堕天使のお気に入り

綾瀬麻結

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1巻

1-2

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「これ、美味いな」

 凪紗の視線を感じたのか、崇矢がいきなり話しかけてきて、お皿のひとつを指す。
 それは春巻きの皮でチーズを包み、オイルスプレーを使ってオーブンで焼いたものだった。一緒に添えたバジルソースをつけて食べるとさらにお酒が進むので、今日も佳織のために作ったが、初めて食べる彼からも褒められると、栄養士としてやっぱり嬉しい。

「ありがとうございます」

 彼の言葉を素直に受け取り、凪紗は顔をほころばせた。

「今度さ、俺のためだけにこれを作ってよ。……俺の家でさ」

 はいぃ!?
 屈託のない笑顔を向けてくる崇矢の前で、凪紗の笑みが強張る。

(佳織さんの前なのに、どうしてわたしにそんなことが言えるの?)

 凪紗は慌てて佳織に向き直り、彼の家に行く気はないことをはっきり伝えようとした。
 でも彼女は、崇矢の言葉を聞いていなかったのか何の反応も見せず、まだお酒を飲み続けている。

「か、佳織さん?」

 恐る恐るたずねると、佳織は焦点が合わない瞳を凪紗に向けた。鼻につくアルコール臭から、彼女がかなりの量を飲んだのがわかる。完全に酔っ払っていないことは、ここ数ヶ月の付き合いからわかるものの、それでもやっぱり飲むのはもうやめた方がいい。
 今は大丈夫でも、相当の酒をチャンポンしているから、きっと悪酔いしてしまう。
 凪紗は彼女が腕に抱え込んでいる焼酎の一升瓶に目を向けてから、こちらに渡してと懇願するように片手を差し出す。もちろん、佳織からいきなり叩かれないよう、すぐに顔をかばう気構えも忘れない。

「あの、佳織さん大丈夫? もうやめておいた方が……」
「うん……? ……あっ!!」

 佳織の大きな声にびっくりして、凪紗は思わず両手で顔を覆いながら身を縮めた。

「ほら、凪紗も……もっと飲みなさいよ!」

 凪紗の予想に反して、彼女はいきなり一升瓶を持ち上げた。凪紗のグラスにそれを乱暴に注ぐ。

「あっ、佳織さん! まだ入ってるから……!」

 すぐに一升瓶を取り上げようとして手を伸ばしたが、一足遅かった。一升瓶を勢いよく傾けたために、焼酎はグラスから溢れ出してテーブルを濡らしていく。

「佳織!」

 崇矢が身を乗り出し、彼女の手から一升瓶を取り上げる。

「お前、酔っ払ってるのか? ……もう寝ろ」
「うん、……そうだね。今日は飲みすぎちゃったかも。……お風呂に入ってこようかな」

 もし凪紗があれだけの量を飲んでいたら、足元がおぼつかなくて、絶対にひとりでは立ち上がることができない。
 そう思い凪紗は佳織を支えようと手を差し出しながら一緒に立つが、彼女はその手を乱暴に振り払った。

「……っぁ!」

 ネイルサロンで綺麗に整えられた佳織の爪が、凪紗の手の甲をかする。火傷やけどした時のような痛みが走って咄嗟とっさにそこを押さえるが、赤くなっただけで血は出ていない。
 ホッと息をついた途端、苛立ちもあらわに佳織が地団駄じだんだを踏んだ。

「あたしは酔ってなんかない! ただ、いつもよりちょっと飲みすぎただけよ!」

 佳織の言うとおり、彼女はふらつくこともなく、しっかりと自分の足で立っている。

「そうだな、ちょっと飲みすぎたかもな。だったら、風呂はやめておけ」

 佳織の癇癪かんしゃくなだめようとしているのか、崇矢は立ち上がってぶんぶん振り回される彼女の手をしっかり掴む。

「あたしもバカじゃない。お酒を飲んだ時は、お風呂に入ったりしないわ。……手と足、そして女性の大事なところを洗うだけ。ねえ、崇矢さんも……手伝ってよ」

 凪紗は、佳織のつやっぽい声、意味深な言葉に意表をつかれた。
 でも佳織は凪紗のことなんて気にせず崇矢にしなだれかかり、例の視線……ふたりきりにしてというメッセージを投げてきた。
 凪紗は慌ててふたりに背を向け、縮こまるように俯く。

(今になってあの目? もしかして……佳織さんはこれを狙って、酔っ払ったふりをしていた!?)

 佳織が崇矢を手に入れたいと強く望んでいることはわかっていたのに、実際こうやって誘惑するタイミングを密かに窺っていたとは気付きもしなかった。

(佳織さん、本気で崇矢さんのことが好きなんだ……)

 彼女の気持ちが伝わってきた途端、凪紗の胸がざわざわと騒ぎ始める。

「……わかった。手伝ってやる。ほら、行くぞ」

 崇矢が、佳織の誘惑に応じた!
 胸に針で刺されたような痛みが走り、凪紗の顔から一気に血の気が引いていく。
 佳織のこびを含むクスクスという笑い声がどんどん小さくなり、バスルームのドアを開ける音が遠くから聞こえると、凪紗はいつの間にか詰めていた息をそっと吐き出し、その場でうな垂れた。

「どうして、こんなにもショックを受けているの? 佳織さんが男の人と消えるのは、日常茶飯事のことじゃない。何を今更……」

 頭の中に渦巻くふたりの姿を追い払うように、凪紗は唇を引き結び、拳を強く握りしめた。

「痛っ!」

 手を上げて、そこに感じた痛みを確認する。佳織の爪で傷つけられたところに、薄く血が走っていた。拳を作ったことで皮膚が引っ張られ、運悪く裂けてしまったのだろう。

「……洗っておかなきゃ。でも洗面所は今ふたりが……」

 凪紗は仕方なくキッチンに入り、シンクで血を洗い流す。水が冷たくて、指の先がかじかんできたが、しばらくそのまま耐えた。
 水道を止めて、濡れた手をタオルで拭ってから傷口を見る。血はそれほどにじんでいない。あとは消毒でもしておけばすぐに治るだろう。
 凪紗は再びリビングルームに戻り、救急セットが入っているバッグを手にした。消毒を終え、部屋へ戻る前にもう一度傷口を見ると、既に血は止まっている。

「うん、もう大丈夫」
「何が?」

 突然響いた崇矢の声に、凪紗は飛び上がるほど驚いた。すぐに振り返ると、彼がドアを塞ぐようにして立っている。

「ど、どうしてここに!? ……佳織さんと、一緒に」
「佳織? 手足を洗ったあと、今は洗面所で髪を洗ってる」

 つまり、佳織はしばらく戻ってこないということ。髪を洗い終えたあと、トリートメントをして乾かす時間を考えたら、十五分はもっていると考えられる。
 その間、彼とふたりきり。
 薄暗い室内を照らすムードたっぷりな間接照明、大きな窓から望む光り輝く夜景に意識を向けた途端、凪紗は緊張からからだを強張らせた。
 本当なら、このリビングルームで崇矢とふたりきりの時間を過ごすのは佳織の方だった。なのに、今彼といるのは、凪紗になっている。

「……凪紗のことで、少しきたいことがあったんだ。佳織抜きの場で」

 いきなり呼び捨てにされたことに、文句のひとつも言いたかった。
 崇矢の思わせぶりな言葉に、躯の芯にうずきが走ってさえいなければ……
 凪紗は、口腔に溜まっていく唾をゴクッと呑む。
 緊張している凪紗に対して、崇矢は面白そうな表情を浮かべてこちらを眺めている。
 ほんの数時間前に出会ってから彼はずっとこんな調子で、それがまた凪紗の居心地を悪くさせていた。

「凪紗?」

 再び名前を呼ばれた時、崇矢が少し動いたせいで彼の顔に陰影ができた。そのにこやかな表情の裏に隠れている黒い部分が見えたような気がして、躯が自然と震える。
 どうしてそう思うのかわからない。
 でもそれを表に出さないために、崇矢は表情を作っている……そんな気がしてならなかった。
 いつの間にかその秘密を突き止めようと彼を見つめていた自分に気付き、凪紗は慌てて視線を逸らす。

(もしかして、彼のことを知りたいって思った? まさか、ね……)

 自嘲気味に笑いながら、凪紗は小さく頭を振る。
 崇矢とふたりきりになったりするから、余計なことを考えたり、彼と佳織が消えただけで心臓に痛みが走ったりするのだろう。
 それならば心の安定を取り戻すため、さっさとここから立ち去ればいい。

「じゃ、佳織さんのこと……あとはよろしくお願いします。わたしはこれで失礼します」

 逃げるのは今しかないと彼に背を向け、置きっ放しにしていた春物のジャケットを手に持つ。

「じゃ、ごゆっくり……」

 形ばかり頭を下げると、凪紗は崇矢の傍らを通り抜けて廊下へ出た。
 追いかけられるかも……と不安を覚えたけど、それは取り越し苦労だった。自室のドアの取っ手を掴んでも呼び止められることなく、簡単に部屋に入ることができた。 
 嗅ぎ慣れたアロマの香りに包まれて、凪紗はホッとため息をついた。
 母が作ってくれたパッチワークのベッドカバー、温もりを感じさせてくれるウッドチェスト、そして小さいころから大事にしているぬいぐるみを目にして、強張っていた躯からゆっくり力を抜く。
 それらは全て実家で使っていて、就職した時に持ち出したものだった。懐かしい家具に囲まれていると田舎を思い出し、心が落ち着いてくる。
 佳織からは「そんな古臭くて汚い家具を、この家に入れないで。新しいブランド家具ぐらい買いなさいよ。お金がないの? ……ったく、こんなにあたしと生活水準が違うなんて」ときつい言葉を投げつけられたが、自分のスペースはどうしても守りたくて、彼女を説き伏せ、汚さないことを条件に置くことを許してもらった。
 今ほど、そうして良かったと思ったことはない。今日はいつもより、心もからだも疲れているように感じたからだ。
 凪紗は深呼吸をしてからチェストの傍にバッグを置き、ジャケットをハンガーにかけた。それから部屋の空調に手を伸ばし、つまみを調節していると、いきなりドアをノックする音が響いた。
 突然のことに凪紗の躯がビクッと飛び跳ね、心臓に痛みが走った。

「だ、誰!?」

 本能で誰が来たのかわかっているのに、凪紗はそう口にしていた。静かにドアのレバーが下がり、ゆっくりドアが開く。隙間から顔を覗かせた崇矢は、凪紗の顔を認めるとすぐに室内へ入ってきた。
 初めて視線を交わした時のように、彼の黒い瞳は少し潤んで見えた。そこに男の色香が感じられて、クラクラと眩暈めまいがしそうになる。それでも、彼を眺めずにはいられなかった。
 モデルのような長身、引き締まった体躯、喉仏が目立つ太い首、柔らかそうな唇、そしてはっきりとした目鼻立ち。彼を一目見ただけで、誰もが振り返ってしまうに違いない。

(やめて、そんな風に真正面からわたしを見ないで……)

 どのくらい見つめ合っていたのだろう。
 実際は十数秒かもしれないが、凪紗にはそれが数分にも感じられた。頬の筋肉が緊張で引きつりそうになる。
 もうダメ! ――張り詰めた神経が切れそうになった時、急に崇矢が口元を緩める。

「ふぅ~ん、こういう部屋で暮らしているんだ。意外と綺麗にしてるんだな」

 崇矢のその一言に、凪紗はムッとした。部屋に入ってもいいと言っていないのに、追い出されるとも思っていないこの図々しさは、いったいどこから来るのだろう。
 興味津々といった様子で部屋を見回す彼に、足蹴りを食らわせたい衝動に駆られる。こんなことをするから、彼に反感を持ってしまうのかもしれない。

「あの!」
「うん? 何?」

 振り返った崇矢は、女性をとろけさせるような爽やかな笑顔を向けてきた。
 凪紗は軽く唇を引き結び、その顔に気持ちを揺り動かされないよう意識して、しっかりあごを上げる。

「……こうやって、勝手にわたしの部屋に入ってくるのはどうかと思うんですけど」
「どうして? ……あっ、もしかして佳織のことを気にしてる? それなら大丈夫。さっきも言ったとおり、まだ出てきそうにないから」
「そういう意味じゃなくて……」
「あのさ、佳織が他人と一緒に暮らしてるって知って、ちょっとびっくりしたんだが、あいつと暮らすことに不便はない?」
「えっ?」

 ここまで乗り込んできた彼の口からそんな言葉が出たことに面食らい、凪紗は口をポカンと開けた。

「何? 俺がこんな話をするとは思わなかった?」

 ニヤッと笑い、面白そうにこちらを見つめる崇矢。
 その途端、凪紗はすぐに開いた口を閉じて彼を睨みつけた。

「そういう言い方、……嫌いです」

 凪紗の答えに、崇矢がいきなり肩を揺らしながら含み笑いをする。

「俺……凪紗のそういう言い方、好き」

 この人はどうして臆面おくめんもなく、そういう言葉が言えるのだろう。
 呆れて物が言えず、凪紗は肩を落としてただ小さく頭を振った。

「……それはまた次の機会にでも話すとして。実はちょっと気になってさ。凪紗は佳織と一緒でも、自分を偽らずに暮らせるのか? あいつはお嬢さまだから、いろいろと言いなりになってるんじゃないか?」
「えっ?」

 何故崇矢がそんなことを言ってくるのかわからず、凪紗は当惑を隠せないまま目を細めた。

「今日、ずっと見てた。ふたりのことを……。この家の持ち主は佳織だとしても、家賃を払っている以上、凪紗は居候いそうろうじゃない。だが、凪紗は佳織から家政婦みたいにこき使われている。それに対して、お前は一度も反論しようとしない」
「それは!」
「それは?」

 無理にでも聞き出すぞ――と目を光らせる崇矢を睨み、凪紗は口をつぐんだ。
 彼の言うとおり、確かに佳織の機嫌を損ねないようにしている。彼女は、凪紗には想像できないようなお嬢さまだから、田舎暮らしの自分とはどうしても相容れない部分が出てくる。そのことは、初めからわかっていた。
 だから彼女の機嫌を損ねるぐらいなら、この生活に波風を立てるぐらいなら、いっそのこと自分が我慢すればいい。そう思って、凪紗は佳織と接してきた。
 でも、そのことを誰にも言うつもりはない。これは凪紗自身が決めたことで、それで佳織との関係も上手く成り立っているのだから。
 凪紗の思いが崇矢にも少しは伝わったのだろう。
 彼は腕を組み、少し俯くようにしながら目を閉じる。

「なるほどね。こうやってつついても凪紗はそう簡単に俺にはなびかない……か。すごい新鮮な気分だ。こういう感覚、久しぶりだな」

 崇矢は呟いているだけなのに、凪紗は何故か不安をあおられて身震いしそうになり、思わず我が身を強く抱きしめる。
 その衣擦きぬずれの音に崇矢がゆっくり目を開けた。彼の視線は凪紗の胸元の辺りで止まり、何故かそこを見ながら眉間に皺を寄せる。
 からだに両腕を回すことで、きっと乳房が強調されているのだろう。
 それにしては崇矢の顔つきが気になったが、堂々と胸元に目を向けられているのに耐えられず、すぐに両手を躯の脇に下ろした。
 彼は少しの間考え込むようにじっとしていたが、ゆっくり面を上げて、凪紗を凝視する。

「じゃ確認だけ。凪紗は……どうして佳織から暴力を受けても耐えられるんだ?」
「わたしが佳織さんから? そんな……暴力なんて受けてません」

 どうしてそう言われるのかわからないが、佳織の名誉を守るためにも、凪紗は必死に目で訴えた。

「俺は専門家じゃない。だが、見ていればわかることはある。酒を飲んでいる時、佳織が手を上げるんじゃないかとビクビクしていただろ? それは、以前……佳織が凪紗を傷つけたことがある……ということだ。どうしてそれを隠す?」
「あれは! その、暴力とかそういうものじゃ……」

 ちょっとした仕草だったはずなのに、見抜かれていたとは思わなかった。
 凪紗は恥ずかしくて、目を泳がせながらしどろもどろに答えたが、そこであることに気付く。

(どうして、わたしばかりに心の中のことを白状させようとするの?)

 何も言わずにいたのは、凪紗だけではない。崇矢も自分のことを何も話していないのに、何故こんな風に詰め寄られなければならないのだろう。

「わたしは、崇矢さんほど自分を隠してなんかいません!」

 凪紗は自分が口走った言葉に目を見張り、ハッと息を呑んだ。
 そんなことを口に出すつもりなんて全然なかった。
 玄関で目を合わせたあの瞬間からずっと彼にやられっぱなしだったので、反発したい気持ちがあったのは事実。
 でも、そう思っていたとしても、それを初めて会った彼に話さなければならない理由なんてない。だから、はっきりと口に出して突っかかるつもりはなかった。
 そんな凪紗に、一瞬崇矢もびっくりしたような表情を浮かべるが、すぐに破顔して、お腹を抱えて大声で笑い出した。

「……本当、凪紗は可愛いな。俺の予想とは違った行動ばかり起こすなんて、本当に退屈しない。俺、マジで……お前のこと気に入った」

 何がそんなにおかしいのか全くわからない。
 崇矢は、目尻から零れそうになる涙を指で拭いながらも、まだお腹を抱えて笑い続けている。そんな彼を、凪紗は呆気に取られたまま静かに眺めた。

(今言ったことは冗談? それとも本当に今……わたしに本気になったということ?)

 しばらくすると、崇矢は愉快そうに笑っていた表情を一変させ、意地悪っぽい笑みを浮かべた。獲物を見つけた肉食動物のような目で、彼はゆったりとした仕草で凪紗に近づいてくる。
 彼のからだがだんだん大きくなって、凪紗に覆いかぶさってくるような錯覚に陥り、思わず逃げるように少しずつ後退した。

「あっ……」

 背中に当たった硬い感触から、いつの間にか壁際まで追い詰められていたことに気付き、彼にも聞こえてしまうぐらいはっきりと息を呑む。

(な、な、何!? ちょっと……わたしに近づかないで)

 お互いの体温が感じられるぐらいにまで、距離が縮まる。崇矢の黒い瞳が、凪紗の目を食い入るように見つめたあと、鼻、震える唇、そしてブラウスを押し上げる胸の膨らみへその視線を落とした。彼はそこに顔を埋めたいと言わんばかりに、目を凝らしている。
 心臓はドキドキと高鳴り、頭がボーッとなるほどの熱にくすぐられて、凪紗は悩ましげな吐息を漏らしそうになる。

「俺のことが、怖い?」

 胸から視線を外して、凪紗の瞳を覗き込む崇矢。

「そんなこと、あるわけない……っ!」

 否定する凪紗をいましめたいのか、崇矢は精神的な圧力をかけるように壁に両手をついた。彼の両腕に躯を挟まれただけで身動きできなくなるのに、彼はさらに躯を押しつけてくる。
 衣服越しに崇矢の体温を感じて、凪紗の躯の奥深いところに甘い衝撃が走った。
 その震えは、きっと彼にも伝わっただろう。悟られたくない一心で、凪紗は両手で彼を突っぱねようとした。
 でも彼は、その手首を強く掴んでおもむろに引っ張り上げた。

「……手の甲とはいえ、傷つけられても黙っているなんてな」

 佳織の爪で傷つけられたそこは、擦れて赤くなってはいるものの、血はもう凝固している。それなのに、崇矢は食い入るようにその傷を見つめていた。
 凪紗が怪我をしたと、いつの間に気付いたのだろう。崇矢に手を見せるようなことは一度もしていないのに……
 不意に先ほど眉間に皺を寄せた彼の顔を思い出し、凪紗はハッとした。
 もしかして、躯に両腕を回した時に彼が見ていたのは、凪紗の胸ではなく手の甲だった?
 見られていないのをいいことに、まじまじと彼の顔を凝視していると、彼がいきなり目だけを動かした。
 間近で視線が絡まった瞬間、崇矢は唇の端を軽く上げ、あろうことか……傷口には触れないようにして、手の甲にキスを落とした。
 突然のことに息を呑み、凪紗は目をまん丸にした。温かい彼の唇の感触に、頬がだんだん燃えるように熱くなってくる。

(嘘、何これ? ……どうしてわたしにこんなことを!)

 慌てて手を振り払って、彼の拘束から逃れる。彼の温もりが残ってジンジンとする手の甲を、隠すようにもう片方の手で覆った。

「こういうことは、わたしにじゃなくて……佳織さんにすればいいでしょ! お願いだから、わたしを巻き込まないで」

 小さく頭を振る凪紗に、またも彼が近づく。それを押しとどめるように、再び両腕を突っぱねて彼の胸を押し返すがビクともしない。
 どんなにあがいても、彼から逃げ出せない!
 でも、本気で彼から逃げたかったら、彼の股間に膝蹴りをしてでも逃げようとするだろう。そうしないのは、凪紗自身がそれを……望んではいないからだろうか。

(わたしはいったいどうしたいの? このまま流されたらダメなのに……)

 手のひらから伝わる、彼の燃えるような熱と激しい鼓動。それに合わせて凪紗の胸もさらに早鐘を打ち始める。

「佳織、ね。……もしかして凪紗は、俺と佳織が付き合ってると思ってる? ……残念!」

 面白そうに笑みを浮かべたかと思ったら、崇矢はその手を伸ばして凪紗の頬を指の腹で撫でた。触れるか触れないかのタッチに、どう対応していいのかわからない。

「佳織はさ、お金持ちでお嬢さま。さらに、大抵の男を振り向かせられる美人ときてる。だがあいつは、俺のことをアクセサリーとしか思っていない。そんな彼女に、俺は全く興味が湧かない。どちらかと言えば……」

 崇矢は凪紗の頬から下唇の膨らみへ指を走らせ、どんな女性をも魅きつけるような流し目を向けてきた。

「どんなことがあってもそれに耐える根性と、自分の意志もきちんと持つ、りんとした女にそそられる。必死に抵抗をして俺との距離を置こうとする……凪紗みたいな女にね」

 崇矢の言葉に息を呑み、凪紗は目を見張った。
 その反応は予想済みだ――と告げるように、崇矢は妖しく目を光らせていたずらっぽく笑う。
 凪紗の心を掻き立てるその表情に、またも腹が立つ。

「じゃ、どうして佳織さんの家に来てるのよ!」

 考えをまとめる間もなく、凪紗の口から言葉がほとばしった。

「それはもちろん、顧客は大事にしないと駄目だから」

 言いよどむことなくあっさりと口にする崇矢に、凪紗は面食らった。

「俺の仕事を気に入ってくれた佳織は、家を買うたびに俺を名指しして、仕事を依頼してくれるってわけさ。今日もそのことで呼ばれたんだ。我が社の上得意だからね、彼女」
「上得意?」
「そう、上得意さま。俺たちは……そう、ただそれだけの関係さ」

 ふたりの関係がどういうものなのか、やっと凪紗にもわかってきた。

「じゃ、佳織さんを気にかけてあげて。わたしは崇矢さんの顧客でもなんでもないんだから、こんな風に愛想を振りまく必要なんてない」
(それがわたしの本音なの? それならどうして……わたしはいつまでも彼に触られたままになっているの?) 

 憎まれ口を叩きながらも、崇矢の傍から離れられない自分自身に困惑を覚えた時、何故か突然昔の記憶がよみがえった。凪紗が栄養士を目指すきっかけを与えてくれた、パティシエの元カレのことを。
 当時と今では全く状況は違うが、口げんかをした際、年上だった元カレもこうして凪紗をあやすように肌に触れていた。そして、優しく抱きしめられると、もう何も言えなくて……

「……俺を目の前にして、どこに意識を飛ばしている?」
「えっ?」

 面を上げた凪紗に、崇矢は互いの額が触れそうなほど顔を近づけてくる。

「知ってた? そうされると男って〝狩りの本能〟を刺激されるんだよな」

 そう言うなり、崇矢の表情がなくなる。口元からは力が抜け、笑い皺はなくなり、妖しげな光を宿らせた瞳で凪紗を貫く。

「た、崇矢さん?」

 恐る恐る彼の名を呼ぶ凪紗の唇を、彼はいきなり自らの唇で塞いだ。

「……っ!」

 突然のキスに、凪紗は驚愕から目を見張った。
 でも、想像していたとおりの柔らかな感触、からだからみなぎる男の欲望に、凪紗の全身に甘い愉悦ゆえつの震えが走る。
 いつの間にか、彼の両腕は凪紗の躯に回されていた。力を込めて抱きしめられ、腰がさらに密着する。

(嘘! 崇矢さん……わたし相手に硬くなってる!)

 崇矢から逃れるべきだと心の声が囁いてくるが、むさぼるような彼のキスは何度も角度を変えて、凪紗の理性を溶かしていく。凪紗が空気を求めて息を吸うその隙を狙って、彼の濡れた舌が滑り込んできた。

「っんぁ……」

 うごめく舌の感触にぞくりと躯が震え、腰が甘くしびれていく。彼の愛撫で生まれたばかりの熱をあおられ、凪紗はこのまま与えられる情熱に溺れたいという衝動に駆られた。
 でも、これって遊ばれてるのでは?
 崇矢から告白されたわけでもないのに、簡単に唇を許している自分に呆れる。

(冗談で好きって言われたけど、あれはまた違った意味。だから早く拒まなきゃ!)

 凪紗は理性を総動員して、その扇情的な口づけを拒むべく顔を背けた。踊り狂ったように打つ心臓に痛みを覚えながら、凪紗はさらに彼を押し返そうとする。
 でも、逆に引き寄せられ、彼の胸に頬を寄せる形で抱きしめられた。

「……興奮した?」

 意地悪く耳元で囁かれた途端、今度こそ本気で崇矢を押し返した。凪紗は顔を真っ赤にしながら、笑いをこらえている彼を睨みつける。

「……っ、こういうことは好きな女性にしてよ!」
「うん? だから、したんだけど?」

 しれっとした顔で答える崇矢に、地団駄じだんだを踏みたくなる。彼が本気で言っているのか、ただ凪紗をからかっているのか、どうしてもわからない。

「違う! ……そうじゃなくて」

 その時だった。


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