堕天使のお気に入り

綾瀬麻結

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1巻

1-3

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「崇矢さん……、どこにいるの?」

 佳織の声が、いきなり耳に届いた。凪紗は恐怖に見開いた瞳で崇矢を見上げるものの、彼は狼狽ろうばいすることもなく静かにこちらを見下ろしている。
 どうして忘れていたのだろう? 彼は佳織の想い人だというのに。

(わたし……彼とキスをしてしまった。しかも、そのまま溺れたいと思うほどに)

 自分の感情に戸惑いながら、慌てて崇矢の腕を掴む。

「ほらっ、……佳織さんが呼んでる」

 早くこの部屋から追い出そうと、乱暴に彼をドアの方へ引っ張った。あと数歩でドアの取っ手に触れそうなところまで来たのに、彼はいきなり足を止めて、チェストの上に飾ってあるいくつものクリスタルの置物の中から、リスのそれをそっと手に取る。
 蛍光灯の明かりに反射したそれは、彼の手の上でキラキラと輝いていた。

「これ、まるで凪紗みたいに可愛い。いいな、欲しいな……」
「あげる!」

 それをあげるだけですぐに部屋から出ていってくれるなら、いくらでも差し出す。

「うわっ、マジ!? サンキュー。俺、大事にするから」

 ドアの取っ手に触れる崇矢を見て、凪紗がホッと安堵した直後、彼がいきなり振り返った。

「じゃ、また会おうな」

 まだ何か話をしたいとでも言うのだろうか。

「いいえ。もう二度と会いたくありません」

 凪紗は咄嗟とっさにそう口にしていた。
 佳織の想い人とは、もう会いたくない。彼に触れられ、見つめられ、そして誘うような言葉を囁かれるだけで、自分がどうにかなってしまうことがわかったからだ。
 これ以上変な感情が湧く前に、きっぱり関係を絶つのがいい。
 だからこそ、今ここではっきりとその気はないと伝えておきたかった。

「……酷いな。もし、俺たちがもう一度出会うようなことがあったら?」

 崇矢の手が取っ手から離れるのを見て、凪紗は慌てて彼を見上げた。

(嘘! お願い。早く佳織さんのもとへ行って……)

 目で訴えるけど崇矢はそれを受け流し、挑戦的な態度でこちらへ一歩足を踏み出してきた。
 もし傍に寄られたその瞬間、佳織がこの部屋へ入ってきたら?
 佳織の癇癪かんしゃくと憎々しげな瞳が、凪紗に向けられることになる。それだけは絶対に避けたい。
 そうこうしている間に、崇矢は凪紗の方へ歩いてくる。
 早く、早く彼を止めなければ!

「……その時は、崇矢さんの言うことを何でも聞いてあげる!」

 凪紗の悲鳴にも似た声が、静かな部屋に響き渡った。
 崇矢と視線が絡み合い、数十秒、何も言わずに見つめ合う。
 不快な汗がこめかみをつたい、この張り詰めた空気に凪紗が耐えられなくなった時、彼は何か面白いことを思いついたようにニヤッと笑った。その含みのある笑い方に嫌な予感を覚えて、凪紗は思わず彼に人さし指を突きつけた。

「言っておきますけど、佳織さんに呼ばれてこの家で再会……というのは、今の約束には当てはまらないから!」

 それだけは、はっきり釘を刺しておきたかった。どうせ、この先も佳織に誘われて、この家へ来るに決まっている。その時は大人しく彼と接するつもりだが、それをこの約束に含めたくはない。
 この条件さえ守ってもらえれば、きっと彼の言うことを聞く機会はないだろう。ただそれを彼が了承してくれるか、それだけが問題だった。
 拒まれるのを覚悟しつつうかがうように崇矢を見つめると、なんと彼はほがらかな表情を浮かべて頷いた。

「オーケー。その約束、忘れるなよ……凪紗」

 崇矢はまるでベッドの上で愛を交わしている最中のように、凪紗の名前を甘く囁いた。

「もし、約束を破ったら……そうだな、ペナルティを与えるからそのつもりで」

 ふたりは別の場所でもう一度会うと確信しているかのような彼の言葉に、凪紗は戸惑いを覚えた。
 そんな凪紗に流し目を送った崇矢は、ポケットから何か小さな紙を取り出し、それをドアの傍にあるチェストの上に置く。

「そうそう。これ、リビングに忘れていたぞ」

 一言そう告げてから、崇矢はやっとドアを開けて出ていった。
 足音がどんどん遠ざかり、崇矢と佳織の声が耳に届いて初めて、凪紗は安堵の息をつく。

「……良かった、佳織さんが部屋に飛び込んでくる前に彼を追い出すことができて」

 もし、あの凪紗の悲鳴に近い声が佳織の耳に届いていたら……と思った途端、崇矢に欲望を呼び起こされた時とはまた違う震えがからだに走った。
 そのあとに起こる佳織の感情の爆発が容易に想像できたからだ。
 凪紗は、足をふらつかせながらゆっくりとベッドに近づいて腰を下ろした。
 独りきりになれてホッと肩から力を抜くものの、何故か部屋から出ていく前に見せた崇矢の勝ち誇ったような表情が、頭の中でグルグルと回る。

「この家以外では、もう二度と会うつもりはないのに、どうしてあんなに自信満々に断言できるの?」

 勝つのは凪紗。崇矢と約束を交わしたが、彼の言うことを何でも聞いてあげる日が来ることは、絶対にない。
 そう断言できるくらいきちんとした条件を出し、つそれを受け入れてもらえた。にもかかわらず、あの崇矢の表情をどうしても頭の中から拭い去ることができない。

「わたし……大丈夫、よね?」

 不安そうに響く声に自分でもゾッとして、凪紗は激しく頭を振った。
 その時、チェストの上に置かれた白いものが目の端に映る。崇矢が出ていく前にそこへ置いたものだった。

「いったい、何? わたしが何を忘れたって言うの?」

 ベッドから立ち上がり、崇矢が置いた白い紙を手に取る。

「……これは、崇矢さんの名刺? ああ、そういえば……自己紹介したんだった。わざわざ持ってこなくても、名刺なんていらなかった……のに」

 そこまで口に出してからあることに気付き、凪紗の顔から一瞬にして血の気が引いた。
 足がふらついて倒れそうになり、慌ててチェストに手を置いて体勢を整えるが、立っていられず力なくベッドに腰を下ろす。

「そういう……こと、だったのね。だから崇矢さんは自信満々に、わたしの条件を呑んだんだわ」

 何故、崇矢は凪紗が忘れた名刺をわざわざ置いていったのか……、理由はたったひとつしかない。

〝まだまだ甘いな。これの存在を忘れていただろ。さあ、俺のために……どんなことをしてくれるのか、楽しみにしているよ〟

 そんな崇矢の言葉が、幻聴となって聞こえてくる。
 凪紗は、やりきれない思いをかかえながらベッドに仰向けに倒れた。

(バカ……、わたしのバカ! 名刺交換をしたせいで、彼はわたしの勤務先を知っているのよ。もし彼がそこに来たら……いったいどうするのよ!)

 大丈夫、彼がそこまでするはずがない――必死に自分に言い聞かせるが、頭のどこかでそんなに上手くいくわけがないとわかっていた。
 今日初めて会ったばかりなのに、崇矢は何故か、凪紗を困らせるのが楽しくて仕方がないように見えたからだ。そんな彼が、凪紗を放っておくはずがない。
 凪紗は腕で目を覆い、彼からどうやって逃げればいいのだろうと考える。
 でも口から出るのは、力ないため息だけだった。



   2


 太陽のまぶしい光が、青々とした街路樹の葉から射し込んでくる。
 通勤途中の凪紗は思わず手を目の上にかざして立ち止まり、商業施設へ消えていく買い物客や、ビジネスマンといった行き交う人の流れを眺めた。
 あの日から、もう一ヶ月以上経った。あの時凪紗の前に疾風しっぷうの如く現れた崇矢とは、一度も会ってはいない。佳織のマンションを訪ねてくることもなければ、凪紗の仕事場にいきなり顔を出すようなこともしなかった。
 正直、あんな風に凪紗をおどかしたのだから、遅くても桜の花が散って葉桜となる四月中旬には、顔を突き合わせることになるのではとビクビクしていた。
 でも、彼は現れなかった。
 突然待ち伏せされて、「ほら、会ったぞ」と声をかけられる可能性も考え、不安を抱えながらマンションと仕事場を往復していたけど、そういうことも起こらない。
 もしかしたら、日を置けば置くほど凪紗が不安をいだくことがわかっているからあえて今は身を潜め、ゴールデンウィークあたりに忽然こつぜんと姿を現すのでは?
 考えられる再会のパターンを、凪紗は想像できる範囲でいろいろと考えた。
 しかし、それらの予想は凪紗をあざ笑うかのようにことごとく外れた。

(これ以上、……崇矢さんのことばかり考えるなんてイヤよ)

 仕事にも集中できないし、何より神経が過敏になりすぎていて、もう限界に近かった。
 だんだんからだにも疲れを感じ始めた、ゴールデンウィークの最終日。
 凪紗は、彼の呪縛から解き放たれるために、区切りをつけることに決めた。あと一週間の間に崇矢が現れなければ、彼は最初から凪紗に会うつもりはなく、ただ不安をいだかせるために口からでまかせを言ったんだと。
 そして一瞬間が経った。どこかで崇矢とばったり会うのではないかと、はくひょうを踏む思いで毎日を過ごしていたが、それも今日で終わり!
 自分で線を引いた日を無事に迎えられた喜びに、凪紗は満面の笑みを浮かべた。

「やったー!」

 周囲から向けられる冷たい視線を物ともせず、凪紗は両腕を突き上げて胸いっぱいに朝の清々しい空気を吸い込む。

(崇矢さんの影に脅えるのも、今日で終わり。ああ、なんて気持ちいいの!)

 そう簡単に崇矢のことを忘れることはできないが、なるべく早く頭の中から追い出して、いつもの生活に戻ろう。
 気持ちが軽くなったせいか、面識もないショップの店員にまで手を振ってしまいそうになる。それほど凪紗の心は躍っていた。

「……心機一転だよね。うん、今日からまた頑張ろう」

 スキップしそうになる気持ちを抑えながら、凪紗は綺麗に舗装された歩道を歩き始めた。
 そうこうしていると、フィットネスクラブ〝アクア〟の入った高層マンションが目に入る。クラブはそこの二階から四階を占めていて、凪紗の働くカフェは二階にあった。

「おはようございます」

 社員専用のロッカールームに入ったところで、カフェの責任者である宮森みやもり玲子れいこと鉢合わせになる。彼女は管理栄養士で、凪紗より六歳年上の先輩だった。

「おはよう。今日は忙しくなるわよ。ゴールデンウィークの旅行から戻ってきた奥さまたちの疲れも、そろそろ取れたころだから」
「そうですね。今日も頑張りましょう、玲子さん」

 カフェの制服をロッカーから取り出し、白のシャツと茶色のプリーツミニスカートに着替える。セミロングの髪は後ろでひとつにまとめ、乱れがないことを鏡で確認してから、すぐにカフェへ向かった。
 凪紗は栄養士として就職したが、料理の献立を考えるだけでなく、調理から接客業務までしなければならず、知らず知らずのうちに気疲れしてしまうことも多かった。
 それでもこうして仕事にやりがいを感じるのは、やっぱりどの仕事も好きだからだろう。
 十一時オープンに向けて食材の下ごしらえをする宮森の横で、凪紗は開店準備を始める。テーブルやガラスケースを拭き、続いて各テーブルに置く調味料の補充を終えると、今日使用する食器を保温ケースにセットし、コーヒー豆の補充をした。

「これでよし! 玲子さん、そっちは大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう」

 微笑む宮森に頷いてから、凪紗は壁掛け時計を確認した。
 十時四十五分。
 クラブの周辺にある商業施設でショッピングを楽しんだ会員が、カフェに立ち寄ってお茶を楽しむこともあるが、開店直後に押し寄せることは滅多にない。
 カフェで働くスタッフの皆にコーヒーでも用意しようと思い、凪紗はサイフォンに手を伸ばす。
 その時、〝アクア〟の社長がいきなりカフェに入ってきた。

「スタッフ、皆こっちへ出てきてくれ」

 凪紗は慌ててカウンターから出て、まだ四十代の社長の前に立つ。三十代で起業した社長は、わずか十年で都心部に〝アクア〟系列のフィットネスクラブを十店舗まで増やすことに成功した。
 役員からはもっと店舗数を増やそうという声が出ているらしいが、社長は堅実派らしく、そういったことよりも会員が満足できる充実したクラブ作りを目指していると言われている。

「社長!?」

 手を拭いながら出てきた宮森、そして調理担当のスタッフたちも慌てて凪紗の横に並ぶ。

「全員出てきたか? ……よし。皆も知ってのとおり、この夏は全館大幅改修リノベーションをすることになっている。工事に向けて準備は順調に進んでいるんだが、今日からインテリアデザイナーのひとりが、ここのカフェの一角を使って仕事をすることになった」
「えっ? ここの一角を、ですか?」

 驚きの声を上げる宮森の言葉に、社長が真顔で頷き、スタッフひとりひとりに目を向けていく。

「本当は事務所の一室を貸すことを提案したんだが、野瀬コーポレーションのデザイナーは〝アクア〟に来る会員を観察してデザインを進めたいらしい」
(うん? 今、どこかで聞いたことのあるような会社名が……?)

 凪紗は眉根を寄せて、頭をかすめた何かを思い出そうと試みたが、明確なものは浮かばない。
 でも、何故か嫌な予感がしてならない。

「デザインを担当してくれるその人物は、いろいろな賞を受けているトップクラスのデザイナーだ。その彼に頼まれた私は、より良い空間を作ってもらえるのならと、彼の要望を受け入れた」

 社長の言葉で、一瞬スタッフたちがざわつく。
 それもそのはず、なごみの場でもあるカフェに業者が長時間居座っていれば、絶対に会員から苦情が出るからだ。
 しかも、〝アクア〟の会員は普通の人々ではない。社長令嬢、夫人、経営者といった我の強い人も多いので、どんなことを言われるのか全く想像がつかない。だから、スタッフたちが不安を覚えるのも当然だった。

「皆が心配するのもわかる。だが、彼なら……なんとかなりそうな予感がするんだ。もし苦情が出た場合、きちんと対応はするから、その人の名前と会員番号を書きとめておいてくれ。そうそう、彼は仕事が終わるまで、カフェに詰める予定だ。いつまでになるかわからないが、それまでは……、ここのスタッフと支店長に任せることにする。じゃ、そういうことで頼む」

 社長はスタッフに向かって頷くと、きびすを返してカフェをあとにした。

「カフェの仕事だけでなく、そのインテリアデザイナーの世話まで、ここのスタッフが見なければならない……ってことね。八月までいろいろと忙しくなりそう。……さあ皆、準備を再開して!」

 宮森の言葉でスタッフが慌てて持ち場に戻るが、凪紗だけはその場から動けなかった。

(……わたしの考えすぎよね?)

 唇を噛み、襲いかかる何かから逃れるかのように、凪紗はカウンターの中へ戻った。


 十二時を回ったころ、ブティックを経営している女社長の狩野かのう夫人がカフェに入ってきた。凪紗はほがらかな笑みを心掛けて、ソファに腰を下ろした彼女に近づく。

「お久しぶりです、狩野さま。素敵な休暇を過ごされましたか?」
「ええ。買い付けも兼ねてヨーロッパを回ってきたんだけど、天気にも恵まれてとても楽しかったわ」
「まあ、それは本当に良かったです! 雨に濡れる石畳も情緒に溢れていて、とても素晴らしいとは思うんですけど、お天気がいいとやっぱり気分が違いますもの」
「そうなのよ! 凪紗ちゃんとおしゃべりするのは、本当に楽しいわ」

 狩野夫人が人を褒め始めた時は、そろそろ独りにしてほしいという合図。そのことを表に出さないよう気をつけつつ、「ありがとうございます」と応じてから、小さなメニューをテーブルに置いた。

「本日はどうされますか?」
「今日はゆっくりしたいだけなの。サラダボールとコナコーヒーをお願い」

 会員カードのバーコードを機械で読み取らせてもらい、すぐに注文のデータを厨房に送る。

「少々お待ちくださいませ」

 凪紗は軽く頭を下げてから、カウンターへ戻った。コーヒー豆をいて準備をしていると、施設内で軽い運動を終えたか、もしくはリラクセーションを満喫したらしき女性会員が、次々にカフェへ入ってくる。
 他のスタッフが対応するのを横目で見ながら、コーヒーカップを準備し、ついでにデータで入ってきた注文の飲み物を準備し始めた。

「凪紗さん、ありがとうございます!」

 今年入社した後輩の森下もりした清美きよみに注文のアイスティーを渡すと、彼女は可愛らしくにっこりして、すぐにカフェフロアへ戻った。

「いつも元気いっぱいね……」

 森下のはつらつとした姿を眺めていると、凪紗はいきなり誰かに脇を小突かれた。

「確かに、元気のかたまりみたいで可愛いわよね。でも今のうちだけよ。清美ちゃん、まだ学生気分が抜け切れていないだけだから」

 サラダボールをトレイに載せた宮森は、姉が妹を見守るような優しげな笑みで森下を見てから、凪紗に目を戻した。

「でも、あたしも明るさでは負けないわ」

 おちゃらけて言う宮森に、負けじと凪紗も「わたしも負けません」と言い、ふたりしてクスクス笑みを交わした。

「じゃ、これよろしくね」

 トレイを指したあと、宮森は再びカウンターの奥へ向かった。
 凪紗は保温ケースから取り出したカップにコナコーヒーを注ぐと、狩野夫人のテーブルにそれらを運び、そしてすぐにカウンターへ戻った。

(フロアは他のスタッフに任せて、わたしは厨房へ行ってもいいかな?)

 十五時にもなれば、アフタヌーンティーを楽しもうとする学生の会員も増えてくる。それに合わせて、カフェ名物のカップケーキの用意をした方がいいだろう。
 お菓子担当の栄養士のもとへ行こうとした、まさにその時だった。
 静かだったカフェフロアに、突然ざわめきが起こる。同時に、あらわになった凪紗の首筋に、チクチクと刺すような違和感が走った。
 いったい何事?
 不思議に思って、ゆっくりと振り返った凪紗の目に飛び込んできたのは、支店長と一緒に歩くモデルのように背の高い男性だった。
 その男性は黒いジーンズ、白いTシャツ、その上に茶色のチェック柄のシャツを羽織っていた。素肌は見えないのに、それでも引き締まった体躯をしていることがわかる。
 もしかして、〝アクア〟の新しいイメージモデルだろうか。
 いや、社員の間でそんな噂は立っていないし、春の会報にもモデルが代わるという知らせは載っていなかったから、そうではないだろう。
 でもカフェフロアにいる会員たちは頬をうっすらピンクに染め、うっとりとした表情を浮かべて、彼の姿を目で追っている。
 もう一度その男性に目を向けると、彼は図面を入れるような大きな黒いバッグ、そしてキャリーバッグを持っていた。
 もしあの男性が新規の会員で、クラブの説明を受けているのなら、手荷物は入り口に設置してあるクロークに預けるだろう。
 つまり、荷物を持ったまま移動している彼は、新規の会員ではない。

「彼は……いったい誰?」

 凪紗の囁き声が彼の耳に届いたのだろうか。支店長の方を向いていて、こちらからは背中しか見えなかった彼が静かに振り返り、立ち止まっている凪紗を見た。
 その瞬間、凪紗はハッと息を呑んで大きく目を見張った。

(嘘、でしょ? まさか、そんな!)

 そこにいたのは、藍沢崇矢その人だった。
 凪紗が自分の存在に気付いたと知った彼は、人当たりのいい笑顔を浮かべながらも、その瞳を妖しくきらめかせ、口角をかすかに上げる。
 ――ほら、何も小細工しなくてもまた会えただろ? 俺たちがした約束、もちろん覚えているよな?
 まるでそんな風にすぐ傍で彼に囁かれたような気がして、恐怖とも期待ともつかないぞくぞくしたものが、凪紗のからだを走り抜けた。

〝崇矢さんの言うことを何でも聞いてあげる!〟

 考えなしに叫んだ自分の言葉が頭の中に甦り、見えない鎖となって凪紗を雁字搦がんじがらめにしていく。

(ああ、わたしったらなんてことを口走ってしまったのよ)
「あっ、水橋さん。彼を紹介しよう」

 呆然と立ち尽くしていた凪紗に気付いた支店長が、崇矢を伴って近づいてくる。

「藍沢さん、彼女はここのカフェで栄養士として働いてる水橋です。水橋、彼は今回リノベーションのデザインを担当してくれる藍沢崇矢さんだ」
「藍沢です。……初めまして、水橋さん」

 初めまして!?
 問いかけるようにチラッと崇矢に目を向けると、彼は愛想のいい笑みを浮かべて手を差し出してきた。
 握手なんてしたくない。でもこのまま躊躇ちゅうちょしていれば、支店長に不信感をいだかれることになる。

「……水橋です。どうぞ、よろしくお願いします」

 後々面倒が起こることだけは、どうしても避けたい。
 おずおずと手を差し出す凪紗の手を、崇矢がきつく握った。普通の握手では考えられないその力に、凪紗は息を呑み、窺うように彼を見つめる。
 これからが楽しみだな――と言わんばかりに輝く彼の瞳を受け、凪紗の胸は小鳥が羽ばたくようにざわめいた。

「宮森はいるかい?」

 支店長は崇矢と凪紗の間に流れる微妙な空気には気付かず、笑顔で凪紗に話しかけてきた。それに乗じて、自分の手を彼の手から思い切り引き抜く。

「はい、今そこに……あっ、宮森さん!」

 支店長の手前、キッチンから顔を覗かせた宮森に名字で呼びかけながら、凪紗は崇矢に握られていた手をそっと背中に回した。その手は焼けるように熱くなり、第二の心臓かと思うほどジンジンと脈打っている。

「支店長!? どうされたんですか?」

 手を拭きながら支店長と崇矢に近づく宮森の一歩後ろに下がり、火照ほてりを冷まそうと彼に握られた手を、もう一方の冷たい手で強く握る。
 凪紗と初めて会った時のように、どんな女性でも魅了しそうな笑顔で宮森と接する崇矢。
 どうして彼は誰にでも素敵な笑顔を向けて、会う女性を次々とりこにしていくのだろう。宮森も例外ではなく、少し頬を染めながら彼の笑顔に応じている。

(でも、わたしはそんな風に感じなかった。確かにいい人かもって思ったけど、出会いがあんな状況だったから、不信感の方が強くて……)

 なのに崇矢とキスをして、ドキドキと心を躍らせてしまったなんて、不覚もいいところ。

「……わかっていたのに」
「何が?」

 突然頭の上から声が降ってきて、凪紗はその場で飛び跳ねてしまいそうなぐらい驚いた。痛みが走る心臓の上に手を置き、面白そうにこちらを見下ろす崇矢を睨む。

「もう!」

 文句を言おうとしたが、先ほどまで支店長たちがそこにいたのを思い出し、すぐ周囲に目を走らせた。

「大丈夫。えっと……宮森さんだったかな? 彼女が支店長と何か話があるって言って、今向こうでふたりで話している」

 崇矢の言うとおり、宮森はカフェフロアの隅を指しながら、支店長と何かを話している。
 カフェに来ている会員たちはちらちらと凪紗と崇矢を見ているが、カウンターと客席の間には距離があるので、声をひそめれば会話を聞かれることもないだろう。
 それがわかっていても注目を浴びたくない凪紗は会員たちの顔が視界に入らないよう、崇矢のからだに隠れるように奥に移動してから、彼を見上げた。

「ところで、あの約束……覚えてるよな?」

 きた!
 意地悪そうな目を向けてくる崇矢に、凪紗は唇を引き結び、射るような眼差しを返す。

「……最初から知っていたのね。だから、どこかで待ち伏せをして、わたしに約束を突きつけるようなことはしなかった。わたしたちが必ず再会するってわかっていたから。デザイナーとして……ここに来ることが決まっていたから」
「そうだ」

 悪びれる様子もなく、まっすぐに凪紗の目を覗き込む崇矢。
 彼のすねを足で蹴って、悠然としたその表情を崩してやりたい!

「わかっていてあんな約束をさせるなんて……卑怯よ」

 足を振り上げてしまいそうになるのをこらえるために、さらに声を殺して彼をキッと睨む。

「おいおい。それって俺のせいか? お前に渡した名刺には、会社名が載っていたし、リノベーションを手がけていることも書いていた。自分のところの会社がこの夏にリノベーションをするってわかっていたら、普通そこで何かに気付くだろ」

 改めてそう言われると、凪紗は何も言えず軽く俯いた。

「それに、俺は凪紗にヒントを与えたはずだ。あの約束を撤回できるように、わざわざ名刺をチェストの上に置いてやった。なのに……そのことに気付きさえしなかった」

 崇矢の呆れたような声に反論できるはずもなく、凪紗はさらにうな垂れて固く唇を結んだ。
 あの時の凪紗は、極力彼のことを考えまいと意固地になっていた。だからあの日、彼が名刺をチェストの上に置いたのは〝通勤の間も気をつけろ〟というメッセージだと思って、それ以上深く考えもしなかった。
 崇矢の言うとおり、すぐ名刺を確認し、そこに書かれていた社名と、リノベーションを頼んだ会社が同じだと気付けなかったのは、全て凪紗の責任だ。決して彼のせいではない。
 自分の失態を悔やんで顔を上げない凪紗の手首を、崇矢がいきなり掴んだ。
 触れられたことに驚き、目を見張って面を上げるが、彼は凪紗の手の甲を見つめ、優しくそこを親指で撫で上げる。

「……良かった。佳織につけられた傷、すっかり治ってる。あれから一ヶ月以上経ってるから、それも当然か。でも良かったよ。女はどの部分にも傷をつけるもんじゃないからな」


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