々巡りで、答えが全く出ないのだ。
本当に、最低な女ね。
亜弥は、全てを忘れようとでもするように小さく頭を振ると、化粧室を後にした。
化粧室を出ると、周囲を輝かせている、きらびやかなシャンデリアが目に入った。実生活で何かあっても、このインテリアを見ただけで、誰でも魔法をかけられたように幸せな気分に浸れるだろう。
だが、幸せにはほど遠い表情を、亜弥は浮かべていた。ショックから立ち直れず、頬にはまだ血の気が戻っていない。
どんどん顔が強ばるのがわかったが、亜弥はどうすることもできなかった。
そろそろ、高原が心配しているかもしれない……と思った亜弥は、俯くように下を見ながら、会場へと足を進めた。
「やあ」
静寂に包まれたフロアに、男性の声が響き渡った。低くて心を揺さぶる……忘れもしない声音に、亜弥の躯はビクッと震えた。
まさか……そんなはずない。ずっと聞きたいと思っていた声ではない。これは幻聴よ!
だが意思とは裏腹に、視線がその声の主を求めてゆっくり動く。誰もいないフロアだと思っていたが、いくつかある柱の一つに、男性が腕を組んで凭れていた。
まるで魔法をかけられたように、亜弥の意識は、全てその男性の視線に捕われてしまった。
「俺を、覚えている? ……と訊くまでもないかな?」
亜弥の、喉の筋肉がピクピクと脈打つ。
彼の視線が亜弥の躯を舐めるように動くと、躯の奥底から熱いものが込み上げてきた。まるで触れられたかのような錯覚を覚える。
亜弥の口から、喘ぎともとれる声が、小さく漏れた。
その声を聞き逃さなかった彼は、素早く視線を上げて、柱から身を起こすと、ゆっくり亜弥の側に近寄った。
自然と亜弥の顎も上を向いていき、目も大きく見開いていく。
どうして、どうして貴方がココにいるの?
亜弥の心臓は、激しく高鳴っていた。
なぜなら……たった一度会っただけのあの時の男性、〝康貴〟が、目の前に立っていたからだった。
◆◇◆
「もう一度……君に会いたいと思っていたんだ」
その言葉に驚いて、鋭く息を吸い込んだと同時に、亜弥の唇が軽く開いた。康貴の視線が、すぐその唇へ落ちる。
亜弥は、この激しく揺さぶられる情熱から逃れるように瞼を閉じたが、それは却ってふらつく結果をもたらしただけだった。
「危ない!」
ハッと気付いた時には、亜弥は康貴の腕に支えられていた。たったそれだけなのに、躯が熱を帯びたように興奮したのがわかった。ドレスの下にある乳房は痛いほど張り詰め、乳首がキュッと硬くなって、ブラに擦れる。
「もう一度訊くよ? 俺のこと、覚えているよね?」
「……はい」
喘いだとも掠れたとも取れる声が、亜弥の口から微かに漏れた。それは、亜弥が激情にのみ込まれていることを示していた。
どうして? どうしてこの人がココにいるの? どうして拒否もせず、彼の腕に抱かれたままになってるの? 彼には、妻子がいるというのに。
そこで初めて、彼が既に売約済みの人だということを思い出した。
離れなければ、彼から早く離れなければ!
「離して、下さい」
亜弥は身を捩って彼の胸元に手を置き、少しでも離れようと努力した。しかし、スーツ越しに逞しい躯に触れ、温もりを感じた瞬間、躯が異様に火照り身動きできなくなった。
最低……最低だ! 一人で欲望に身悶えするなんて。しかも、あの美しい女性の旦那さまに。
康貴は、ゆっくり手を離した。亜弥の言葉どおりにしただけなのに、何故か泣きたくなるほどの焦燥感に駆られてしまった。
亜弥が縋るように視線を上げると、康貴は何かを探るように、こちらを見つめていた。
「あの日以来、君を忘れたことは一度としてなかった」
その言葉に、亜弥は「あたしも!」と思わず言いそうになった。
だが、そう言ったところでどうにかなるわけでもない。
「……お子さんから目を離してはいけないわ。あのぐらいの坊やって、何にでも興味を持っているから、ご両親がしっかり見ていてあげないと」
亜弥の言葉を受けて、康貴が片眉を大きく動かした。
「そうだな、しっかり両親が見ているべきだ。だが、母親しかいなかったら?」
何? 何が言いたいの?
亜弥は、彼の視線から逃れるように、パーティ会場の方向へ視線を向けた。自分には行くべきところがあると、暗に告げたのだ。
だが、その意味が上手く伝わらなかったのか、彼はその場を動こうとはしなかった。
仮に、亜弥が何を匂わせたのか気付いていたとしても、彼が見逃してくれたかどうかはわからない。
彼の力強い目が、全て話し終わるまで絶対に離さない……そう告げていたから。
逃げられないと悟った亜弥は、康貴が問いかけてきたことに対して、やっと口を開いた。
「貴方に、それは当てはまらないと思います」
「何故?」
貴方が、どうして問いかけてくるの?
亜弥は、視線を戻して康貴を見上げた。
「康汰くんには、素敵なママと……パパがいるから」
もうこんな話したくない。
張り裂けそうな胸の痛みを抱えて、亜弥は彼から離れ……それで終わりにしようとした。だが、一歩踏み出しただけで、彼に腕を取られてしまった。
「康汰にはママしかいないよ」
「……そんなこと、どうでもいいです。あたし、パーティに戻らないと」
「どうでもいい、か。だが、俺にしてみれば、この件ははっきりさせておきたい」
今まで愛想の良かった声に、急に冷たい響きが加わったため、亜弥はびっくりして振り返った。
「俺に子供はいない。そして妻も」
「でも! 名前が……」
そこまで言うと、康貴がフッと表情を和ませた。
「気付いていたか。だが、それで親子というわけではないよ? 君は、せっかちなんだね。俺は、物事をよく見極めてから行動を起こす。だから、勝手に解釈はしない。きちんと、相手に問いただすようにしているんだ」
二の腕を掴んでいた手が緩められると、彼は亜弥の素肌を指で軽く撫でた。
そして、そのまま触れるか触れないかという状態のまま、下へ下へと愛撫をし……亜弥の手首を握ると、二人の視界に入るように、素早く手を持ち上げた。
「これは、どういう意味だい? ……つまり世間一般でいう証なのか?」
亜弥の目に、シャンデリアの光できらめくダイヤモンドの指輪が飛び込む。しばらく指輪に見入っていたが、視線を康貴へと向けた。彼の目には、怒りが燻っているような気がした。
バカね。彼がどうして怒ってるって思うの?
亜弥とは過去にたった一度だけ会い、そして今日再会しただけだというのに。
「どうなんだ?」
「……はい」
一瞬、握られていた手首に、強い力が加わった。締め付けられるその痛みに、亜弥は顔を顰めたが、康貴はそれに気付くことなく手を乱暴に離した。
「俺と初めて会った時、君はそれをしてなかったね? その時なら、まだ君は誰のものでもなかったのか?」
「……いいえ」
何故、彼にそんなことを問いただされなければならないのか……と疑うこともなく、亜弥は、痛んだ手首を摩りながら従順な態度で答えていた。
「くそっ! 初めから知っていたら、こんな風には……」
康貴の吐き捨てるような口ぶりに、亜弥は驚いた。
「康貴、さん?」
初めて彼の名を口にした自分に亜弥は驚いたが、同時に康貴もビックリしたようだった。
しばらくジッと亜弥を見つめていた康貴は、ゆっくり口を開いた。
「君の名前は? 君は、俺の名を既に知っている。それなら、俺も君の名を知っていてもいいはずだ」
一度会っただけなのに、何故康貴の名を覚えていたのかということを、彼に問われているような気がして、亜弥は恥ずかしさから頬を染めた。
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