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1巻
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急に怒られ、璃歌は大人しく返事する。男性の態度がジェットコースター並みに変化するので、ついていけなかったのだ。
ただ男性に掴まれた腕に意識を向け、〝離してくれませんか?〟という思いでわざとらしく彼を凝視する。
途端、男性は、触れてはいけないものに触れてしまったかのようにさっと手を離し、ホールドアップする。そして所在なげに両手を下ろした。
「こ、これは――」
男性が何か言おうとした拍子に人影が動いた。救急隊員の担架を拒否した光富だった。
「蔵元さん!」
璃歌は男性の横をすり抜けて、光富の身体を支える。
「すぐに助けられなくてごめんなさい!」
「私が隠れろと合図を送ったんだ。君が悪いわけじゃない。それより、あいつに見つかった時、とても勇敢だった。自分だけ隠れたそいつよりな」
そう言った光富が、静かに璃歌の隣に視線を移す。それを追うと、男性が無表情で光富を見つめ返していた。
どうして言い返さないのだろうか。男性は自分の意思で隠れたわけではないのに……
「蔵元さん、違うんです。彼の指示で物事が進んだからこうして警察官が突入できたんです。彼がわたしと一緒に捕まっていたら、解放されるのはもっとあとだったと思います」
璃歌の説明に、光富はまじろぎもせず男性に見入る。しかし彼には何も訊ねない。代わりに璃歌に目線を向けた。
「たとえそうだとしても、身体を張ったのはあいつではなく女性の君だ。……ありがとう。確か君は、商社で働いていると言ったな? 業種にもよるが、いろいろと協力できるかもしれない。名刺をカウンターに置いていってくれ。お礼がしたいんだ」
それって、運が良ければ光富酒造と取引させてもらえる?
「あ、ありがとうございます!」
なんという幸運だろうか。まさかの事態に璃歌は目を輝かせた。
光富も頬を緩めるが、どこかに痛みが走ったのか、急に顔を歪める。
「蔵元さん!」
「まず、先に病院へ行きましょう」
璃歌が叫ぶと、即座に救急隊員が光富の肘を掴んで外へ促す。彼は反論せずに歩き出した。
「君は商社勤務なのか?」
光富の背中を見送っていた璃歌だったが、男性に声をかけられて振り返る。彼は眉根を寄せていた。
「わたしは――」
「すみません。お話を伺えますか?」
そう言ったのは、璃歌より少し年上の女性警察官だった。もう一人は四十代ぐらいの男性警察官で、璃歌を助けてくれた男性の傍に立つ。
身元を訊かれた璃歌は、男性警察官に身分証明書を提示する男性を横目で確認しながら、カウンターに置きっ放しにしていたバッグを取りに行った。身分証明書を取り出して女性警官に渡す。
「白井璃歌、二十六歳です。住居は東京になります。ここには日本酒をいただきに来ました。会社員で、職場はKURASAKIコーポレーション――」
「何!?」
唐突に男性が声を上げたため、璃歌はそちらに意識を向けた。顔を青くした彼は、茫然と璃歌を見つめている。
その男性の隣には、いつの間にか別の男性が立っていた。初めて目にする彼は背が高く、髪をベリーショートにしている。璃歌に怒った男性より数歳年下のようだ。
不思議なことに、その人もまごついた様子で璃歌を凝視している。
どうして決まり悪そうな面持ちなのが、皆目見当がつかない。
「大嶌煌人さん、三十二歳。……あなたもKURASAKIコーポレーション勤務? ああ、彼女と一緒にこちらへ来られたんですね」
「……えっ?」
警察官の言葉を呑み込めず、一瞬眉を寄せる。しかし、男性と同じ会社だという事実が脳に浸透するにつれて、璃歌の胸は喜びでいっぱいになった。
一緒に危機を乗り切ったという仲間意識が芽生えていく。
それにしても、男性はどこの部署なのか。男性警察官が〝オオシマ〟と呼んでいたが、璃歌にはまったく思い当たらない。全社員を知っているわけではないので、それも仕方がないだろう。
璃歌が唯一知っている〝オオシマ〟は、雲の上のお方……取締役、ただ一人だ。
「うん? 雲の上のお方……?」
そこで璃歌は思考を止め、顔をしかめた。
雲の上のお方……? 〝オオシマ〟? まさか、そんなはずはない。どう見ても目の前の男性と取締役は、雰囲気が違う。同一人物と考える方がおかしい。
なのに胸の奥がざわついて変な気分になる。
璃歌は男性の正体を確かめるべく顔を上げた。
男性は人当たりのいい表情で警察官に応対していたが、ついと璃歌に焦点を合わせる。途端、居心地悪そうに片目を眇めた。
瞬間、誰に対しても優しい取締役の顔と、璃歌に辛辣なこの男性の顔がぴったりと重なった。何もかもが一つに繋がり、璃歌は言葉を失う。
気付かなくて当然だ。
何故なら璃歌が知る取締役の大嶌は、社内の女子の間で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ優男。横柄な態度を取るこの男性と同一人物だと見抜けるはずもない。
「仕事でご一緒だったんですか?」
女性警察官に問われて、璃歌は咄嗟に顔を伏せて激しく首を横に振った。
「知りません! 同じ会社とはいっても、全員知ってるわけではないので」
大嶌にも聞こえるように、璃歌は声を張り上げる。
そう、知らない方がいい。会社では誰にでも親切なあの人が、本当は横柄で、優男を演じているかもしれないだなんて……
「確かにそうですよね。全社員と顔見知りなわけないですもの。では、事件に巻き込まれた経緯や、どのような状況だったか詳しく教えていただけますか」
「は、はい。今日ここへ来たのは――」
璃歌は背中に刺さる視線を感じながら、女性警察官に説明する。
その間も、璃歌の頭の中はぐちゃぐちゃだった。厄介な問題に直面してしまったと、頭を抱えたいぐらいだ。
そんな状態で軽い事情聴取を受けたのち、璃歌たちは外へ出る。騒ぎを聞きつけて集まった野次馬の間を縫ってパトカーに乗り、管轄の警察署へ移動した。
大嶌とは別の部屋に連れていかれた璃歌は、今度は時系列に沿っての説明を求められる。何が起こったのか、再び詳細に説明した。
そうして警察署に到着して二時間あまり経った頃、いろいろな書類にサインをしてようやく事情聴取が終わった。
「疲れた……」
精神的にくたくただった璃歌は、廊下に出るなりボソッと呟いた。
少しソファに腰を下ろして頭を空っぽにしたい気持ちに駆られるものの、そうはせず、すぐさま廊下をきょろきょろと見回す。
大嶌はもう帰っただろうか。
その時、璃歌の事情聴取を担当した女性警察官が部屋から出てきた。
璃歌はすぐに女性警察官に「すみません」と声をかける。
「わたしと一緒にパトカーに乗っていた男性……大嶌さんはもう帰られましたか?」
「いいえ、まだ……出てきていませんね」
女性警察官は隣室を確認して、璃歌に告げた。
出てきてない? だったらこのまま逃げるに限る!
「そうですか。あの、わたしは用事があるのでこのまま東京に帰ります。もし彼がわたしのことを訊ねてきましたら〝先に帰京した〟とお伝え願えますでしょうか」
「わかりました。お気を付けてお帰りください」
璃歌は女性警察官に会釈し、警察署を出た。大通りに出たところでタクシーを拾い、駅に向かう。
わたしは大嶌さんと知り合っていません。本当の彼がどういう人か知りません。だから、どうかわたしのことは忘れて! ――そう心の中で叫び、璃歌は帰途に就いたのだった。
第一章
十二月に入り、紅葉が一層赤く染まり気温も低くなってきた。こういう時はどこか静かな田舎へ行き、色付く山々を観賞しながら日本酒をぐいっと飲みたくなる。
毎年そういう気分になるのだが、今年はまったく気が乗らない。光富酒造で起こった事件から二週間あまり経った今でも、いろいろと思い悩んでいるせいだろう。
「璃歌!」
仕事用のタブレットを胸に抱いて会議室に向かっていた璃歌は、不意に名前を呼ばれて立ち止まる。声がした方向を見ると、二階の手すりに手をのせて微笑む同期の川端由美がいた。
「いいところで会ったわ! こっちに来て」
璃歌よりも十センチ背が高いショートカットの由美が手招きする。彼女は席も隣で、仲良くしていた。
確か、璃歌が部署を出るほんの少し前に〝総務部に行ってくる〟と言って出たのに、どうしてこんなところにいるのか。
「由美? 総務へ行くって言ってたけど、どうしてここに?」
「あっ、それはもう終わった。これから戻るところだったんだけど……」
由美は唇の端を上げて、目線で階下を示す。
その表情で、璃歌はなんとなくわかった。
由美の趣味は、顔面偏差値が高い男性を眺めること。その人と付き合いたい、お近づきになりたいというのではなく、ただ見るだけで目の保養になるらしい。
こうして足を止めるということは、由美のお眼鏡に適った男性が視界に飛び込んできたに違いない。
「早く!」
由美は目を輝かせながら再度手で合図を送り、階下を覗き込む。
吹き抜けになったそこからロビーが見えるが、いったい誰がいるのだろうか。
呼ばれるままに近づくにつれて、女性の華やかな声が聞こえてきた。
「あっ……」
その瞬間、由美が誰を眺めていたのかわかった。顔を歪めながらも、彼女の隣から璃歌も階下を覗く。
思っていたとおり、そこには大嶌煌人がいた。彼のアシスタントの小橋周平もいる。璃歌が光富酒造で出会った二人だ。
小橋はいつも大嶌の傍に控えているのに、どうしてあの日はその存在を思い出さなかったのか。
普段から他人に興味を持たず、日本酒のことばかり考えているからかもしれない。
「大嶌取締役、今日も素敵ね。璃歌も日本酒ばかりに興味を持つんじゃなくて、少しはいい男を見て胸をときめかさないと。どう? 彼を見てときめく?」
璃歌は苦笑いしながらも、彼に目を凝らした。
社内で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ大嶌は、これまでの実績も相まって、社内ではとても有名だ。というもの、元々酒造メーカーのマーケティング事業部で働いていた彼を、上層部がヘッドハンティングしたからだ。
市場や顧客を把握し分析するのはどこの会社も同じだが、大嶌は酒造関係者が集まる鑑評会場で販路拡大に関する豊富な知識と見解を披露した。
その内容に感嘆した上層部が、大嶌の経歴を調べ上げたらしい。
今から数年前、日本酒の国内需要はワインや酎ハイなどに押されていた。特に二十代から三十代の若者には人気がない。
そこである酒造メーカーが、健康志向が強い二十代の人気芸能人を広告に起用し、オーガニック日本酒を大きく売り出した。
結果、日本酒のイメージを激変させることに成功する。その戦略を担ったのが、大嶌だったのだ。
その件を知ったKURASAKIコーポレーションの上層部は、すぐさまその手腕をうちの会社で発揮してほしいと伝え、大嶌が承諾したと言われている。
大嶌はKURASAKIコーポレーションのマーケティング事業部部長に就くや否や、全国の酒造元を回り、世界の地域ごとに合う日本酒を選び出して輸出した。これまでの経験を活かして見事に輸出ルートを広げ、海外の日本酒ブームの波に乗ってみせたのだ。
KURASAKIコーポレーションの名を国内外で高めた大嶌は能力を認められ、数年で取締役にまでなった。
専務や常務といった肩書きが付かない、所謂〝ヒラ取り〟だが、穏和な性格と手腕で、数年のうちにまた階段を上ると言われている。
とはいえ、それだけで異名が付くわけではない。
大嶌は誰に対しても優しくて、上品で、所作もスマートだった。
そんな男性を、女性社員が放っておくはずがない。
しかし大嶌は、愛想はいいが誰の誘いも受けないことで有名だ。なのに彼に憧れを抱く女性社員は多く、彼が通るたびに色めき立って黄色い歓声を上げる。
彼女たちとはまた意味合いが違うが、由美も大嶌を見ては目を輝かせる一人だ。
もし大嶌が優男を演じている可能性があると知ったら、由美はどうするだろうか。
いや、気にも留めない。由美はただ恰好いい男性を見て、眼福にあずかりたいだけだから……
「ありがとう。また気付いたことがあれば教えてください」
大嶌が丁寧に言うと、二十代後半ぐらいの女性社員は頬をほんのり染めた。
「もちろんです! その時は、大嶌取締役にお知らせしますね」
「ええ。待ってます」
女性社員が照れを隠すように頬に手を当てる。入れ替わるようにもう一人の女性が一歩前に出て、彼に何やら話しながら書類を渡す。
話を聞いた大嶌は朗らかに笑って、それを受け取った。
それにしても、大嶌の本性はいったいどっちなのだろうか。光富酒造で見せた傲慢な彼? それとも誰に対しても柔和な優男の彼?
本当に前者が大嶌の素顔だったら、皆騙されていることになる。
「そうだったら可哀想……」
「なんか言った?」
由美が小首を傾げる。
「えっ? ううん。なんでもない。じゃ、わたし、行くね。試飲会議があるから」
慌てて返事を濁し、胸にある資料とタブレットを由美に示した。
試飲会議とは、マーケティング事業部が集めた日本酒の中から、取引すべき商品があるのかを調べる重要なものだ。璃歌は一社員だが、入社試験で見せた利き酒能力を認められて、入社以降全ての試飲会議に出席している。
「いってらっしゃい! ……あっ、いくら〝ざる〟で酔わないからって、飲み過ぎはダメよ。アルコールの匂いをぷんぷんさせたら、部署の皆が酔っちゃう」
由美の言い方にぷっと噴き出すも、璃歌は彼女の肩を優しく叩いた。
「大丈夫。飲み過ぎないから安心して」
「うん……。でも璃歌は、頼まれると断れなくて、どんどん試飲していくから」
「ありがと。充分注意するね。じゃ、またあとでね」
そう言って歩き出すものの、急に肌がざわついてぶるっと寒気が走った。
璃歌は二の腕を擦りながら、何かに引かれるようにロビーに顔を向ける。すると、ロビーの中央からこちらを見上げる大嶌と目が合った。
璃歌の心臓が飛び跳ねて、息が止まりそうになる。すぐさま背を向け、タブレットを持つ手に力を込めた。
大嶌の目つきは、先ほど女性社員に向けていたものとは違う。光富酒造で見せたあの鋭い眼差しだ。やはり優男を演じていたのだ。
だが、たとえ偽っているとしても、璃歌には関係ない。
とにかくこちらから近づかないようにしなければ……
璃歌は自分に言い聞かせて、試飲会議が開かれるフロアへ向かった。
「失礼します」
三十二畳ほどの会議室は、まるで立食パーティが開かれているのではと錯覚するほど、テーブルの上に日本酒の瓶がずらりと置かれている。
既に各部署の責任者や、味覚試験に合格した社員たちがテーブルを回って試飲していた。
璃歌が周囲を見回していると、マーケティング事業部部長の野崎が笑顔で璃歌を手招きした。
五十代の野崎は、誰よりも璃歌の舌を認めてくれている。
「待ってたよ。さあ、始めてくれ」
「はい」
事前に資料は送られてくるが、璃歌はあまり読まない。というのも、日本酒造りの工程に興味がなく、そちらをチェックしてもちっとも頭に入ってこないからだ。
新入社員は入社後に日本酒の勉強会に参加するが、同期の中で一人だけ成果を出せなかった人物がいた。それが璃歌だった。
一年後、また勉強会に出席したが、やはり璃歌は落第。そのさらに一年後も合格できなかった。
そのたびに上司は苦言を呈したが、最近では〝白井さんには絶対音感ならぬ絶対舌感がある。もう勉強はいいからそっちで頑張れ〟と言って大目に見てくれている。
本当に、わたしは上司に恵まれてる。もちろん同僚にも――そう思いながら試飲用のコップを取り、口に含んだ。
璃歌は目を瞑り、口腔に広がる香りと旨みにうっとりする。
そうやって次々に試飲していき、タブレットでチェックシートにコメントを残してはデータを送った。
確かにどれも美味しいが、これといっておすすめできる決め手がない。どうしても光富酒造で試飲したような、あとからゆっくりと甘みが追いかけてくる日本酒と比べてしまう。
「光富酒造といえば……」
あの日、大嶌はアシスタントの小橋を連れて光富酒造に来ていた。
いったい何をしに行っていたのか。
璃歌は小首を傾げてコップを持ち上げるが、不意に会議室がやけに静まり返っていることに気付いた。
いつもなら談笑しながら飲む上司も真面目な顔つきで試飲しているし、他の人たちも黙々と仕事をしている。
「うん?」
いつもと違う雰囲気に、眉間に皺が寄る。
「野崎――」
くるっと身を翻して部長の名を口にした瞬間、璃歌は自分の背後にぴたりと立つ人物と目が合い、言葉を呑み込んだ。
なんとそこにいたのは、にこやかに微笑んでこちらを見下ろす大嶌だった。
何故ここに? ……大嶌のことは何もバラしてないのに!
璃歌は思わず一歩下がる。しかし背後のテーブルにぶつかり、よろけてしまった。
「危ない!」
大嶌が俊敏に動き、璃歌の腕を掴んで助けてくれた。
「あ、あ、ありがとうございます」
ひとまずお礼を言って腕を引くが、大嶌は手を離そうとしない。
周囲の目を恐れた璃歌は、大嶌にだけはっきりわかるように力を込める。でもそうすればするほど、彼は璃歌の腕を自分の方へ引っ張った。
璃歌の顔が引き攣るのも気にせず、大嶌はさらに一歩詰め寄ってくる。
どうしてこんな真似を?
璃歌がどぎまぎしていると、急に大嶌が優男の仮面を身に着けた。
「君が……マーケティング事業部の白井璃歌さんだね? 聞くところによると、日本酒の利き酒ができるとか」
初対面のふり? う、うん。それでいい――と心の中で大嶌の選択に賛同した璃歌は、おずおずと頭を振った。
「い、いいえ。日本酒について詳しいことはわかりません。感じたままを伝えています」
「感じたまま……ね。で、光富酒造はお気に召したわけだ」
大嶌が急に声をひそめたかと思ったら口調を変え、光富酒造の名を口にした。その変わり身の早さに、璃歌は目を見開く。
優男を演じながら、璃歌にだけわかるように本性を現した。つまり大嶌は、既に璃歌にはバレたと自覚しているため、素の彼を表に出したのだ。
はっきり言って、知りたくなかった。
璃歌はきつく唇を引き結び、軽く俯く。
「提出されたチェックシートを見させてもらったよ。この説明の仕方は独特だね」
大嶌は再び優男の仮面をかぶったのか、声が優しいものに変わる。
手のひらがじんわりと汗ばむのを感じながら、璃歌は生唾をごくりと呑み込んだ。
「……野崎部長」
大嶌に呼ばれた野崎は、すぐさま歩み寄る。
「白井さんは、いつもこんな風に……思ったことを書き込むのかな?」
「はい。数値のみを記せばいいんですが、白井は微妙な香りを嗅ぎ取る能力がありまして。それも選別の一つの手段になるので、好きなように書かせております」
「それほど優秀にもかかわらず、どうして日本酒の知識はないのかな」
大嶌の言い方に野崎がぎょっとするが、すぐに取り繕う。
「確かにおっしゃるとおりです。……ただ白井には無理をさせず、彼女の素晴らしい部分を伸ばしてあげたいと思いまして……」
野崎が慎重になりながら璃歌を庇うと、大嶌は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「そのとおりだ。部下を大切に思っているのが強く伝わってくる。だが、これでは勿体ない。日本酒の知識を伸ばしてあげないと……。彼女を少し借りてもいいかな?」
「えっ?」
思わず璃歌は声を漏らし、二人の会話を遮ってしまう。
野崎には目で窘められるが、大嶌は璃歌を空気のように扱い、野崎だけを見つめている。
「執務室にある日本酒を使って、少しテストをしたいんだ。白井さんがどういった感想を持つのか知りたくてね。もし結果が良ければ……今後について相談させてもらいたい」
「ええ、どうぞ試してみてください。白井は知識はからきしですけど、彼女の舌がどれほど凄いのかを知れば、きっと驚かれると思いますよ」
わたしの同意なしで勝手に決めないんでほしいんですが――と心の中で文句を言う璃歌に、野崎がサムズアップする。頑張ってマーケティング事業部の株を上げてこいと言われてるみたいで、一気に気持ちが重くなった。
「ではお借りします。白井さん、僕についておいで」
そう言うと、大嶌はさっさと歩き出した。
「部長、もし取締役の前で失敗したら、わたしはどうしたら――」
璃歌はあたふたしながら大嶌の背中を見て、野崎に視線を戻す。
「大丈夫。白井さんならできる。もし失敗したとしても問題ない。これまでとなんら変わらないんだから。気を楽にして行ってこい。それとも……執務室にある貴重な日本酒が飲めるのに、その機会を棒に振るのか?」
野崎の言葉に、璃歌は激しく頭を振った。
そのとおりだ。何が待ち受けているのかは想像すらつかないが、銘酒に出会うチャンスがあるのなら喜んで飛びつく。
璃歌の思いが顔に出ていたのか、野崎が相好を崩す。
「だろう? じゃ、行ってこい」
背を押された璃歌は、小走りで大嶌を追った。
それにしても、大嶌はいったい何を考えているのだろうか。野崎の許しをわざわざ得てまで、璃歌を自分の執務室に招くなんて、おかしいとしか言いようがない。
大嶌の執務室に続く廊下を歩きながら、璃歌は何度もこっそりとため息を吐いては項垂れた。
「どうぞ」
ハッとして顔を上げると、大嶌のアシスタントの小橋が頑丈そうなドアを開けていた。
大嶌は既に執務室に入り、奥にある大きなデスクへ進んでいる。
「すみません! 失礼します」
初めて入る役員室にまごつきながら、大嶌の執務室に足を踏み入れた。
大嶌が大型デスクの前でくるっと振り返る。そこに腰掛けて腕を組み、璃歌を睨み付けてきた。
何を言うでもなく、ただ璃歌の心を暴こうとするかのような態度だ。
璃歌は恭しい態度を保ちながら、優男の仮面を脱ぎ捨てた目の前の男性を観察する。
仕立てのいいスーツを着こなした大嶌は、光富酒造で会った日の雰囲気とまったく同じだ。
落ち着いた髪型に皺ひとつないシーツを着ているため同一人物だと気付きにくいが、こちらを射貫く眼差しの力強さは、あの日璃歌に静かにするように命じた際と変わらない。意志の強そうな唇も健在だ。
あの唇がわたしの唇を塞いで――と思い出した途端、意外にも柔らかかった感触が甦り、璃歌は慌てて大嶌のネクタイの結び目に視線を落とした。
ただ男性に掴まれた腕に意識を向け、〝離してくれませんか?〟という思いでわざとらしく彼を凝視する。
途端、男性は、触れてはいけないものに触れてしまったかのようにさっと手を離し、ホールドアップする。そして所在なげに両手を下ろした。
「こ、これは――」
男性が何か言おうとした拍子に人影が動いた。救急隊員の担架を拒否した光富だった。
「蔵元さん!」
璃歌は男性の横をすり抜けて、光富の身体を支える。
「すぐに助けられなくてごめんなさい!」
「私が隠れろと合図を送ったんだ。君が悪いわけじゃない。それより、あいつに見つかった時、とても勇敢だった。自分だけ隠れたそいつよりな」
そう言った光富が、静かに璃歌の隣に視線を移す。それを追うと、男性が無表情で光富を見つめ返していた。
どうして言い返さないのだろうか。男性は自分の意思で隠れたわけではないのに……
「蔵元さん、違うんです。彼の指示で物事が進んだからこうして警察官が突入できたんです。彼がわたしと一緒に捕まっていたら、解放されるのはもっとあとだったと思います」
璃歌の説明に、光富はまじろぎもせず男性に見入る。しかし彼には何も訊ねない。代わりに璃歌に目線を向けた。
「たとえそうだとしても、身体を張ったのはあいつではなく女性の君だ。……ありがとう。確か君は、商社で働いていると言ったな? 業種にもよるが、いろいろと協力できるかもしれない。名刺をカウンターに置いていってくれ。お礼がしたいんだ」
それって、運が良ければ光富酒造と取引させてもらえる?
「あ、ありがとうございます!」
なんという幸運だろうか。まさかの事態に璃歌は目を輝かせた。
光富も頬を緩めるが、どこかに痛みが走ったのか、急に顔を歪める。
「蔵元さん!」
「まず、先に病院へ行きましょう」
璃歌が叫ぶと、即座に救急隊員が光富の肘を掴んで外へ促す。彼は反論せずに歩き出した。
「君は商社勤務なのか?」
光富の背中を見送っていた璃歌だったが、男性に声をかけられて振り返る。彼は眉根を寄せていた。
「わたしは――」
「すみません。お話を伺えますか?」
そう言ったのは、璃歌より少し年上の女性警察官だった。もう一人は四十代ぐらいの男性警察官で、璃歌を助けてくれた男性の傍に立つ。
身元を訊かれた璃歌は、男性警察官に身分証明書を提示する男性を横目で確認しながら、カウンターに置きっ放しにしていたバッグを取りに行った。身分証明書を取り出して女性警官に渡す。
「白井璃歌、二十六歳です。住居は東京になります。ここには日本酒をいただきに来ました。会社員で、職場はKURASAKIコーポレーション――」
「何!?」
唐突に男性が声を上げたため、璃歌はそちらに意識を向けた。顔を青くした彼は、茫然と璃歌を見つめている。
その男性の隣には、いつの間にか別の男性が立っていた。初めて目にする彼は背が高く、髪をベリーショートにしている。璃歌に怒った男性より数歳年下のようだ。
不思議なことに、その人もまごついた様子で璃歌を凝視している。
どうして決まり悪そうな面持ちなのが、皆目見当がつかない。
「大嶌煌人さん、三十二歳。……あなたもKURASAKIコーポレーション勤務? ああ、彼女と一緒にこちらへ来られたんですね」
「……えっ?」
警察官の言葉を呑み込めず、一瞬眉を寄せる。しかし、男性と同じ会社だという事実が脳に浸透するにつれて、璃歌の胸は喜びでいっぱいになった。
一緒に危機を乗り切ったという仲間意識が芽生えていく。
それにしても、男性はどこの部署なのか。男性警察官が〝オオシマ〟と呼んでいたが、璃歌にはまったく思い当たらない。全社員を知っているわけではないので、それも仕方がないだろう。
璃歌が唯一知っている〝オオシマ〟は、雲の上のお方……取締役、ただ一人だ。
「うん? 雲の上のお方……?」
そこで璃歌は思考を止め、顔をしかめた。
雲の上のお方……? 〝オオシマ〟? まさか、そんなはずはない。どう見ても目の前の男性と取締役は、雰囲気が違う。同一人物と考える方がおかしい。
なのに胸の奥がざわついて変な気分になる。
璃歌は男性の正体を確かめるべく顔を上げた。
男性は人当たりのいい表情で警察官に応対していたが、ついと璃歌に焦点を合わせる。途端、居心地悪そうに片目を眇めた。
瞬間、誰に対しても優しい取締役の顔と、璃歌に辛辣なこの男性の顔がぴったりと重なった。何もかもが一つに繋がり、璃歌は言葉を失う。
気付かなくて当然だ。
何故なら璃歌が知る取締役の大嶌は、社内の女子の間で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ優男。横柄な態度を取るこの男性と同一人物だと見抜けるはずもない。
「仕事でご一緒だったんですか?」
女性警察官に問われて、璃歌は咄嗟に顔を伏せて激しく首を横に振った。
「知りません! 同じ会社とはいっても、全員知ってるわけではないので」
大嶌にも聞こえるように、璃歌は声を張り上げる。
そう、知らない方がいい。会社では誰にでも親切なあの人が、本当は横柄で、優男を演じているかもしれないだなんて……
「確かにそうですよね。全社員と顔見知りなわけないですもの。では、事件に巻き込まれた経緯や、どのような状況だったか詳しく教えていただけますか」
「は、はい。今日ここへ来たのは――」
璃歌は背中に刺さる視線を感じながら、女性警察官に説明する。
その間も、璃歌の頭の中はぐちゃぐちゃだった。厄介な問題に直面してしまったと、頭を抱えたいぐらいだ。
そんな状態で軽い事情聴取を受けたのち、璃歌たちは外へ出る。騒ぎを聞きつけて集まった野次馬の間を縫ってパトカーに乗り、管轄の警察署へ移動した。
大嶌とは別の部屋に連れていかれた璃歌は、今度は時系列に沿っての説明を求められる。何が起こったのか、再び詳細に説明した。
そうして警察署に到着して二時間あまり経った頃、いろいろな書類にサインをしてようやく事情聴取が終わった。
「疲れた……」
精神的にくたくただった璃歌は、廊下に出るなりボソッと呟いた。
少しソファに腰を下ろして頭を空っぽにしたい気持ちに駆られるものの、そうはせず、すぐさま廊下をきょろきょろと見回す。
大嶌はもう帰っただろうか。
その時、璃歌の事情聴取を担当した女性警察官が部屋から出てきた。
璃歌はすぐに女性警察官に「すみません」と声をかける。
「わたしと一緒にパトカーに乗っていた男性……大嶌さんはもう帰られましたか?」
「いいえ、まだ……出てきていませんね」
女性警察官は隣室を確認して、璃歌に告げた。
出てきてない? だったらこのまま逃げるに限る!
「そうですか。あの、わたしは用事があるのでこのまま東京に帰ります。もし彼がわたしのことを訊ねてきましたら〝先に帰京した〟とお伝え願えますでしょうか」
「わかりました。お気を付けてお帰りください」
璃歌は女性警察官に会釈し、警察署を出た。大通りに出たところでタクシーを拾い、駅に向かう。
わたしは大嶌さんと知り合っていません。本当の彼がどういう人か知りません。だから、どうかわたしのことは忘れて! ――そう心の中で叫び、璃歌は帰途に就いたのだった。
第一章
十二月に入り、紅葉が一層赤く染まり気温も低くなってきた。こういう時はどこか静かな田舎へ行き、色付く山々を観賞しながら日本酒をぐいっと飲みたくなる。
毎年そういう気分になるのだが、今年はまったく気が乗らない。光富酒造で起こった事件から二週間あまり経った今でも、いろいろと思い悩んでいるせいだろう。
「璃歌!」
仕事用のタブレットを胸に抱いて会議室に向かっていた璃歌は、不意に名前を呼ばれて立ち止まる。声がした方向を見ると、二階の手すりに手をのせて微笑む同期の川端由美がいた。
「いいところで会ったわ! こっちに来て」
璃歌よりも十センチ背が高いショートカットの由美が手招きする。彼女は席も隣で、仲良くしていた。
確か、璃歌が部署を出るほんの少し前に〝総務部に行ってくる〟と言って出たのに、どうしてこんなところにいるのか。
「由美? 総務へ行くって言ってたけど、どうしてここに?」
「あっ、それはもう終わった。これから戻るところだったんだけど……」
由美は唇の端を上げて、目線で階下を示す。
その表情で、璃歌はなんとなくわかった。
由美の趣味は、顔面偏差値が高い男性を眺めること。その人と付き合いたい、お近づきになりたいというのではなく、ただ見るだけで目の保養になるらしい。
こうして足を止めるということは、由美のお眼鏡に適った男性が視界に飛び込んできたに違いない。
「早く!」
由美は目を輝かせながら再度手で合図を送り、階下を覗き込む。
吹き抜けになったそこからロビーが見えるが、いったい誰がいるのだろうか。
呼ばれるままに近づくにつれて、女性の華やかな声が聞こえてきた。
「あっ……」
その瞬間、由美が誰を眺めていたのかわかった。顔を歪めながらも、彼女の隣から璃歌も階下を覗く。
思っていたとおり、そこには大嶌煌人がいた。彼のアシスタントの小橋周平もいる。璃歌が光富酒造で出会った二人だ。
小橋はいつも大嶌の傍に控えているのに、どうしてあの日はその存在を思い出さなかったのか。
普段から他人に興味を持たず、日本酒のことばかり考えているからかもしれない。
「大嶌取締役、今日も素敵ね。璃歌も日本酒ばかりに興味を持つんじゃなくて、少しはいい男を見て胸をときめかさないと。どう? 彼を見てときめく?」
璃歌は苦笑いしながらも、彼に目を凝らした。
社内で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ大嶌は、これまでの実績も相まって、社内ではとても有名だ。というもの、元々酒造メーカーのマーケティング事業部で働いていた彼を、上層部がヘッドハンティングしたからだ。
市場や顧客を把握し分析するのはどこの会社も同じだが、大嶌は酒造関係者が集まる鑑評会場で販路拡大に関する豊富な知識と見解を披露した。
その内容に感嘆した上層部が、大嶌の経歴を調べ上げたらしい。
今から数年前、日本酒の国内需要はワインや酎ハイなどに押されていた。特に二十代から三十代の若者には人気がない。
そこである酒造メーカーが、健康志向が強い二十代の人気芸能人を広告に起用し、オーガニック日本酒を大きく売り出した。
結果、日本酒のイメージを激変させることに成功する。その戦略を担ったのが、大嶌だったのだ。
その件を知ったKURASAKIコーポレーションの上層部は、すぐさまその手腕をうちの会社で発揮してほしいと伝え、大嶌が承諾したと言われている。
大嶌はKURASAKIコーポレーションのマーケティング事業部部長に就くや否や、全国の酒造元を回り、世界の地域ごとに合う日本酒を選び出して輸出した。これまでの経験を活かして見事に輸出ルートを広げ、海外の日本酒ブームの波に乗ってみせたのだ。
KURASAKIコーポレーションの名を国内外で高めた大嶌は能力を認められ、数年で取締役にまでなった。
専務や常務といった肩書きが付かない、所謂〝ヒラ取り〟だが、穏和な性格と手腕で、数年のうちにまた階段を上ると言われている。
とはいえ、それだけで異名が付くわけではない。
大嶌は誰に対しても優しくて、上品で、所作もスマートだった。
そんな男性を、女性社員が放っておくはずがない。
しかし大嶌は、愛想はいいが誰の誘いも受けないことで有名だ。なのに彼に憧れを抱く女性社員は多く、彼が通るたびに色めき立って黄色い歓声を上げる。
彼女たちとはまた意味合いが違うが、由美も大嶌を見ては目を輝かせる一人だ。
もし大嶌が優男を演じている可能性があると知ったら、由美はどうするだろうか。
いや、気にも留めない。由美はただ恰好いい男性を見て、眼福にあずかりたいだけだから……
「ありがとう。また気付いたことがあれば教えてください」
大嶌が丁寧に言うと、二十代後半ぐらいの女性社員は頬をほんのり染めた。
「もちろんです! その時は、大嶌取締役にお知らせしますね」
「ええ。待ってます」
女性社員が照れを隠すように頬に手を当てる。入れ替わるようにもう一人の女性が一歩前に出て、彼に何やら話しながら書類を渡す。
話を聞いた大嶌は朗らかに笑って、それを受け取った。
それにしても、大嶌の本性はいったいどっちなのだろうか。光富酒造で見せた傲慢な彼? それとも誰に対しても柔和な優男の彼?
本当に前者が大嶌の素顔だったら、皆騙されていることになる。
「そうだったら可哀想……」
「なんか言った?」
由美が小首を傾げる。
「えっ? ううん。なんでもない。じゃ、わたし、行くね。試飲会議があるから」
慌てて返事を濁し、胸にある資料とタブレットを由美に示した。
試飲会議とは、マーケティング事業部が集めた日本酒の中から、取引すべき商品があるのかを調べる重要なものだ。璃歌は一社員だが、入社試験で見せた利き酒能力を認められて、入社以降全ての試飲会議に出席している。
「いってらっしゃい! ……あっ、いくら〝ざる〟で酔わないからって、飲み過ぎはダメよ。アルコールの匂いをぷんぷんさせたら、部署の皆が酔っちゃう」
由美の言い方にぷっと噴き出すも、璃歌は彼女の肩を優しく叩いた。
「大丈夫。飲み過ぎないから安心して」
「うん……。でも璃歌は、頼まれると断れなくて、どんどん試飲していくから」
「ありがと。充分注意するね。じゃ、またあとでね」
そう言って歩き出すものの、急に肌がざわついてぶるっと寒気が走った。
璃歌は二の腕を擦りながら、何かに引かれるようにロビーに顔を向ける。すると、ロビーの中央からこちらを見上げる大嶌と目が合った。
璃歌の心臓が飛び跳ねて、息が止まりそうになる。すぐさま背を向け、タブレットを持つ手に力を込めた。
大嶌の目つきは、先ほど女性社員に向けていたものとは違う。光富酒造で見せたあの鋭い眼差しだ。やはり優男を演じていたのだ。
だが、たとえ偽っているとしても、璃歌には関係ない。
とにかくこちらから近づかないようにしなければ……
璃歌は自分に言い聞かせて、試飲会議が開かれるフロアへ向かった。
「失礼します」
三十二畳ほどの会議室は、まるで立食パーティが開かれているのではと錯覚するほど、テーブルの上に日本酒の瓶がずらりと置かれている。
既に各部署の責任者や、味覚試験に合格した社員たちがテーブルを回って試飲していた。
璃歌が周囲を見回していると、マーケティング事業部部長の野崎が笑顔で璃歌を手招きした。
五十代の野崎は、誰よりも璃歌の舌を認めてくれている。
「待ってたよ。さあ、始めてくれ」
「はい」
事前に資料は送られてくるが、璃歌はあまり読まない。というのも、日本酒造りの工程に興味がなく、そちらをチェックしてもちっとも頭に入ってこないからだ。
新入社員は入社後に日本酒の勉強会に参加するが、同期の中で一人だけ成果を出せなかった人物がいた。それが璃歌だった。
一年後、また勉強会に出席したが、やはり璃歌は落第。そのさらに一年後も合格できなかった。
そのたびに上司は苦言を呈したが、最近では〝白井さんには絶対音感ならぬ絶対舌感がある。もう勉強はいいからそっちで頑張れ〟と言って大目に見てくれている。
本当に、わたしは上司に恵まれてる。もちろん同僚にも――そう思いながら試飲用のコップを取り、口に含んだ。
璃歌は目を瞑り、口腔に広がる香りと旨みにうっとりする。
そうやって次々に試飲していき、タブレットでチェックシートにコメントを残してはデータを送った。
確かにどれも美味しいが、これといっておすすめできる決め手がない。どうしても光富酒造で試飲したような、あとからゆっくりと甘みが追いかけてくる日本酒と比べてしまう。
「光富酒造といえば……」
あの日、大嶌はアシスタントの小橋を連れて光富酒造に来ていた。
いったい何をしに行っていたのか。
璃歌は小首を傾げてコップを持ち上げるが、不意に会議室がやけに静まり返っていることに気付いた。
いつもなら談笑しながら飲む上司も真面目な顔つきで試飲しているし、他の人たちも黙々と仕事をしている。
「うん?」
いつもと違う雰囲気に、眉間に皺が寄る。
「野崎――」
くるっと身を翻して部長の名を口にした瞬間、璃歌は自分の背後にぴたりと立つ人物と目が合い、言葉を呑み込んだ。
なんとそこにいたのは、にこやかに微笑んでこちらを見下ろす大嶌だった。
何故ここに? ……大嶌のことは何もバラしてないのに!
璃歌は思わず一歩下がる。しかし背後のテーブルにぶつかり、よろけてしまった。
「危ない!」
大嶌が俊敏に動き、璃歌の腕を掴んで助けてくれた。
「あ、あ、ありがとうございます」
ひとまずお礼を言って腕を引くが、大嶌は手を離そうとしない。
周囲の目を恐れた璃歌は、大嶌にだけはっきりわかるように力を込める。でもそうすればするほど、彼は璃歌の腕を自分の方へ引っ張った。
璃歌の顔が引き攣るのも気にせず、大嶌はさらに一歩詰め寄ってくる。
どうしてこんな真似を?
璃歌がどぎまぎしていると、急に大嶌が優男の仮面を身に着けた。
「君が……マーケティング事業部の白井璃歌さんだね? 聞くところによると、日本酒の利き酒ができるとか」
初対面のふり? う、うん。それでいい――と心の中で大嶌の選択に賛同した璃歌は、おずおずと頭を振った。
「い、いいえ。日本酒について詳しいことはわかりません。感じたままを伝えています」
「感じたまま……ね。で、光富酒造はお気に召したわけだ」
大嶌が急に声をひそめたかと思ったら口調を変え、光富酒造の名を口にした。その変わり身の早さに、璃歌は目を見開く。
優男を演じながら、璃歌にだけわかるように本性を現した。つまり大嶌は、既に璃歌にはバレたと自覚しているため、素の彼を表に出したのだ。
はっきり言って、知りたくなかった。
璃歌はきつく唇を引き結び、軽く俯く。
「提出されたチェックシートを見させてもらったよ。この説明の仕方は独特だね」
大嶌は再び優男の仮面をかぶったのか、声が優しいものに変わる。
手のひらがじんわりと汗ばむのを感じながら、璃歌は生唾をごくりと呑み込んだ。
「……野崎部長」
大嶌に呼ばれた野崎は、すぐさま歩み寄る。
「白井さんは、いつもこんな風に……思ったことを書き込むのかな?」
「はい。数値のみを記せばいいんですが、白井は微妙な香りを嗅ぎ取る能力がありまして。それも選別の一つの手段になるので、好きなように書かせております」
「それほど優秀にもかかわらず、どうして日本酒の知識はないのかな」
大嶌の言い方に野崎がぎょっとするが、すぐに取り繕う。
「確かにおっしゃるとおりです。……ただ白井には無理をさせず、彼女の素晴らしい部分を伸ばしてあげたいと思いまして……」
野崎が慎重になりながら璃歌を庇うと、大嶌は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「そのとおりだ。部下を大切に思っているのが強く伝わってくる。だが、これでは勿体ない。日本酒の知識を伸ばしてあげないと……。彼女を少し借りてもいいかな?」
「えっ?」
思わず璃歌は声を漏らし、二人の会話を遮ってしまう。
野崎には目で窘められるが、大嶌は璃歌を空気のように扱い、野崎だけを見つめている。
「執務室にある日本酒を使って、少しテストをしたいんだ。白井さんがどういった感想を持つのか知りたくてね。もし結果が良ければ……今後について相談させてもらいたい」
「ええ、どうぞ試してみてください。白井は知識はからきしですけど、彼女の舌がどれほど凄いのかを知れば、きっと驚かれると思いますよ」
わたしの同意なしで勝手に決めないんでほしいんですが――と心の中で文句を言う璃歌に、野崎がサムズアップする。頑張ってマーケティング事業部の株を上げてこいと言われてるみたいで、一気に気持ちが重くなった。
「ではお借りします。白井さん、僕についておいで」
そう言うと、大嶌はさっさと歩き出した。
「部長、もし取締役の前で失敗したら、わたしはどうしたら――」
璃歌はあたふたしながら大嶌の背中を見て、野崎に視線を戻す。
「大丈夫。白井さんならできる。もし失敗したとしても問題ない。これまでとなんら変わらないんだから。気を楽にして行ってこい。それとも……執務室にある貴重な日本酒が飲めるのに、その機会を棒に振るのか?」
野崎の言葉に、璃歌は激しく頭を振った。
そのとおりだ。何が待ち受けているのかは想像すらつかないが、銘酒に出会うチャンスがあるのなら喜んで飛びつく。
璃歌の思いが顔に出ていたのか、野崎が相好を崩す。
「だろう? じゃ、行ってこい」
背を押された璃歌は、小走りで大嶌を追った。
それにしても、大嶌はいったい何を考えているのだろうか。野崎の許しをわざわざ得てまで、璃歌を自分の執務室に招くなんて、おかしいとしか言いようがない。
大嶌の執務室に続く廊下を歩きながら、璃歌は何度もこっそりとため息を吐いては項垂れた。
「どうぞ」
ハッとして顔を上げると、大嶌のアシスタントの小橋が頑丈そうなドアを開けていた。
大嶌は既に執務室に入り、奥にある大きなデスクへ進んでいる。
「すみません! 失礼します」
初めて入る役員室にまごつきながら、大嶌の執務室に足を踏み入れた。
大嶌が大型デスクの前でくるっと振り返る。そこに腰掛けて腕を組み、璃歌を睨み付けてきた。
何を言うでもなく、ただ璃歌の心を暴こうとするかのような態度だ。
璃歌は恭しい態度を保ちながら、優男の仮面を脱ぎ捨てた目の前の男性を観察する。
仕立てのいいスーツを着こなした大嶌は、光富酒造で会った日の雰囲気とまったく同じだ。
落ち着いた髪型に皺ひとつないシーツを着ているため同一人物だと気付きにくいが、こちらを射貫く眼差しの力強さは、あの日璃歌に静かにするように命じた際と変わらない。意志の強そうな唇も健在だ。
あの唇がわたしの唇を塞いで――と思い出した途端、意外にも柔らかかった感触が甦り、璃歌は慌てて大嶌のネクタイの結び目に視線を落とした。
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