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1巻
1-3
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奏汰は翠とデートしたいと言っているのだろうか。手を握られているせいでテンパってしまい、頭が上手く回転しない。何をどう言っていいのかわからず口ごもっていると、翠がまだ手にしていた白い封筒を指し、思わせぶりにニヤリとした。
「俺に付き合えば、それを受け取ってもいいよ。そういう大義名分がないと、翠が動けないんならね」
何かの後押しがなければ動けない奴なんだろ、そう言われて少しムッとする。でも、奏汰の表情を見てその気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
こんな風にリラックスした彼を見るのは初めてだったからだ。
無邪気に翠をからかい、それを楽しむ彼の表情がこんなにも素敵だなんて……
奏汰に見入っている翠に、彼はこれ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう。
奏汰はバイクから降りるなり、バイクのメットインスペースから予備のヘルメットを取り出し、初めて会った時と同じように翠の頭にかぶせた。
「えっ? わたし……まだ行くって言ってない!」
拒絶するのに、いとも簡単に奏汰の手に捕まってしまう。そして促されるまま、バイクに乗る彼に続いてその後ろに座ってしまった。
「じゃ、行くぞ。しっかり掴まってろよ」
翠は手に持っていた封筒をバッグに入れると、あの夜と同じように、彼の腰にためらいがちに両腕を回す。それを確認してから、奏汰がバイクを発進させた。
「ねえ、どこへ行くの? ……奏汰ってば!」
当然ながら翠の声は、バイクの音と風でかき消される。いろいろ言いたいことはあるのに、グイグイ引っ張られるともう何も言えなかった。翠は奏汰の腰に回した手に力を込め、そっと彼の背中に寄りかかった。
それから約二時間後。バイクがたどり着いた先は、お台場だった。駐車場にバイクを置き、迷わず商業施設へ向かう奏汰に訊ねる。
「ねえ、買い物がしたいの?」
「いや、別に。ただブラブラしたいだけ」
奏汰の要領を得ない答えに、翠は力なく頭を振った。
それだけなら、別にお台場まで来なくても良かったのに……
何も話そうとしない奏汰の横で唇を尖らせていると、いきなり彼が翠の肩を抱いてきた。
「何か軽く食べてから動こう。俺、昼飯食べてないんだ」
奏汰は気さくに話しかけ、なんでもないことのように翠に触れる。でも翠にしてみれば、心臓がバクバクして肩の力を抜くどころではなかった。
どうして奏汰に対しては、まるで無垢な少女みたいに心が震えてしまうのだろう。
その答えを探すために、翠はそっと彼の横顔を振り仰ぐが、そこに答えがあるはずもない。
自分の気持ちなのによくわからないそのもどかしさから、翠が小さくため息をついた時、奏汰が目の前のレストランを指した。
「あそこに入ろう」
奏汰の様になるエスコートを受けて、翠はイタリアンレストランに入った。
何を注文しようかとメニューを見ながら悩んでいると、ふと周囲から視線を感じ、翠は顔を上げた。
そこで初めて、奏汰がレストランにいる女性客の眼差しを一身に浴びていることに気付いた。興味津々な目もあれば、頬を染めてちらちらと彼を見ている女性もいる。その反応に影響され、翠も改めて彼を観察した。
初めて奏汰を見た時も思ったが、その精悍な顔立ちは、まるでモデルや俳優のようだ。少し俯き加減になって何かを真剣に見るその目は妙に艶っぽいし、堅く結ばれた口元には意志の強さが垣間見える。喉仏が動くたびに、ドキッとしてしまう男の色気も持ち合わせている。しかも、奏汰はすらっとして身長も高いし、体躯も引き締まっている。女性が目を奪われないはずがない。
奏汰って、こんなにかっこいいんだ……
翠はふと、メニューを持つ彼の手に視線を落とした。
その瞬間、翠の心臓がドキドキし始めた。
奏汰の骨ばった大きな手は一見不器用そうに見えるが、とても器用に優しく動く。その手がどんな風に動き、触れ、翠の心を震わせたのかを思い出してしまい、急に躯がうずうずしてくる。
でも、すぐに翠の表情が強張った。翠の髪や頭に優しく触れたように、他の女性にもそうするかもしれないと思っただけで、奏汰が美女を抱くベッドシーンが脳裏に浮かんだからだ。
その光景を振り払おうとして、翠は瞼をギュッと閉じる。でも、その生々しい光景は頭から消えてはくれない。それどころかどんどん鮮明になっていく。
針で刺されたような痛みが胸に走り、翠は思わず唇を強く引き結んだ。
何、この気持ち。どうして奏汰が他の女性を愛するシーンを想像しただけで、心が悲鳴を上げるのだろう。これではまるで、奏汰に恋をしているみたいだ。
そう思った途端、翠の心臓の鼓動が速くなる。
奏汰に……恋!?
想像すらしていなかった考えに衝撃を受け、翠の手足がぶるぶる震え出した。その震えを抑える努力をするが、それは一向に止まらない。
翠はウエイターが置いてくれたレモン水を飲んで、気持ちを落ち着かせようとする。だが、震えの止まらない手で触ってしまったせいで、コップを倒してしまった。
「あっ!」
水が、翠の膝めがけて零れ落ちる。慌てて椅子を蹴って立ち上がるが間に合わず、ジーンズが濡れてしまった。
「翠、何やってるんだよ」
あからさまに呆れた表情を浮かべながらも、奏汰は席を立って翠の傍に来た。ポケットからハンカチを取り出して跪き、翠の濡れたジーンズを拭い始める。
「ご、ごめんなさい!」
奏汰のごつごつした大きな手が美女の肌を愛撫する光景を想像したせいか、翠は奏汰の手つきに顔が真っ赤になった。
「ったく、そそっかしいなんて聞いてないぞ」
文句を言いつつも、親身になってくれる奏汰。恥ずかしい気持ちもあるのに、その紳士的な態度に、翠はうっとりと彼に見入ってしまった。
「大丈夫ですか!」
布巾を手にしたウエイターの声で、翠はハッと我に返る。
「あっ、はい!」
そう返事をする声が上擦ってしまう。それでもなんとか笑顔を作り、ウエイターにテーブルを汚してしまったお詫びと、片付けに対する礼を言った。
「礼を言ってほしいのは、俺の方なんですけど」
奏汰が嫌みったらしく言って、翠を睨む。だが、羞恥で頬を染める翠を見て気分が変わったのか、彼はゆっくり立ち上がり、ウエイターへ視線を向けた。
「すみません。せっかくテーブルをセットしてもらったんですけど、店を出ます。彼女、服が濡れて気持ち悪がってるから」
「どうぞ気になさらないでください。それよりも、どうぞお連れさまの方を――」
気遣ってくれるウエイターに、奏汰が頭を下げる。そして、翠のバッグを椅子から取ると、翠の手を掴んで店をあとにした。
「ねえ、どこへ行くの? 化粧室なら、あそこ!」
化粧室が記された案内板を指すが、奏汰はそちらへ行こうとはしない。
「ねえ、奏汰ってば」
「今日は俺に付き合ってくれるんだろ? だから、翠は何も心配しなくていい」
少し機嫌が直ったのか、肩越しに翠を見る奏汰は、楽しそうに笑っていた。
そんな顔をされると、また翠の心臓が激しく高鳴り始める。その音が大きくなるにつれて周囲の音が掻き消えていき、翠の目には奏汰しか映らなくなる。
こんなに優しくしてくれるなんて、もしかして翠に対する心証が変わったのだろうか。
そう思ってしまうほど、翠を見る奏汰の目は、初めて会ったあの日とは違う。
ねえ、そうなの? 少しはわたしを気にしてくれているの? ――素直に言えない言葉を心の中で囁きながら、翠は奏汰を見つめ続けた。
力強く翠の手を引っ張る、奏汰の広い背中、そして彼の端整な横顔を……
それから数分後。
エスカレーターで階を移動して向かった先は、婦人服の店が並ぶフロアだった。奏汰は最初からどこへ行くか決めていたみたいで、よそ見など一切せず、堂々とした態度でひとつのブティックに入る。
二十代の女性店員が笑顔で出迎えてくれたが、その表情は奏汰の顔を見て一変した。
「まあ、伊瀬さま! 本日のご用件はなんでしょうか? 実は、店長はただいま不在でして……」
店員は明らかに狼狽している。しかも、それを隠せないまま奏汰に話しかけている。
翠はそのふたりを観察するように、交互に見比べた。奏汰は、婦人服を扱うブティックの店員に名前を覚えられている。それはつまり、この店をよく利用する常連客のひとりということだ。
もしかして、恋人と連れ立って買い物に来ているのかもしれないと思った途端、翠の胸に不愉快なものが湧き起こった。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。こんな気持ちになる原因がわかれば、苦しい思いをしなくてもすむのに。
翠は瞼を閉じ、見知らぬ誰かに対する汚い感情を心の奥底へ抑え込もうとして俯いた。
「別に店長に用事じゃないから。今日は仕事とは無関係、彼女の服を買いにきたんだ」
思いがけず聞こえた奏汰の言葉に翠は息を呑み、問うように彼を見上げる。
「仕事とは無関係って……えっ?」
翠は小さな声で囁くが、奏汰の意識は既にハンガーにかけられた婦人服に移っていて、その返事を聞けなかった。
ひとり残された翠は、手持ちぶさたで、ふとマネキンに着せられたワンピースの値札を見た。
「嘘……、こんなにするの!?」
普段なら到底手を出さない、いや、出せない値段に、一気に翠の顔から血の気が引く。こんなに高い服は買えないし、買ったとしても気安く着られない。
早く断らなければと思うものの、奏汰は女性店員とあれやこれやと話しているので、なかなか声をかけられなかった。
奏汰は時々店の入り口でおろおろしている翠に目をやるが、それは単に手にした服が翠に似合うかどうかを確認しているだけのようで、すぐ女性店員との話に戻る。
翠は、奏汰たちから視線をついと逸らした。
このまま店から出てしまおうか。もう少しリーズナブルな店へ行けば、手持ちで買えるはずだ。その方が断然いいと思い、翠は身を翻した。だが、一歩踏み出そうとしたところで、奏汰に手首をがっちり掴まれる。
「何してるんだよ、さっきから呼んでるのに。ほら、早くフィッティングルームへ行ってこい」
顎で指した先で店員が服を持ち、翠が来るのを待っている。
「ねえ、わたしには買えない。だって高いもの」
翠は青ざめた顔で頭を振り、小声で奏汰に伝えた。すると、彼は不快そうに顔を歪める。
「あのさ、俺が女に払わせると本気で思ってるわけ? 金の心配はしなくていいから、早く行けって」
翠は強引に奏汰に引っ張られ、そして背を押された。
「さあ、どうぞ入ってください」
目の前でにこやかに微笑む女性店員、後ろには仁王立ちして一歩も引かない様子の奏汰。
もう前に進むしかない。
翠は背中に痛いほどの視線を受けながら、しぶしぶ靴を脱ぎ、広いフィッティングルームに入った。
「服はこちらの棚に置きますね。濡れたものは、この紙袋へ入れてください」
店員は笑顔で告げると、フィッティングルームから出ていった。
正直、着替えたくはない。でも、濡れた服をいつまでも着ていたくなかった。
翠は覚悟を決めると服を脱ぎ、用意してくれた紙袋へそれらを入れる。それからキャミソール、七分袖のシフォンのワンピース、カーディガンを着た。
「着替え、終わりましたか?」
カーテンの傍から聞こえた女性店員の声に、翠は「はい!」と答えた。直後「失礼しますね」という声に続いてカーテンが開き、彼女が入ってきた。
「わあ、とても素敵です! これじゃ、伊瀬さまも大変かも」
楽しそうにクスクス笑う女性店員の声を聞いても、姿見に映る翠の表情は強張っていた。
彼女の言うとおり、そのワンピースは翠に似合っていて、今着ていたものより女らしく見える。でも、翠を飾ってくれたそれらの合計金額を思うと気が引けて、素直に受け答えできなかった。
翠は顔を引き攣らせたままフィッティングルームを出て、奏汰の姿を探す。彼はぶらぶらとディスプレイされた服を見ていたが、翠の視線に気付いたのかおもむろに顔を上げた。
奏汰は翠を見て目を見開いたあと、すぐに満足そうに頬を緩めた。
「とても似合ってる。よし、全てもらおう」
「伊瀬さま、ありがとうございます!」
会計を済ませた奏汰はメモ用紙に何かを書き、それを女性店員に渡してフィッティングルームを指した。何をしているのかと思ったが、彼は翠に近づき、何も言わず手を握る。
「さあ、行こう」
店員の「ありがとうございました」という声に翠は一度振り返ったが、すぐに奏汰を見上げた。
やっぱり今日の奏汰の態度はおかしい。
今まで、手首を掴んで引っ張られたことは何度もあった。でも、こうやって彼から手をつないできたら、ふたりは親密な関係だと勘違いしてしまいそうになる。
ねえ、これはどういう意味? 奏汰の気持ちを聞かせてよ――そう言えたらどんなにいいだろう。
素直に訊けない自分の感情を持て余しながら、翠は彼と一緒に一階へ向かった。
今度こそ軽食をとるためオープンテラスのあるカフェに入り、クラブハウスサンドウィッチと飲み物を注文する。そしてふたりで、たわいもない話をしながら食事をした。
お腹が満たされると、翠はオレンジジュースを飲み、椅子の背にもたれて奏汰に目をやる。
「奏汰。あの……服の代金は絶対返すから」
奏汰は、答えるのも面倒だと言わんばかりに片眉を上げる。それでも翠が絶対返すと言い募ると、彼は大儀そうに大きくため息をついた。
「俺が買ってやったんだから気にするなって。そもそも男が女に服をプレゼントするのには、意味があるんだよ」
「えっ? 意味って何?」
きょとんとして訊き返すと、奏汰が信じられないと言いたげに目を剥く。
「もしかして、そういう男と今まで付き合ってこなかったのか?」
「どうもすみませんね! 過去に付き合った彼氏に服をプレゼントしてもらったことは、一度もありません」
翠は、たまらず唇を尖らせて拗ねる。
「なるほどね。まあ、それはそれで……なんというか、正直心が軽くなるか」
「何言ってるのか、全くわからないんですけど」
ジロリと睨む翠に、奏汰はとうとう苦笑いした。
「あのさ、男が女に服をプレゼントする時は、男なりにそこに含みを持たせてるわけ……」
奏汰はしばらく何か考え込むように黙っていたが、急にニヤリとして降参だとばかりに両手を上げた。
「駆け引きはもうやめだ。正直に話すよ。男が服を贈る理由、それは……その服を脱がす権利をくださいねって意味」
「えっ? 服を、脱がす権利!?」
翠は、奏汰の言葉に度肝を抜かれた。
女性の服を男性が脱がせてすることといったら、ひとつしかない。
奏汰が翠の素肌に優しく触れ、そのあとを彼の唇がたどる生々しい光景が脳裏に浮かんだ。意識すればするほど、彼の唇が肌を愛撫し、感じてしまう自分の姿が頭から消えない。顔を隠すように手の甲を口元にあてるが、もうダメだった。
翠は羞恥で頬を真っ赤にすると、テーブルに手をついて乱暴に席を立つ。
「……っ!」
翠は奏汰に背を向け、何も言わずテラスから飛び出した。
「信じられない、信じられない!」
翠は、人目も気にせず何度も独り言を呟いた。勢いのまま道路を横切るが、海岸へ入る直前で足を止める。そして、肩で息をしながら、翠はそっと振り返った。
遠目からでもはっきりわかる。奏汰は手で口元を覆い、肩を震わせて笑っている。
どうしてこんなに、奏汰に振り回されてしまうのだろう。とんでもない出会いをしてからまだ数日しか経っていないのに、彼の態度と言葉に一喜一憂してばかり。
「もう!」
翠は靴とソックスを脱ぐと、足の指の間に入り込む砂の感触を楽しみながら砂浜の上を歩き出した。
何故こんなにも奏汰を気にしてしまうのか、その理由を改めて考えようとする。
頭をよぎるのは、奏汰の傲慢な態度の裏にある紳士的な優しさだった。言動は乱暴に感じるのに、それを全て取っ払ってしまうほどの温かさが彼にはある。
翠の髪をカットしてくれたことや、濡れた服を着替えたいと翠が言わなくても気持ちを悟ってくれたことがそうだ。
もちろん、さっきの奏汰の話から、そこに下心があったのはわかった。当然、はめられた感は否めない。でも正直に口にしてくれた奏汰に、翠は好感を持った。そして、そんな彼に女性として自分を好きになってほしいとさえ思っている。
その瞬間、翠は音を立てて息を吸い込んだ。
好きになってほしいって、もしかして……奏汰に恋してる?
翠は自分の気持ちを確かめるために、もう一度奏汰のいるカフェへ目を向けた。だがそこに彼はいなかった。奏汰はここから十メートルほど離れた場所に立ち、ポケットに手を突っ込んだまま翠を見守るようにじっとこちらを見つめている。
風の音、子どものはしゃぐ声、そして浜辺に打ち寄せる波の音がどんどん遠ざかっていく。翠が感じるのは、奏汰の強い眼差しと、それに合わせて高鳴る鼓動だけ。
ブルッと震えたのは海から吹く風のせいだけではない、胸の奥からあふれる奏汰への想いが、息苦しいほどに高まってきたからだ。
ああ、わたしはこんなにも奏汰に恋をしてる! ――自分の気持ちに気付いた翠は、想いを目に宿したまま奏汰を見つめ返した。
奏汰は翠と目を合わせるなり、ふっと笑って少し伏し目がちになる。しばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて彼はゆっくり顔を上げて、翠の方へ歩き出した。
奏汰の顔がどんどん鮮明になる。翠だけを見つめていることがわかるほど近くへ、彼が寄ってきた。
「翠?」
奏汰が、気遣わしげに翠の名前を呼ぶ。それでも翠は、彼をただ見つめ返すことしかできなかった。
どうして今になって好きな人ができるんだろう。もっと早く奏汰と出会っていれば、この恋を成就させるために頑張れたかもしれないのに。
そう思っても、もう未来は変えられない。明日、翠は結婚するかもしれない人と同居をスタートさせる。恋をしていられるのは、今しかない。
翠は一度唇を引き結んで目を伏せるが、すぐににっこり微笑んだ。だが、翠の態度の変化が解せないのか、奏汰は眉間に皺を刻んでじっと翠の目を覗き込んでくる。
奏汰の意味深な眼差しに気付かない振りをして、翠は顔を背けた。
「ねえ、座らない?」
翠は、奏汰の腕を引っ張って波打ち際から少し離れた場所へ移動すると、そこに腰を下ろした。目と耳で景色を楽しむためじっと海を眺める。
奏汰とは、あと数時間ほどしか一緒に過ごせない。だからこそ、素直な気持ちで彼といろいろな話をしたい。
翠は、隣に座る奏汰にゆっくり視線を移す。
「ねえ、奏汰。今日はわたしを誘ってくれてありがとう」
「なんだよ、急にしおらしくなって」
砂の中に足を潜らせてはそれが足をくすぐる感触を楽しみながら、翠は奏汰の言葉に笑った。
「だって本当のことだもの。こうやって男の人とふたりきりで出かけるなんて、えーと三年振りかな。大学を卒業してからずっと仕事が楽しくて、男っ気はさっぱりだったから。今日は楽しかった」
「じゃ、その間、男はひとりもいなかった?」
奏汰は信じられないと言いたげに目を見開き、翠の顔をまじまじと見る。
そんなに驚くことだろうか。
「うん、誰とも付き合わなかった。っていうか、好きな人ができなかっただけなんだけどね」
翠はあくまで好きな人がいなかったからだと笑いでまぎらわせて、肩をすくめた。
「それにしても、久しぶりに一緒に過ごした男性が奏汰だなんて、今でも信じられない。だって、いきなりわたしの前に現れたと思ったら、なんの説明もなしにバイクで拉致するような人なのに」
さあ、反論できるものならしてみなさいと言わんばかりに、翠はいたずらっぽく笑って奏汰の腕を小突いた。
翠がそんな昔からの友達みたいな態度を取るとは思わなかったのか、奏汰は目を見開き、翠が困惑するほど凝視してきた。まじまじと見られるのに慣れていないせいもあり、翠は照れながら目を伏せようとする。だがそうする前に、奏汰が肩から力を抜き口元を綻ばせた。
「確かに、翠の言うとおりだな。俺も信じられない。髪を引きちぎり、キャンキャンわめく女とこういう時間を持つなんて、想像すらしてなかった」
奏汰は身振りで翠が公園で取った仕草を真似し、それが強烈だったと示す。
「あれは、動けなかったから仕方ないの! でも、奏汰に綺麗にカットしてもらえたから、わたしにしてみれば素敵な出来事だったのかも」
ふっと笑みを零した翠の髪を、奏汰が手を伸ばして掴んだ。特に引っ張られたわけではないのに、翠の躯が少し彼へ引き寄せられる。
「そうだな。俺も想像すらしてなかったよ。翠を中里の店へ連れていく予定なんてなかったのに。翠の髪を、俺の手でカットする予定もなかったのに」
奏汰は掴んでいた髪を離すが、そのまま髪の中に手を滑らせ、翠の側頭部に触れる。その仕草に、翠の心拍数は急激に上がり、躯が熱くなった。意識して呼吸のリズムを作らないと息をするのも辛く、このままでは窒息してしまいそうだ。
「なあ、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。翠との出会いからして、俺が考えていたものとは違う形で進むし。だけど、それが良かったんだろうな。翠と接してみて、俺が思っていた人物とは真逆だってわかったから」
奏汰が何か重要な話をしている。それは頭の片隅でなんとなくわかっていたものの、彼の言葉がどんどん聞き取り辛くなる。奏汰のあまりにも優しい表情――それを見ているだけで翠の胸にふわっとした温かいものが流れ込んできて、頭がボーッとしてしまうせいだ。
結局、ところどころ奏汰の言う意味が理解できなかったが、ひとつだけわかったことがある。それは、奏汰が翠という人物をきちんと見て、最初の印象を覆してくれたということだ。
それがたまらなく嬉しくて、幸せで、翠の躯が自然に震えた。
「……好き」
突然、奏汰は衝撃を受けたように目を大きく見開き、翠の顔をまじまじと見る。
「好きって?」
奏汰に訊ねられて、翠は初めて気付いた。込み上げてくる想いを堪え切れず、奏汰への想いを口に出していたことを。
素直に彼と接したいとは思ったけれど、絶対に告白だけはするつもりはなかった。奏汰に自分の想いを告げたところで、どうにもならないとわかっていたからだ。
それなのに感情のまま口に出してしまうなんて。どう言い訳をすればいいのだろう。
「翠?」
翠の側頭部に触れていた奏汰の手が、後頭部に回った。その手に力が入り、彼の方へ引き寄せられる。吐息が頬をかすめるほどの距離に、翠は咄嗟に目を瞑った。
今ここで奏汰への気持ちを告げてもどうにもならないのだから、絶対に言ってはいけない。
愛を囁けない苦しみに耐えてから、翠は自分に触れる彼の腕にそっと手をかけた。
「そういう風に、第一印象が間違っていたって、素直に口に出せる奏汰の人柄が好きって言ったの」
翠は、自分でも苦しい言い訳だなと思いながら目を開けた。でも、そう言って誤魔化すほかなかった。
大丈夫。今ならまだ、奏汰のことを諦められる。彼に恋をしただけで、何も始まってはいないのだから。
「ねえ、そろそろ帰ろっか。暗くなってからのバイクの運転って疲れるでしょ?」
奏汰は翠の言葉に一瞬躊躇し、何かを言おうと口を開く。だが、彼は開きかけた口を途中で閉じた。
「そうだな……。もう帰ろう。今どうこうしなくたって、俺たちには長い時間があるしな」
ううん、わたしたちの間にそんな時間は永遠にやってこない――そう言いたかったが、翠は何も言わずに立ち上がった。続いて奏汰も腰を上げ、砂を払う。
それから翠は、奏汰と肩を並べてバイクを置いた駐車場に向かった。
行きとは違って帰りは少し時間がかかったが、その間奏汰を独占できたので、翠は幸せだった。
言い訳をしなくても彼の腰に腕を回すことができ、抱きしめても文句を言われないその体勢に、翠は喜びさえ感じていた。
でも、家に近づくにつれ、奏汰との別れがだんだん間近に迫っていると意識し始める。それに合わせて、焦燥感が込み上げてくる。
奏汰の背に向かって〝このままわたしをどこかへ連れ去って!〟と何度も口走りそうになったが、それでも口にしなかったのは、やはり勇気が出なかったからだろう。
バイクが家の前に止まると、翠はワンピースが絡まらないよう注意してバイクから降りた。すぐにヘルメットを取り、それを奏汰に手渡す。
「俺に付き合えば、それを受け取ってもいいよ。そういう大義名分がないと、翠が動けないんならね」
何かの後押しがなければ動けない奴なんだろ、そう言われて少しムッとする。でも、奏汰の表情を見てその気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
こんな風にリラックスした彼を見るのは初めてだったからだ。
無邪気に翠をからかい、それを楽しむ彼の表情がこんなにも素敵だなんて……
奏汰に見入っている翠に、彼はこれ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう。
奏汰はバイクから降りるなり、バイクのメットインスペースから予備のヘルメットを取り出し、初めて会った時と同じように翠の頭にかぶせた。
「えっ? わたし……まだ行くって言ってない!」
拒絶するのに、いとも簡単に奏汰の手に捕まってしまう。そして促されるまま、バイクに乗る彼に続いてその後ろに座ってしまった。
「じゃ、行くぞ。しっかり掴まってろよ」
翠は手に持っていた封筒をバッグに入れると、あの夜と同じように、彼の腰にためらいがちに両腕を回す。それを確認してから、奏汰がバイクを発進させた。
「ねえ、どこへ行くの? ……奏汰ってば!」
当然ながら翠の声は、バイクの音と風でかき消される。いろいろ言いたいことはあるのに、グイグイ引っ張られるともう何も言えなかった。翠は奏汰の腰に回した手に力を込め、そっと彼の背中に寄りかかった。
それから約二時間後。バイクがたどり着いた先は、お台場だった。駐車場にバイクを置き、迷わず商業施設へ向かう奏汰に訊ねる。
「ねえ、買い物がしたいの?」
「いや、別に。ただブラブラしたいだけ」
奏汰の要領を得ない答えに、翠は力なく頭を振った。
それだけなら、別にお台場まで来なくても良かったのに……
何も話そうとしない奏汰の横で唇を尖らせていると、いきなり彼が翠の肩を抱いてきた。
「何か軽く食べてから動こう。俺、昼飯食べてないんだ」
奏汰は気さくに話しかけ、なんでもないことのように翠に触れる。でも翠にしてみれば、心臓がバクバクして肩の力を抜くどころではなかった。
どうして奏汰に対しては、まるで無垢な少女みたいに心が震えてしまうのだろう。
その答えを探すために、翠はそっと彼の横顔を振り仰ぐが、そこに答えがあるはずもない。
自分の気持ちなのによくわからないそのもどかしさから、翠が小さくため息をついた時、奏汰が目の前のレストランを指した。
「あそこに入ろう」
奏汰の様になるエスコートを受けて、翠はイタリアンレストランに入った。
何を注文しようかとメニューを見ながら悩んでいると、ふと周囲から視線を感じ、翠は顔を上げた。
そこで初めて、奏汰がレストランにいる女性客の眼差しを一身に浴びていることに気付いた。興味津々な目もあれば、頬を染めてちらちらと彼を見ている女性もいる。その反応に影響され、翠も改めて彼を観察した。
初めて奏汰を見た時も思ったが、その精悍な顔立ちは、まるでモデルや俳優のようだ。少し俯き加減になって何かを真剣に見るその目は妙に艶っぽいし、堅く結ばれた口元には意志の強さが垣間見える。喉仏が動くたびに、ドキッとしてしまう男の色気も持ち合わせている。しかも、奏汰はすらっとして身長も高いし、体躯も引き締まっている。女性が目を奪われないはずがない。
奏汰って、こんなにかっこいいんだ……
翠はふと、メニューを持つ彼の手に視線を落とした。
その瞬間、翠の心臓がドキドキし始めた。
奏汰の骨ばった大きな手は一見不器用そうに見えるが、とても器用に優しく動く。その手がどんな風に動き、触れ、翠の心を震わせたのかを思い出してしまい、急に躯がうずうずしてくる。
でも、すぐに翠の表情が強張った。翠の髪や頭に優しく触れたように、他の女性にもそうするかもしれないと思っただけで、奏汰が美女を抱くベッドシーンが脳裏に浮かんだからだ。
その光景を振り払おうとして、翠は瞼をギュッと閉じる。でも、その生々しい光景は頭から消えてはくれない。それどころかどんどん鮮明になっていく。
針で刺されたような痛みが胸に走り、翠は思わず唇を強く引き結んだ。
何、この気持ち。どうして奏汰が他の女性を愛するシーンを想像しただけで、心が悲鳴を上げるのだろう。これではまるで、奏汰に恋をしているみたいだ。
そう思った途端、翠の心臓の鼓動が速くなる。
奏汰に……恋!?
想像すらしていなかった考えに衝撃を受け、翠の手足がぶるぶる震え出した。その震えを抑える努力をするが、それは一向に止まらない。
翠はウエイターが置いてくれたレモン水を飲んで、気持ちを落ち着かせようとする。だが、震えの止まらない手で触ってしまったせいで、コップを倒してしまった。
「あっ!」
水が、翠の膝めがけて零れ落ちる。慌てて椅子を蹴って立ち上がるが間に合わず、ジーンズが濡れてしまった。
「翠、何やってるんだよ」
あからさまに呆れた表情を浮かべながらも、奏汰は席を立って翠の傍に来た。ポケットからハンカチを取り出して跪き、翠の濡れたジーンズを拭い始める。
「ご、ごめんなさい!」
奏汰のごつごつした大きな手が美女の肌を愛撫する光景を想像したせいか、翠は奏汰の手つきに顔が真っ赤になった。
「ったく、そそっかしいなんて聞いてないぞ」
文句を言いつつも、親身になってくれる奏汰。恥ずかしい気持ちもあるのに、その紳士的な態度に、翠はうっとりと彼に見入ってしまった。
「大丈夫ですか!」
布巾を手にしたウエイターの声で、翠はハッと我に返る。
「あっ、はい!」
そう返事をする声が上擦ってしまう。それでもなんとか笑顔を作り、ウエイターにテーブルを汚してしまったお詫びと、片付けに対する礼を言った。
「礼を言ってほしいのは、俺の方なんですけど」
奏汰が嫌みったらしく言って、翠を睨む。だが、羞恥で頬を染める翠を見て気分が変わったのか、彼はゆっくり立ち上がり、ウエイターへ視線を向けた。
「すみません。せっかくテーブルをセットしてもらったんですけど、店を出ます。彼女、服が濡れて気持ち悪がってるから」
「どうぞ気になさらないでください。それよりも、どうぞお連れさまの方を――」
気遣ってくれるウエイターに、奏汰が頭を下げる。そして、翠のバッグを椅子から取ると、翠の手を掴んで店をあとにした。
「ねえ、どこへ行くの? 化粧室なら、あそこ!」
化粧室が記された案内板を指すが、奏汰はそちらへ行こうとはしない。
「ねえ、奏汰ってば」
「今日は俺に付き合ってくれるんだろ? だから、翠は何も心配しなくていい」
少し機嫌が直ったのか、肩越しに翠を見る奏汰は、楽しそうに笑っていた。
そんな顔をされると、また翠の心臓が激しく高鳴り始める。その音が大きくなるにつれて周囲の音が掻き消えていき、翠の目には奏汰しか映らなくなる。
こんなに優しくしてくれるなんて、もしかして翠に対する心証が変わったのだろうか。
そう思ってしまうほど、翠を見る奏汰の目は、初めて会ったあの日とは違う。
ねえ、そうなの? 少しはわたしを気にしてくれているの? ――素直に言えない言葉を心の中で囁きながら、翠は奏汰を見つめ続けた。
力強く翠の手を引っ張る、奏汰の広い背中、そして彼の端整な横顔を……
それから数分後。
エスカレーターで階を移動して向かった先は、婦人服の店が並ぶフロアだった。奏汰は最初からどこへ行くか決めていたみたいで、よそ見など一切せず、堂々とした態度でひとつのブティックに入る。
二十代の女性店員が笑顔で出迎えてくれたが、その表情は奏汰の顔を見て一変した。
「まあ、伊瀬さま! 本日のご用件はなんでしょうか? 実は、店長はただいま不在でして……」
店員は明らかに狼狽している。しかも、それを隠せないまま奏汰に話しかけている。
翠はそのふたりを観察するように、交互に見比べた。奏汰は、婦人服を扱うブティックの店員に名前を覚えられている。それはつまり、この店をよく利用する常連客のひとりということだ。
もしかして、恋人と連れ立って買い物に来ているのかもしれないと思った途端、翠の胸に不愉快なものが湧き起こった。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。こんな気持ちになる原因がわかれば、苦しい思いをしなくてもすむのに。
翠は瞼を閉じ、見知らぬ誰かに対する汚い感情を心の奥底へ抑え込もうとして俯いた。
「別に店長に用事じゃないから。今日は仕事とは無関係、彼女の服を買いにきたんだ」
思いがけず聞こえた奏汰の言葉に翠は息を呑み、問うように彼を見上げる。
「仕事とは無関係って……えっ?」
翠は小さな声で囁くが、奏汰の意識は既にハンガーにかけられた婦人服に移っていて、その返事を聞けなかった。
ひとり残された翠は、手持ちぶさたで、ふとマネキンに着せられたワンピースの値札を見た。
「嘘……、こんなにするの!?」
普段なら到底手を出さない、いや、出せない値段に、一気に翠の顔から血の気が引く。こんなに高い服は買えないし、買ったとしても気安く着られない。
早く断らなければと思うものの、奏汰は女性店員とあれやこれやと話しているので、なかなか声をかけられなかった。
奏汰は時々店の入り口でおろおろしている翠に目をやるが、それは単に手にした服が翠に似合うかどうかを確認しているだけのようで、すぐ女性店員との話に戻る。
翠は、奏汰たちから視線をついと逸らした。
このまま店から出てしまおうか。もう少しリーズナブルな店へ行けば、手持ちで買えるはずだ。その方が断然いいと思い、翠は身を翻した。だが、一歩踏み出そうとしたところで、奏汰に手首をがっちり掴まれる。
「何してるんだよ、さっきから呼んでるのに。ほら、早くフィッティングルームへ行ってこい」
顎で指した先で店員が服を持ち、翠が来るのを待っている。
「ねえ、わたしには買えない。だって高いもの」
翠は青ざめた顔で頭を振り、小声で奏汰に伝えた。すると、彼は不快そうに顔を歪める。
「あのさ、俺が女に払わせると本気で思ってるわけ? 金の心配はしなくていいから、早く行けって」
翠は強引に奏汰に引っ張られ、そして背を押された。
「さあ、どうぞ入ってください」
目の前でにこやかに微笑む女性店員、後ろには仁王立ちして一歩も引かない様子の奏汰。
もう前に進むしかない。
翠は背中に痛いほどの視線を受けながら、しぶしぶ靴を脱ぎ、広いフィッティングルームに入った。
「服はこちらの棚に置きますね。濡れたものは、この紙袋へ入れてください」
店員は笑顔で告げると、フィッティングルームから出ていった。
正直、着替えたくはない。でも、濡れた服をいつまでも着ていたくなかった。
翠は覚悟を決めると服を脱ぎ、用意してくれた紙袋へそれらを入れる。それからキャミソール、七分袖のシフォンのワンピース、カーディガンを着た。
「着替え、終わりましたか?」
カーテンの傍から聞こえた女性店員の声に、翠は「はい!」と答えた。直後「失礼しますね」という声に続いてカーテンが開き、彼女が入ってきた。
「わあ、とても素敵です! これじゃ、伊瀬さまも大変かも」
楽しそうにクスクス笑う女性店員の声を聞いても、姿見に映る翠の表情は強張っていた。
彼女の言うとおり、そのワンピースは翠に似合っていて、今着ていたものより女らしく見える。でも、翠を飾ってくれたそれらの合計金額を思うと気が引けて、素直に受け答えできなかった。
翠は顔を引き攣らせたままフィッティングルームを出て、奏汰の姿を探す。彼はぶらぶらとディスプレイされた服を見ていたが、翠の視線に気付いたのかおもむろに顔を上げた。
奏汰は翠を見て目を見開いたあと、すぐに満足そうに頬を緩めた。
「とても似合ってる。よし、全てもらおう」
「伊瀬さま、ありがとうございます!」
会計を済ませた奏汰はメモ用紙に何かを書き、それを女性店員に渡してフィッティングルームを指した。何をしているのかと思ったが、彼は翠に近づき、何も言わず手を握る。
「さあ、行こう」
店員の「ありがとうございました」という声に翠は一度振り返ったが、すぐに奏汰を見上げた。
やっぱり今日の奏汰の態度はおかしい。
今まで、手首を掴んで引っ張られたことは何度もあった。でも、こうやって彼から手をつないできたら、ふたりは親密な関係だと勘違いしてしまいそうになる。
ねえ、これはどういう意味? 奏汰の気持ちを聞かせてよ――そう言えたらどんなにいいだろう。
素直に訊けない自分の感情を持て余しながら、翠は彼と一緒に一階へ向かった。
今度こそ軽食をとるためオープンテラスのあるカフェに入り、クラブハウスサンドウィッチと飲み物を注文する。そしてふたりで、たわいもない話をしながら食事をした。
お腹が満たされると、翠はオレンジジュースを飲み、椅子の背にもたれて奏汰に目をやる。
「奏汰。あの……服の代金は絶対返すから」
奏汰は、答えるのも面倒だと言わんばかりに片眉を上げる。それでも翠が絶対返すと言い募ると、彼は大儀そうに大きくため息をついた。
「俺が買ってやったんだから気にするなって。そもそも男が女に服をプレゼントするのには、意味があるんだよ」
「えっ? 意味って何?」
きょとんとして訊き返すと、奏汰が信じられないと言いたげに目を剥く。
「もしかして、そういう男と今まで付き合ってこなかったのか?」
「どうもすみませんね! 過去に付き合った彼氏に服をプレゼントしてもらったことは、一度もありません」
翠は、たまらず唇を尖らせて拗ねる。
「なるほどね。まあ、それはそれで……なんというか、正直心が軽くなるか」
「何言ってるのか、全くわからないんですけど」
ジロリと睨む翠に、奏汰はとうとう苦笑いした。
「あのさ、男が女に服をプレゼントする時は、男なりにそこに含みを持たせてるわけ……」
奏汰はしばらく何か考え込むように黙っていたが、急にニヤリとして降参だとばかりに両手を上げた。
「駆け引きはもうやめだ。正直に話すよ。男が服を贈る理由、それは……その服を脱がす権利をくださいねって意味」
「えっ? 服を、脱がす権利!?」
翠は、奏汰の言葉に度肝を抜かれた。
女性の服を男性が脱がせてすることといったら、ひとつしかない。
奏汰が翠の素肌に優しく触れ、そのあとを彼の唇がたどる生々しい光景が脳裏に浮かんだ。意識すればするほど、彼の唇が肌を愛撫し、感じてしまう自分の姿が頭から消えない。顔を隠すように手の甲を口元にあてるが、もうダメだった。
翠は羞恥で頬を真っ赤にすると、テーブルに手をついて乱暴に席を立つ。
「……っ!」
翠は奏汰に背を向け、何も言わずテラスから飛び出した。
「信じられない、信じられない!」
翠は、人目も気にせず何度も独り言を呟いた。勢いのまま道路を横切るが、海岸へ入る直前で足を止める。そして、肩で息をしながら、翠はそっと振り返った。
遠目からでもはっきりわかる。奏汰は手で口元を覆い、肩を震わせて笑っている。
どうしてこんなに、奏汰に振り回されてしまうのだろう。とんでもない出会いをしてからまだ数日しか経っていないのに、彼の態度と言葉に一喜一憂してばかり。
「もう!」
翠は靴とソックスを脱ぐと、足の指の間に入り込む砂の感触を楽しみながら砂浜の上を歩き出した。
何故こんなにも奏汰を気にしてしまうのか、その理由を改めて考えようとする。
頭をよぎるのは、奏汰の傲慢な態度の裏にある紳士的な優しさだった。言動は乱暴に感じるのに、それを全て取っ払ってしまうほどの温かさが彼にはある。
翠の髪をカットしてくれたことや、濡れた服を着替えたいと翠が言わなくても気持ちを悟ってくれたことがそうだ。
もちろん、さっきの奏汰の話から、そこに下心があったのはわかった。当然、はめられた感は否めない。でも正直に口にしてくれた奏汰に、翠は好感を持った。そして、そんな彼に女性として自分を好きになってほしいとさえ思っている。
その瞬間、翠は音を立てて息を吸い込んだ。
好きになってほしいって、もしかして……奏汰に恋してる?
翠は自分の気持ちを確かめるために、もう一度奏汰のいるカフェへ目を向けた。だがそこに彼はいなかった。奏汰はここから十メートルほど離れた場所に立ち、ポケットに手を突っ込んだまま翠を見守るようにじっとこちらを見つめている。
風の音、子どものはしゃぐ声、そして浜辺に打ち寄せる波の音がどんどん遠ざかっていく。翠が感じるのは、奏汰の強い眼差しと、それに合わせて高鳴る鼓動だけ。
ブルッと震えたのは海から吹く風のせいだけではない、胸の奥からあふれる奏汰への想いが、息苦しいほどに高まってきたからだ。
ああ、わたしはこんなにも奏汰に恋をしてる! ――自分の気持ちに気付いた翠は、想いを目に宿したまま奏汰を見つめ返した。
奏汰は翠と目を合わせるなり、ふっと笑って少し伏し目がちになる。しばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて彼はゆっくり顔を上げて、翠の方へ歩き出した。
奏汰の顔がどんどん鮮明になる。翠だけを見つめていることがわかるほど近くへ、彼が寄ってきた。
「翠?」
奏汰が、気遣わしげに翠の名前を呼ぶ。それでも翠は、彼をただ見つめ返すことしかできなかった。
どうして今になって好きな人ができるんだろう。もっと早く奏汰と出会っていれば、この恋を成就させるために頑張れたかもしれないのに。
そう思っても、もう未来は変えられない。明日、翠は結婚するかもしれない人と同居をスタートさせる。恋をしていられるのは、今しかない。
翠は一度唇を引き結んで目を伏せるが、すぐににっこり微笑んだ。だが、翠の態度の変化が解せないのか、奏汰は眉間に皺を刻んでじっと翠の目を覗き込んでくる。
奏汰の意味深な眼差しに気付かない振りをして、翠は顔を背けた。
「ねえ、座らない?」
翠は、奏汰の腕を引っ張って波打ち際から少し離れた場所へ移動すると、そこに腰を下ろした。目と耳で景色を楽しむためじっと海を眺める。
奏汰とは、あと数時間ほどしか一緒に過ごせない。だからこそ、素直な気持ちで彼といろいろな話をしたい。
翠は、隣に座る奏汰にゆっくり視線を移す。
「ねえ、奏汰。今日はわたしを誘ってくれてありがとう」
「なんだよ、急にしおらしくなって」
砂の中に足を潜らせてはそれが足をくすぐる感触を楽しみながら、翠は奏汰の言葉に笑った。
「だって本当のことだもの。こうやって男の人とふたりきりで出かけるなんて、えーと三年振りかな。大学を卒業してからずっと仕事が楽しくて、男っ気はさっぱりだったから。今日は楽しかった」
「じゃ、その間、男はひとりもいなかった?」
奏汰は信じられないと言いたげに目を見開き、翠の顔をまじまじと見る。
そんなに驚くことだろうか。
「うん、誰とも付き合わなかった。っていうか、好きな人ができなかっただけなんだけどね」
翠はあくまで好きな人がいなかったからだと笑いでまぎらわせて、肩をすくめた。
「それにしても、久しぶりに一緒に過ごした男性が奏汰だなんて、今でも信じられない。だって、いきなりわたしの前に現れたと思ったら、なんの説明もなしにバイクで拉致するような人なのに」
さあ、反論できるものならしてみなさいと言わんばかりに、翠はいたずらっぽく笑って奏汰の腕を小突いた。
翠がそんな昔からの友達みたいな態度を取るとは思わなかったのか、奏汰は目を見開き、翠が困惑するほど凝視してきた。まじまじと見られるのに慣れていないせいもあり、翠は照れながら目を伏せようとする。だがそうする前に、奏汰が肩から力を抜き口元を綻ばせた。
「確かに、翠の言うとおりだな。俺も信じられない。髪を引きちぎり、キャンキャンわめく女とこういう時間を持つなんて、想像すらしてなかった」
奏汰は身振りで翠が公園で取った仕草を真似し、それが強烈だったと示す。
「あれは、動けなかったから仕方ないの! でも、奏汰に綺麗にカットしてもらえたから、わたしにしてみれば素敵な出来事だったのかも」
ふっと笑みを零した翠の髪を、奏汰が手を伸ばして掴んだ。特に引っ張られたわけではないのに、翠の躯が少し彼へ引き寄せられる。
「そうだな。俺も想像すらしてなかったよ。翠を中里の店へ連れていく予定なんてなかったのに。翠の髪を、俺の手でカットする予定もなかったのに」
奏汰は掴んでいた髪を離すが、そのまま髪の中に手を滑らせ、翠の側頭部に触れる。その仕草に、翠の心拍数は急激に上がり、躯が熱くなった。意識して呼吸のリズムを作らないと息をするのも辛く、このままでは窒息してしまいそうだ。
「なあ、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。翠との出会いからして、俺が考えていたものとは違う形で進むし。だけど、それが良かったんだろうな。翠と接してみて、俺が思っていた人物とは真逆だってわかったから」
奏汰が何か重要な話をしている。それは頭の片隅でなんとなくわかっていたものの、彼の言葉がどんどん聞き取り辛くなる。奏汰のあまりにも優しい表情――それを見ているだけで翠の胸にふわっとした温かいものが流れ込んできて、頭がボーッとしてしまうせいだ。
結局、ところどころ奏汰の言う意味が理解できなかったが、ひとつだけわかったことがある。それは、奏汰が翠という人物をきちんと見て、最初の印象を覆してくれたということだ。
それがたまらなく嬉しくて、幸せで、翠の躯が自然に震えた。
「……好き」
突然、奏汰は衝撃を受けたように目を大きく見開き、翠の顔をまじまじと見る。
「好きって?」
奏汰に訊ねられて、翠は初めて気付いた。込み上げてくる想いを堪え切れず、奏汰への想いを口に出していたことを。
素直に彼と接したいとは思ったけれど、絶対に告白だけはするつもりはなかった。奏汰に自分の想いを告げたところで、どうにもならないとわかっていたからだ。
それなのに感情のまま口に出してしまうなんて。どう言い訳をすればいいのだろう。
「翠?」
翠の側頭部に触れていた奏汰の手が、後頭部に回った。その手に力が入り、彼の方へ引き寄せられる。吐息が頬をかすめるほどの距離に、翠は咄嗟に目を瞑った。
今ここで奏汰への気持ちを告げてもどうにもならないのだから、絶対に言ってはいけない。
愛を囁けない苦しみに耐えてから、翠は自分に触れる彼の腕にそっと手をかけた。
「そういう風に、第一印象が間違っていたって、素直に口に出せる奏汰の人柄が好きって言ったの」
翠は、自分でも苦しい言い訳だなと思いながら目を開けた。でも、そう言って誤魔化すほかなかった。
大丈夫。今ならまだ、奏汰のことを諦められる。彼に恋をしただけで、何も始まってはいないのだから。
「ねえ、そろそろ帰ろっか。暗くなってからのバイクの運転って疲れるでしょ?」
奏汰は翠の言葉に一瞬躊躇し、何かを言おうと口を開く。だが、彼は開きかけた口を途中で閉じた。
「そうだな……。もう帰ろう。今どうこうしなくたって、俺たちには長い時間があるしな」
ううん、わたしたちの間にそんな時間は永遠にやってこない――そう言いたかったが、翠は何も言わずに立ち上がった。続いて奏汰も腰を上げ、砂を払う。
それから翠は、奏汰と肩を並べてバイクを置いた駐車場に向かった。
行きとは違って帰りは少し時間がかかったが、その間奏汰を独占できたので、翠は幸せだった。
言い訳をしなくても彼の腰に腕を回すことができ、抱きしめても文句を言われないその体勢に、翠は喜びさえ感じていた。
でも、家に近づくにつれ、奏汰との別れがだんだん間近に迫っていると意識し始める。それに合わせて、焦燥感が込み上げてくる。
奏汰の背に向かって〝このままわたしをどこかへ連れ去って!〟と何度も口走りそうになったが、それでも口にしなかったのは、やはり勇気が出なかったからだろう。
バイクが家の前に止まると、翠はワンピースが絡まらないよう注意してバイクから降りた。すぐにヘルメットを取り、それを奏汰に手渡す。
応援ありがとうございます!
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